御形木御本尊と開眼供養
創価学会は、もはや日蓮正宗の信徒団体ではないので、歴代御法主上人が御書写された御本尊を受けることは出来ません。
おそらく、「御本尊を授与しない」という選択肢もあり得たでしょうし、破門された平成3年以降、学会中枢ではそのような方針も検討されたはずです(あくまでも推測ですが)。しかし、創価学会は、「第二十六世日寛上人が御書写した曼荼羅御本尊を、御形木にして、これをコピーした本尊を授与する」という選択肢を採りました。これが平成5年10月以降のことです。
※ なお、単にコピーするだけではなく、その御本尊の内容を改変・変造したとの多くの指摘がありますが、ここでは議論の対象とはしません。もし、本当に変造を加えていたのだとすれば、日寛上人の御心を踏み躙る大謗法です。
日蓮正宗では、歴代御法主上人が允可・開眼した御本尊を各末寺において信徒に下附しているとされており、創価学会は御本尊を授与するに当たって開眼は必要ないとしています。この開眼の要否については、これまでも日蓮正宗と創価学会の間で法議論争となってきたところであり、正直なところ、僕自身、開眼が必要かどうかという点について結論を出せない部分ではあります。
もし、開眼が必要だとするならば、創価学会の授与している本尊は、全くの偽物ということになります(開眼をしていないのですから)。否、偽物どころの騒ぎではありません。そのような偽物の本尊は、戸田先生曰く「恐ろしい毒薬の働きをもつもの」ということになります(大百蓮華62号)。
※ 開眼の要否については、日蓮正宗法華講員・創価学会員のサイトなどをご覧になられた方が参考になるかと思います。以下、開眼の要否について詳しいサイトをいくつかご紹介しておきます。
【日蓮正宗側】
正しい宗教と信仰【日蓮正宗】(管理人・上記垢重丸氏)
【創価学会側】
僕の部屋〜創価学会3世として生きる〜(創価学会員・けんいち氏のブログ)
日蓮大聖人を御本仏と仰ぐ皆様へ(反日蓮正宗・考える人氏のブログ)
本尊観についての矛盾
開眼が必要だとするならば、学会の本尊は偽物ということで結論が出ます。では、もし仮に、開眼が不要だったとして、それでもなお、学会の本尊は正しいと言えるのでしょうか。ここでは、再度池田先生の以下のご発言を見てみたいと思います。
「もと正宗の僧侶であった『正信会』も、御法主上人の認(したた)められた御本尊を拝しているし、読む経文も唱える題目も、われわれと同じである。外見からみればわれわれと同じようにみえるが、それらには唯授一人・法水写瓶(しゃびょう)の血脈がない。法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである」(広布と人生を語る 8-228頁)
この池田先生のご指導を拝するに、「法水写瓶の血脈相承にのっとった信心」が無ければ、いかに正当な御本尊であったとしても(御法主上人が書写された御本尊であったとしても)、「無益であり、功徳はない」ということになります。これはまさにその通りでしょう。さもなくば、身延派が拝んでいる日蓮大聖人御真筆の御本尊も、正しい御本尊ということになってしまいかねません。
そして、この御指導並びに創価学会の公式見解を総合すれば、「創価学会員には信心の血脈が流れているので、たとえ開眼の無い学会の本尊に拝んでも功徳がある」ということになるでしょう。しかし、この学会の見解には、矛盾点が沢山あります。
まず、この見解に立つ限り、「信心の血脈」さえあれば、対境となる御本尊は何でも良いということになってしまいます。だって、開眼が必要無いのですから。創価学会員が、顕正会や身延派の御本尊を拝んでも功徳があるということになりますし、自分で書いた御本尊(御本尊の相貌を遵守したもの)に拝んでも功徳があるということになります。
仮に、御法主上人が書写された御本尊やその御形木御本尊でなければならないと言うならば、その根拠は何か、何故日寛上人書写の御本尊なのかといった説明に窮することになるでしょう。
また、かつて池田先生は、「法水写瓶の血脈相承にのっとった信心」が必要だとしていたにもかかわらず、何故今は「信心の血脈」で足りるのか。仮に、「信心の血脈」で足りるとして、何故創価学会員のみに信心の血脈が流れているということになるのか。全く分かりません(血脈については、また別の記事にて書きます)。
更に、信心の血脈のある学会員が開眼の無い本尊を拝んでも功徳があると言うのであれば、何故日蓮正宗創価学会であった時代に、わざわざ御法主上人が書写された御本尊の下附を受けていたのか。そんなことをする必要は無かったのではないでしょうか。
以上、創価学会の本尊観には到底克服することの出来ない矛盾点が沢山あり、これを踏まえて、「学会の本尊は正しい」など、僕は口が裂けても言えません。そして、創価学会の本尊を正当化するためには、開眼や血脈について、「もし、学会側の言い分が正しかったとしても」という、仮定を重ねなければなりません。その仮定が一つでもひっくり返れば、瞬く間にその正当性の前提が崩れてしまうのです。
かつて、日蓮正宗創価学会であった時代は、学会員は皆同じく、御法主上人の書写された御本尊を下附され、その御本尊を拝んで沢山の功徳を得ていたのですよ?
そして、現在の学会の見解は、かつての学会教義とは180度転換されたものなのですよ?
その事実を目の当たりにして、それでもなお、学会の本尊は正しいと言い切れるでしょうか。コロコロと変わる学会の見解を耳にして、それでもなお、今の学会の主張は正しいと言い切れるでしょうか。
僕は大いなる疑問をぶつけたいと思います。