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選評
「フィクションの力」に目覚めよ 荒俣宏
第25回の選考委員会である。ファンタジーノベル大賞もいまは堂々たる歴史を刻んだ賞となったが、はたして内容がそれだけ充実してきたかどうか。先日たまたま西鶴の『好色一代男』を読んだら、その「フィクション力」ともいうべきパワーに圧倒された。七歳から色づいた主人公が還暦を越えてとうとう女だけの島をもとめて旅立ってしまうまでの破天荒は『源氏物語』のパロディーであり、厳しい徳川治世の道徳を一途にぶち壊していく。まさに「毒」であり「ガス抜き」である。こういう「絵空事」を時代の風俗にぶつけた西鶴のような先輩を持つ日本ファンタジー、今回はどんな破天荒な新人が、と期待しながら候補作を読みだしたが、半分の作品は読むのにかなり苦労し、あと半分は読み足りなさの残る結果となった。まだふた頑張りほど必要、と応募者各位に申し上げたい。
候補作中いちばん気に入った作品は『今年の贈り物』であった。ピランデルロの戯曲以来書かれてきた「文学の中の主人公と、その創作者すなわち作家との対決」というストーリーは新味に欠けるが、サンタクロースの世界を挟み込んだところがユニーク。キツツキの子と称される人物が際立った個性を発揮し、世界の謎を解いていく部分は読ませる。しかし、作家のいる現実世界――作家が造った物語世界(フィクション)――そして物語内だが作家の関与なしに自立するもう一つの世界、という三重構造を書き分けるのに、相当のプランと書き込みを用意したという気配がない。唯一、フィクション[物語]の部分だけ書体を変えるなどの工夫はあるが、ほかはとくに明白な区分けがないため不用意に読み始めると混乱が待っている。個人的意見であるが、各世界への出入り時点でその接続構造が詳しく描かれるべきである。とくに最後の「脱出」は、スノーモービルに乗ってサンタクロースの世界から抜け出る爽快感はあるが、虚構世界から構造的にどうやって脱出できるのか、プロセスを教えてもらいたい。同じことが、もっと知的企みの多い『悪党華伝』にもいえる。人間界と猫界との仕分けがはっきりなされていないため、宮沢賢治にでてくる氷河鼠などペダンチックな材料を連発しても、物語構造がバラけるばかりなのだ。
いっぽう、スラスラ読めるが物足りなさの残るグループでは、別の問題が浮かび上がる。複雑な世界創作に挑んだ前二作には、それでも「描きたいテーマ」が伝わるのだが、このグループではそのテーマが浮かび上がらない。スリリングな娯楽というだけでは弱く、読み捨てにできないハードさがほしい。
『きのこ村の女英雄』では、シーズという怪物に関し、始めは可愛いが大きくなると手に余る存在とした性格付けに対し、核廃棄物を連想させるようなリアリティが産めたのではないか。女英雄のほうも、男との力量競技に勝つだけでなく、女が英雄になるべき運命的な仕掛けがあっていい。もう一作品『アカシック・ミュージアム』も、なぜアカシックという珍しいアイデアを出すのか、ふつうのタイムマシンや時空超越ではなぜいけないのか、そこをぜひとも、この作者の資質でもあるイージーリーディングの文体で説明してほしかった。
どの作品も可能性を秘めているので、「フィクションあるいはウソ」の力をぜひ鍛え上げて、来年度に再挑戦してほしい。
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配達と名前の掟 小谷真理
『今年の贈り物』はなんとも奇妙な読後感を残した。サンタクロース伝説を素材にしているのだが、贈り主と受取人の話というより、そこに介在する「配達」をめぐる思索を主軸にしているからだ。これは、情報の授受をめぐって錯綜する高度メディア社会ならではの主題かもしれない。
おおまかなストーリーラインは、歴史小説家である父が小さな娘のために書いた童話の世界に、娘自身が入り込んでしまい、童話を書くことによって父の構築した異世界と和解していくというもの。この父の構築した童話こそ、「贈り物」をめぐるサンタとトナカイの話であり、父と娘は双方とも童話の中ですれ違いながら親子の関係性を問い直す。サンタクロース伝説をトナカイという配達者の視点から捉え直したり、別の配達者が現れたり、メタフィクション仕立てであったり、あるいは政治的寓話の要素を盛り込んだりと、幾重にも複雑な仕掛けを施した作品。たくさんのことを盛り込みすぎて、却って重要なことがわかりにくくなっているきらいがある。
しかし、まだ形にならず見えないけれども、語りたいなにかがあるという手応えは強固なもので、本当に新人らしい際立つような新しさを持つ作品だった。これを未整理の混沌と断罪するのか、それとも形にならないものを語ろうとした贅沢な苦闘の跡と見るべきか、選考会でも議論があった。大賞にすべく賛同したのは、配達に関する物語という斬新なアイディアと、見えないものを言葉にしようとする、幻想の文学への指向に賭けたからである。
『きのこ村の女英雄』は、後世に偉大な英雄となるイェンの少女時代の冒険を語ったもの。典型的異世界ファンタジーで、雄大な風景を飛翔感たっぷりに見せてくれる骨太な作品だった。なんといっても、シーズという謎の生き物の異形ぶりが際立つ。かわいいけれど、時折ゾッとするような得体の知れなさをむきだしにするシーズと、イェンらの怪物退治の様子は迫力満点。これぞ異世界ファンタジーの醍醐味と感嘆した。ただ、ひとつだけ難点をいえば、固有名詞に対する配慮がほしかった。サンチャゴ、ハイタカ、モービィディックといった先行名作のイメージが強すぎる名前を無造作に扱っているところが興ざめというか、もったいない。異世界ファンタジーにおける名前は、名前自体にその世界独自の意味合いをもたせたほうがいいのではないだろうか。
『アカシック・ミュージアム』のアカシックというタイトルは、おそらく全ての存在を包含するとされているアカシック・レコードから取られたものだろうなと思ったら、なるほど、この世のすべての歴史が保存されている博物館が想定され、その学芸員が、正調歴史から逸脱する「虫」を発見し、原因を究明して歴史修正するというストーリー。ライトノベルのスタイルで、キャラクターの強烈な登場人物たちが奔放に駆け回る。読み始めたときにはくらくらと目眩を覚えたが、慣れとは恐ろしいもので、読了する頃には躍動的な展開を愉快に感じていた。ただ少年言葉の美少女、映画『マトリックス』を彷彿とさせる道具立てなど、どこか既視感がぬぐえない。
『悪党華伝』は、東京大学に関連する地誌を猫の視点から眺めるという高等遊民的な雰囲気。読者を選ぶ作品かもしれないが、近現代史を生きる猫たちの風俗が、知的で富裕な階層独自の優雅さにあふれていて、面白く読んだ。
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才能が千々に散ったけれど 椎名誠
候補作『アカシック・ミュージアム』という作品の冒頭に本書の重要な登場人物であるユーディが冷たいアイスクリームをどこからともなく取り出して見せる場面がある。SFの巨匠フレドリック・ブラウンに「ユーディの原理」という傑作短編があるが、名前もやっていることも近似している。ユーディはあたかも手品のように異次元からいろんなものを取り出してみせるのだが、この『アカシック……』の作者はこの短編を読んでいるのだろうか。それとも名前もやっている不思議なことも偶然の一致なのだろうか。本書では異次元からこうしていろんなものを動かしてしまうことが重要なテーマになっているが、単なる偶然の一致だったら鋭い才能であり、模倣だったとしたら杜撰だ。
ことにこの「ファンタジイ・ジャンル」の小説は自由で、あらゆる約束事から逸脱して、自分の思うような世界をつくることができる。読者はその意外な世界やその光景に驚き楽しみ、果してこの異常なる舞台でのただならぬ出来事がどういう終結にむかうのだろう、ということのトキメキを楽しむ。
『悪党華伝』は、東京の武蔵野近辺に実在する土地や有名な建物、施設、鉄道などが通常的に動き回っている世界に展開する「人間社会」と「犬、猫社会」の物語だ。普通と違うのはどちらも同じ人間語で話をする。犬も猫も服をきておしゃれし、富裕層と、人間でいえばホームレス的な貧困層がある。話はこの両方の世界がいろいろに交錯し、いくつかの恋愛やそれにからむ事件、ドラマが展開する。
まことにヒトを食った舞台設定で、展開次第ではとんでもなく図抜けたすばらしい「ファンタジイ」の世界が展開する予感を持った。人間社会と犬猫社会が共存するようになった経緯、理由は語られないということもかえってこうした場合はいい。
期待したのは残念ながらここまでであった。魅力的な舞台の幕はあがったが、はっきりいって作者は「ストーリー」と「演出」を忘れていた。このヘンテコな社会ではやりようによっては互いの種族の尊厳や蔑視などがドラマを彩り、その展開の方向にとてつもないアイロニーが光り、新ジャンルを構築できるかもしれなかった。この作品はそれが欠落しているために、結局人間社会と犬猫社会にわける意味と仕掛けがなんの効力もださず「まあこんな世界がありました」で終わってしまった。
結局『きのこ村の女英雄』が、小説としての舞台づくりと起伏を得て、一番「小説」になっていたが、それとても全体のどこかしらに大小の既視感がちらつくのが気になった。ところどころキラリと光る小説的設定は魅力だ。衛星が五つも現れる、という描写でこの惑星がどこか太陽系とは違うところにあるのだとわかるところなどもなかなか憎い。けれどそのくらいの巨大惑星を回る衛星は母星からの距離もまちまちで、重力干渉も必ず受ける。舞台になった星の重力や大気の組成もちがっているはずだ。小説はファンタジイといってもそういうことの基本やディティールをきちんとおさえておかないと単なる「作り話」でおしまい。受賞作『今年の贈り物』を書くスペースがなくなったが他の選考委員がくわしく述べるだろう。本作品は非常に読みにくい困った小説だったが、将来プロをめざせるポテンシャルを随所で感じた。
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「小説の公理、定理」 鈴木光司
数学という言語で記述された物理空間を旅するのが大好きである。宇宙の仕組みがどうなっているのかと、考えれば考えるほど、興味が湧いてくる。物理の先端理論は、SFよりはるかにぶっとんでいる。虚数時間から誕生した世界は、無限に枝分かれし、物質は生成と消滅を繰り返している。時空間を瞬時に移動できるワームホールあり、ブラックホールありのワンダーランドだ。このダイナミックかつ自由な思考の根本は、数学の公理、定理を守るという前提に支えられている。論理をきちんと守った上でこそ、思考の飛翔はより楽しいものとなる。
小説も同じである。いくらファンタジーとはいえ、小説としての公理、定理は、きちんと守られなければならない。
地球以外の架空の世界を描いて大いに結構だし、死んだ人間が生き返ったっていいし、モノが消えたり、突如現れたりしてもいい。しかし、だからこそよけい、小説の舞台は、読者を納得させ得るよう論理的に整えられる必要がある。「書きやすいから」という理由で、公理、定理を身勝手に改竄された小説は、読み続けようという意欲が持てなくなる。
『アカシック・ミュージアム』は夢から始まる。「これは夢でした」で終る小説がNGであるのと同様に、夢から始めるという手法は封じられるべきだ。この設定が許されるのなら、どんなに奇想天外な最初の一行も可能となる。これはズルい。「うわあああ」「いやああああ」「ひいいいい」という叫びや犠牲音の混入は、小説の趣を著しく殺ぐ。
『悪党華伝』は、猫の世界と、人間の世界がごっちゃになっている。なぜこのような混乱が起こるかといえば、猫の世界と人間の世界における言語活動と経済活動の区分が、明確でないからだ。ひとつのシステムの中に、異なった言語体系が共存することは、ありえない。人類が運用している言語の文法はひとつのみである。この点を整理するための工夫が欲しかった。
『アカシック・ミュージアム』と『悪党華伝』の作者は、「ファンタジー小説を書く」という態度を一旦捨てたほうがいい。「いい小説を書く」「優れた文学を書く」ぐらいのつもりで執筆してはじめて、ほどよいファンタジーとなって仕上がるだろう。「ファンタジー」は「荒唐無稽でOK」ということの御墨付きではない。
『今年の贈り物』は、クリスマスの夜に、歴史小説家である父が娘のために書いた、サンタクロースの物語である。娘はその物語が気に入り、現実世界から消えて物語の世界に入ってしまう。空想の世界に人間が入り込むという設定は、珍しくもなんともなく、陳腐である。しかし構想もなく、行き当たりばったりで書いたであろう若書きの全体から、なぜか、奇妙な魅力が匂い立つ。荒削りであり、完成度は低いが、その魅力が大いなる可能性につながることを期待して、一票を投じた。
『きのこ村の女英雄』の文章はしっかりしていて、ストーリー展開も堂に入っている。四作の中ではもっとも小説らしく、完成度は高い。ところが、大賞に推そうと意見を述べるうち、小さくまとまり過ぎている点が気になってきた。
ぼく個人としては、この作者の世界観、ものの考え方が好きであるし、共感も覚える。この先も書き続けてほしいという願いを込め、優秀賞が相応しいと考えた。
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今回は大きなギャンブル 萩尾望都
猛暑。7月末。選考会が開かれた。最終選考は4作、私が読んで一番面白かったのは天原聖海の『アカシック・ミュージアム』だった。現代高校生がひょんなことから歴史の修復に関わってしまうという、正統なファンタジー冒険バトルもので、物語は解りやすく展開は早くキャラは明るく悪役も個性的、ユーモアがありかつロマンチックである。ただ、地球や宇宙の歴史がまるでパソコン上のデータのように描かれている軽さが気になった。歴史修復も、このデータ上に現れるバグを退治して歴史を正しく戻すという、ウイルスバスター風だ。その軽さは若い人には読みやすいだろう。しかし乱暴でもある。緻密なパラドックスの構成には至らない。
そんなわけでこれを支持したのは私と小谷委員だけで、「こんな乱暴な作品を賞に入れたら、また、乱暴なものが投稿される」という他の委員のきりりとした意見の前に沈没した。
坂本葵の『悪党華伝』は人間世界を模した猫の世界の話である。猫は好きだが、この物語は何とも読後感が悪く、なんでこんなひどい人たち……いや、猫達しか出てこないのかと再読がしんどかった。難しいことを解りにくく言うペダンチックを楽しむ作品らしい。ペダンチックでも良いのだけれど、読んでて辛い。すみません。「アイデアはいいけど、この作品には物語の展開が無い。事件が起こらない。定理、公理が無い」というのが一致した意見だった。
『きのこ村の女英雄』鈴木伸、これはおもしろかった。これも正統ファンタジーと言っていいだろう。辺鄙な村も主人公の家族も、村を襲う怪物も、漁師達も王の軍隊も、書き方はよく配分されている。ただ、あまりに正統なせいか、どこを読んでも、作者が影響を受けたもの、好きだったものの影やにおいがつきまとい、ここが新しいという、新鮮味に欠ける。何か、誰も描いてないような、世界観、視点が、ほんの少しでもほしい。とはいえ総じて好評だった。ただ、このタイトルがあまりに面白くない。内容ともそう合っていない。という点では他の委員も同じ意見だった。タイトルは、もっと考えてほしい。
さて、古谷田奈月の『今年の贈り物』は紛糾した。私は読みながら、なにか不思議な新しいものに触れている予感に満たされていて、どきどきした。キャラクターのキツツキの子は光っている。この、精神が存在する、精神が不在である、そういう微妙な問題をどのように縫いあげ、形にするのか? この物語は、どこへ着地するのか? しかし、最後まで読むと、重要な問題は未解決のまま遠くへ逃げ去っていて、肩すかしを食らったようになってしまった。ええ? これで終? 困った。
それで、この、クリスマスのフェアリーテイルの評価は委員の間で堂々巡りした。椎名委員は「ぼくは解らない。百点か零点」といって傍観する立場にいさせてくれという。どうしたものか? しかし確かに、何かがある。良い編集が付いて、不備な部分を書き直してもらったらどうだろうかという話になった。そうすればもっと、クオリティの高い話になるのでは?
そんなわけで大賞は『今年の贈り物』となった。それは賭けである。作者の手で良いものにしてほしい。期待を持って待つことにしたい。
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