日本ファンタジーノベル大賞



第二十三回日本ファンタジーノベル大賞


選評


味わいが類似しすぎるのは何故? 荒俣宏

 今回、最終候補に残った四作が、その執筆傾向においてほぼ同一の意識に立っていることに時流ということを実感した。数年前から応募作にこういった現象が見られたが、ここまでトーンが一緒というのは初体験である。その傾向とは、「内に向かっての逃避」である。20世紀以来、ファンタジーというジャンルでは「逃避」をテーマに掲げることが流行し、『指輪物語』の著者トールキンも堂々と逃避としての文学の意義を論じたものだが、どうも昨今の「逃避」は苦難の旅というよりはリゾートへの閉じ籠りに近い。異世界の可能性探究というよりは健康ダイエットのような安心志向に動機づけられているのだろうか。
 その結果、今回の候補作はどれも心優しく、また鋭さや追究を好まない。それが現在のファンタジー愛読者に期待される主要素であるならば、それでもかまわないのだが、どうも物語性に力が希薄なのだ。『残像の扉』はその典型といえる。なんと、趣味のよい離れに暮らす若い文化人が屏風で囲まれた空間に逃げ込むという趣向である。じつに破綻なく描かれた物語だが、この作品が安心して読める理由は、屏風に囲まれた空間に出現する異世界の詳細を最後まで暗示に止めたことにある。いわば「異次元の入り口」までしか行かない賢明さの賜物だが、その分だけ人間ドラマの部分が強烈かというと、そうでもない。「幼年期の懐かしい記憶」を茶の湯の伴にするような味わいだ。惜しむらくは、日本近代の熱い時代を選んだメリットが、作品全体のトーンとミスマッチのため有効に活用されなかったことだ。
 一方、賑やかで「おもしろい」という物語の基本に力が注がれた『吉田キグルマレナイト』は、バンカラ青春ドラマとして楽しめたが、どうしても「軽業」と「騒音」が邪魔して余韻が残らない。文学の醍醐味ではなく、映画やTVドラマの映像や音響を前提にした脚本の感覚なのだ。事実、私は函館映画祭のシナリオ大賞の選考にも関わっているが、着ぐるみのアルバイト青年を絵で見せる趣向にはよく出くわす。さらに、この作品には音もたくさん登場するのだが、音を文章で表すのは難しい。たとえば物語のクライマックスに楽曲の歌詞が引用されるという手法も考え物だ。せめて、どのように歌われるのかが分かるよう、歌詞の書き写しでなく、生歌自体の聞こえ方を文字で再現する工夫をしてほしい。
『さざなみの国』はこの賞でもしばしば佳作が誕生する中国ファンタジーだが、主人公のキャラクターがまったく立っておらず、最後まで感情移入ができない欠点がある。各登場人物の経歴がかなり後から記述されることも、不満につながる。それでも、あえて山を作らない淡々とした進行は、作者の狙いかもしれない。だとすると、この作品はじっくり効果をあげる「漢方薬」のような癒しの小説に仕立てられたらおもしろくなる。これまで中国ファンタジーは「美酒に酔う快感」や「温泉に浸かる快感」で受賞した事例があるので、「漢方薬のように穏やかに癒される快感」が表現できるなら新趣向になりうる。
『逃げ街フェヌセ』も異界と日常の交錯を扱うが、こちらはストーリー面で両方の世界にかかわりが結ばれていない。これでは、二つの世界に関する二つの話と言うだけに終わってしまう。ペンネームが意味ありげで期待させただけに、構成面での詰めの甘さが残念だった。以上の結果、私個人としては全作品が受賞水準まであと一歩と判定したが、作者諸氏の今後の大躍進に期待して授賞を承認した。来年はぜひとも、選考委員を唸らせるような意欲作を望みたい。


コスプレと治療のファンタジー 小谷真理

 一番インパクトがあったのは、『吉田キグルマレナイト』だった。まずタイトルがなんとも異様で、目を惹く。「着ぐるみ」なることばを「着ぐるまれる」という受け身にしたところも、独創的なセンスではないだろうか。
 開けてびっくり。これは、『仮面ライダー』などに代表されるスーツアクターの話ではないか。ヒーローショーでバイトをしていた大学生が、本番で大失敗をしてしまい、現場から追い出され、似て非なる着ぐるみ演劇団に雇われる。いっけんひと昔前の泥臭い芝居の世界に見えたが、その劇団には秘密があった。そこで、彼は、いかなる事件に遭遇したか。
 ストーリーは、一種の演劇の話だが、単にキャラを演ずるというものではなく、すっぽりと着ぐるみに入り、まったく似ても似つかぬキャラに変貌する、いわばコスプレ小説の体裁だ。着ぐるみと中の人との関係は、着るもの/着られるもの、演じること/演じられることといった二者の間を探求しながら、ヒト人形化の意義を問いなおす。若さがはじけるような筆致は躍動的であり、関西の笑いあふれる語りにはリアリティがあった。冒頭の大失敗のイタくて可笑しかったこと。同情しながらも思わず笑ってしまい、なおかつ「たしかにこういう局面て人生にはありがちだよね」と納得できるものだった。これは伏線になりそうなエピソードだったが、忘れられてしまっている。これだけではなく、消化しきれていない伏線は多く、体育会系のノリといえば聞こえは良いが、後半部、話は単純で冗長になる。まことに惜しい。着ぐるみにコントロールされ、まさに「着ぐるまれていく」ラストは、たとえ結末がきっとこうなるだろうな、とわかっていても、そこへ至る展開のあざやかさで、いくらでも読者を退屈させないはずである。……と、いろいろ短所もあるが、まばゆいばかりの青春小説の勢いに、他三作が色あせて見えていたことも事実である。
『逃げ街フェヌセ』は、現実世界でのアーティストとしての活動がうまくいかないサチが幻想のヴェニスと思しき架空の街フェヌセを訪れ、オペラ劇場にまつわる不思議を体験する、という内容だ。小説の構成としては未完成で、舌足らずな部分が目につく。また、大正時代の川越を舞台に、屏風絵師の作り出す幻想世界への門を活写した『残像の扉』は、才能のある男子ふたりが主人公で、そのかけあいやライフスタイルがいかにも趣味人といった味わい深いもの。これはこれで完成されている内容だが、類型的な印象を免れておらず、すこし物足りない。
 さて、『さざなみの国』は、幻想の中国世界を構築している。他者を癒す力のある人々の住む村が、湖の消失にともなって衰退し、その末裔にあたる青年・さざなみが湖と村を復活させるため、片親を頼って外世界をめざす。これは治癒者をヒーローに据えたファンタジーである。淡々とした筆致のままに、すーっと読んでしまっていたら、後半さざなみの身体自体が、ある治療に使用されることになり、その残酷な展開に驚愕した。その瞬間から、穏やかと見えた世界が、実はよくよく吟味してみると、馴染みのある世界観とは違う異世界であることがはっきりとわかってくる。この治療者の青年と関わると、一夫一婦制や出産方法、血統主義など、通常わたしたちが知っている異性愛的な世界観のすべてが実に巧妙にずらされてしまうのだ。人々を治療し世界を修復することは、もちろん、世界を破壊し消費することを自明のものとする文明を前提にしている。それに真っ向から反旗を翻すのではなく、治療に焦点をあて、それが世界の再構築に関わっていることを鮮やかにつきつけたこの作品は、しみじみとした読後感があり、『吉田キグルマレナイト』とともに、賞に推した。


ファンタジーではない 椎名誠

 この文学賞の選考委員も長くなった。SFやそれと近隣のファンタジーものが非常に好きなので嬉しい役割だった。なるほど応募作には驚愕の作品世界が自由に幅ひろく羽ばたいていて、他のフツー小説の文学賞より格段に「読む」のが楽しかった。
 しかしこちらの感性が鈍磨したか、応募作家との感覚のズレがいよいよはっきりしてきたのか、ぼくには「なんでこのような話を読まねばならないのだ」という不安まじりの疑問が年々募ってきた。今回ははっきり言ってそれらが全作品揃って幼児化し、団体でやってきたような気分だった。
 そこで真剣に思ったのは「ファンタジーっていったいなんなんだ」という基本的な疑問だった。これは答えが数式にでるような疑問ではないから誰も答えてくれないし、自分で考えてもこころもとない。そして思ったのは、もしかすると応募してくる皆さんも、そのことについてあまり真剣に考えてはいないのではないか、ということだった。いいから早く個々の作品の選評に入れ、という声が聞こえるようだが、やはりはっきりしておきたいのは、ファンタジーというスタンスを明確にしてこの賞に挑戦してこないかぎり、本当の「勝ち」はもぎとれないぞ、ということをここらで改めて書いておきたかった――のである。
 結論を言うと今回の大賞、優秀賞、ともに「大甘裁定」である。最終候補作のなかから仕方なくとりあえず、というレベルだ。何故そうなったかを考えると、最終候補作はどれも、別にファンタジーでもなんでもないからである。我々が求めているのは、ひとりの作家の脳のなかでどのくらい途方もない「作品世界」がつくられるかであり、そこに近づいた者を強引に引きずりこみ、読む者を最後はくたくたに圧倒してしまうような「作品」である。
 小説を書くのは大変である。その苦労を知っているからストレートに書くのはいささか気が重いが、それぞれの応募者の今後の参考になれば、と簡単に今回の作品について感想を述べると「残像の扉」は短編にしたほうがよかった。類型がかなりあるからしかけも結論も書かず、客観的な描写だけでいくべき作品世界だ。あるいは視点を変えて連作という手法もあった。題名もいささか隔靴掻痒。
「逃げ街フェヌセ」はもう少し話を整理して、ちりばめられるいくつかのストーリー(伏線)のどれを育ててこの話の骨格にしていくのか分かりやすくしないと読者は混乱する。架空の街を舞台にしたり次元を交錯させるとファンタジーになる訳ではないのですよ。
「吉田キグルマレナイト」は一人称一視点のわかりやすさを生かしてぐいぐいいく青春小説で、これこそファンタジーのもぐり込む場所がない。話のなかでおきる「不思議」や「謎」はフツー小説でいえば「気のせい」ですんでしまう程度のもので、こういう賞の最終候補作としてもってこられても読むほうは困る。クライマックスで歌詞を太字で書き並べる構成は物語を一気に陳腐化させるからやめたほうがいい。
「さざなみの国」をぼくは一番推したが、あくまでも相対的なものである。丁寧な書き込みは、この小説のいくつかの舞台を「風景として」読む者の脳裏に展開させてくれるが、ぼくにはみんなジオラマのように少しずつ本物と色合いの違う「別の次元の国」に思えてそれが魅力的だった。
 話は違うが本気でファンタジーを目指す皆さん。古典ながらロバート・シルヴァーバーグの「夜の翼」の一読をぜひ。


ドラえもん 鈴木光司

 以前、ある月刊誌の依頼で、次のようなアンケートに答えたことがある。
「あなたは無人島に流されることになりました。持ち込める道具は、ふたつだけです。さて、何を持参しますか?」
 同様の質問が数十人の作家に送られ、集計して次号の目玉にするという。
 さてアンケート結果が掲載された月刊誌を見て驚いた。半数近い作家が、「ドラえもん」と答えていたのだ。
 確かに、「ドラえもん」の魔法のポケットがあれば、無人島は天国(ファンタジー)に変わる。ウィットに富んだ答えを返したつもりで、豈図らんや、アンケート回答者の思考パターンが重複してしまったようだ。
 ファンタジー小説を書こうとして、安易に「ドラえもん」を持ち込めば、表現でもっとも大切な独自性が失われると、示唆している。
『残像の扉』は、軽やかな文体で、ストーリーの中にすうっと連れて行かれる心地よさがある。しかし、望む世界に導いてくれる屏風という一点にのみファンタジーを盛り込んで、「ドラえもん」の罠に落ちてしまった。
『逃げ街フェヌセ』もまた、他の人には見えない幽霊を出して、ファンタジー色を出そうとしている。冒頭、洗濯物が風に靡くシーンには、街の様子を一瞬でわからせる力があり、文章力、イメージ力ともに評価したい。しかし、登場人物がうまく噛み合ってなく、あまりに淡々とし過ぎている。逃げずに、正面から向き合おうというテーマはいいとしても、測量の講座を取ることで、前に向かって一歩踏み出す姿勢を見せるのは、スケールが小さ過ぎはしないか。
『吉田キグルマレナイト』にも、身に纏うと不思議な魔力が得られる着ぐるみが登場する。
 舞台は、小説という表現形式には不向きである。音楽と照明を存分に浴び、きらびやかな舞台装置の上で、派手な衣装に身を包んだ群衆が、豪華なパレードを繰り広げたとしても、あますところなく文章で実況中継するのは不可能だ。本物の映像には絶対適わない。
 ぼくが映画のプロデューサーだったら、この作品を原作にミュージカルコメディを作る。登場人物はみな個性豊かで、冒頭部分は極めて愉快。エンターテイメント作品としての価値ありとみた。
『さざなみの国』は、文章もよく、完成された端正な作品である。読後しばらくして、古代から延々と繰り返される人間の営みが、悲しみとも諦めともつかぬ、一種の悟りとなって、じわりと胸に染みてくる。
 ただ、さざなみの自発性のなさゆえか、ストーリーがあまりにも淡々として、葛藤や苦悩が描かれていないのが残念だ。男女の生々しい関係を書ききれないため、敢えて省略したとしか思えない。
 候補作は揃いも揃って、男なのか女なのかわからない主人公が登場して、波風立たず、葛藤もなく、淡々と物語が進んでいく作品ばかり。今、世間の風潮は、脱原発自然エネルギーの方向に流れつつあるが、表現の分野にだけは、固定観念を破壊する爆発力を求めたい。
 今回、大賞も優秀賞も、大盤振る舞いである。難癖をつけるのではなく、励まして、送り出すことにこそ、選考委員の役割があると思うからだ。


もっと外向きの情熱を 萩尾望都

 その日顔を合わせた4人の委員の表情は心なしか引いていた。今回の最終選考の作品は、他の投稿作と比べレベルが高く、迷いなく編集スタッフに選ばれた4作品だという。が。
 選考委員たちは口々に「反対され殴られながらそれでも投稿作を救ってきたけど今回は無い」「いつも大盤振る舞いをしているが今回はあまりにみんな薄い」「特に出したい物はない」「ストレートフラッシュの点の低いのを引いた感じ」と、作品の読み足りなさを上げていた。
 その中で話題に上ったのは勝山海百合の『さざなみの国』と、日野俊太郎の『吉田キグルマレナイト』の2作だった。といってもどちらの作品も賛否入り乱れ行きつ戻りつして着地点を探した。
『さざなみの国』はこの作に好意的な委員であっても「キャラが無い」「葛藤が無い」と、人物を介して物語に入れないのが問題だった。ドラマは進行しているのに感情の起伏がなく感情移入のとっかかりがない。だが、文章と世界観がよく、漢方を主題にしているところから、「温泉で癒されるでも無く、酔っぱらってはしゃぐでもなく、後でじわりと効いてくる漢方薬小説ではないか」という意見が出た。
 文学的な味わいもあり、「もし置き忘れた何かがあっても、未完成でも、その人が作ったファンタジー世界がある」ということで、これを大賞として、今後の作者の空想力を期待したいと、委員の意見が一致した。この漢方作品の料理感覚は「レバ刺しの国」とも言え意外と奥が深いのかもしれない。
 優秀賞は日野俊太郎の『吉田キグルマレナイト』に決まった。
「男の子として解るのはこの作品。京都のエネルギー小説としておもしろい」という意見や「インパクトあり。はじめてのコスプレ小説でめちゃくちゃ設定が面白い」と元気のよさが評価されたものの、文章については「下手」「活字好きな人が読んだらなにこれ? という」とばっさり切られた。
 ただ、「パレードのシーンは、文より映像にしたほうが面白い」と映画になれば商品価値があるとの意見もあった。
 青水洸の『残像の扉』は「坊ちゃん2人が主張のない夏目漱石風でなぐったろうか」という過激な意見と「川越の時代を書いているのがいい」「BL風に読める面白さがある」などあったが、総じて物語が予定調和で破綻がない分話が小さいという意見が主だった。
 高野丹生の『逃げ街フェヌセ』はさらに食いつきが悪くまず物語が破綻しているとの指摘が各委員から出された。
 音楽、オペラ座、翼を持つネコなど、たのしいエッセンスが並ぶエピソードが繋がらず、異界の少女がいなくても物語が成り立つ。何を書くかというコンセプトをもっとはっきりさせた方がいいとの意見が出された。
 賞が決まってからも各委員はこの頃の投稿作の傾向を嘆いていた。もっと奇想天外な世界が欲しい。楽しんで書くのはいいが自己満足では困る。大手術をする外科医がいない。触れただけでキャラの臭いがする、それが必要。みんな内にこもり、表現が薄くなっている。もっと、外向きの情熱を持ってほしい。でも明日がある。次がある。作者、投稿者、それぞれの今後に期待して選考会は終了した。



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