日本ファンタジーノベル大賞



第十四回日本ファンタジーノベル大賞


選評


選考に困るほどの多様性 荒俣宏

 この賞は小説の新人登竜門の中にあって、いちばん自由な作品が書ける賞ではないか、と改めて思う。今回の最終候補作四編は、書き方もテーマも、よくまあこれだけ分散した、と呆れるくらいに多様だった。実に心強い。
「戒」は、シルクロード西域から朝鮮半島に及んだ「傀儡族」の政権、つまり「傀儡国」の史話をどうしても思いだしてしまう。漢の武帝が楼蘭王国を支配下に置いて傀儡政権をつくった。この国は芸能や曲芸、娼妓たちの業をもって戦国時代を生き延び、舞いや歌を日本にも伝えた。中国の古代史には、ほんとうに歌や踊りをもって延命しつづけた国があるので、戒という人身猿面の奇人「芸能軍師」を扱った本格的物語に期待した。が、期待は二つの点で裏切られた。一つは、一向に絵が見えてこないこと。敵の攻撃すら止めてしまう舞いや歌のすごさが、ちっとも伝わってこない。もう一つは、日本人の常識的感覚でウェットな物語をつくっていること。だから、おもしろくない。戒の時代と舞台を考えれば、大陸の異質な人間性をもっと加味する必要があった。私も陳凱歌監督と「始皇帝暗殺」をつくったとき、中国人観客から「暗殺の使命よりも女性への愛や人道主義を選ぶ刺客は、軟弱でウソっぽい」といわれたことがある。評価面で四作中最下位としたが、大きい作品に挑む勇気とその可能性は買えた。
「喜劇のなかの喜劇――南の国のシェイクスピア」と「天受売の憂欝」は、不満はないが大切な客を呼ぶ気にもなれない中堅レストラン、という印象。テーマが日常的だといけない、とはいわないが、少々食い足りない。しかし滑稽小説やジュニア小説の形なら完成品といえるのではないか。
「ショート・ストーリーズ」は、うますぎるほどに、うまい。だから、評価B++とトップ作品に推したが、どうしてもAにできなかった。それは、作者がコマ切れのストーリーをメタファーによって誠実につなげる気持でいるのか、それとも文中で繰り返されるように、空間/物語はただの思考の容れ物にすぎず、謎を自己増殖させる遊戯のためにのみ書いているのか、明快でなかったためだ。つまり、物語のための物語に付き合わされているのではないか、という不信感が残された。胎児になる母が、鳥のような形になり、鳥の歌が聞こえると「自分の列車」が分かり、それに乗ったら、うしろ向きに女性が坐っていた――といった繋がりが、作者とは独立した世界としての「物語」に根差さず、ただ言語の上だけの連合だとしたら、うしろ向きの女性は誰でもいいことになる。すくなくとも物語が作者だけの私物になってほしくない。この賞にはノベルとあって、物語を「準現実」として読めることが前提となるのだから。
 しかし選考後、作者が古くから幻想文学の訳出紹介に尽力してきた人だったと知り、悪意の疑いは解消した。シンプルなタイトルを見ても、「ソーカル事件」のような心配はない。ちなみに、この事件はプロの科学者をだますために書かれた難解な「冗談論文」を巡る騒ぎだった。


面妖で悪辣な傑作 井上ひさし

「ショート・ストーリーズ」(西崎憲)は、たくさんの文学的工夫を巧みに仕組んだかなり実験的な作品である。工夫の第一は、五つの短・中篇を五十五の断片に切り刻んだ上で、今度はそれらを戦略的にバラバラに解体して並べてしまったことである。
 その五つの短・中篇というのは、(1)リコという小説家とスマイスという日本近世文学研究家の、淡い大人のラブストーリー。(2)ビルマ戦線で捕虜になり、やがて捕虜収容所から逃れ出たリコの祖父の不思議な脱走記。(3)スマイスが研究しているらしい、日本の言語学の始祖富士谷成章と御杖の父子の仕事。(4)若くなる奇病にかかった母を持つ少女の日々の暮らしぶり。(5)江戸末期の辻斬りの話などであって、こういった物語の断片や細片が次から次へと現われて、読む者を大いにまごつかせる。だが、そのまごつきは、この作品が〈書くことの困難さ。そしてその困難さは、もっともふさわしい言葉をどう選び、選んだ言葉をどこにどう配置するかである〉という主題に収斂されて行くにつれて一種の感動に変わって行くのだからふしぎである。
 もちろんこの主題すらも、じつは不確かであって、わたしがそう読んだというだけの話、別の読み手ならまた別の主題を発見するかもしれない……という次第で、まことに面妖で悪辣な一篇。この面妖さと悪辣さは表彰するに足る。
「戒」(小山歩)には、はじめ、架空の古代を舞台に〈道化小説〉を書こうとしているのではないかと読み、わたしはこの破天荒な試みに感動した。この試みが成就したら、たいへんな作品になるところだったが、途中から、登場人物の心理の説明がばかに多くなってきて、話が少しも前へ進まない。また、自分探しという主題もいまや手垢がついて凡庸な主題に成り下がっているので、このへんも退屈……と、ずいぶん割引をしたものの、道化小説を企てたという一点で、やはりこの作品は、弱いながらも光彩を放っている。
「天受売の憂欝」(中島文華)は、八百万の神々の世界を、アパートの四畳半の世界へ引き込んで押し込んだところが、すばらしい手柄である。ふつうファンタジーは、反常識・非常識の世界へこちらからどっこいしょと出かけて行くのがきまりだが、この作者はその逆の道を選んだのであって、そこは大いに評価すべきだろう。ただし、文章は活きがいいものの、ところどころに小学校高学年クラスの、それも手垢のついた表現が現われて、これは損である。最初、わたしはこの作品に最高点をつけたが、やはり文章にひっかかって最後まで推すことはできなかった。
「喜劇のなかの喜劇――南の国のシェイクスピア」(泉慶一)は、シェイクスピアの年譜の空白の二年間(二十三歳と二十四歳)をうまく利用して、シェイクスピアをアドリア海の島国に過ごさせる。そして売れない俳優シェイクスピアが芝居を書かねばならなくなるという状況を設定する。ここまではとてもいい。しかし、シェイクスピアの作品からの人物の借用に手抜かりがあった。イヤゴーは出すがオセロやデズデモーナは出さない、シャイロックは出すがポーシャは出さないというのは少し恣意的にすぎたのではないだろうか。イヤゴーを登場させたからには、オセロやデズデモーナの影をつけないと、「作者は自分に都合のいい人物ばかり集めている」ということになり、読者から信用を失ってしまうのではないだろうか。


ウェブ時代の文学 小谷真理

 最終選考に残った四作品は、傾向こそ違うが、いずれも力作であったと思う。
 優秀作となった小山歩「戒」が、わたしには一番読みごたえがあった。作中に出てくる「戒より始めよ」が、中国の故事燕王の郭隗のいう「隗より始めよ」のパロディになっているところから、中国らしき舞台装置とはいうものの、かなり作り込んだひとつの異世界ファンタジーとして受け止めた。何をやっても王に業績などを吸い上げられる「戒」が、やがて自ら猿面の道化役を引き受けつつも、しだいに演技的世界から抜け出られなくなってしまい、自らの本質を喪失する。そこからどうやって抜け出したのかという、いわば愚者としてのヒーロー話で、ちょっとスポ根的なノリもある。荒削りとはいえ、主題が明確になる後半三分の一からラストへ至るまでの盛り上がりはすばらしく、胸を突かれた。オーソドックスだが、物語の持つ原初的機能を再確認させてくれた力強さを買う。
 泉慶一「喜劇のなかの喜劇――南の国のシェイクスピア」は、シェイクスピアの世界と格闘して、楽しさの他にはていったいなにが残ったのだろうか、と考え込まざるをえなかった。パスティーシュには、原作への痛烈なる批評的一撃がほしいところだが、それがあまり感じられないのである。中島文華「天受売の憂欝」は、不思議な力を持つ巫女のライフスタイルのすべてがファンタジーだというノリがよい。「プラクティカル・マジック」や「魔女の宅急便」を髣髴とさせる展開だが、スケールの小ささや底の浅さが気になった。「天受売の憂欝」と「喜劇のなかの喜劇――南の国のシェイクスピア」は、双方ともに口当たりのよい作品だが、遊びの中にも何かひやりとするような鋭さがほしい。
 みごと大賞を受賞した西崎憲「ショート・ストーリーズ」は、小説として一番洗練されたスタイルをもち、文章もさわやか、簡潔であり、ぜったいにテンションを落とさず完成された作品と考える。この作品のおもしろさは、なんといっても、そのハイパーテクスト的な構造にある。切り替えのおもしろさでひきつけるフラッシュバック風の妙味は、ウェブの時代に親しみやすい感性を上手に作品化したものと言えるだろう。こうしたスタイルは、インターネットのウェブ操作ならぬ紙媒体の作品の場合、スタイルこそ奇抜だが、時折退屈きわまりないものに出くわすのも事実で、文学愛好者の玄人趣味には訴えるものの、物語的なおもしろさを提供することは難しい側面がある。しかし本書には、ラストにむかってページをめくらずにはいられない、切実感があった。アヴァンポップでお洒落な現代小説の誕生だ。
 というわけで、品格のある作品「ショート・ストーリーズ」、新人パワー炸裂の「戒」、両方を胸に、選考会にのぞんだ。実験性と大衆性、物語性と芸術性、さまざまな価値観の狭間に揺れ動くファンタジーの現在をキャッチできたのは、大きな収穫だった。


とぼけかたのうまさ 椎名誠

「ショート・ストーリーズ」は四つの物語とひとつの詩、それにある種の論文(といっていいのか?)がそれぞれ自在に進行し、それがあちこちぶつぎりにされて、互いにどこかでそのエピソードの断片が唐突にシンクロし、思いがけないところで微妙にテーマをからませあいながら、どこか観念的であり不条理な質感をもった相当に錯綜した物語がじわじわ進んでいく、という不思議な小説であった。
 読みながらずっと考えていたのは、このケレン味たっぷりの小説がどのくらい巧みに計算されて書かれたのか、あるいは単純に作者の感性と感覚だけで書かれたものなのか、ということであった。感性だけでどんどん書かれていった小説ならこれはまさしく才能そのものだろうし、綿密に計算されたお話づくりだとしたらなかなかの小説巧者である。どちらにしてもその作品全体に横溢する“とぼけかた”が素晴らしいと思った。
 ぼくのそうした興味と疑問は、選考会でぼくよりもはるかにしっかり読み解ける選考委員の意見が、明確に分析してくれて、やっぱりこの作品にぼくはハメラレタのだなとわかった。ハメラレタとしてもこの作品から受けた「小説を読む楽しみ」というもっとも基本的な力はなんら変わらない。才能と力技にみちた新しい作家の誕生だと思った。
「戒」は「ショート・ストーリーズ」と対照的な正攻法の労作で好感がもてる。真剣にそして粘り強く「ある時代のどこかのある物語」の構築に正面から取り組んでいっているのがよくわかる。けれど正直なはなし、読むのにかなりの努力が強いられた。綿密に書かれているわりにはこの物語の風景や人物たちの顔がなかなか目に浮かんでこない。書き込めば書き込むほど輪郭が薄れてくるという印象を受けた。作者の描くこの小説世界の中でゆっくり遊びたかったのだが、それがうまくいかなかった。
「喜劇の中の喜劇――南の国のシェイクスピア」は原典をあまりよくわかっていないぼくには不幸な巡り合わせであったと思う。だからひらきなおって、シェイクスピアをあまり知らない読者(ぼくのことです)としてどのくらい面白く読ませてもらうか、という視点だけで読んでいった。しかしそれにはあまりにも感覚の制約が大きすぎた。
「天受売の憂欝」はファンタジーノベルではないもっとほかのジャンルで十分勝負していける作品ではないかと思った。あまり内情のよくわからない神道と巫女の世界はそれだけで小説としての訴求力を持っている。やや乱暴ながら物語づくりもうまい。読んでいて楽しめたが、さてこの賞を力ずくでもぎとれるかというと、他の作品との対比の上でも今回は留保という感想を持った。


言語の迷宮を旅する者 鈴木光司

 今年は台風の進路が例年と異なり、七月だけで二つも日本列島に上陸するという異常気象であった。最終候補作の原稿を船のキャビンに持ち込んでクルーズを続けていたぼくは、港で船を陸揚げせざるを得ず、多くの日数、足止めを食わされ、そのせいで、最終目的地の沖縄には到達できず、屋久島の南西に位置する臥蛇島に上陸しただけで、東京に戻ることになってしまった。
 台風の進路や気圧配置によって、進みたい方向に進めなかったり、停滞を余儀なくさせられるのが航海である。
 小説を書くにあたって、目的地が決まっているという展開は、まず有り得ない。目的地も定めず、南方で発生した熱帯低気圧に神経を尖らせつつ、高気圧の張り出しに期待して航路を決めるがごとく、スリリングに書き進めてゆくのが自分流である。明快にしておくべきは、その航海によって、何を手に入れるかというイメージであり、たとえ航行ルートが所期のものと違ってこようと、当初抱いたイメージが(できればよりよく)現実化されればそれでいい。
「ショート・ストーリーズ」は、物語の断片がタペストリーのごとく織り込まれ、一読して作者の手練がうかがえる。無関係と見える断片は、それぞれが密接に関わっていて、総体として言語哲学を内包する。語り手の祖父が、時間軸空間軸を異にする迷宮に彷徨い込んで旅をする断片においては、ソシュールからヤコブソンへと引き継がれた、言語表現における連合関係と統合関係の二軸を駆使して文章化する際の苦心が彷彿されてくる。メタファーの多用は好むところではないが、小説における知的遊びも結構楽しいものだ。いかに文章を書くかという問題の延長線上に、これから書くべき小説の抱負を語るかのようだ。この覚悟をもってぜひとも、美しい庭を作ってほしい。
 戦国時代、燕の照王に仕えた隗をモデルに据えた、ファンタジーノベル的正統ファンタジーが、「戒」である。力作ではあるが、登場人物たちの動く背景が見えにくい。的確な描写を適宜挿入したほうが、もっと小説らしくなる。イメージがはっきりしないまま、書き始めてしまったのだろうか。
「喜劇のなかの喜劇――南の国のシェイクスピア」文章に難がなく、先の展開を期待しつつ読めた。喜劇を書くのは、悲劇を書くよりも難しく、そのチャレンジ精神を評価したいのだが、読後、心に残るものがなく、せっかくのシェイクスピアの台詞が立ち上がってこない。「いい台詞だ」と褒める言葉が、自画自賛のように空しく響いて、気になった。
「天受売の憂欝」は、巫女の世界を軽妙に描いている。話のスケールが小さく、次々に投函される脅迫文のミステリーが、住所の入力ミスというのでは、肩透かしを食わされること甚だしい。小説表現としても幼稚な文章が多く、言語の迷宮を旅する者としては、まだ未熟である。



ページの先頭へ戻る