日本ファンタジーノベル大賞



第十三回日本ファンタジーノベル大賞


選評


二十一世紀が見える作品を 荒俣宏

 候補作品を四本、記録破りの酷暑の中で読んだ。その暑さを忘れて熱中できた二作品から、まずコメントする。
「太陽と死者の記録」は、私自身この春にインカ帝国の遺跡巡りをしたばかりだったので、ひときわ興味をそそられて読んだ。結果は二つの印象に引き裂かれる思いがした。第一の印象は、久びさに出会う大力作、というもので、疲れるし苦しい詳細な論述すらグイグイと引っぱっていってくれる豪腕を感じた。しかもインカの歴史に正面から取り組んだことは、かつてシャトーブリアンらがアメリカ先住民の物語を文学化しようとした試みすら連想させた。
 しかしもう一面では、物語を実現する構成の立て方が裏表逆だったのではないか、という心残りも実感した。この作品を貫くテーマは「文字ある人々(スペイン人)」と「文字なき人々(インカ人)」のシンボリックな抗争といえる。しかしこのテーマを物語に置き直す過程で、文字ある人々に雄弁に語らせすぎる。セルバンテスまで出てくれば、形勢はインカ文明に不利だ。それゆえ他のいかなるインカ文明賛美も空しく聞こえてしまう。話すことのできるミイラをなぜ登場させねばならなかったかを、再度追究すべきだった。読後、文字なき文明のおそるべき可能性が心にひびく作品であってほしかった。
 著者は、その文字なき文明のシンボルとして「語り部」のアマルを主人公に選び、さらに飛脚(チャスキ)のワマンをサブヒーローに選んだ。これにより、クスコにいたワスカルとキトにいたアタワルパの両方(いずれもインカの覇権をあらそう王子たち)に目が利き、展開を興味ぶかくするのに成功した。が、同時に語り部と飛脚を選んだことはさらに重要なポイントを秘めているはずだった。なぜなら、車を持たなかったインカ人は、もっぱら人を走らせることのためにインカ道や補給ネットワークという、西洋を越える壮大な文明インフラを築いたからだ。つまり、語り部と飛脚は、それ自体が西洋文明の延長上にない別系統の文明の偉大さをあきらかにする驚異のシンボルだったと思う。この作者ならばそこまで書ける。
 もう一つの怪作は「しゃばけ」だった。これはぜひシリーズ化したい、軽くて楽しい読みものだ。最初は京極夏彦のまがいものではないかと警戒したが、むしろ京極らが築いた妖怪小説の土壌をうまく逆利用し、良い意味でパロディー化することに成功した。ただ、平安や鎌倉時代にメジャーだった「付喪神」は、江戸時代にもポピュラーだったかどうか、ちょっと疑問が残るが、まあ、物語が洒落っ気で一貫している以上、どうでもいいことだろう。
「アンデッド・リタナーズ」と「アパートと鬼と着せ替え人形」については、材料や小道具をたくさん積み上げたけれど、まだ料理になっていない、という感じ。
 世紀も改まった今、日本がファンタジー文学の王国となるためにも、応募者のみなさんの奇想天外な発想を期待したい。


作家的野心と勇気を買う 井上ひさし

 なにをどのように書いてもよい――これがこのコンクールのただ一つの原則である。ところがその年ごとに、なにかに偏ってしまうから不思議である。今年の最終候補作の作者たちは、悪霊とミイラと妖怪が好きだったようだ。
「アパートと鬼と着せ替え人形」(越谷オサム)は、夫の背信を知って嫉妬に狂った平安期の女房が鬼と化して夫を喰い殺し、それでも怒りの炎はおさまらず、現代まで生き存えて若い男どもを喰うという設定。そして彼女は若い男を誘き出すために曰く付きの人形を曰くあり気に使うというのがその道具立てである。こういう設定や道具立てを生かして読者を誘い込むには、精密かつ濃密な情景描写が必要になるが、残念ながら作者の筆にもう一歩の伸びがない。いくつもの場面で舌足らずの描写が顔を出す。物語時間の処理(たとえば平安期と現代との並行構造)に光るところが見受けられるので、切に次作を期待する。
「アンデッド・リタナーズ」(佐藤仁)の作者は、恐るべき勉強家だった。神学、哲学、文化人類学、そして近代言語学など諸学問の鍵言葉(キー・ワード)をいっぺんに自作に吹き寄せて、その一つ一つをパロディとして使いながら物語を推進する。こういう作風が大好きな評者は読みながら満点に近い点をつけていたが、読み終えてから改めて全編を眺め返すと、物語そのものの月並みなところが気になり出した。独自の雄勁な物語をまず築いて、そこへこの作者持ち前の知的ゲームを付け加えることができれば、わたしたちはたぶん優れた作家を一人持つことになるだろう。その日が早く来ることを切望する。
「しゃばけ」(畠中恵)は、一種の教養小説(ビルドゥングスロマン)である。それも江戸期を舞台にし、主人公の一太郎(回船・薬種問屋の若旦那)を成長させるのが番頭や小僧としてお店に住み込んでいる大小の妖怪たちなのだから人を喰っている。しかも教養小説といいながらも、物語の展開は連続殺人事件の発生とその解決という体裁をとっていて、真犯人なるものは神様になりたくて悪くもがく大工道具の墨壺だったというのだから、ますます人を喰った話である。万事につけてこのとぼけた味わいは、近来の出色である。
「太陽と死者の記録」(粕谷知世)は、その一、作者が語る、その二、主人公の少年が語る、その三、物語の中の死者が語るという、三層の語りによってインカ帝国の歴史を書いている。さらに言語上の大きな仕掛けもほどこされていて、それは書き文字を持たないインカ帝国と文字を持つキリスト教世界の対立である。結尾に至ってやや腰くだけになるものの、作者はよく三層の語りを駆使し、文字を持たぬ民が文字を持つ征服者に屈して行く諸様相を活写した。
 その圧倒的な力業に敬服する。文字を持たぬインカ帝国の話し言葉の体系について説明がまったく不充分であるとか、全体に話が判りにくいとか、大きな瑕はたくさんあるが、とにかく巨大な主題に少しもひるまず立ち向った作家的野心と勇気を買う。


ごめんなさい。 椎名誠

 毎年この賞の応募作を読むのを楽しみにしているのですが、今回はその直前にモンゴルの田舎をあちこち動き回るという旅の仕事が続き、図らずもこれらを読み切ることができませんでした。
 以前にも同じように、よその国で原稿を読みながら旅し、選考会に臨んだことがありますが、今回は夜中のゲルには電気もなく、移動中に読む時間も物理的にありませんでした。
 多くの関係者の方々にご迷惑をおかけしたことをお詫びすると同時に、次回以降ますますおもしろい作品が現れることを楽しみにしています。


悪霊退治とミイラ 鈴木光司

 今回の候補作には、なぜか「悪霊退治もの」と「ミイラもの」ばかり集まってしまった。現代に視点を据えて、ほんの少し位相をずらしただけの、リアリティあふれる作品は一本もなかった。もちろん、ファンタジー小説である以上、設定に関していかなる制約も受けることはない。地球から遠く離れた天体を舞台に、人間以外の生命体を登場人物に据えてもいいし、千年前の悪霊を現代に蘇らせても構わない。自由度は実に高いのだが、一方ではそれが罠となる。書き手の脳裏にどれだけ具体的なイメージがあるか知れないが、手抜きのないシャープな表現を心掛けないと、シチュエーションが読者に伝わりにくくなってしまう。作者と読者が持つ共通の決まり事(制約)から解放されているのだから、これは当然のことと言える。
 この弱点をさらしてしまったのが、悪霊退治の物語、「アンデッド・リタナーズ」である。もう少し描写を具体的にしてくれないと、読者は、作者が作り上げた架空の世界に入っていけない。
「アパートと鬼と着せ替え人形」も、いわゆる悪霊退治ものである。鬼の誕生を描写する平安時代のシーンはなかなかいいのだが、ラストは完全に「ターミネーター」になっていて、一気に興がそがれるのが残念だ。
「しゃばけ」は、付喪神になり損ねた墨壺と戦う物語で、ここには悪霊退治ものとミイラものが混在している。たわいもないストーリーなのだが、若旦那を取り巻く環境や登場人物のキャラクターに何ともいえない味があり、好感が持てる。この魅力はなかなか分析し切れるものではない。
「太陽と死者の記録」はインカ帝国の衰亡を描いたミイラもので、着想、テーマともなかなかおもしろく、文章もしっかりしている。子供の頃に抱いたひとつの疑問が、この長編小説に結実されたという「あとがき」を読めば、作家としての正統的な資質に恵まれているのがわかる。
 文字を持つ文化と持たない文化の戦いを中心に据えているが、言語学理論を知らぬ者にとっても、どちらに利があるかは一目瞭然だ。言語、特に書き言葉の存在が文明の成熟に寄与したのは当然であり、そのアンチテーゼとしてインカ帝国を描くなら、書き言葉を持たない文化の利点を、もっと克明に説明してほしかった。
 選考会に臨む前には、どれを大賞と優秀賞に推そうかと、だいたいのイメージはできあがっている。今回は、その通りに具現化され、「太陽と死者の記録」が大賞、「しゃばけ」が優秀賞に決定された。思った通りの結果が出ると、なかなか気分のいいものである。これも作者であるおふたりのおかげかな。


さらなる女性の活躍を 矢川澄子

 今年は、ふたを明けてみたら大賞、優秀賞ともに受賞者は女性、ということに落ち着いた。ファンタジーノベル大賞もこれで十三回目になるけれど、女性オンリーというのはいまだかつてない壮挙といえるのではないか。
 わたしとしてはこの日を待っていたような気さえする。最初に「バルタザールの遍歴」で第三回大賞を射止めた佐藤亜紀氏以後、候補作には毎年のように女性作家の登場をみたけれど、いずれも選考過程のなかで姿を消すか、せいぜいが優秀賞にとどまるかして、大賞受賞をきっかけに文壇にデビューを果したひとは、いまだに皆無といってもよい。
 うかつなことに粕谷知世氏が女性であるということに気づいたのは、選考会当日であった。それまで、畠中氏の方は名前からして女性ではないかと類推してはいたものの、粕谷氏の方はテーマの壮大さといい、筆致の骨太なことといい、とても女性の手になったものとは思えない。というより、まったく性別を意識せずに読みふけらせるだけの力量がこの作品にはあったのだ。
 受賞作「太陽と死者の記録」は、文字というものを有(も)たなかったインカ帝国の、語り部となる少年アマルの話であって、その親友で駅伝の伝達吏になるワマンの口から語られており、さらに一部はインカ特有のマルキ(木乃伊[ミイラ])そのものの語りとして収録されている。
 十六世紀に侵入者たちのキリスト教文化がインカを呆気なく席捲してしまったのは、彼らが聖書(バイブル)による文明を「普遍(カトリック)」とすればこそであったという。わたしのような門外漢にもこのあたりの話は十分説得力をもち、大賞の名に値するだけの大きさを彷彿させる傑作ではあった。
 所変れば品変るとか。畠中氏の江戸譚でもおなじ木乃伊が、こんどは不老長寿の霊薬として登場してくる。こちらは回漕問屋=薬種問屋の御曹子が主人公だが、この子の身の上を案じてつきまとう「妖」のものたちが何ともいえずかわいらしい。屏風のぞきや鈴彦姫の愛くるしさはいわずもがな、最後の墨壺との対決や群れ鼬の登場にいたるまで、ここにあらわれる付喪神たちは、妖かしどころか、並々ならず情愛こまやかなのだ。
 のこる二作品についてもざっとふれておこう。「アンデッド・リタナーズ」は、まず言葉えらびの杜撰さにこちらは参ってしまった。「神理学」「契罪学」などには目をつぶるにしても、ソシュールばりの「シニフィアン」「シニフィエ」を「シニファン」とはどういうつもりだろう。
「アパートと鬼と着せ替え人形」は逆に女性の偽名ではないかと思ったほどだ。千年前の京女のエピソードを挟んだあたりもよい。
 最後に私事にわたるけれども、わたしの役目は今回で終らせていただく。これだけ応募者にも女性の多い現在、つぎの選考委員にはぜひとも女性を補充していただきたいと思うばかりだ。




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