マンデラ氏死去:私にとって人生の師…千葉のしんきゅう師
毎日新聞 2013年12月06日 12時43分(最終更新 12月06日 12時52分)
「イッツ・タタ(父さんだよ)」。電話の向こうから聞こえてきた温かい声が今も耳に残る。人種差別反対運動に巨大な足跡を刻んだ南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領(95)が亡くなった。千葉市若葉区のしんきゅう師、植田智加子さん(53)は以前南アに暮らし、元大統領にはりを打った。娘のように可愛がられ、日本にいる時も頻繁に電話をもらった。「私にとって彼は人生の師」と思い出を語った。
出会いは1990年。来日したマンデラ氏にはりを打つよう知人に頼まれたのがきっかけだった。治療が気に入ったのか、帰国の日に「南アフリカに来てほしい」と請われた。人柄に魅了され翌年から頻繁に渡航。95年にはケープタウンに移住し、しんきゅう院を開いてマンデラ氏も治療した。世界的有名人だったが誰に対しても敬意を払い、1人暮らしの植田さんのことも父親のように心配した。「他人への心遣いが素晴らしかった」と話す。
時には「教育者」の顔も見せた。
植田さんは人前で話すのが苦手で、現地のテレビ局の取材を受けてもうまく話せない。ある日、ヨハネスブルクで開かれた数万人の大集会でマンデラ氏から突然指名され、あいさつするよう求められた。緊張でひと言ふた言しゃべるのがやっと。終わった後こう言われた。「あと数回経験すれば少人数の前では大丈夫になる」
腹が立ち、またやるなら帰国しようと思った。「今考えるとありがたい。成長させようと考えてくれていた」
93年に父が病気になり、植田さんはしばらく南アを離れた。その後、大統領に就任したマンデラ氏は、父が危篤になったと知ると、心配して3日に1度は電話をかけてきたという。恐縮してこれ以上電話しないよう頼むと、「友人に電話したいと思えばいつでも電話する」と怒って電話を切られた。1週間ほどするとまた電話が鳴った。「イッツ・タタ……」。マンデラ氏の出身部族の言葉で、「タタ」は「父親」を意味する。
植田さんは南アで子供を産み、小学校入学を機に2002年帰国した。その後も子供の様子を気にかけ、電話をくれたという。16歳になった息子の名は「由希(よしき)」。自由を求め、希望を失わなかった偉大な指導者にちなんだ。【馬場直子】