「現地妻が告白する『沖縄の怨』」 (『サンデー毎日』 1972・6・4号)
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鹿山隊長の"現地妻"は生きていた。沖縄本島から西へ約百キロの久米島で、終戦をはさんで演じられた虐殺の指揮をとった鹿山正・元兵曹長に"徴発"された少女は、いま四十三歳になり、那覇市の近くのバー街で、小さい料理店のおかみさんになっていた。
虐殺事件から本土復帰までの長い歳月、S子さんの身の上には、なにか、虐殺の呪いのようなものさえ感じられた。
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おびえが走った
アゲハチョウが、店先に舞っていた。
那覇市に近いバー街である。S子さんが営む小料理店は、そのはずれにあった。琉球カワラでふいた小さい家。しもたやにしか見えないその店を、ようやくたずねあてることができたのは、まだ宵の口だった。
バー街は閑散としていた。ネオンにも灯がはいっていない。そこらじゅうに張られた新「沖縄県」の県議選ポスターだけが、やたらに目についた。
小料理店の勝手口からはいると、青いワンピース姿のおかみさんが出てきた。それが鹿山の現地妻だったS子さんであった。髪を短くして、シャキッとした顔立ち。小柄な美人であった。
来訪者がジャーナリストと知って、S子さんの目におびえが走った。
彼女にとって「戦後」とは、消そうとしても消えない過去を背負って、転々と居を変えた生活である。しかも久米島での虐殺事件が明るみに出てからというもの「鹿山許すまじ」の声が、沖縄でははげしく、盛上がっている。そんなとき鹿山との関係を知られたら……彼女がたつきにしている小料理店は、まして客相手の商売だ。しかし……。
「でも……、でもよ。私にも、言いたいことはあるわけさあ」
やがて…さんは、住所と実名を明らかにしないことを条件にして、過去を語ることに同意した。
16歳の島乙女
「久米島の具志川にある女学校を出てから、看護婦になろうと思って、那覇の日赤病院で見習いしていたさ。それが昭和十九年十月十日の大空襲にあって、久米島に帰ったわけさ」
米軍の上陸が迫っていた。女学生は看護婦として軍を助けるよう要請されたし、また、そういわれなくても看護婦を志した当時の彼女たちだった。
「私の家は、具志川村鳥島から山に上る道のそばにあってさ、山にいた日本兵が村に上り下りするときに、私という"島の娘"を見つけたんじやないかね。二十年の四月か五月ごろでしたよ。
鹿山の部下が三人連れでやって来て、『指揮官付で働いてもらうから山に上れ』というわけさ。当時は家で手伝いしているだけだったけど、なんかしら山に上るのはいやだったね。行かないでいたら、数日してまた呼びに来たさね。どうにも仕方なくて、行くほかなかったわけさ。なんにも知らずによ」
このとき、S子さんは十六歳だった。
兵隊がよく通る道のそばに、たまたま住んでいたのだ。"徴発"された理由はそれだけである。あえてつけ加えるなら、幸か不幸か人目をひく少女だったということ。
もし彼女が那覇空襲後に久米島に帰らなかったら、どうなっていただろうか?
沖縄本島に残った看護婦見習いの同級生たちは、ほとんどが沖縄戦に巻込まれて戦死した。去るも地獄、残るも地獄だったわけである。どっちにしてもS子さんの未来は閉ざされていた。なかば強制的に久米島の山中に連れ込まれたとき、彼女の青春もまた破滅への旅立ちをしたのである。
米軍上陸の夜
「山で、初めて鹿山に会ったわけさ。はじめは話をかわすこともなく、身のまわりの世話だけだったた。洗濯をしたり、足を洗わせられたり。しばらくして月給くれたさ。
三円だったかね、札を三枚もらったの覚えているさあ。報酬もらっのは、あとにも先にもこれだけよ。
米軍が上陸する前は、鹿山は、私になんも悪いことしなかったさ。村の料亭に遊びに行ったり、料亭から玄人の女を連れて釆たりしていたようよ。
悪いことされたのは、米軍が久米島に上陸した晩だったね。隣に、玄人の女性がいたことも覚えているさあ。
日本軍がそれまでいた小屋にガソリンかけて、山のずっと奥に逃げたのは、米軍上陸から三日ぐらいたってからだったかね。逃げるとき、男ばかりの中で女は私一人だったさあ。こわくなかったかって?
自分の耳をかすめて米軍の弾がビュウビュウ飛んでいて、もう、夢中だったさ。こわいというより、玉砕してお国のためになるならと、いまにして思えば、きれいな気持だったね。着のみ着のままで、しょっちゅう、起きていたみたいよ」
子供ができた
米軍の久米島上陸は六月二十六日である。沖縄本島を守っていた日本軍の司令官、牛島中将が、摩文仁丘で自決(六月二十三日)し、本島では組織的な戦闘が終わったあとだった。仲里村銭田海岸へ、米兵千人は無血上陸をした。四十人ほどの鹿山隊は「なんの抵抗もできなかった。
翌二十七日、第一号の犠牲者が島民のなかから出た。久米島郵便局員の安里正次郎さんだ。加害者は、米軍ではない。鹿山隊長みずから、スパイの容疑があるといって安里さんを射殺したのだ。S子さんが現地妻にさせられた翌日のことである。
「三回ぐらい家に帰されたことあったね。でも、すぐに呼戻しに来たさ。いまぐらいなものの考え方だったら、私も抵抗しただろうけど、年も年だったしね。なんもわからんさあ。
島で起きたこと(鹿山兵曹長の指揮による連続虐殺)は、まるで知らされなかったさ。日本軍より一足先に私は山を降りたけど、日本軍が降伏し、全員が"アメリカ
ー"に連れて行かれるまで、母も心配して私になんもいわなかったさあ、あとで事件を知らされて、私は自分自身を責め始めたわけよ」
鹿山隊の降伏は、昭和二十年九月一日だった。それまでに、終戦後というのに、八月十八日には、久米島を米軍の艦砲射撃から救ったといわれる仲村渠(なかんだかり)明勇さん一家三人を、一日おいて八月二十日には朝鮮人の谷川昇さん一家七一人を虐殺するなど、鹿山隊は直接虐殺だけで二十人の島民を死に追いやっていた。
「(兵隊が)みんな引揚げてから、子供ができたこと、気がついたわけさあ。そりゃあね、相手は私を行きずりの女としてみたにすぎなかったんでしょう。だけどね、本当にものを知る人間であれぱね、安否を問う手紙くらいあってもいいでしょ。
子供できたの相手は知ってんのかねえ、知らないのかねえと思いながら、私のほうは自分を責めていたんさあ。
よその人に姿見られるの恥ずかしくて、外にも出なかった。台所で炊事していたときに、よその人が来たりすると、すっと奥に隠れて、一人で泣いていたさ。両親は、私が自殺しやしないか心配して、家族みんな暗い気持でいたさあ。私自身はすっかり孤独になって……」
結婚にも破れ
二十一年三月、女児を生んだ。S子さんは十七歳の母親になった。家は貧しい島の農家である。人目を避けながら、なれない育児にせいいっぱいの毎日だった。
二十二年、親のすすめで結婚した。夫は長兄の戦友で、同じ久米島の人だった。もちろん、鹿山とのことは知ってのうえのことである。この夫とのあいだには二男一女が生まれた。
昭和三十一年、だが、夫は急性肺炎で死んだ。鹿山隊長との私生児一人を含めて四人の子供を抱えたS子さんに、再び生活苦が襲った。それは同時に偏見の中で孤独とたたかう日々でもあった。
久米島の人々は、彼女とあの鹿山隊長との仲を知っている。ふるさとは針のムシロだった。
「鹿山とのことで自分がイヤになって、ほんとうは結婚する気なんて全然なかったのよ。結婚してからも、相手に悪いと思ったさ。過去が過去なのでシュウトメともうまくいかなかったし、私もいいヨメではなかったんじゃないかね。鹿山との子が小学校にあがるようになってから、また自分を責めたさ。
本島の糸満に姉さんをたよって行って、スクラップ業をやったこともあったさ。そのうち、夫も死んでしまって……実家は貧乏していたし、だれにもたよれず、那覇のある人の二号さんになったわけさあ」
糸満から久米島に引揚げたS子さんは、仲里村で小さな旅館を開業する。長女はいつのまにか鹿山隊長の子であることを、近所の人から知らされていたらしい。
「さいわい、ひねくれもせず育ってくれてね。気の強いいい娘になったさ。それが旅館によくくる人と結婚するといい出したわけよ。心配だったけど、本人同士みんな知合ってのことだと思ったさ。してからに結婚して、予供もできたさ。けど、やっぱり鹿山のことで、うまくいかなかったわけよ。
こんなことあったさね。娘と私の前で、ムコが孫をはたいたさ。私が注意したら、そいつがいったよ。自分の過去をタナに上げて文句いえるガラかって。結局、娘も離婚してしまったさあ。私たち母娘は、人並みの結婚は、やはりできなかったわけよ」
故郷に住めず
一家は過去に追われるように仲里村を捨て、那覇市に移り住んだ。離婚した娘は、借金してサロンを開いた。S子さんは再び小さな旅館業。まもなくS子さんは末の娘だけを連れて現在地に移った。旅館はやめて、こんどは小料理店にした。
「一度、偶然に久米島の人が客できて、おおぜいの客がいる前で『あんた、鹿山のあんときの女じゃなかったかね』って聞かれたさ。びっくりして『いや、私みたいな顔の人、たくさんいるさあ。ひと違いじゃないかね』って急場をしのいだわけさ。胸の中じゃ、なんて心ないことをいう人だと煮えくりかえる思いだったけど、無理して笑っていたさ。恥かかされながら顔で笑ってさ」
三月末いらい「久米島事件」に向けて爆発した沖縄の世論。事件を思い出したくなかったS子さんも考え込んでしまったという。連続虐殺の事実を突きつけられても、鹿山兵曹長は「良心の呵責はない。日本軍人としての誇りを持っている」という。S子さん、この開き直りには人一倍ショックを受けた。
「あんな大げさなことよく言えるねと思ってさ。私たちばかりやるせない気持で、生きることに懸命になってるのに。
自分がみじめに思えて、私は毎日泣いていたさ。それを末の娘が見て心配して、ねえねえに電話したらしいさ。末の娘は、長女のこと、ねえねえって呼んでいたわけさ。私も覚悟を決めたさ。末の娘と二人きりのとき、思い切っていったのさ。『新聞に出ている鹿山は、ねえねえの父さんよ』。せつなかったさあ。けれど末の娘は、逆に私を励ましてくれたさ。過去は過去じゃないのって」
末の娘はいま十八歳になる。事故で半身不随だということである。その上の兄弟二人は、すでに独立した。弟のほうは、集団就職で東京へ行っている。
S子さんは、長いあいだ自分の子供たちにも、自分とねえねえの過去を明かすことができないでいたのだ。
「ねえねえはねえねえで、自分の子供、私にとって孫にあたる子の心配をしているわけさ。鹿山の孫だっでいうんで、私たち母子みたいにさびしい思いするんじゃないかねって。私の苦しみはねへ私から娘、娘から孫へと代々続いていくわけさあ」
日本人は勝手さ
S子さんの店は、いま二百万円近い借金をかかえている。ねえねえも、その日の生活に追われる苦しい暮らしである。
「鹿山が反省してもしなくても、私たちの苦労は変わらないさ。そう思って、いまこそ鹿山から慰謝料取ろうと、徳島県の住所に一筆書いたさ。ねえねえも、末の娘も、おおいにやんなさいっていうしね。女学校時代の恩師も手紙書いてくれたけど、その先生のところにも、私のところにも、返事ひとつないわけよ」
久米島で鹿山隊に虐殺された人たちの遺族は、いま遺族会をつくって、政府への慰謝料要求と新日本軍(自衛隊)の沖縄入り反対の運動を始めている。しかし、このような遺族会の声に、責任ある回答はまだなにもない。
「沖縄で勝手なことしといて、いまになって、あれは、戦争中のことだといわれたって、私たちには通じないさ。沖縄人と日本人は、やっぱり人間が違うんじゃないかね。日本人も日本政府も、ウソがうまいと思うさあ。そんなところへ沖縄がなんで復帰するのかねと考えるさ」
五月十五日。沖縄復帰。S子さんやねえねえ、久米島事件の遺族たちの痛みをよそに、盛大な祝典では高らかな万歳が三唱されていた。
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