3/18/2008 |
日本橋から24里35丁。旅籠36軒、本陣1軒、脇本陣1軒、家数197軒、宿人口844人の規模であった。上古より京都と東国を結ぶ要地として注目されていた。箱根峠越えには、碓井道、足柄道、湯坂道が利用されている。
元和4年に(1618)に三島から元箱根を経て湯本・小田原へ出る道が開削、三島・小田原から50戸ずつ移転させて宿場が開かれた。しかし、この間は、宿間の距離も長く、険阻な山道の連続であった。
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箱根八里とは、小田原宿から箱根宿までの上り4里と、箱根宿から三島宿までの下り4里をいった。箱根の山は天下の嶮、東海道随一の難所である。だから方々に立場が設けられていた。最初の立場は湯本、それから本格的な上り坂で女転ばし坂を過ぎると、畑宿の立場に着く。もっとも険しい西海子坂、樫の木坂を経て甘酒茶屋へ。
石畳の於玉坂、白水坂を通過して芦ノ湖畔の元箱根、賽の河原を経ると関所で、その先が箱根宿となる。宿を出て箱根峠を過ぎると、あとは下り坂になる。
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古代、この地には伊豆国府があった。のちに南伊豆白浜から三島明神をこの地に移してから三島と改称した。三島明神は源頼朝の信仰が篤く三島は門前町として発達し、東海道開通後は、「ノ-エ節」で有名な三島女郎衆と呼ばれる飯盛女の存在で繁盛した。箱根の難所を越えた「山祝い」の宿としても賑わった。また南には下田街道が分かれている。富士の雪解け水が湧き出る、水の豊富な町でもあります。
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東海道沿いの名社として知られる三嶋大社。建造物は重厚な風格をたたえていて古社らしい雰囲気です。山門、本殿は三島市の文化財指定となっています。
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沼津とは、沼地にできた港(津)の意味です。周辺一帯は蓼原と呼ばれ、その東北部に中世に車返と呼ばれた集落がありました。武田支配の時に三枚橋と名前が変わっています。
文明11年(1479)北条早雲により三枚橋城が築かれた。しかし、20年余りで廃城になり、東海道が制定されて三枚橋宿が置かれる。廃城跡地には沼津城が築かれ、沼津城の城下町兼宿場町として栄えてきた。沼津の名は元禄時代頃から使用している。
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東海道中最小の宿場。果てしない一本道のまっただ中の宿場、それが原宿である。原の語源は浮島ケ原だといわれています。古来、歌枕としも有名で「足柄の関路こえゆくしののめに一むらかすむ浮島ケ原」藤原良経と歌われている。東海道中最小の宿場だが、ただ雄大な富士か゛眺められる地として人気があった。
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臨済宗中興の祖とたたえられている白隠禅師は14歳の時、松蔭寺で得度した。
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古くは元吉原の地にあったが、富士川の洪水で北西8町(872.8m)の場所へ移転する。中吉原である。さらに、津波の被害を受けてまた移転。新吉原へ移る。結局洪水や津波を避けて北西へ北西へと移転したのである。
宿場から、富士登山大宮口へ出る道が分かれています。
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東海道を西に向かって旅する場合、富士はいつも右側に見えるが、吉原の手前だけは左側に見える。道が曲がって北へ向かっているためですが、西行法師がここを通り、その眺望を誉めて左富士と名付けた。
旅人にとっては珍しい景色として名所になっています。
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広重の東海道五十三次の中で最高傑作といわれる「雪の蒲原宿」です。雪がしんしんと降る夜の宿場を、箕笠をつけた旅人が寒そうに身をかがめて行き交う図である。一見すると雪国のようである。しかし蒲原は、五十三次の中でも温暖な場所。雪景色を描く広重の発想が面白い。
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吉原から来て、富士川の渡し場を降りたところが、岩渕の立場。東海道と身延道の分岐点にもなっているので、たいそう賑わった。甲州鰍沢まで18里(70km)の船便もあった。下りは甲州の年貢米、上りには塩を運んでいた。
この先を南下すると蒲原です。蒲の生い茂るしつげんがり、地名の由来となった。
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薩唾峠には三つのル-トがあります。下の道は峠を上がらず海際を行く「親知らず子知らずの道」である。絶壁に打ち寄せる高波の合間をぬって通り抜けるという危険な道で、親子でも相手を思いやる余裕がないほどということから、この名がついたという。次に峠越えの道。朝鮮通信使の来訪に合わせて設けられた。この道は峠の途中で二本に分かれ、上道は山間を抜け、中道は海岸の崖の上を行く。
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鎌倉時代から「湯居」などの名で知られている。源頼朝から恩賞として由比を与えられた大宅光延の子孫が、由比氏を称してこの地方に勢力を張った。由比は蒲原・興津とともに街道沿いの漁村として発達している。
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宿の手前の興津川を歩渡りする力士の一行。駕籠も四人で担ぐ。乾期の10月下旬から3月5日までは仮橋が作られた。それ以外の時期は川が浅くても、人足に賃銭を払って渡らなければならない。
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清見寺は、清見潟を見下ろす高台に立つ。今川氏の人質だった頃の徳川家康が、学問をした寺ともいう。
この地は、かって大和朝廷がみちのくの蝦夷に備えて関所「清見関」を置いた所で、清見寺は関鎮護のために建立された寺であつた。
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江尻から清水港、三保の松原、愛宕山を望む図。
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宿の中心は、巴川に架かる稚児橋周辺であった。巴川河口にできた天然の良港が清水湊で、駿府への物資の供給基地として幕府も重要視していた。多くの問屋が集まり、諸国の物産が流通して、大いに繁栄した。
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駿河の国府が置かれたため、府中と呼ばれた。戦国時代は今川氏の城下として、その後は、大御所と呼ばれた徳川家康が、駿府城を築いて栄えた。城代が置かれている時期が長いので、城主のいない城下町といえる。
そのためか、府中の人はのんびりしていて上品だという。駿河・遠江では最大の宿場で「東海道膝栗毛」の作者十返舎一九はここの出身。そのため主人公の弥次さんは府中生まれとなっています。
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駿府城北方にある駿府最大の神社。
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府中から来て、安倍川を渡ったあたり一帯は、中世の宿場町手越があったところで、太平記の手越河原の合戦で知られています。丸子は鞠子とも書く。駿府町奉行の支配で、安倍川の川越しを扱っかっていた。
この宿は「とろろ汁」で有名な宿です。
「梅若菜まりこの宿のとろろ汁」芭蕉の句である。街道の両側全体の茶店が、軒並みとろろ汁の看板を揚げています。
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