正田篠枝の生と死

古浦千穂子


(要旨)正田篠枝は1910年生まれ、被爆当時34歳であった。自らの体験、親戚縁者、知人友人たちの悲惨な被爆の様子を次々と短歌に綴った。当時軽井沢に疎開していた「短歌至上主義」主宰の杉浦翠子をその短歌を持って訪ねる。杉浦はその原爆短歌を認め、絶賛した序文をつけ、杉浦が軽井沢で発行していた『不死鳥(フシドリ)』7号に“噫・原子爆弾”と題し39首を発表した。それは後の「さんげ」の原歌であった。昭和21年8月発行で120部である。篠枝はその原歌を推敲、序の1首と共に100首にまとめ、ひろけい印刷に依頼、100部の非売品、歌集『さんげ』を昭和22年12月に発刊し、親戚、友人、知人に配った。

 この『さんげ』発行が、非合法、死刑を覚悟してと今掘誠二の『原水爆時代』大江健三郎の『ヒロシマノート』に書かれ、昭和37年発行の『耳鳴り』平凡社の著書の中でも書かれているが、この『耳鳴り』1000部が発行されるまで、篠枝の作品そのものが、世に知られていたとは言い難い。作品をおいて周辺事情のみが先行したようだ。「禁じられた原爆体験」を1995年に発刊した堀場清子は、『耳鳴り』で初めて「さんげ」を読んだ衝撃が忘れ難いと言っている。しかし、『不死鳥』の39首も『さんげ』も検閲を受けなかったことを指摘している。

 昭和20年9月から占領軍の検閲があり、時代の空気は萎縮していたが、歌集『さんげ』が死刑を覚悟して発行したという理由で評価される以上に作品の力で評価されたいと思う。杉浦翠子は最初に篠枝の原爆歌を絶賛した。後に篠枝が被爆による乳がんを宣告されたとき、ヒロシマ、ナガサキの被爆者30万人の追悼のため生命を縮めながら名号を書き綴った。そのとき篠枝の友人の月尾菅子は物心両面で篠枝を支えた。月尾もまた篠枝の作品を評価し人柄を愛したのだ。篠枝の詩も童話も魅力的である。幻のような『耳鳴り』の復刊を願っている。


講師紹介1962年初めて正田篠枝と出会った。当時、詩サークル誌「われらのうた」に参加していたが、1963年『われらのうた』が56号で終刊した後、『呉文学』に入り小説を書き始めた。1965年正田篠枝が原爆による乳がんで死亡。その後遺稿を整理し、1966年『百日紅−耳鳴り以後』、1977年童話『ピカッ子ちゃん』の編集、出版に参加した。1995年『「さんげ」−原爆歌人正田篠枝の愛と孤独』広島文学資料保全の会編(文庫)の編集、執筆者として参加した。著書:短編集『風迷う』湯川書房 、『マテオの息子』檸檬社。