昭和二十年八月三十一日 復員兵の姿
三十一日(金) 雨
〇「巨大な陥没の後の再興の年、それはもろもろの民族のよき成長の年であった。
敗北に宿る尊き価値を認識するものは、常にただ少数の思慮ある能動的な精神に限られている。しかし、決定力は実にこの少数の精神にある。他の者が享楽し、糾弾し、呪詛し、攪乱し、或いは今後の発展について人類に命令を下しているあいだに、この少数者は静かに未来を準備しつつある。彼らはすべて、すでに没落を感じた者であり、今や規制のものに対して極めて自由な立場にある。のみならず世界審判の暴風は爽やかに彼らの額を吹いている。
彼らは新しい責任を予感する。あたかも自分達が最後の人間であり、自分の生命を、損なわれた預かり物のように、出来るだけ修復した姿で創造主の手に返そうとしているかのようであった。彼らは大言壮語を口にすまいとかたく誓った。愛、自由、英雄精神、これらの言葉を、彼らはもはや口にすることを悦ばなかった。それらはすべて蛹となって冬の深淵に眠っているものと考え、執拗な呼び声を以て原始の諸力の神聖な祭壇を攪乱することを懼れるのであった。彼らはたとえどんなにささやかなものであろうとも、心の声の示すところを実現しようと欲した。これを以て、彼らは墓の懸燈を潤す油とした。かくて、ただ日常的なもののうちにのみ、時として彼らに、より高き世界が現れるのだった。」(ハンス・カロッサ)
〇ハンス・カロッサ 『医師ギオン』 読了
今次の敗戦ドイツは、前大戦後のそれと比を絶する凄惨なものであろう。前大戦に於ては、連合国はドイツ領に一歩も入り得なかったし、政府は残っていたし、航空機の威力も児戯に類するものであった。それに較べると、今度は凄じい、英米ソ軍はほとんど全ドイツを蹂躙し、政府は粉砕され、爆撃は全都市を廃墟と化せしめている。その上前大戦の経験に懲りて、連合軍の弾圧誅求は昔に千倍するであろう。
しかもその前大戦でさえ――カロッサの描いた敗戦後のドイツ――寒風の吹き荒れる廃墟にボロを着た乞食のごとき民衆が、膝を抱えてうずくまったまま、高い冷たい碧空をじっと見つめているようなドイツの姿――こんな姿は、まだ日本には見られない。(東京の光景はまだ見ない)
廃墟は廃墟としても、精神的にはここまで叩きのめされてはいないと思う。――しかし、はじまるならばこれからである。あさっての東京湾に於ける降伏調印がその序幕となるのである。
〇友人続々帰郷。余も明後日帰郷せんとす。
安西、柳沢を雨中、駅に見送る。待合室内に兵士数名座る。襟章に星一つ。戦闘帽になお徽章あれど、帯革、剣、銃なく丸腰の惨めなる姿なり。ただ背には何やら山のごときものを背負う。解散に際し軍より半ば押しつけられ、半ば掠奪的に運び来るものなるべし。米俵、馬、トラックまで貰いし兵もあるときく。八十年、日本国民が血と涙しぼりて作りあげし大陸軍、大海軍の凄まじき崩壊なり。兵一人一人がこれくらい貰いても不思議にあらず。
雨に濡れて貨車動く。いずこへゆくにや無蓋の貨車の上にキャタピラ壊れし黄褐色の戦車一台乗れり。この戦車、戦いしか否か。おそらくまだ戦いたることなき戦車ならん。鉄鋼雨に暗く濡れ、さびしく冷たき姿なり。子を背負いたる女、労働者、少年、農夫、光る眼にてこの兵を見、またこの戦車を見る。
山田風太郎 『新装版 戦中派不戦日記』 講談社文庫 2002 454~465ページ
当時は東京医専の学生だった山田風太郎の昭和20年8月31日の日記である。
ポツダム宣言受諾により、つまり大東亜戦争は負け戦として「終戦」を迎えたわけである。敗戦というそれまで経験しなかった現実を前にして、ハンス・カロッサの書き残した(第一次世界大戦での)敗戦後ドイツの姿を参照しながら、若き山田風太郎は、自らと故国の行く末に思いを馳せているわけである。ここにカロッサが登場するところに、当時の医学生の知的生活の一端を見ることが出来るだろう。
後半の情景は疎開先の飯田の駅での見聞だ。目につくようになってきた復員兵の姿の中に、「八十年、日本国民が血と涙しぼりて作りあげし大陸軍、大海軍の凄まじき崩壊」を見ているのである。
あらためて気付くことのひとつは、昭和20年と今年の日付と曜日が一緒だということである。平成24(2012)年の今日、8月31日が金曜であるのと同様に、昭和20(1945)年の8月31日も金曜だったのだ。もう少し早く気付いていれば、今年の夏の読書にもより味わいが増したであろうにと思うと、いささか残念なところではある。
山田風太郎の日記の後半部の復員兵のエピソードであるが、同じ8月31日の海野十三の日記にも、同様な姿が描かれている。
〇復員兵が厖大なる物資を担って町に氾らんしている。いやですねえという話。それをきいた私も、大いにいやな気がした。しかし今日町に出て、実際にそれを見たところ、ふしぎにいやな感じがしなかった。しなかったばかりか、気の毒になって涙が出てしようがなかった。十八歳ぐらいの子供のような水兵さん、三十何歳かの青髯のおっさん一等兵、全く御苦労さま、つらいことだったでしょうと肩へ手をかけてあげたい気持がした。
海野十三 『海野十三敗戦日記』 中公文庫 2005 131ページ
若い山田風太郎のどこか他人事めいた視線に対し、40代後半の家族持ちであった海野が復員兵に抱いた共感を含む気持ちの間には、両者の性格の問題とは別に、既に山田の二倍の齢を重ねている海野の人生の時間があるだろう。もちろんそれは、どちらの感懐が正しいのか?という問題ではなく、それぞれの感懐をどのように読み取ろうとするのか?の問題である。
とりあえず、戦争は終わった。それが「玉音放送」から二週間が過ぎた昭和20年8月31日の実感であろうか?
――しかし、はじまるならばこれからである。あさっての東京湾に於ける降伏調印がその序幕となるのである。(山田風太郎)
日本人が「戦後」の日々を現実として味わうのは、むしろこれからなのである。
「終戦後の日々」は、軍が崩壊し戦争が終わった後の日々であり、確かにそこには平和があったが、それは「敗戦後の日々」であり「占領下の日々」を意味するものでもあった。その意味を、戦後の日本人はどこまで深く考えたのか?
(オリジナルは、投稿日時 : 2012/08/31 21:25 → http://www.freeml.com/bl/316274/195858/)
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