もう耳にタコが出来るほど何度も聞いた,実にくだらない改憲論の理屈です。
既に,多くの良心的な論客によって論破されている論点ではあります。いまさら取り上げる必要もないかもしれません。
しかし,池田香代子さんのお話を聞いて,刺激を受け,是非,多くの人に誤りを知っていただく必要があるな,と思いました。
そこで,ここに書きとどめておくことにします。
「戦後日本の枠組みは,憲法はもちろん,教育方針の根幹である教育基本法まで,占領時代につくられた」こうして,あらためて引用してみると,その不勉強さに呆れてしまいますが,その点はさて置いて,この文中の
「国の骨格は,日本国民自らの手で,白地からつくりださなければならない。そうしてこそはじめて,真の独立が回復できる。」
「まさに憲法の改正こそが,『独立の回復』の象徴であり,具体的な手だて」
「白地からつくる」
という部分は,膨大な過去の歴史と教訓を踏まえない,という意味でしょうか。
そうであれば,学習能力ゼロということで,著しいナンセンスとしか言いようがありません。まさか,そういう意味でないでしょう。
ここは,「日本国民自らの手で」作るというところに重点があるんでしょうね。
そうだとすると,もともと,日本国憲法は,名実ともに日本人の手で作られているのだから,改正する必要はありません。
ついては,この日本国憲法が,純和製である(made in japan)ことを,あらためて確認しておきたいと思います。
(→国会図書館のHP「日本国憲法の誕生」を参考)
憲法問題調査委員会(松本委員会)が改正案を提出
↓
GHQがこれを拒否し,GHQ草案を提示
↓
これに基づいて再度,憲法問題調査委員会が起草
↓
帝国議会での審議を経て,1946年11月3日に公布
こういう経過から,結局GHQが作ったのではないか,といわれています。
確かに,松本委員会の当初の改正案は,明治憲法の焼き直しで,とうてい受け入れられる代物ではありませんでした。
(仮に,この改正案が通っていたならば,今ごろ,私たち市民が「政府の押し付けだ」と主張していたことでしょう。)
では,これに対抗するGHQ案は,GHQオリジナルか?
違います。そうではありません。
GHQ案の基になった原案は日本人の民間案だったのです。
当時,民間から出された改正案は,実にたくさんありました。
(→HPで一覧を確認できます)
市民レベルも含めた憲法論議が活発化していたことを示す事実です。
そのうちの一つである,鈴木安蔵らの憲法研究会「憲法草案要綱」(1945年12月26日発表)が,間違いなくわが日本国憲法の叩き台です。
ちょっと,その案の一部を見てみましょう
(→解説HPはこちら)(→全文はこちら)
(分かりやすく,ひらがなに変換しておきました)
一、日本国の統治権は日本国民より発す
一、天皇は国民の委任により専ら国家的儀礼を司る
一、国民は法律の前に平等にして出生又は身分に基く一切の差別は之を廃止す
一、国民の言論学術芸術宗教の自由に妨げる如何なる法令をも発布するを得ず
一、国民は拷問を加えらるることなし
一、国民は健康にして文化的水準の生活を営む権利を有す
一、男女は公的並私的に完全に平等の権利を享有す
現行の日本国憲法の内容とそっくりそのままですよね。
さらに,もうちょっとさかのぼりましょう。
日本が明治憲法を制定・公布したのが,1889年(明治22年)2月11日です。
現行憲法ができる57年前のことです。
このときにも,数多くのリベラルな憲法案が公表されました。
(→一覧はこちら)
このうちの,1881(明治14)年に植木枝盛が発表した「東洋大日本国国憲法」が,現行憲法,あるいは,憲法研究会「憲法草案要綱」のタネになっているのです。
これも,条文を見て頂ければ,現行憲法の内容とそっくりであることがすぐに分かるでしょう。
一部を引用します。読みやすいように,ひらがなに変換しておきます。
(→HPはこちら)
第四十二条 日本の人民は法律上に於て平等となすつまり,今から約130年ぐらい前から,現行憲法の趣旨は,この日本に生まれていたということになるわけです。
第四十三条 日本の人民は法律の外に於て自由権利を犯されざるべし
第四十六条 日本の人民は法律の外に於て何等の刑罰をも科せられざるべし
第四十八条 日本人民は拷問を加へらることなし
第四十九条 日本人民は思想の自由を有す
第五十条 日本人民は如何なる宗教を信ずるも自由なり
第五十一条 日本人民は言語を述ぶるの自由権を有す
第五十二条 日本人民は議論を演ぶるの自由権を有す
第五十三条 日本人民は言語を筆記し板行して之を世に公けにするの権を有す
第五十四条 日本人民は自由に集会するの権を有す
第五十五条 日本人民は自由に結社するの権を有す
第五十九条 日本人民は何等の教授をなし何等の学をなすも自由とす
第六十二条 日本人民は信書の秘密を犯されざるべし
第六十五条 日本人民は諸財産を自由にするの権あり
第六十七条 日本人民は正当の報償なくして所有を公用とせらるることなし
第七十五条 皇帝は国政の為に責に任ぜず
この植木枝盛の憲法案と現行憲法との符合については,池田香代子さんの講演で,初めて知りました。素直に,ちょっとした驚きでした。
むしろ,このプリミティブな明治時代の「白紙」からのスタートした時代の方が,
「法の支配」や「立憲主義」
を正しく理解できていたのかも知れないな,と感じました。
さらに,さらに,戦争放棄・戦力不保持の条項については,当時の幣原喜重郎首相の意思に基づいて設けられたものである,ということは,既に常識的に知られていることではないかと思います。
たとえば,「米軍軍事・外交合同聴聞会記録」(1951.5.5)では,マッカーサーが次のように発言したとされています。
「内閣総理大臣幣原氏が私のところにやってきて,こういったのです。『私は長い間熟慮し、信じてきたことがあります』と。幣原氏は大変賢明な老人で、最近亡くなられたのですが,彼は『これは、長い間熟慮し、信じてきたことなのですが、この問題を解決する唯一の方法は、戦争をなくすことです』といいました。」
「彼はいいました。そして『私は,現在起草している憲法の中にそのような規定を入れるように努力したいのです』と言ったのです。私はこれを聞いて思わず立ち上がり、この老人の両手を握って、これこそ取られうる最も建設的な道の一つだと思う、と言いました。そうしないではいられなかったのです。」
「私は彼を励まし、彼らはこの条項を自らの憲法に書き込むことになったのであります。そして、その憲法の中に何か一つでも日本の民衆の一般的な感情に訴える条項があるとすれば、それはやはりこの条項でした。」
幣原首相自身も,国会で次のように発言しています(1946.8.27貴族院本会議)。
(分かりやすいように一部口語化しています)
「実際この改正案の第九条は戦争の放棄を宣言し、わが国が世界中で最も徹底的な平和運動の先頭に立って指導的地位を占むることを示すものであります。
今日の時勢になお国際関係を律する一つの原則として、ある範囲内の武力制裁を合理化、合法化せむとするがごときは、過去における幾多の失敗を繰り返すゆえんでありまして、もはや我が国の学ぶべきことではありませぬ。
文明と戦争とは結局両立し得ないものであります。文明が速やかに戦争を全滅しなければ、戦争が先ず文明を全滅することになるでありましょう。
私はかような信念を持ってこの憲法改正案の起草の議にあずかったのであります。」
後の1956年に自民党単独による憲法調査会が設置され,その調査会長となった高柳賢三東大教授も「天皇・憲法第九条」の中で
「憲法9条は(中略)調査会の集めたすべての証拠を総合的に熟視してみて、私は幣原首相の提案とみるのが正しいのではないかという結論に達している」と断じているところです。
ところで、当時、南原繁氏が総長であった東大(東京帝国大学)では,「憲法研究委員会」(委員長:宮沢俊義)を結成し,新憲法案を検討していました。
この「東大憲法研究委員会報告書」では,政府案を受けて、次のような意見を表明していました。
(→原文はこちら)
第9条は日本国の世界政策の根本理念を表明するものであるから,これを「総則」に編入し,第2条とするのが適当である。その場合,その表現も日本国の平和主義的理想を積極的に表明するやうな簡潔なものに改める。
「第2条 日本国は,国際紛争の解決の手段として,国家主権の発動たる戦争によることを否認すべしとする世界普遍の主義に従ひ,国策の具としての武力
の行使又は威嚇を永久に抛棄し,国家が陸海空軍を保持する現代の制度を廃棄する」
このように,日本国憲法の中身は,古くからの日本人の英知と,当時の日本の市民の良識が源泉になっているのであり,内容については,和製そのものといわなければなりません。
そもそも,日本国憲法の制定手続は,当時の明治憲法の改正の手続きに沿って行われており,また,国会審議は,日本人の手で進められたのであって,形式的な手続きも,適法に進められました。
すなわち,名・実ともに,メイドインジャパンなのです。
どうしてこれが押し付け憲法になるのか。
それは,この憲法を押し付けられて,不自由な思いをする人たちが,気に入らないからでしょう。
憲法で縛られて不自由になる人は誰でしょうか?
それは,権力者(=政府)です。
政府が「押し付けだ!」と言っているということは,憲法が正しく機能していることにほかならないので,とてもよいことだと言えるでしょう。
(※コメント欄でいただいた情報を付け足して記事をアップし直しました)
(司法が関与できない中で)不公正なやり方で国民投票法によって憲法が変えられることがあっては断じてなりません。この観点からは「憲法の番人」である司法権の立場も極めて重要です。
例えば、19世紀のイギリスによる植民地政策は確かに良くないのですが、インドで当然のように行われていた寡婦殉死(名称間違ってたらごめんなさい)は、植民地によって持ち込まれた人権概念によって無くなる方向に向かった、というような話を聞いたことがあります。これも一種の押しつけみたいなもんですが、人権の向上に一役買ったと言えます。
明治時代、欧米列強に植民地化されていく中国を見て、慌てて欧米のものを取り込んでいった…押しつけではありませんが、周囲の状況により半ば強制的みたいなところありますよね。その結果、日本は植民地にされず済んだ経緯があり、一概に「押しつけ=悪い」ということでもないのかな?と。間違っていたらすみません。
私の場合は、日ごろの憂さ晴らしに、独り言を書いてる程度で、ココを訪れると、頭が下がります。
TVや新聞の世界だと、憂鬱にもなりますが、ネットの世界だと、そうでもなくて、実は、似たような事を考えている人も、この国には沢山居るのだと、安心したりもします。
司法のことはさっぱりなので、こちらで、少しずつ、勉強させていただきます。
憲法誕生のことは高橋哲也の講演で、南原繁の話を教えられました。いつものようにふざけたエントリーですが、TBさせていただきます。前文を読むと感動のあまり涙が溢れるワタシとしては、誰がつくったなんて、ほんとうはどうでも良いのですが……
ですから,みなさんから,いろいろヒントや情報をご教示いただけると,私もたいへんありがたいです。
南原教授についても,詳しくはよく知りませんけれども,戦後すぐの東大の総長で,真の教育基本法を創った功績者(中心役)のひとりということですよね。
南原総長は,教育基本法の制定について,
◆「一度も総司令部から指令や強制を受けたことはなかった。」
◆「すべてはわれわれの自由の討議によって決定した」
◆「今後、いかなる反動の嵐の時代が訪れようとも、何人も教育基本法の精神を根本的に書き換えることはできないであろう。なぜならば、それは真理であり、これを否定するのは歴史の流れをせき止めようとするに等しい」
などと語っていたということは聞き及んでいます。
その言葉どおり,教育基本法の精神は,根本的には変わっていない,という考え方を信念として置いておきたいところです。
また,東大では,「憲法研究委員会」(委員長:宮沢俊義)を結成して,新憲法案を検討していたということですね。
→http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/002_1shoshi.html
この「東大憲法研究委員会報告書」には,次のような下りがありますね。
とても参考になります。
<以下引用>
第1条は「日本国は国民の至高の総意にもとづき天皇を以てその統一の象徴とする民主平和国家である」というやうに改める。
第9条は日本国の世界政策の根本理念を表明するものであるから,これを「総則」に編入し,第2条とするのが適当である。その場合,その表現も日本国の
平和主義的理想を積極的に表明するやうな簡潔なものに改める。
「第2条 日本国は,国際紛争の解決の手段として,国家主権の発動たる戦争によることを否認すべしとする世界普遍の主義に従ひ,国策の具としての武力
の行使又は威嚇を永久に抛棄し,国家が陸海空軍を保持する現代の制度を廃棄する」
う~ん,見事だ。さすがだ。
すみません,TBできませんでしたか。やっぱりなんかおかしいんですね。
国民投票法案が通ってしまいそうですが,その前に何とか憲法の大切さを伝えたいです。
>キャンディレインさん
おっしゃるとおり。ようは「中身」ですよね。よい内容なら,いいじゃんか,というのが私の本音。
>fakezeusさん
どうもありがとうございます。今後もよろしくお願いします。司法とか,法律とかいうと,すぐに難しく受け取られがちなので,できるだけ分かりやすく伝えたいというのが私の思いです。言いたいことを言っていきましょう。
>dr.stonefly さん
南原教授について,良い情報を示唆頂いてありがとうございます。
この件は,続編として,もう一度記事にエントリーしようと思います。
モノを知らないって、ホントに恐ろしいことですね。先日の施政方針演説でも、ナイカクソウリダイジンって人がコッカイでいう国権の最高機関の場で無知をさらけ出して、日本中、世界中に大恥をさらして、しかもそのことを自覚してないんですから。
もっと勉強しなければ・・・。
自定憲法という言質は理解しますが、一般化した認識は、押し付けということになるでしょう。
単なる改憲派の大儀になっている「押し付け論」ですが、9条の精神性の解釈論に問題を見るべきではないでしょうか?
押し付け論として主体的に見解が述べられている9条が日本独自であるという主張の一方で、不戦条約を踏襲している部分は否めません。不戦条約(ケロッグ・ブリアン協定)
マクロにみれば、日本国憲法は「押し付け」だと思えませんが、ミクロで視座として取り上げられる部分としての9条は借り物という指摘も可能だと思います。
アメリカの押し付けというよりもオリジナルではない、という主張に関しては肯定する立場ですがね。
右派の私からすれば、日本国憲法が「押し付け」か「自主憲法」かは、正直どうでもいい話です。
重要なのは、条文の目的と実行したときに生じうる事象に検証なのであって、9条に限らず、あらゆる条項に関して、「これで十分か」「この規定で逆に幸福が減退しないか」といったことを考え直し、直すべきは直せばいいと思います。(直さなくてもいいようなところは直さなくてもいいが)
ただ、肝心なのは「現実を憲法に合わせるようにすべきだ」という護憲派の見解については、もっと自分の言葉に責任を持つべきです。
安全保障の問題について、日本単独でできるのであれば、そういう言葉でもいいのでしょうが、国際関係は相手があることです。そういう主張をしたいのであれば、その主張の実現性とその具体的な根拠(証拠)を提示してから述べるべきでしょう。
非常に単純な話ですが、「自主憲法」に価値を置かない右派の戯言ですので、カンタンに流してください。(笑)
まさに鈴木安蔵の映画が製作中のようです!
http://www.cinema-indies.co.jp/aozora/
製作協力呼びかけ中です
私も応援中です!
とてもピッタリの情報をどうもありがとうございます。
「日本の青空」というタイトルですね。
こんな映画が製作中だと聞いて、元気が出ました。私も応援したいと思います。
> pochi さん
おっしゃるとおりで、私としても、是非、代議士の方々には、いろんな意味で勉強をしてもらいたいと思います。
まあ、勉強はしているんでしょうけれども、なんというか、実学ばかりではなく、原理・原則を押さえていただきたいということです。
>冥王星さん
まあ、「押し付けかどうか」というよりも「オリジナルかどうか」というのが、おっしゃるとおり大切な問題でしょう。
憲法も歴史から孤立したものではないので、歴史や世界情勢の影響は、どうしても受けるでしょう。それが、どこの国のものであれ「憲法」というものの宿命でしょうけれども。
>wakuwaku_44さん
右派・左派問わず(なお、私は、極右も極左も嫌いですが)、ご指摘の通り、常に「これで十分か」という視点を持つことは、重要な姿勢だと思います。
現実的にどうするのか、というのは、これまた右派・左派問わず、常に念頭に置くべき事柄だと思います。
理想派か現実派か、という意味では、やはり現実派でないといけないと思います。(理想派=左派、現実派=右派、という図式は、よくそのように言われますが、それは誤りだと思いますが)。
アメリカの監視下で、アメリカ人とアメリカの言うことの聞く左派・リベラル日本人がつくっただけのこと。
強制の事実を認めない態度は日韓併合は韓国が望んだという主張とそっくりで、欺瞞だと感じます。
憲法制定時の資料です。
押し付けかどうか?
はい・いいえですね。
1 GHQに日本案は拒否されていてGHQ案が採用されたので、押し付けともいえなくはないです。
でも憲法は性格上、政府でなく市民のもので、市民の声が作るものです。政府案は拒まれるのもあるかと思います。アメリカ憲法も政府が作ったものではありません。
2 市民・政党からさまざまな案が出されています。
これがGHQに採用されていれば市民の声といえるかと思うんです。
でもGHQ案に取り入れられたということだそうなので、少し微妙・・。
原案がどの程度いかされたのか、その声は市民がどの程度望んだのかがよくわかりません。
どうなんでしょう?
3 市民の声とかでなく、占領下だからという考えもありますね。
占領下でも市民の声なら、(政府の声でない)有効かどうかですね。
有効なら押し付けかどうかあまり問題ではない気がします。市民が承認したんだから。
占領下で、市民が承認してない無効となれば、改憲・護憲は無意味ですよね。憲法そのものが無効だから、改憲しようがないので。
現実論で、仮に無効が正当だとしても、無効にすると、いままでの60年がひっくり返り世の中大混乱になる不安があります。
現実的には、今の憲法の今までの有効性は認めたほうが無難じゃないかと思うんですけど?
まず認めて、改憲・護憲はそれからかも?
資料によると
9条も紆余曲折ありましたが、制定者の意図は、自衛は認めるという事に落ち着いたようです。条文は各政治的配慮でああなりましたが、本質は自衛のみ認めるだそうです。
何度かトラックバックさせていただきましたが、通らないか、若しくは許可されないようなのでコメントさせていただきます。
今回の記事を読んで、まさしく岸田秀が指摘した「自己欺瞞」の典型ではないかと思いました。
そのことについて、岸田秀の主張を紹介した拙記事のリンクを貼らせていただきます。
・平和主義の欺瞞【その4】~押しつけられた平和主義は平和の敵~
http://yamamoto8hei.blog37.fc2.com/blog-entry-226.html
岸田秀は、「護憲派」の平和運動が空虚なのは、押し付けられた「結果」だと主張していますが、私もまさにそのとおりだと思います。
いい加減、自己欺瞞をやめないと、いずれ護憲派の平和活動のメッキがはがれて来るのではないかと思いますが…。
(というか、もう剥げつつありますが…)
「現行憲法」と「自民の憲法草案」って
言ってみれば
「アメリカ人の作ったハンバーガー」
と
「日本人が排泄した下痢便」
ですよ
片方はちゃんと食い物で
片方は日本人が生産していても食い物じゃない
「日本人が作ったのであればどんなにひどい内容でもいい」
ってのは
下痢便食べたい人だけでやっててくださいって話です
制定過程が国民に知らされない憲法は果たした国民によって作られたものと言えるのでしょうか?
また、現在の憲法は抽象的すぎる規定が多すぎて、司法の裁量が多すぎる気がします。
最高裁の憲法解釈を国民が否定する場合には辻褄としては憲法の改正を必要とするわけでしょう。
そもそも大日本帝国憲法の全文改定なんてものが根拠を持つために八月革命なんてものを持ってこなくてはいけないので、次の改訂する時も革命したことにすればいいのではないでしょうか。
ただ改正機会があったのにしなかったということは承認したともとれますし、憲法破棄は全く現実味がないですよね
改正条項によって改正されたならば問題はないでしょう。ただ、どこまで改正できるのか(憲法改正の限界)という問題は残りますが。
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