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日本国の肖像:その四 アフリカ諸国の独立

2007/07/07 08:00

 

 

 

 アフリカ一の大国であるナイジェリアは、1960(昭和三十五)年10月、イギリスによる長き植民地支配を脱し、独立を果たした。

 ナイジェリアにおいては、大学入試を受けるための資格として、「西アフリカ学校免状」もしくは「教育一般免状」のどちらかを取得しなければならないが、そのための必須教材として

  「ナイジェリア史入門書
  (Nigeria:An Introduction to its History)

を学ばねばならない。

 

そしてその書にはこうある。

 


 ・・・・第二次世界大戦に連合国の一員として従軍したナイジェリアの多数の兵士は、新しい思想を持ち帰った。


 まず第一に、多くの兵士は読み書きを教わり、あるいは仕事を教わった。

 

 第二に、白人が無敵ではないこと、たとえば極東のイギリス帝国における日本軍の占領をみてしまった。


 
第三に、インドで、兵士たちは強烈な民族主義感情と接触した。

 

 インドでは、アフリカ人よりもひどい生活をしている人々、そして独立が与えられる直前の人民を見た。


 それゆえに、多くの兵士たちが改革の思想をもってナイジェリアに帰ってきたのは、驚くべきことではなかった。


 基本的に、戦争は植民地権力の本質を問題にし、そして、白人優越の間違った思想を打ち壊してしまった。


 イギリスの敗北、特に日本軍による敗北は、植民地権力が無敵であるというイメージを弱めた。

 

 これらすべての諸要因が、植民地支配に対する民族主義的感情を昂揚させ、イギリス植民地政府のナイジェリア支配を弱めた

                                                                                                                                           (下線nobby)

 


 
これこそ、日本が戦った大東亜戦争に対する「遠方からの正当評価」というべきである。

 

 



 実はこのナイジェリア歴史教科書に記述された日本と大東亜戦争に対する評価が、ひとりナイジェリアのみならず、他のアフリカ諸国にも通じるものであることを、じつはあの?朝日新聞の特派員が、かつてレポートしていたのである。



 「日本軍は、なぜ南アフリカを攻めなかったのか。インド洋をあと3500マイル進めば南アフリカを占領し、黒人を解放できたんだ。」

 

 


 「いまからだって日本は南アフリカを攻略できるだろう。やる気はないのか。」


 


 これは、南アフリカ共和国のソエトで、朝日新聞記者の伊藤正孝氏の会った黒人男性が、伊藤氏を日本人と知って語りかけてきた言葉だという(伊藤正孝「南ア共和国の内幕」中公新書

 

 


 伊藤氏はこう続ける。

 


 ”真珠湾攻撃をした南雲艦隊が、インド洋をまわって英国東洋艦隊を撃破したときのことを彼が言っているのは明らかだった。


 そのころ日本の潜水艦がダーバン、ケープタウン沖に出没し、白人社会を震え上がらせた。


 ダーバンのタイヤ輸入商が私に、


 「あのとき日本の機動艦隊が南アを目指していると思った。 南ア政府は人種差別をやめようと考えたほどだ。」

といったことがある。”

 ここで朝日新聞の伊藤特派員が伝える南アフリカに生きる黒人たちの生の声は、実に重い意味をもっている。


 大東亜戦争がアフリカにまで拡大すれば「黒人を開放できた」し、あの日本の強力な機動部隊が南アを目指していると思っただけで、南ア政府は「人種差別政策をゆるめようと考えた」と、少なくとも「思っている」南ア人が存在することを証言しているのである。

 



 伊藤特派員の現地報告を裏付けるのが、ASEANセンターの中島慎三郎代表がインドネシアのバンドンで体験した南アのネルソン・マンデラ一行との大東亜戦争に関する対話だ。



  ”マンデラ使節団のメンバーの華僑が、我々に「華僑か?」と聞くので「我々は日本人だ。」とインドネシア語と英語で答えたら、使節団のインドネシア人とマレー人は非常に喜んで、日露戦争と大東亜戦争を礼賛した

 



 「日本軍がインド洋を越え、エジプトまで来てくれていたら、南アは10年早く1950年ごろには独立していたに違いない。」と口々に言うので本当に驚いた。

 

 また「日本軍は大東亜戦争を途中で止めたから怪しからん。」と微笑を浮かべて力説する男がいた。”

 



 (マンデラ氏の側近は、

 

 

  「マンデラ氏も我々と同意見である。マンデラ氏は、

  『日露戦争の日本、大東亜戦争の日本、援助する日本、工業の日本に感動した。

 

 日本に行きたい。

 

 天皇陛下にお会いしたい。』

  と、毎日語っている。」

 

 

 と説明してくれた。”

 

 



 日本人の多くは気がついていなかったが、大東亜戦争の波は、確実にアフリカにまで届いていたのである。





(参考文献)

名越二荒之助「昭和の戦争記念館第四巻」展転社

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