アフリカ一の大国であるナイジェリアは、1960(昭和三十五)年10月、イギリスによる長き植民地支配を脱し、独立を果たした。
ナイジェリアにおいては、大学入試を受けるための資格として、「西アフリカ学校免状」もしくは「教育一般免状」のどちらかを取得しなければならないが、そのための必須教材として
を学ばねばならない。
そしてその書にはこうある。
まず第一に、多くの兵士は読み書きを教わり、あるいは仕事を教わった。
第二に、白人が無敵ではないこと、たとえば極東のイギリス帝国における日本軍の占領をみてしまった。
第三に、インドで、兵士たちは強烈な民族主義感情と接触した。
それゆえに、多くの兵士たちが改革の思想をもってナイジェリアに帰ってきたのは、驚くべきことではなかった。
基本的に、戦争は植民地権力の本質を問題にし、そして、白人優越の間違った思想を打ち壊してしまった。
イギリスの敗北、特に日本軍による敗北は、植民地権力が無敵であるというイメージを弱めた。
実はこのナイジェリア歴史教科書に記述された日本と大東亜戦争に対する評価が、ひとりナイジェリアのみならず、他のアフリカ諸国にも通じるものであることを、じつはあの?朝日新聞の特派員が、かつてレポートしていたのである。
そのころ日本の潜水艦がダーバン、ケープタウン沖に出没し、白人社会を震え上がらせた。
ダーバンのタイヤ輸入商が私に、
といったことがある。”
ここで朝日新聞の伊藤特派員が伝える南アフリカに生きる黒人たちの生の声は、実に重い意味をもっている。
大東亜戦争がアフリカにまで拡大すれば「黒人を開放できた」し、あの日本の強力な機動部隊が南アを目指していると思っただけで、南ア政府は「人種差別政策をゆるめようと考えた」と、少なくとも「思っている」南ア人が存在することを証言しているのである。
伊藤特派員の現地報告を裏付けるのが、ASEANセンターの中島慎三郎代表がインドネシアのバンドンで体験した南アのネルソン・マンデラ一行との大東亜戦争に関する対話だ。
また、「日本軍は大東亜戦争を途中で止めたから怪しからん。」と微笑を浮かべて力説する男がいた。”
日本人の多くは気がついていなかったが、大東亜戦争の波は、確実にアフリカにまで届いていたのである。
(参考文献)
名越二荒之助「昭和の戦争記念館第四巻」展転社
他
by nobby
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