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南アフリカ マンデラ元大統領が死去
12月6日 11時2分

南アフリカ マンデラ元大統領が死去
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南アフリカでアパルトヘイト=人種隔離政策の撤廃運動を指導し、ノーベル平和賞を受賞したネルソン・マンデラ元大統領が5日、死去しました。
95歳でした。

南アフリカのズマ大統領は、日本時間の午前7時前、テレビを通じ、マンデラ元大統領が現地時間の5日午後8時50分、日本時間の6日午前3時50分に家族に見守られながら亡くなったことを明らかにしました。
ズマ大統領は、「われらが愛すべきネルソン・マンデラは旅立ち安らかに眠りについた。自由を求める彼の不断の闘いは世界の尊敬を集めた。いつかはこの日が来ることを分かってはいたが、この大きな喪失感が消えることはない」と述べて悲しみをあらわにしました。
そのうえで、マンデラ元大統領の葬儀を国葬にすると発表しました。
そして、国全体で哀悼の意を表するため、6日から半旗を掲げるよう国民に呼びかけました。
マンデラ氏は、1918年、イギリスの支配下にあった南アフリカに生まれ、大学在学中から、白人政権の下で行われていたアパルトヘイトの撤廃運動に取り組みました。
1962年に逮捕され、国家反逆罪で終身刑を受けましたが、獄中からも黒人解放を訴え続け、「不屈の闘士」として、世界中から尊敬を集めました。
釈放後は、白人政権との対話によって人種隔離政策の法律をすべて撤廃し、1993年、その功績が認められ、ノーベル平和賞を受賞しました。
1994年には、初めてすべての人種が参加した選挙を経て黒人として初の大統領に就任し、異なる人種間の融和と民主化に努めました。
マンデラ氏は、2010年のサッカーのワールドカップ南アフリカ大会の閉会式に出席したあとは公の場に姿を現すことはほとんどなく、ここ数年は肺の感染症などで入退院を繰り返していました。
ことし6月、肺の感染症が再発したため首都プレトリアの病院に入院したあと、9月に退院してヨハネスブルクの自宅で療養していました。

アパルトヘイトとは

アパルトヘイト=人種隔離政策は、かつて南アフリカ政府が推し進めた国家による人種差別で、少数の白人の既得権益を守るため政治や経済など、あらゆる分野で白人以外の人種を差別しました。
特に、オランダ系移民で作る国民党が1948年に政権をとってからアパルトヘイトは本格的に法制化され、白人だけに参政権が認められたのをはじめ、異なる人種どうしで結婚したりバスや公園で隣に座ったりすることも禁止されました。
1959年に定められた法律では、人口の大多数を占める黒人が「ホームランド」と名付けられた狭い地域に閉じ込められ、移動の自由を制限されました。
こうした差別に対する反対運動は次第に激しくなり、1960年にはデモの参加者に警察が発砲して69人が死亡した「シャープビル虐殺事件」が、また、1976年には教育現場の言葉をオランダ系移民の言葉に切り替えることに反対する黒人の学生のデモを警察が武力で鎮圧して100人以上が死亡した「ソウェト蜂起」が起きました。
国際社会でも南アフリカへの批判が高まり、1980年代には欧米諸国が経済制裁を発動してアパルトヘイトをやめるよう圧力を強めると、南アフリカの経済は次第に悪化しました。
1989年、黒人との融和路線を打ち出して政権についた当時のデクラーク大統領は、1991年6月、差別的な法律をすべて廃止しアパルトヘイトは撤廃されました。
日本も、アパルトヘイトに反対する立場から南アフリカに対する投資や一部の製品の輸出入を規制していましたが、1987年には南アフリカとの貿易額が一時、世界で最も多くなり、国際社会から「日本の規制は形ばかりだ」などと批判されました。

日本を3回訪問

マンデラ氏は、生前3回、日本を訪れています。
1回目は1990年10月。
27年余りに及ぶ服役の末に釈放されて、8か月後のことでした。
このときはまだ大統領に選ばれる前で、黒人解放闘争を進めていたANC=アフリカ民族会議の副議長という立場でしたが、日本政府の招待に応じて、当時の海部総理大臣をはじめ与野党の代表などと会談したほか国会でも演説し、アパルトヘイト=人種隔離政策の廃止に向けた日本の支援を呼びかけました。
また、大阪で行われた集会には、およそ3万人の市民が集まり、日本でもマンデラ氏を支持する声が幅広い層に広がり、反アパルトヘイト運動が盛り上がりました。
2回目の来日は1991年4月、国際新聞編集者協会の総会に招かれました。
3回目の来日は、アパルトヘイト撤廃後、マンデラ氏が大統領に就任した翌年の1995年7月でした。
このときは、国賓として招かれ、天皇皇后両陛下と会見したほか、当時の村山総理大臣と会談し、アパルトヘイト後の新しい国づくりに対する日本の支援について、感謝の言葉を述べました。

マンデラ財団「日本の人たちに感謝」

南アフリカでマンデラ氏に関する記録の保存と継承活動を行っているマンデラ財団のセロ・ハタングさんは、「マンデラ氏の体調が悪化した時に祈ってくれた日本の人たちに感謝したい。マンデラ氏が残した遺産は普遍的であり、単に南アフリカだけのものにとどまらない。次の世代に受け継がれる新たな遺産として築いていかなければならない」と話していました。

南アフリカ、マンデラ後の課題

アパルトヘイト=人種隔離政策が廃止された南アフリカでは、人種差別的な制度はなくなりましたが、黒人の間で貧富の差が広がるなど新たな課題に直面しています。
金やプラチナなどの天然資源に恵まれアフリカで最も経済規模の大きい南アフリカは、アパルトヘイトの廃止後、経済制裁が解除されると海外からの投資が戻り、今や、中国やインドなどとともにBRICS=新興5か国の一角を占めるまで成長を遂げました。
2010年には、アフリカで初めてとなるサッカーのワールドカップの開催にもこぎつけ、成長市場として変わりつつあるアフリカの姿を世界にアピールしました。
国際社会から批判を浴びてきた差別的な制度がなくなり、すべての機会は国民に平等に与えられるはずでした。
しかし、人口の8割を占める黒人は、アパルトヘイト時代、教育を十分に受けられなかったことなどから所得の高い仕事に就く機会は限られ、2011年の国勢調査では、黒人の所得は白人の6分の1しかありません。
高等教育を受ける人は未だに少なく、高校を卒業する人の割合は白人の36%に対して黒人は8%にとどまっています。
こうした状況を受けて、南アフリカ政府は、企業に一定の割合で黒人の雇用を義務づけるなど優遇策を押し進め、ブラック・ダイヤモンドと呼ばれる黒人の中間層が出現することになりましたが、その一方で、黒人の間でも貧富の差が拡大しました。
こうした不満は、低賃金の労働者によるストライキやデモといった形で各地で噴出し、去年8月には、賃上げを求める鉱山労働者のデモに対して警察が発砲し34人が死亡しました。
また、かつてマンデラ元大統領が率いた与党のANC=アフリカ民族会議は、20年余りにわたって政権を担うなかで縁故主義が横行し汚職がまん延しているとして、国民の批判は年々高まっています。
マンデラ元大統領が生涯をかけて追い求めた「すべての人々に平等の機会が与えられる民主的で自由な社会」をどう実現するのか、南アフリカは大きな課題を突きつけられています。

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