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海辺の記憶 南三陸・志津川 生糸と銀ザケ、発展の礎

1960年のチリ地震津波で大きな被害を出した志津川。防潮堤整備や土地区画整理事業で復興が進められた=64年

<宿場町が始まり>
 宮城県南三陸町の中心部、志津川は志津川湾に3本の川が注ぐ低地に形成された。東日本大震災の津波は川を逆流し、300年余を費やして築かれた市街地をことごとく破壊した。
 「17世紀に気仙道の宿場町となり、周辺の農漁村から人が集まったのが志津川の街の始まり」。郷土史に詳しい町文化財保護委員の後藤一麿さん(65)が説明する。
 県北沿岸の本吉地方に貴族の荘園「本良庄(本吉荘)」が開かれた平安期、奥州藤原氏も金や水産物の供給拠点としてこの地方を重要視した。3代秀衡の四男が「本吉冠者」を名乗り、志津川の朝日館に拠点を置いた説も残る。
 市街地エリアはもともと海や湿地帯だった。住民の多くは金山のある山間部か、海岸近くの丘陵地帯に暮らしていた。後藤さんは「藩制期に町割りされた五日町と十日町から海側は、明治以降の人口増に伴い埋め立てられた」と言う。
 本吉の金は藩制期に入ると枯渇した。志津川の西隣の入谷地区も斜陽の時代を迎え、入谷の農家山内甚之丞は養蚕や生糸の生産技術を導入し、成功させる。
 入谷は仙台藩の養蚕発祥の地となった。志津川を含む近隣一帯は、仙台平や京都の西陣織にも使われる良質の生糸の産地として息を吹き返す。

<一時は役所設置>
 明治に入ると、志津川の生糸生産者らは株式組織「旭製糸」を創設。国内初とも言われる米国式ボイラーを動力とした工場は、ピーク時には約450人が勤めた。1900年のパリ万国博覧会でグランプリを受賞するほどの品質で、国外に輸出もされた。
 生糸がもたらす経済力も背景に、一時は志津川に本吉郡役所が置かれた。だが昭和初めの恐慌で生糸は大打撃を被り、大火にも見舞われた。元志津川町教育長の阿部清敬さん(90)は「天然の良港を有し、早い時期に鉄道が敷かれた気仙沼や女川に比べ、志津川は発展が遅れた」と言う。
 志津川にも意地があった。1970年代に世界初の銀ザケ養殖が志津川湾で成功し、一躍脚光を浴びた。
 しかし銀ザケ養殖は海洋汚染をもたらし、経営破綻が相次いだ。資源回復と水揚げ量維持を図っているさなか、震災が起きた。
 後藤さんは「市街地も養殖も本来持つ実力以上に酷使した結果、今のようになった気がする。震災は人間に、暮らしのありよう自体を問うているのかもしれない」と語る。
   ◇
 親潮と黒潮が交錯する三陸漁場が眼前に広がる本吉地方は、岩手・平泉の中尊寺金色堂にも使われたという黄金の産地として平安の京都にまで名をはせた。金が枯れると、人々は海の恵みと住みよい平地を求めて徐々に低地へと降りていった。第6部は南三陸町から気仙沼市へ、本吉地方の海辺の記憶をたどる。(亀山貴裕)=第6部は6回続き

<メモ>銀ザケ養殖発祥の地の志津川湾では1977年までに、地元漁業者が養殖した銀ザケを企業や漁協が買い取る仕組みが出来上がった。ピークの85年は3000トン、25億円を水揚げ。生の餌による海洋汚染や価格低迷で衰退し、県内1位を宮城県女川町に譲った。2013年、旧志津川町では12経営体が銀ザケを営み、水揚げ高は約9億円。

◎志津川の関連年表

▽1153年   貴族の日記に「本良庄」の記載
▽1670年ごろ 五日町と十日町の町割りが行われる
▽1875年   志津川村、荒戸浜、清水浜が合併して本吉村に。95年志津川町となる
▽1955年   戸倉村、入谷村との3町村合併で新志津川町発足
▽1960年   チリ地震津波で41人死亡
▽1975年   志津川湾で銀ザケ養殖始まる
▽1977年   気仙沼線全線開通
▽2005年   歌津町との合併で南三陸町に


2013年11月08日金曜日

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