東日本大震災:宗教が果たした役割とは 不安な夜、頼り、支えられ
2013年11月21日
「なぜ弟が死ななきゃならないの」と、今でもつらさは残る。「信仰が揺らがなかったと言ったらうそになる」。それでも「死は誰にでも訪れるものであり、どう生きたかが大事だ」という庭野日鑛(にちこう)会長の法話に接し、少しずつ弟の死を受け入れられるようになった。家では外でのことを語らなかった弟だが、地域の人や同会会員が共に悲しんでくれ、「こんなことでお世話になった」と話してくれることが驚くほど多かった。「最近、弟ときょうだいでよかったなとつくづく思います」
ここに信仰の姿がある。頼り、支えられ、現実を受け入れ、生きる意味や目標を獲得する。被災者は宗教に何を求め、また宗教者はこの苦難にどのように向き合ったのだろうか。
「ながきは人の願いにて短きものは命なり」
津波が襲った巨大防潮堤の上で今年9月11日、鈴(れい)をつきながら和讃(わさん)(釈迦(しゃか)などをたたえ先祖を敬う歌)を唱える女性たちの姿があった。岩手県宮古市の田老(たろう)地区にある唯一の寺、曹洞宗常運寺の梅花講の人々だ。曹洞宗には詠歌・和讃を唱える講がある。唱える楽しさの中で信仰を学ぶ場だ。「津波があったからといって日常を変えたくない」と、月2回の練習に仮設住宅や自宅から通い、四十九日や一周忌など節目に防潮堤で唱えている。