西園寺宛て、原敬らの書簡類発見 長岡京、軍部動向など記す
明治から大正にかけて首相を2度務め、「最後の元老」と呼ばれた西園寺公望に宛てられた書簡類が、京都府長岡京市で新たに見つかった。伊藤博文や原敬ら首相経験者の手紙や、「政界の黒幕」と呼ばれた杉山茂丸が満州事変さなかの軍部の動向を知らせた文書があり、貴重な資料として研究者も注目している。
書簡類は西園寺の京都での居宅だった清風荘(京都市左京区)の執事を務めた神谷千二氏が西園寺死後に譲り受け、孫の厚生さん(75)=長岡京市=が保管していた。同市教育委員会の馬部隆弘主査が内容を確かめた。
原敬の手紙は1914(大正3)年5月の送付で、西園寺が病気を理由に立憲政友会の総裁職を辞任したいと申し出ていた時期にあたる。原は西園寺を慰留しており、書面でも「党ニかゝ(か)り大切之時機と相成り、決シテ楽観者之考居ル之実情ニ無之候ニ付」と党の先行きを案じている。
杉山茂丸は明治から昭和初期に政界の舞台裏で活動した人物。書簡は2通あり、差し出しはいずれも1931(昭和6)年9月に起きた柳条湖事件の直後だった。立命館大の創設者で西園寺の側近だった中川小十郎が受け取り、送り状を添えて転送したと見られる。
1通は暗号電文だったらしく、中川が解読し、英語で立命館大と印刷された用紙に書き写していた。軍関係者が国際連盟への対応を重視する政府に憤慨していることを伝え、当時の若槻礼次郎内閣を「コノ政府ニテハ、到底内外ノ時局ヲ処シ得ザルモノト思ヒマス」と批判している。
伊藤博文が明治中期に設置された法典調査会について西園寺とやりとりしたとみられる手紙や、桂太郎が自身の設立した東洋協会への寄付のあっせんを感謝した礼状、徳川家当主の徳川家達からの書簡もあった。西園寺が伊藤に宛てた手紙の下書きも見つかった。
馬部主査は「政界の裏側のやりとりや西園寺の幅広い交友関係がうかがえる」と話している。
来年1月7日から実物の一部や写真パネルを長岡京市立図書館で展示する予定。
【 2013年12月04日 09時04分 】