全国紙の家庭欄で紹介されていたくらいだから、戦前にはすでに朝鮮から焼肉らしき料理が輸入され、一定の認知度はあったのだろう。この一例だけ取ってみても、「戦前まで直火で肉を焼く習慣や内臓を食べる習慣がなかった」とは言えないことが判明した。
「店員が焼く」から「客が焼く」へ
さらに佐々木は、肉を焼く時の日本と韓国との違いに注目し、日本の焼肉屋の原形が1930年代中頃には確立されていたと推定する。
韓国式の焼肉を食べた経験がある人なら知っていると思うが、本場韓国では店員が客の目の前で肉を焼き、ハサミで切り分け、皿に盛る。客が自ら焼いて食べる日本式とは異なる。「店員が焼く」から「客が焼く」の変化が、韓国と日本の焼肉の流れを決定的に分けたことは間違いないだろう。
ただ、その時期については疑問が残る。佐々木は、変化を促した要因として1930年代に流行したジンギスカン鍋を挙げ、ジンギスカン鍋とカルビ焼屋が大阪に出現した時期から、1930年代中頃とはじき出している。
だが、ジンギスカン鍋に限らず、自分で調理して食べる鍋文化は日本にかねて存在している。同じ肉料理で言えば、すき焼きもそうだ。自然と、自分で焼くという形式に変わっていったと考えられなくもない。
戦後になると、まもなくして現在に続く「焼肉屋の元祖」と呼ばれる店が開業する。1946(昭和21)年に東京・新宿で開業した「明月館」、同年に東京で開業し、翌年に大阪の千日前に移転した「食道園」などだ。
『日本焼肉物語』(宮塚利雄著、光文社)では、1958(昭和33)年に「明月館」に入り、後に高級焼肉店「叙々苑」を創業した新井泰道のインタビューが掲載されている。ちなみに新井が「叙々苑」を創業したのは1976(昭和51)年。新井は創業まもなく、タン塩とレモンという、本場韓国にはない組み合わせを考案した人物でもある。
新井はインタビューに答え、「明月館」に勤め始めた時、<すでに今の焼肉屋と同じでした。ロース、カルビ、ミノ、それにセンマイしかなく・・・>と語っている。つまり、1950年代には確実に今のような形式の焼肉屋が登場していたのだ。
さらに注目すべきは、ロースやカルビとともに、ミノやセンマイといった内臓系も扱っていることだ。