鬼人










作者 七色カスガ






「アンタはひとでなしだっ!」

「だからなんだって言うんだ」

 一刀は冷笑した。激昂した四人はそれぞれ拳を握り締めていた。頭に血液が昇っていた。爆発する寸前だった。

 あからさまに唇を歪めて見せた。更に怒らすことはわかっていた。止められなかった。

「俺がひとでなしだったら何か問題でもあるのか?」

 捨てたものを思い出した。何かを捨てることにもうためらいはなかった。四人は憤怒の形相で訴えた。誇りを 傷つけられたと言っていた。

 誇りなど何の役に立つ――言ってやりたかった。言ってやった。拳が飛んできた。避けることなど考えなかった。考えられなかった。














 しゃらん、と鞘走りの音がした。

 太陽に照らされて刃が光った。一刀は目を細めた。赤門を前にして、兵たちに囲まれながら、フードを 被り直した。

 灼熱地獄のような暑さに辟易していた。苛立ちが増加している。焦燥が増加している。冷たい水が飲みたかった。 そんなものは山に戻らなければ飲めやしないとわかっている。来た道を戻りたくなってくる。だが、叶わない望みだ。

 剣を抜いた兵士は目の前で刀身を見ながら眉をしかめた。

「赤錆がある。これでは斬れんぞ」

「まいったな。まあ、滅多に使わない護身用の飾りだから良いんだが」

 手入れを怠ったせいか――それとも嘉陵江の水を知らず知らずに浴びてしまっていたのか、確かに兵士の 言うとおり、刀身は曇っており。赤錆がポツポツと数点あった。

 小さな舌打ちが漏れる。足止めを食っている場合じゃなかった。時間は刻々と迫っている。関所の検閲官になど 構っていられなかった。

「砥石を売ってやろうか?」

「気遣いには感謝するが、結構だよ」

「そう言うな」

 野太い腕が伸ばされる。肩が掴まれる。力強い膂力、肩が軋んだ。肩が悲鳴を上げた。口から声が漏れそうになるが、 すんでのところで押さえた。

 頭一つほど自分よりも大きな体。ニヤニヤと緩んだ口元。旅商人と名乗ったのがまずかったのか。いや、そんな ことはない。身なりはそれほど良いわけでもない。

 つまり、相手は選ばず搾取している。腹の中で煮えたぎる何か。熱く、怒りに拍車をかける。

「買えよ。砥石を」

「わっ、わかった。手を離してくれないか。このままじゃ財布も取れやしない」

 情けない声を上げた。兵は手を離した――その瞬間、一刀は左手で腰に刺した小剣を引き抜いて、掴まれていた手のひらを下から 突き上げるように突き刺した。

 男の顔が大きく歪んだ。驚愕と激痛――手を押さえ体がくの字に折れた。

「きっ、貴様――」

 男が何か言う前に手の中で小剣を反転させて柄を向けた。柄で顔面を殴打した。鼻っ柱がへし折れた小気味の いい音。笑ってしまいたくなる音。

 周囲を囲んでいた兵隊も顔色を変えた。一斉に手にしていた槍を構え。一刀を円状に囲んだ。表情は緊迫したものへ変化した。

「何を――っ!」

「ここをどこだとっ!」

 ざわめきが増した。人ごみが何事かと視線を向け始めた。背後で列を作っていた人々が顔を覗かせ 始めた。

 一刀は倒れた男の顔面を追撃して踏みつけた。太陽を恨めしく思いつつ、フードを脱ぐ。

「斬るより、殴ることにしてる。別に誰かに気を遣ってるわけじゃない。その方が俺はスカッとするからそうして いる。今踏みつけてるのは単なる嫌がらせた。俺は酷く性格が悪くなる時がある。悪癖だ。直さなければならない」

 兵たちは些か困惑しながら、一刀にジリジリと槍を近づける。

 一刀は槍には関心がないのか、踏みつけた男の頭をつま先で蹴り飛ばした。男の痛切な悲鳴が響いた。

 落ちた長剣を拾い上げ、這い蹲りながら頭を抑えて痛みに耐える男の喉元に近づける。男の視線が刃に集中する。恐怖に染まる瞳。

「こいつが警備隊長で、君らが部下の場合。俺は君らも罰しなければならない。君らもこの贈賄に携わって いると判断するからだ。いや、待て。これは越権になるか。今の発言はなかったことにしてくれ」

 訂正した。いつもの気分。いつもの厳然とした口調。もうする意味がなかった。癖になっていた。

「貴様――何者だっ!」

 お決まりの台詞だった。応えるのも馬鹿らしかった。

 しかし、一刀は懐から木で形作られた四角い板を取り出した。緑色に染まっており、朱肉で漢字の文様が刻まれている。

 兵たちの顔が目に見えて青くなる。そして槍が引く。

 一刀が取り出したのは式符と呼ばれるもので、色によって格付けされた証明書だ。緑色は外交特使。或いは それに類する権力者であることを指すものだった。

 誰も、自分が原因で外交問題を起こしたいと思う者はいない。ましては下っ端の下士官なら特に。

「えっと、なんだったか。君は俺に砥石を売ろうとしたから、雑貨屋の亭主だったか。ほら、金を渡そう。 砥石を売ってくれよ」

 うめき声を上げている男の頭を掴んで、顔を近づけ。瞳を凝視し、ちゃらちゃらと目の前で銅銭を落とした。

 男の顔は泣きそうなものに変化していた。もう、逃げる場所がない。

 絶望した表情、もう一度踏みつけてやりたい衝動――押さえつけた。

 周囲の兵も文句は言わない。遠巻きに見つめるだけで、手出しはもう決してできないことを知っている。

 例え、今、一刀が男の首を刎ねたとしても、誰も咎めることはできない。もう過ちを犯してしまったのだ。色符を 持つものを脅したという。

 最低でも、役職罷免は間逃れない。それにしたって幸運な方だ。

「ゆっ、赦して――」

「俺は申し出に従って砥石を買うと言っているだけだ。何を怯える。何を考えている。逃げたい、助かりたい、 死にたくない――そんなところか? ダメだ。ここで死ね。脳みそぶちまけて地面にまいてやるよ」

 残虐な声、サディスティックな喜びが湧いてくる。男は絶望に染まり、声にならない悲鳴を上げた。

 一刀は体を起こして、小剣をしまった。手を開いた。

「冗談だよ――そう、冗談だ。だが、俺は贈賄は良くないと思うんだ。官憲は特にそういうことをしてはいけない。 そのお金は治療費だ。手の治療に使ってくれ。悪かったな君。養生してくれ」

 一刀は倒れた男の肩を叩いてから、赤門を潜り抜けて、蜀と魏の国境街である漢中に入った。ざわめいていた喧騒は静かになっていた。



























 手先の指と指をすり合わせた。湿地帯に入ったせいか、空気が湿っている気がする。

 蜀は土地柄、魏と違って湿度が高い。剣が錆びたのは手入れを怠ったせいもあるが、そうした事情も ある。

 元々、盆地であり、空気は淀みやすい。秦嶺山脈から吹き抜ける風がなければ陸に揚げられた魚のように口を開けて 過ごすはめになる。

 昼間の熱波を浴びていると、自然と汗が出てくる。フードは脱ぎ捨てて、薄着に着替えた。背に持ったズタ袋を抱え直し、漢中の 城下街に鋭い視線を向ける。

 気が張っている――暴力の余韻。手の中にまだある。自制しなければならない。必要以上に苛ついていることだけは確かだ。

 足取りは段々と中心道から外れ、径路に変わっていく。人通りが少なくなると、同時に軒を連ねる家々も 薄汚れていく。

 漢中城に駐屯している兵将は誰だったか――いまいち思い出せない。

 会いたいとは思わないが、知っておくべきだという考えはある。

「そこのお兄さん。泊まっていかない?」

   声をかけられ、一刀は立ち止まった。声をかけたのは二十代後半くらいの女で、やたらひらひらとした 彩り鮮やかな半纏を身に纏い、スカートの丈は短い。

 いつの間にか、遊郭街に居る事に一刀は気付いた。『安』『妓』『酔』。それらの隠語を含んだ看板が多く目立つ。

「どうだい?」

「ちょうど宿は探しているところだったんだ」

「そりゃあ良かった。うちにお出でよお兄さん」

 甘えるように腕を絡ませ、頭をこすりつけてくる。つんとした甘い匂いが漂う。

「俺は寝るだけでいいんだが」

「勿論、寝るだけさ。ただ、手伝ってくれる娘がつくよ」

「何を?」

「寝るのを手伝ってくれる娘だよ」

 女は片目をつぶって見せた。意味する事はわかっていたが、一刀はその言い回しに口元を緩め、思わず 頷いた。

 じっくりと観察して見ると、遊郭街の客引きはそれほど周囲を気にした様子はない。官憲を恐れている様子がない。

 屋根瓦や天井から吊り下げられた真鍮台には蝋燭の残滓が見えた。きっと夜には輝かしい炎が異彩を放つだろう。

 壁紙も派手になっている。赤、緑、黄――塗られる壁には絵。目を見張るものも多い。

 法律が緩いのか――元々は蜀は漢王朝の非開拓地だった南方を抱えている。農村があり、貧困があり、金のために体を売る 人間は多い。

 或いは意思に反して売られる。哀れだが、同情はかけれない。

 突然、足が立ち止まった。どうやら目的地に着いたようだった。梅雨(メイウー)と書かれた看板。一回は飯店になって いるのか、椅子と円形のテーブルが規則正しく立ち並んでいるのが窓越しに見えた。

「この二階の階段を登って奥から二番目がお兄さんの部屋だ。夜を楽しむのなら、寝た方がいい」

 片目をつむって女は言った。部屋割りを決める権限があることから女主人ということがわかった。

「うちで買えば他よりも安いよ。宿代とほんの少し色をつけるだけさ」

「アンタは相手してくれないのか?」

「馬鹿言っちゃいけないよ。もっと若い娘がいいでしょ。うちの若い子は肌がすいつくように綺麗だし、色白くて 足も小さいよ」

「期待するよ」

 茶巾袋からいくらか銅銭を摘んで女に手渡すと、女は満足そうに一刀の背中を叩き、一階の飯店に姿を消した。

 一刀は空を見上げた。いつの間にか太陽のぬめつけるような光は去り、分厚い雲がひしめいていた。

 雨が来そうだった。



























 夢を見た。日常の夢だ。

 特にとりとめもない夢。朝飯を食うために階段を降り、朝食を作っている母に挨拶し、顔を洗い、新聞を読み、背広に 着替えた父に恐る恐る挨拶し、爺ちゃんがいつもどおり縁側で木刀を振り下ろしているのを確認する。

 自分が出来上がっている朝食に手をつける。リビングの面々はテレビに視線を移す。テレビではニュースがやっている。 つまらないニュース。どこかの会社員が不正をやった。脱税と財務諸表の改ざん。会社は視聴者に謝罪する。

 この度は申し訳ないことを――誰に、何を謝っているのか知らないが――恐らく利害のある極少数の人々に謝っている のだが、不意に一人の中年男がクローズアップされる。

 首謀者とされる男。顔は蒼白で、生気を失い、瞳の焦点はあっていない。死人のようだった。

 中年男は言った。「私が全て計画し、私が全てやったことです。会社は関係ないです」病魔に冒されたかのように繰り返し、 同じことを喋り続ける。その結果、中年男が全ての責を背負って捕まった。

 それから一週間くらい経った頃か、中年男は獄中死した。自殺だ。タオルを首に巻きつけ、衝撃をつけて死んだ。苦悶する死に方。自らの 腕で自らの首を絞めるような真似

 ニュースを聞いても、特に感想はなかった。他人の死など。関係がないからだ。マスコミは不正事件に飽きて芸能人の結婚騒動に奔走していた。

 勝手な思い込みに過ぎないが、中年男は会社のために犠牲になったのだと思った。それならば、それで刑期を終えた後は それなりのことになるはずではないのか。それなのに――なぜ自殺なんてするんだ。

 推測を爺ちゃんに話した。爺ちゃんはほんの数秒、目を瞑った後に応えた。

 ――木から落ちた果実は腐るか新しい芽を出すかどちらかを選ぶ。

 意味がわからなかったが、不思議と納得できた。恐らく、会社という集合体に依って中年男は生きていた。それほど までに自分の血肉を通わせていたのだ。

 自分もまた、今、組織という木から落ちようとしている。

 腐るか新しい芽を出すか――どちらに転がるか、選択は自分自身がすることになる。



























 茫洋とした意識が暗がりで収束した。

 ベットの上で眠っていた。旅の疲れ、強行軍だった。時間がなかった。聞き込みもやろうと思った。今からなら 遅くないかもしれない。

 上半身を起こそうと身じろぎして――一刀は人の気配に気づいた。

「ちょ、まずいって……」

「いーのいーの、寝てるのなんて手間がはぶけるじゃん」

 心配げな声と快活な声、狭い部屋に二人の女の声――一刀は体を起こさず、薄目を開いた。

 暗闇の中、二人は自分の荷物を漁ろうとしている。盗賊の類。二対一、女とはいえ、分が悪い。

 頭の中でそう考え、様子を見ることにした。寝入っていると決めつけ、安心しているのか遠慮のない会話が 聞こえてくる。

「泡女生(パオルーシェング)なんてやる奴はろくなもんじゃねぇー。だからちょっとばかしちょまかしたって構わねぇーって」

「でも、流石に盗賊は……」

 泡女生――買春、或いは女たらし、ろくでなし。

「とーしっ! いい加減覚悟を決めるしかないって。麗羽様が洒落にならないほど借金作ったせいで金が必要なんだし」

「でも文ちゃん。私、内職頑張るし……悪事にまで手を染めるのはちょっと」

 名前を呼び合っている辺り、素人くさかった。プロの盗賊なら仕事中に名前を呼ぶなんて愚かな真似はしない。

 一刀はどうしたものか、考えあぐねていると、緑髪のカチューシャをつけた女が顔色を変えた。

「しっかし、暗くて何も見えやしねぇ……ん、なんだこの黒い粉は……これって……」

「それに触るな」

 一刀は思わず、声を張り上げた。二人の顔に緊張と驚きが入り混じる。警戒態勢、すぐに二人は身構える。

 一刀は顔に手を当て、上半身を起こし、ベットに腰掛ける体勢になる。

「元に戻せ」

 言われるがままに、猪々子は素早く包みをズタ袋に戻す。

「あっ、あの〜……私たち」

「強盗になるのなら相手になってやる。盗賊のままなら財布の中の一割を渡そう。どちらかを選べ」

 圧力をありったけ込めた有無言わさぬ口調――二人は顔を合わせた。猪々子は唇を歪めた。

「何を偉そうに言いやがって。構わねぇ。やっちまおうぜ斗詩」

 盗賊にしては不似合いな大剣を担ぐ。華奢な体に合っているとは思えなかった。  一刀もまた枕もとの小剣を取り出して鞘を抜いた。月明かりの中で、刃に光が辺り、壁に反射する。

 仕方ない――諦めのように思った。

 死んでも恨むな――若干の怒りを込めて睨む。

 一刀は刃を調整し、猪々子の顔に反射光を当てた。一瞬、目が閉じられる。

 それで構わない。その一瞬の隙さえあればいい――喉元に向けて投擲――この距離なら必殺の間合い。どこかには刺さる。

 だが、寸前で手が止まった。

「すいませんっ! つい魔が差したんですっ!」

 両手を広げて斗詩が地面に膝をついた。許しを請うポーズ。

 一刀は手を下ろした。猪々子もその様子を見て、バツの悪そうに大剣を下ろした。

「……うぅ、わっ、悪かったよ。でも、女を買おうとしたアンタも悪いと思うぜ」

 その言葉で、一刀はこの店の女主人が斡旋してきたのは目の前の二人の内どちらかだと判断した。

 つまり、身売りのふりをして盗賊の真似事をしようとしたのだろう。そして自分は不運な客だ。

 自然にため息がもれた。

「それについては俺は悪いと思わないな。お互い合意なら金銭が絡もうが良い。勿論、成人同士での 話ならな」

 何か言いたげな猪々子を無視し、一刀は小剣を鞘に収めようとして――顔をしかめた。

「お前ら、まだ仲間がいるのか?」

 二人とも、不意を突かれたような顔に変化する。

 この二人じゃない――遠くから聞こえてくる地鳴り。複数の足音、近づいてくる。

 脱出口――すぐに身を乗り出して小窓を覗き込んだ。屋根瓦はない。水平に落ちる形になる――隣家まで距離、とても届かない。

 飛び降りる――逃げたとしても、足をやられるかもしれない。ゾッとしない。

「……迎え撃つか」

 何を――誰を。

 考えても、今の現状では思い至らなかった。誰かに尾行された――馬鹿な――戸が丁寧に叩かる音、戸が開かれた。

「治安部の者ですが、こちらに特使の方がいらっしゃるとお聞きして参りました」

 礼儀はしっかりしていたが、兵の瞳は冷然としていた。犯罪者を見る目だった。義務感しか感じさせない能面のような顔つきだった。

 一刀は肩をすくめた。

「おいおい、急に来て何なんだよ。今まさに俺は楽しむところなんだぜ。夜は始まったばかりだ。用があるなら明日にしてくれよ」

 大げさにおどけ、地面に座ったままの斗詩の肩を抱いてみせる。猪々子は口を曲げたが、何も言わずに成り行きを 見守る。

「いいえ、ご同行していだきます」

「どうあっても?」

「どうあってもです」

 兵の数――目の前に五人弱。階段から突き落としてやろうか――凶暴な考え、外に待機している小隊が窓の外に映った。脱出は不可能だと 悟った。

 一刀は雰囲気を変えた。怒っているという演技、顎に手を当てて、兵と真っ向から睨み合う。

「誰の命によって?」

「我が漢中の知県様です」

「俺が特使だと知った上で俺を連行するつもりなら覚悟がいるぞ。ここは国境だ。俺が呼べばこの街は炎に包まれ るぞ」

「その時は私も覚悟して貴方がたと戦います」

 一刀は相好を崩して、だらりと手を垂らした。すかしても、脅しても無駄なようだった。

「わかった。悪かったよ。いいぜ、同行しようじゃないか。俺も見極めたかったんだ。丁度良かった」

 一刀は兵に囲まれ、促されるようにして部屋を出て行く。

 取り残される形になった猪々子と斗詩は長い息を吐いた。

「文ちゃん……もう大人しく成都に帰ろうよ。ん、文ちゃん?」

 斗詩は不審に思って声色を変えた。猪々子は我ここにあらず、という風に何か考えしていた。

 斗詩に気づくと、すぐに両手を振る。

「んっ、ああ。わりぃわりぃ……ただちょっと気になってさ」

「何が? あの人は偉い人みたいだったけど、見たことあったの?」

 斗詩は首をかしげた。猪々子が知っているなら、当然自分も顔を見たことがあるはずだと考えたからだ。

 しかし、埋没している記憶を手繰り寄せても、なかなか思い至らない。

「いや、そんなんじゃなくて……うちらが馬賊の時さ、あれ――」

 そう、あの黒い粉は確か――。



























 冷たい手枷が嵌められ、赤い絨毯の上に転がされた。体が床につけられる。屈辱で目の前が炎に包まれた気がした。

 だが、その一方でどこか冷え切っている。怒りは激しくなればなるほど冷徹さを呼ぶ。

「国境警備兵を傷つけたのはお前か」

 一刀は顔を上げた。こしらえた赤い椅子に座る怒りに燃える女。その傍らで口元を隠して面白がるようにこちらを見ている 女。

 周囲を見回した。びっしりと彫像のように置かれた兵。壁際のインテリアになっている。  だが、命令一つで人を殺害せしめる凶悪なインテリアだ。

 何度も目にした魏の玉座には劣るものも、それなりにこの玉座の間も豪奢な造りになっている。ただ惜しいのが調度品があまり なく、建物の造りと反比例して貧乏そうな概観になってしまっている。

「暑いな」

 一刀は天井を見上げ、口を開く。赤毛の女は顔をしかめる。

「何を言い出す」

「この部屋の気温だよ。上昇している気がする。このままじゃ蒸し風呂になっちまう。今こうやって地面に 這いつくばったは僥倖だよ。地面は冷たいから、涼しくて良い。アンタも地面に転がってみたらどうだ。そうやって ふんぞり返っているより、芋虫みたいに転がってる方が似合うぜ」

 見る見る憤怒に染まる顔――血流が流れ出ているのがわかる。

 何かを言う前に一刀は質問をぶつける。

「ところで、人を転がして食う飯はうまいか? 俺の他にも大勢転がししてるんだろ?」

「きっ、きさ――」

「うまいかって訊いてんだよこの赤煉瓦野郎っ!」

 肺いっぱいに吸い込んだ空気を全てぶつけて一刀は叫んだ。

 赤毛の女は些か気迫に押され、驚きで眉を吊り上げる。何かを口に出そうとした時、傍らに立つ女が興味深げに口を開ける。顔色に 驚きはなく、動じた様子はない。

 こいつは腹が据わってやがる――一刀は苦々しく思った。

 それだけ渾身の恫喝だった。青毛の女には脅しは通じそうにない。

「貴公を転がしているのは貴公の責によるものだぞ。白蓮殿はどうか知らないが、私はうまい飯しか食わないことにしている」

 なんだハズレか――一刀はすぐに己の意図がかすりもしなかったことを悟り、落胆したが、すぐに持ち直す。

 探りついでに罵詈雑言をぶつけたおかげで幾分か、屈辱はすすいだ。もう充分だ。

「どうやら俺が色々と勘違いをしていたようだ。今しがたの非礼はお詫びしよう」

 急に一刀が殊勝な態度を取り始めたので、漢中知県――白蓮はうまく言葉を紡げなかったようで、口をパクパクさせた。

「俺が警邏兵を傷つけたのは事実だが、それは警邏兵の恐喝を回避するためのものだった。やりすぎはあるかもしれないが、 俺には外交特権があり、処罰をするならまず魏を通してもらおうか」

「色符か……真贋を確かめさせて貰ったが、本物のようだな」

「勿論。正真正銘本物さ」

「ふむ。おかしいな。礼部の志官に尋ねてみても特使が来るという書状はなかったぞ」

「こちらのミスかな。届いてなかったのか。急な訪問になって失礼した」

「こちらも失礼だが、官名を名乗ってもらおうか」

 痛いところを突いてくる。素性――できるならば話したくない。だが、この場で断るのは無理だ。話さずには逃れられない。

 この女――思ったよりも強(したた)かでやりにくい。

「東魏尚省警部刺史の北郷一刀だ。些か隠密で来ている。そのせいだろう書状が来てないのは」

「隠密? 何かを持って来たのか?」

「話すことはできない。それが特務であり、特使の仕事だと心得えてくれ」

「では――」

 女が更に追撃をしようとすると、女の肩をポンッと叩く者がいた。

「おっ、おい、星。私にも喋らせろ。わっ、私が知県だぞ」

 青毛の女――星は些か冷めた目で白蓮を見下ろすと、肩をすくめた。

「白蓮殿はこういう手合いとの駆け引きには向いておらんと思うが……」

「私が問い詰めることが大切なんだっ!」

「むぅ、わかった。やってみるがいい」

 一刀は一応身構えた。白蓮は咳払いすると、一刀に厳しい視線をぶつける。

「特使とはいえ、我が兵を傷つけたのだ。悪いがしばらくの間、牢に入ってもらうぞ」

「またその話か。アンタ頭が硬いな。いいか、アンタの部下は罪もなき人々から搾取している。だから俺は体で わからせてやった。それだけだ。それで俺を牢に叩き込むと言うのなら好きにするがいい。官吏の搾取を野放しにした知県様」

「言ったな貴様――っ!」

 頭に血が上った白蓮が手を上げると、兵達が集まってくる。

 一刀はチラリと星を見ると、顔に手を当てて失望したように肩を落としていた。公の場で詰問する機会を逸した という風に。

 一刀はおかしくなって笑い出した。笑い声が響くと、兵の一人が一刀の頬を叩いたが、一刀は笑うのを止めなかった。



























 狭く、小汚い牢獄、湿っぽいカビの匂いがした。手枷は外されたが、居心地は最悪だった。

 助けを呼ぶ――魏と連絡を取る。それは不可能に近い。今更、おめおめと戻ることなどできない。取りたくもない。

 しかし、このままではまずい。おのずと引き渡される。引き渡されれば、目的は達成できない。

「看守を買収するか……」

 それが一番手っ取り早く思えた。少しづつ、少しづつ、金と利という毒を巡らせ、脱獄を手引きさせよう。

 一刀はそう決意すると、野太い鉄の檻から手を伸ばした。

「おーいっ!」

「なんだ」

 コツコツと歩いてくる音、先ほど会った看守にしては声は若々しい。もっと老人だった。閑職に追いやられた と全身でアピールしている古ぼけた時計のような男だった。

 返事をした声の主を確認して、一刀は顔色を変えた。

「げっ」

「げっ、とは無体な」

 面白がるように星は口元を手で隠した。周囲を観察するように視線を廻すと、感想を述べる。

「牢屋とは居心地が悪い場所だな」

「同感だ。っで、趙雲さんが何か御用かな」

「そう尖がるでない。一度は助けてやったではないか。ほれ、風と稟と一緒の時に」

 ああ――一刀はこの世界に来て、一番最初の記憶を掘り起こす。風化しようとしていた記憶だった。

 確かに一度命を助けられた。恩を返すべきかもしれなかった。だが、今は後回しにしたい。

「で、何の用かな。俺は見ての通り獄中の身。見物するには物足りないと思うが」

「ならば楽しませてくれ。服を脱いで裸身を晒して見よ」

 一刀は口元を歪めた。言われるままに上衣を脱ぎ捨てる。半裸になり、壁を背にして皮肉ったように笑った。

「どうだ。楽しいか?」

「私は裸身と言ったのだぞ」

 上等だよ――地下室にこんもりと漂う熱気のせいかもしれなかった。一刀はズボンを脱ぎ捨て、下着も脱いだ。

 そして元の位置に戻り、冷たい壁を背にして星に向き直る。

「ふむ、そうまでして話したくない事情があるのか」

 見抜くなよせっかく恥ずかしい想いをしているのに――一刀は口に出さず、顔にも出さなかったが、汗の量は 増した気がした。

「誰のためだ? 我が国に害を為す気か?」

 些か厳しさを含めた瞳と声、一刀は受け止めつつ、応える。

「己のためだ。害は為すかもしれない。そっちの出方次第だな」

 星はしばらく黙考し、ポンッと拍手を打つ。

「ふーむ……これは良い暇つぶしだ」

「はっ? なんだって?」

 星は一人ごちて頷くと、懐から錠前を取り出し、鍵穴に差し込み、鍵を開けた。

 一刀は鉄扉が開くの確認すると、首をかしげる。

「俺を脱獄させてくれるのか?」

「そもそも罪がない。白蓮殿は良き知県なのだが、慧眼が少しばかり足りない。この非礼は私から詫びよう」

「まあ俺は牢から出れればありがた……なぜ、俺の動きを封じ込める」

 圧し掛かるように星は一刀の体に覆いかぶさった。口元は吊り上り、目は笑っている。手は――腹から虫が這う ように下腹部に向かっている。

「なに、女とコトを行う寸でのところを邪魔されたのだろう」

「いや、まあ、厳密には……ちがっ、うっ、んだっ、がっ!」

 ギュと自身を握られて一刀はうめいた。顔を合わせると、これまでで一番、邪悪な顔つきがそこにあった。

 押しのけようとしたが、岩を押すような感覚。凄まじい膂力で動きは封じられている。

「流石に交るのは私とて抵抗がある。ゆえに手だけで我慢せよ」

「いや、いや、いやぁっ! けっ、結構だっ!」

 抵抗も虚しく、上下に星の手は動く。その動きはツボをわかってはいない力強いだけのものだったが、ずっと仕事に 追われていたせいで結果的に女断ちをしていた一刀には充分な快感だった。

 細い指先は冷たく繊細で、覆いかぶさっているおかげでたわわな乳房は布越しとはいえ、胸に当たっている。

 加えて、熟れた果実のような甘い香りがした。それが星の匂いだと一刀は理解すると、更に血流が集まる。

「ふふふっ、可愛い顔をするではないか……なんと初心なことか」

「ちょ、まっ! まっ……待てっ!」

 星は顔をつぼめた。今更何を言うか、という風に。

「北郷殿。そのうるさい口は塞いでしまうぞ」

 そう言うと、星は顔を近づけて唇を重ね合わせた。一刀は目をむいた。

 まさかこんなことになるなんて――口内に舌が進入してきて、更に混乱が増した。

 俺は何をしているんだ――力が抜けた。身を任せた。やけくそになった。

 ともかく、されるがままに快楽に身をゆだねた。星は味を確かめるように舌で唇についた唾液をぺろりと舐めとった。

「私を信用せよ。ならばこそ、その心の裡に触れてみたい」

 一刀は目をつむりたかった。つむれなかった。星の瞳はあくまで嘘も偽りも赦さないと言っていた。

 だから、目を逸らした。

 しばらくすると、頬に熱い唇が触れた。それが赦しだったのか――一刀にはわからなかった。



























 夢を見た。最近は何度も夢を見る。

 今度は一人佇む夢だ。どこにも頼ることができない。どこにも行くことができない。ただ、剣を片手に自らが 積み重ねた髑髏の上に立つ。

 昔は何かに護られていた気がした。それは親の庇護だったかもしれない。それは公権力によるものだったかもしれない。 それは自身が塗り固めた心だったかもしれない。

 今はそれが剥がれ落ちている。剥離している。何人か、人を葬ったことによる罰かもしれない。人を殺めるのは 罰かもしれない。人を――裁くのは罰かもしれない。

 刺史になってから面倒ごとが増加した。心身をすり減らすことになった。自らが磨耗している感覚に囚われた。

 研がれ、磨がれ、尖る。

 いつしか暴力的になった。いつしか冷酷になった。いつしか――何でもできる気がした。だから調子の乗った。自惚れて しまった。

 思い知らされたのつい先月のことだった。罪として罰し、殺してしまった飲んだくれのクズのような男、その娘、生を受けて わずか数年の幼子に会った時から、何かが音を立てて廻り始めた。

 歯車が回っている。急げと言っている。責めたて、狂わせ、走らせ、回り続ける歯車の幻影。瞼の裏に焼きついている。

 鉄が絡み合う音が脳髄に響く。ギィギィとがなり立てる金属疲労の音。拭い去るにはどうすればいいかわかっている。
































 漢中にはまだ用がある。まだ離れられない。必要なものを洗い出し、必要なものを炙り出したい――だが、軽々に は身動きが取れなくなった。

「頼む。どこかに行ってくれ」

 後ろで距離を取る星に向けて懇願した。

 懇願は沈黙の冷笑をもって返される。最初は走って逃げた。脚力では叶わなかった。袋小路を挟んで逃げた。屋根の上を走るという離れ業を見せてくれた。軽業師か奇術師の類かと思った。

 一刀は臍(ほぞ)を噛みながら、立ち止まった。このまま歓楽街に行けば否がおうに誰かと話すことになる。

 誰かと話すところは見られたくない。情報は漏らしたくない。誰にも。特に立場ある蜀に人間や魏の人間には必要がなければ近寄りたくもない。

 抱き込むか――丸め込むか。考えたが、顔を見るとやる気が失せる。易々とからめ手に引っかかってくれそうにない。

「おや、北郷殿。足が止まりましたぞ」

「いつ、飽きてくれるんだ? 金が欲しいのか? 恩義は感じている。それ相応の礼はするからどこかに行ってくれ ないか」

「お主は我が国に危害を加えるかもしれないと言ったではないか。粛々と監視をしているだけだ。だが、行動までも 縛るつもりはないぞ」

「そうかい。だが君がいることで俺は行動を縛られている」

「それは後ろ暗いことをする、と言っているようなものだぞ」

 茶化すような声色。相手にする気にはならないが、そろそろ決着はつけるべきだ。

「目的のためなら多少は後ろ暗いことをするとも。だが君は俺を咎める気はなさそうだ――わかった。俺の目的を素直に話そう。それで、納得したら どこかに行ってくれると約束してくれないか?」

 値踏みするような視線――些か瞳に期待の色が現れ、消えた。

 何も全てのことを話す必要はない。本当のことも話す必要もない。誰が話してやるものか。

「鬼人(ワィレェン)という奴を探している。それは裏社会の人間で。魏から逃げた。俺はそいつを捕まえたい」

「ならば礼部を通し、この国の警部に尽力してもらえば良かろう」

 一呼吸置く、もったいぶって明後日の方向を向いた。間を開け、話すのをためらうようなポーズを取る。

「そう願ったが、だが、今は辛くも戦後だ。協力をおなざりにされる可能性もあった。だから直接俺が頭を地面に擦り付けに行くんだ。 しかし俺が頭を下げたとなると、俺は良くても、俺の周りの奴が騒ぐ。『我が国の高官に頭を下げさせた。なんたることだ』と。良くも悪くも うちの連中は誇り高い。だから秘密裏にしたかった。危害を加えるかもしれないのは、これのことだ。もしも断られたらコトだろ」

 捜査の協力を頼んだのは本当だった――返ってきた返答は冷ややかだった。思わず書状を破り捨てて激怒した。散々机を叩いてぶち切れた後に 冷静になった。

 うちにも、向こうにも内通者が居て、がんじがらめに身動きできないようにされている。それだけ吐き気がするほど 権力を持った奴が悪党になっている。

 歯噛みした。拳を握り締めて憤った。何もかもが思い通りにならない。自分自身の感情さえも。

「話の筋は通ってますな」

 星は顔を近づけて瞳を覗き込んだ。息がかかりそうな距離。一刀は平然と受け流した。

「して、その鬼人という者は何をしたのですか?」

「婦女暴行さ。結婚式を控えた女を犯した。その女の両親が戸部の尉官でな。財布を握っている部署だ。俺にとって日常を 小さく彩る大したことのない事件だが、その両親にとっては天地崩壊するほどの事件だ。俺は親身に話を聞いてやらなければ ならない立場だし。面倒だが。他の事件に比べてエコヒイキしないといけない」

 咄嗟の嘘。それでも女の星が好みそうな事件をでっちあげた。

 義侠心で燃えるはずの瞳――意外なほど反応は薄い。

 嘘だと看破しているわけではない。吟味し、半信半疑の状態で蕩揺している。

「ふむ……では白蓮殿に謎かけのような言葉を放ったのはどうしてですかな?」

「頭に血が昇ってたんだ。自分でもわけがわからなくなっていた。それについては俺は全面的に謝罪するつもりだ。文もしたためさせて貰った。俺から渡すのは はばかれると思うんで。君から渡してくれないか」

 用意していた懐の書状を手渡す。心を込めた謝罪の言葉。これは真実だ。

 つまらなそうにしながらも、星は受け取った。

「さて、俺の話は終わった。俺はつまらない事件に駆け出されたつまらない人間だ。五虎将とうたわれる貴女が 関わるべきだとは思えない。荒っぽい言葉を使ってしまって申し訳なかった。暑さのせいだ。気がおかしくなっている」

 両手を広げてゆっくり首を左右に振った。そして歩みを再開した。星は立ち止まったままだった。追ってくる気配はない。

 一刀は見えないように微かに頬を緩ませた。星は一刀の背中を睨んでいた。



























 湿っぽい裏通り、小汚い店。所狭しと麻雀卓が置かれている。一刀が店に入ろうとすると、中年女が 声をかけてくる。

「ここは会員制だよ」

 くびれのない女だった。でっぷりとこえ肥った醜い体つき。退屈そうな表情。

 一刀は卓を囲っている人間達を見回した。どいつもこいつもまともな人間に見えなかった。だが、まるっきり堅気も いないわけじゃない。

 商家の経営者が二割、性風俗に関わっているのが三割、それらを餌にしているのが五割。

 人を見分けられるようになったのはいつの頃だったか――いつも頭の中で勝手な推測を立てる。合っていることも あるし、間違っていることもある。ただ、間違った時は頭の中の情報を訂正するだけでいい。

 卓を囲っている一部の人間は腰を浮かしている。場違いな人間を排除しようとしている。

「李楊湖(リィヤァンフォ)先生から紹介された」

 いつもは呼び捨てだった。だが、敬称をつけた。剣呑な雰囲気が幾分か和らいだ気がした。

「会員ならそう言っておくれよ」

 中年女が椅子に腰を下ろした。瓦版に目を通し始める。短髪の男が一人近づいてくる。顔にはとってつけた ような薄ら笑いが張り付いている。

「振宇だ。打っていくか兄弟」

「小刀だ。勿論打っていくさ」

 本名は言わなかった。ただ、間違ってはいない。ニックネームのように使っている名前の一つ。

 卓の一つの席に座った。前から打っていた男は譲るように席から離れた。牌をかき混ぜていると、振宇は自然と 口を開いた。

「老湖はなんと?」

 老、敬称のつけ方を間違っているように思えた。李楊湖は若い。まだ三十にも満たない。違和感を覚えたが、一刀は 牌をセットしながら言葉を返す。

「グズグズしてるとぶち殺すってさ。お前らが遊び呆けているんじゃないかと疑っている」

 空気が少しだけ変わった。凍るようなものに。一刀は少しだけ感心した。

 あんなマフィアのクズ野郎でも枝葉の先まで凍らせることができる――羨ましかった。だが、手に入れられない力だった。

「まっ、待ってくれよ……遊んじゃいねぇ。わかんねぇんだよ」

「この三ヶ月の間、飯食って寝て麻雀を打つだけの生活を送っていたのだとしたら、もうじき、どこにも居られなく なるぞ」

 牌を河に投げ捨てた。

 卓を囲っていた三人が顔を見合わせる。一刀は牌を捨てた。中国麻雀、河に滅茶苦茶に転がる捨牌。中国の麻雀は乱暴で、日本の麻雀は 神経質に思えてくる。

「白粉(パーファン)がわかって、黒粉(へーィファン)がわからねぇって話は通らねぇだろ」

 脅しつけた。振宇の顔が青くなった。

「わからねぇんだ。本当だ。鬼人の話をしても、ここの裏街道の奴は知らぬ存ぜぬだ」

「何人か拷問したんだろうな」

「したさ。それでも、喋らない。知らないんだ。公行の役人にも金を渡した。それでも、わからない」

 公行――国の検閲が済んでいる荷物。ルートがはっきりした積荷。郵便といってもいい。定期的に国と国の間を行き来する。時には 警備兵がつく。

 重要であれば重要であるほど、荷物の検閲は厳しくなる。

 黒粉の源泉はどこにあるんだ――瞑目した。必ず、探し出す。そのためなら薄汚いネズミにもキスできる。

 一つの情報源がここで一つ潰れた。次に行く。だが、その前に。

「ロンだ」

 牌を倒した。西家の顔つきが歪んだ。構いやしなかった。散々いたぶってやる腹積もりだった。

 どうせ、ここにいるのは魏で薄汚い悪事を働いて逃げ出してきた者ばかりだ。今は捕まえられない。治外法権 だからだ。何よりも、こんな奴らに頼らなければならない自分が一番憎らしかった。

「アンタ……老湖の何だ?」

 北家の男が凄んだ。暗い目。黒色が剣呑に光り始めている。チンピラ特有の粋がった態度。

「李楊湖先生は俺を阿刀って呼ぶ。そういう間柄だ」

 北家の男は黙ったまま顔を逸らした。睨みたいが、睨んではいけないと悟ったからだ。

 李楊湖の上品で穏やかな声がよみがえる。

 阿刀って呼んでも宜しいですか――ふざけるなと言った。いつか必ず貴様を狭くて苦しい檻の中に閉じ込めて やると声を低くしていった。

 李楊湖は苦笑して阿刀と呼び始めた。呼ばれる度に心が冷え込んでいく。それでも、席を立つこともなければ、飯 を食う箸が止まる気配もなかった。

 警部に就くということは裏社会の人間と正面から向き合い、睨み合うことだった。だから一緒に飯を食ってやった。

 始まりはつまらないことだった。当時、数十人のチンピラのまとめ役だった李楊湖の側近の一人を西方開発の労働役に飛ばしてやった。  喧嘩を売ってやるつもりだった。しかし李楊湖は使いを出し、食事に誘ってきた。兵を引き連れて食事を摂った。

 二回目は二人で食べたいと言った。乗ってやった。喧嘩売るつもりならいつでも正面から叩き潰してやるぜ――言外に態度で 伝えた。

 だが、予想以上に李楊湖は知的で穏やかな男だった。表向きは長江から船で香辛料を運んでくる商人だった。

 いくつも店を持つことも許可され、豪商と呼ぶに相応しかった。李楊湖は自分に酔ったように演説を始めた。

 ――悪党は雨後の筍のようなものです。潰しても刈り取っても、生えてくる。いい加減睨みあいは止めましょう。

 ちょうど、建平から――否、外省から来る荒れくれ者で治安が荒れている頃だった。洛陽には富が集中している。当然、 富を求めて様々な人間が津波のように押し寄せてきていた。

 李楊湖の言いたいことはわかった。俺が極道者をまとめる、目を瞑ってくれ。

 警邏兵は疲れていた。毎日にように面倒事が起こり、神経をすり減らしている。人件費も日に日に増大し、戸部に 文句を言われ、民に文句を言われ、果ては皇帝である華琳にも叱責される。

 人一倍頑張ってるのに誰も褒めてくれなかった。誰も慰労しようとしなかった。蔓延する苛立ち。抑えるのも限界 だった。

 その席では一刀は李楊湖の申し出を嘲笑した。馬鹿なことを言うな、俺はお前らを残らず地獄へ突き落としてやるつもりだ。

 そう言ってやった。だが、全てはポーズだった。その日からヤクザ者同士の争いには目を瞑った。見てみぬふりをした。クズがクズを殺そうが知ったことじゃなかった。それが 警部の者達の偽らざる本音だ。善良な民間人に被害を加えた時だけ腰を入れ直した。

 表向きだが、治安は徐々に回復していった。それは数値として現れた。三度目の席で、酒を飲んだ。李楊湖は真名を寄越した。

 ――平羽です。阿刀。これで私たちは盟友ですね。

 言い返した。勿論だとも。ただ、平羽、お前が尻尾を出した時は俺は躊躇なく煉獄に叩き込んでやる。

 ――ではそれまで、友情を誓い合いましょう。

 歪な友情。李楊湖は狡猾だった。予想がつく。李楊湖は悪党共にきっとこう言ってとりまとめた。

 俺の背後には官憲の大物がついている。その証拠に俺の行動には誰も文句は言わない。

 李楊湖は賢い。少なくとも、力の使い方を理解している。急激にのし上がって裏社会の顔になった。諸外国のマフィアともコネクションを持つに至っている。

 それなのに――黒粉のことは掴めない。もっと大きな裏社会の者が噛んでいる。鬼人。

 掴んだのはその名前だけ。そいつを殺して初めて歯車は回転を止める。夢でうなされることもなくなる。幻影も滅ぼせる。まともに呼吸が できるようになる。

 一刀は牌を並べなおした。瞼を押した。目が充血している。鏡を見なくてもわかる。怒りで眠れない夜が続いた。その疲労 もまだ残っている。

「小刀先生、もう勘弁してくれよ」

 点数棒を巻き上げる作業、知らず知らずの内に片付けていた。

「公行の人間との橋渡しをしてくれ。そうすれば、お前達は立派に仕事をしていたことになる」

 三人は安堵を含んだ顔つきに変わった。殴りつけてやりたい衝動――手の中の点数棒が軋んだ音を立てた。



























 看板に黒墨で描かれた廻家という文字。見慣れなかった。ただ、物流が集まっているのは様子を見ればわかった。

 忙しなく動く人々、無数の竹篭が並び、色褪せた銅の滑車が押され、崩れ落ちそうな木車を引かれ、馬で旅立つ者達。或いは辿りつく者たち。

 洛陽行きの荷物を見たいと検閲官に言った。検閲官は人を掴まえて金を握らせた。手を振ってついてこいと 言われる。

 促されると、倉庫のような建物に案内される。

「多くは鉄鉱石と反物と茶葉かな。あっちの方が質がいいんだがな。まあ、外交上のうだうだがあるんだろうよ。ただこっちも茶は甘いんだぜ」

 検閲官は黄色い歯を見せた。まだ若く、飄々とした雰囲気を漂わせていた。金を握らせれば大抵のことはやるが、 でかい悪事をやる悪党という風には見えなかった。

 一刀は周囲に動かしていた視線を止めた。口を開いた。

「見せてもらっていいか?」

「盗むのはなしにしてくれ。俺の立場が悪くなる」

「俺の目的のものがあれば買取させてもらうよ」

「おいおい、これらはもう受け取り主が決まってるんだぜ」

 いくらか銅銭を握らせた。検閲官は頬を緩ませた。

「まあ、こんだけ物の出入りが激しいと何か無くなってもおかしくないわなぁ」

 検閲官は後ろを向いて出入り口の前で立ち止まった。見張りをしてくれるらしかった。

 一刀は周囲を見つめる。米、茶葉、石、反物、乾貨――一つ一つの籠を上から下まで見、たまに手を突っ込んで内容を 確かめる。

 物によって一塊になってあり、木札に名前と行き先が書かれている。見ただけで中身は全部調べる事はできない。

 繰り返し、繰り返し、同じ作業。根気がいった。次第に汗をびっしょりかき、体が重くなってくる。

「何を探してんだい?」

 検閲官が退屈を嫌ってか、背を向けたまま話しかけてきた。

「黒粉だ。聞いたことあるか?」

「へーぃふぁん……南西地方で採れる白と黒のらーふぁんのことか?」

 一刀は動きを止めた。だが、すぐに動きを再開する。

「いや、それは違う。あれも味がいいんだがな」

 検閲官が言ったのは胡椒(こしょう)のことだ。調味料として使えるし、保存料としても優れている。しかし、物流が整って いないこの時代。高価なものになっている。

 検閲官は朗らかに笑った。

「そうだな。あれはうめぇ。特に実を炒めたのが最高だった」

「おいおい、食った事あるのか。値が張るだろ」

「ちょいとちょろまかしたのさ。年に何度かここにも集まってくる。こういう特典がねぇとこんな安月給でつまんねぇ仕事 やってらんねぇよ」

 一刀は複雑な心境だったが、手を動かし続ける――何も見つからない。茶葉の竹篭をひっくり返した。中身が 石畳にぶちまけられる。

「ただ、ここ最近、らーふぁんだと思ったのに。クソマズイもんを食った事あるな。あれも黒かった」

 苦虫を噛み潰した後悔するような呟き。一刀は振り返った。

「どんなのだ」

「よく見ると茶葉を乾燥させて丸めたようなもんだった。つい最近……そうだな、三ヶ月くらい前まで頻繁に運ばれて来ていたが、 急に来なくなった。ぴたりとな」

「……そうか」

 また一手遅い――歯噛みした。三ヶ月前。丁度密偵を送った時だった。行動は読まれている。もう、漢中を通って黒粉が 運ばれる事は永遠にない。

 これは無駄な作業だ――そう判断し、礼を言って外に出る。検閲官はまた来いと言って手を振った。

 宿へ戻る道筋を歩きながら考える。

 漢中を通らなければ、大きな街道はない。南糸を迂回して通って行くにしても補給なしで行軍して行くのは難しい。 忍耐がいるし、途中で省都によらなければ安全な道筋とは言えない。

 考え方を変えるとしたら、白水から北に向かって迂回していく。大規模な編隊を組んでいくならそうする。

 だが、大規模でないのならば――考えられるだろうか。黒粉は莫大な金を生む。編隊を組まずに山賊に強奪されたらそれで おしまいだ。

 目を瞑った――開けた。最初は漢方薬、次に茶葉と混ざって、果ては乾物の中身に埋め込んでまで黒粉は運ばれてきた。

 それだけ偽装工作ができるなら、偽装ルートくらい作るのはお手のものか。

「いくら考えても無駄か……」

 霞の中を歩くようなものだった。散々部下を犠牲にしてわかったことはあまりに少ない。その少ない手がかりを 頼りにするしかないこともわかっている。

「成都に――行くか」

 結局のところ、そうするしかない。



























 一人旅は決して楽ではない。

 例えば――怪我や病気を患った時、誰も診てはくれないし、動けなくなった時はそのまま死ぬ。

 例えば――険しい道を歩く時、峡谷や山林、山間は遮蔽物を隠れ蓑とする山賊と出くわす可能性が高くなる。火を焚けばここに獲物が います、と言っているようなものだ。夜もろくに眠れない日が続く。

 例えば――リスクの分担。一人で食料を確保するより、二人で分かれて食料を取りに行った方が飯にありつける 可能性が高くなる。

「……まずいな」

 矢は見事に空を切って土砂に突き刺さった。野兎は木々の間を縫うように飛び跳ねてどこかに消える。弓は得意 じゃなかった。だが、罠を仕掛けている時間もなかった。

 野草ばかり食っていると自分が草食動物の類になった気がする――行軍には支障はないが、力が段々と抜け落ちていく 実感はある。

 舌打ちしながらキャンプ地に戻った。白煙が昇っているのが木々の上から見えた。剣を抜いた。火は消したはずだった。

「……クソッタレが」

 盗賊の類は面倒だ。殺すのも、話すのも、目にするのも嫌になって来ている。

 数が多ければ――いつものように隠れ家まで尾行し、住み処は燃やし、炙り出し、遠くから射殺す。

 荒くれだった神経を深呼吸で鎮めた。食えないことによる八つ当たりをぶつける相手として、容易いものではない。苛立った神経は 危険だ。

 一刀は息を潜め、地べたを蛇のように這いながら草むらを移動する。キャンプ地――丸太の上に座る影、背後に近寄った。

「お前かよ……」

 上体を起こした。姿を現す。力が全身から抜け落ちた。

 白い半纏、袖口に紅いリボン、肌にピッタリくっついたスリットのあるミニスカート、鹿のようなものを鉄串に突き刺し、グルグル回して焼いている星がいた。

 一刀は体についた泥や砂を手で払った。向かいに座る。顔に手を充てる。うなだれる。

「職務放棄は良くない。アンタは漢中の高官か何かだろう?」

「冷や飯食いでな。たまには暖かいものが食べたい」

 閑職と目の前の鹿の丸焼きをかけた冗談だったが、一刀は笑わなかった。

「我々のような武官は戦乱の世が終わると、用が無くなるものだ。名ばかりの名誉職を宛がわれ、その辺の小童にも できる仕事が与えられる。その癖、給金だけは二十人前だ」

 自重しているようにも聞こえたが、淡々と事実だけを述べているようにも見えた。

 一刀は肘を膝の上に置き、頬杖をついた。

「俺はほとんど文官だった。いや、半分ってとこか。給金は小遣い制だったよ」

「曹操殿から貰う小遣いか?」

「無駄遣いしちゃだめよボク、って言われて渡されるんだよ。面白いだろ」

 一刀は茶化して声だけ真似したが、今度は星が笑わなかった。ただ視線を逸らして鉄串に刺さった鹿の肉を小剣で剥ぎ取った。

 一刀の眼前に差し出した。若干の微笑を加えて。

「道中は一人より二人の方がいい。私も付き添おう」

「いや、帰れ。邪魔だ」

 にべもなく断った。星は眉をひそめた。

「なぜそう頑ななのだ。小心者が」

「三回暗殺されかけた。もう誰も信用できない。特に蜀で地位を持ってる奴はな。捜査の邪魔になる」

「ふむ……やはり婦女暴行魔を探しているわけではないのだな」

 口滑った――迂闊さを呪った。少しだけ頭にきたせいだ。瞑目した。ボケ切った頭を叩いた。

 高官を警戒するということはそれを恐れる理由があるということだ。単なる婦女暴行魔を逮捕するのに高官が邪魔をするとは 考えにくい。

 喋れば喋るほど推察される。話の齟齬(そご)が晒される。だが、喋らずにはいられない。

「なぜそうまで聞きたがる」

 面倒な手合いだった。ここまでしつこいのもたまらない。二度退けたのに、まだ追ってくる。

「性分でな。御主のせいで眠れる夜を過ごしている」

「俺のことを想うのはありがたいが他を当たってくれ。この木とかどうだ? こんなに幹が立派なのはなかなかないぞ」

「私はそれほど気が長い方ではない。この場で切り捨てて森の中に埋めるぞ」

 からんと音がした。長槍の刃先が一刀の喉元に移動する。一刀は薄ら笑いを浮かべた。

「やれよ。面白いことになるぞ」

「ほぉ、どのようなことになるのだ」

「やればわかるさ」

 幾分かの睨み合い――最初に折れたのは星だった。

 星は深いため息を吐いて額を指で押さえた。槍は地べたに無造作に置かれる。

「どうしたらお主は心を開くのだ」

「俺が追っているのは蒙卑毒だ。白粉とは別の鴉片(あへん)だ」

 星は口をだらしなく開けて驚く。一刀は追撃するように口を開く。

「信用したわけじゃない。だが、そのしつこさに敬服した意味で信用しなくても話はしてやろう」

「なんとまあ無体な……」

 悲しむポーズ、知ったことじゃなかった。

「最初に魏に入ってきたのは――そうだな。一年くらい前だったかな。最初は漢方薬として流通した。痛み止めのな。俺も 黒粉には注意を払わなかった。払えなかった。当然だ。鴉片や芥子は白い粉だ。まさか、黒い粉に人を狂わす成分があるなんて思っても いなかった。俺は固定観念に縛られた薄ら馬鹿だった」

 一刀は唇を歪めた。

「気付けばシャレにならないほど中毒者と中毒予備者で溢れていた。一気に潰しにかかったよ。まず法規制した。手を出した奴は財産刑、売った奴は労働役。今まで よりも厳しくした。次に流通経路を潰した。検閲を普段の五倍は厳しくした。それなのに、入ってきやがる。あの手この手で入れて くる」

 更に――言葉を続ける。些か悔しさを滲ませながら。

「洛陽は広すぎた。都市としてでかくなってしまった。外省から入ってくる径路は二十を越える。消費される物量も途方もない。国が繁栄するということは 抜け穴も増えるということだ。完全に潰すことはできなかった。苛立っても、需要と供給、市場が出来てしまった」

 あの時の無力感――深淵から湧き出てくる怒り――歯軋りした。

 公安の人間までも薬の売買に加担していることもわかった。汚職と裏切り、把握できなくなった。何もかも一人で やるには敵が多すぎた。

 暗殺されそうになったのは仲間の高官を睨む仕事を始めてから。どこでも、仲間のあら捜しをする人間は蛇蝎のように嫌われる。

「売人を潰して径路を吐かせても無駄だった。完全に統率されていた。いや、情報統制されていたと言ってもいい。驚いたよ。よっぽど頭のいい奴がこんなクソッタレ な謀略を進めているなんてな」

「しかしお主は裏社会の人間と付き合いがあるのだろう。ならば探れるはずだ」

 尾けられていたか――多少は見聞きされていたか、それぐらいのことはやってくるか。

 侮ってはいけない。目の前の女もまた英傑であり、生き残ってきたのならば頭の回転が悪いわけではない。

 一刀は首を左右に降る。

「魏の裏社会のボスはまだ新参者だ。完璧じゃない。手に負えない荒くれ者達もいる。そういう奴らはまるで餅の ように悪事のためにくっついては散らばっていく。組織を作らない悪党ほど手に負えないものはない。薬の売買には そういうゴミのような奴らを使って来ている」

 ――あいつらは何も考えてないんですよ阿刀。

 李楊湖の苦々しい声が脳裏に蘇った。同意した。はした金で人を殺し。はした金で悪事をし、はした金で自分の身を売りさばいて いる。

 最初は李楊湖も薬の売買に関わっていると思った。違った。李楊湖は頭のいい男だ。公安を敵に回すより味方にして 安全に大きく儲ける。

 癒着でのビジネスしたいことは嫌というほど聞かされた。いなすのに気苦労したほどだった。

「なるほど……だが、首魁を追い詰めたのだろう。でなければ成都にお主ほどの人間が出向くわけない」

 星の推測は誤まっていた――追い詰めてなどいない。追い詰められたのはむしろ自分の方だった。

 一刀は目をつむった。真実を話すべきか。ぼかすべきか。後者の方がいい。不必要な情報まで与える事はない。

「ああ」

 言葉を切った。真顔を作りつつ。

「後は首魁の首を跳ね飛ばすだけだ」

「ならば、コトは簡単に済みそうですな。この趙子龍、微力ながら助太刀しますぞ」

 星の申し出を一刀は冷笑した。

「……お前はさ、裏切られたことがあるか?」

「私が裏切ると?」

 侮辱と受け取ったか、険しい顔つき。一刀は片手を持ち上げた。目に見えない何かがそこにあるかのように。

「俺は肉まんが好きでよ。二年ほど同じ肉まん屋に通った。気さくな店の主人とは長話もするし、その娘の結婚相手の家まで 知ってる。生意気な姪っ子がいて、手を焼いていたのも知ってた。ある日、その肉まん屋で兵士とちょっとした会合した。薬の 取引現場の情報を察知したから、なじみのある場所で隠密に事を運ぼうとしたんだ」

 脳裏によみがえる。くだらないことを話した。天気、景気、うまい皮の蒸し方。

「俺のその日の捜査は頓挫した。見事に失敗したよ。情報が漏れてた。肉まん屋の亭主は情報屋紛いの仕事をしてたんだ。裏社会のな。何気ない顔で、俺から 話を引き出そうとしていた。俺は二年、公務について話したことはなかった。二年間、ジッと待っていたんだ。俺からボロが 出るのを。執念だよな。俺はその店主を縛にして、聞いたよ。なぜこんなことを――金のためだと言った。極道者には 逆らえないと言った。俺は肉まんが嫌いになったよ」

 一刀は燃え盛る炎を見た。その中に何か答えがあるかのように。何もありはしない。どこにも、何も。

「俺は人を信用しなくなった。特に利害関係が目に見えてわかると、極端に神経質になる。悪く思ってくれて構わない。 魏と蜀は表面的には友好国だが、一皮剥げば敵国だ。俺と仲良くするのは君のためにもならない。俺が君の立場なら 放って置くね。触らぬ神に崇りなしだ」

「そう言いながら、私の助けが欲しいと見える。事情を話したのはそのためだろう」

 素早い返答――イヤになるくらい人を見抜く資質を持っている。

 否定はしなかった。もう信用できないわけじゃない。話せばわかった。高潔な性格が見え隠れしているし、 知性もある。悪事に加担するような人間にもう見ることができない。

 利用できる者は利用したい。だが一抹の不安もある――本当に信用できるか、どこまで許容できるか。あの薬の裏側に潜む 途方もない闇を見ても尚も平静を保っていられるかどうか。

 不意に――妙な気配を感じて一刀は顔を上げた。星はすぐ傍まで来ていて、手が胸元に伸びていた。後ろに回して体をいやらしい 手つきで撫で回す。

「……おい」

「なに、あの曹操の情夫を篭絡したとならば……とても面白いことになりそうだと思ってな」

 星は一刀の上着の腰紐を解く。一刀は未知の生物に会ったかのような顔つきに変化する。

「お前は一体何を考えて生きているんだ」

「おおっ、なかなかの筋肉……赤い唇も、この頬から顎にかけての輪郭も、実に私好みだ」

「……お前はどこかの中年親父か」

 星はにやにやしながら下腹部へ手を持っていき、無遠慮に股間に手を突っ込む。

 グッと握られる。

 一刀はため息を吐いた。

「お前は……」

「星でよい」

「なら俺も一刀でいい。星は……俺と交わりたいのか?」

「いや、それはない。私とて意中の人と結ばれたい」

 ないのか――落胆のような、安堵のような気持ちが胸中で渦巻いた。星はにやけた口元を隠そうともせず、瞳を 輝かせた。

「ただ少し、一刀殿の場合――少し虐めたいのですよ」

 嗜虐心が垣間見えた。

 こいつマイペースな上に性格が曲がってやがる――一刀は心底そう思った。熱い舌が頬をなぶった。呆れの余り自分を支えている芯が折れた気がした。



























 金葉(ジェンヨー)、龍呉(ロンゴ)、尖健(ジィアンジィエン)、助利(ズゥリィ)。四人の腹心。四人とも一刀が 死ぬほど嫌いだった。だから一刀は四人が好きだった。四人とも失った。悔恨だけが残っている。

 密偵に出した金葉は最後に手紙を出してきた。文面は簡素なものだった。

 もうすぐ終わります。こう辛いものばかり食わされてると、隊長がご機嫌伺いで食わせて くれる飯の方がまだマシに思えてきますよ。

 蜀の料理は辛味が多いので有名だった。塩味と言ってもいい。金葉の舌には合わなかったらしい。含み笑いをもらした。 流通経路の解明と組織の首謀者の解明、それが金葉に託した命令。

 手紙には続きがあった。読み上げると、目を覆いたくなる内容だった。

 龍呉と尖健が死んでもう半年です。今も夢に見ます。貴方と鬼人の一騎打ちに巻き込まれて死にました。貴方には 責任がある。誰も彼も貴方に巻き込まれている。貴方には最後まで戦う義務がある。俺もまたその義務がある。俺達 五人は警部じゃない。卑部になってしまった。何もかも貴方のせいだ。俺達はずっと貴方が嫌いだった。だが、感謝もしてます。俺に鬼人の首を 抉り取る機会をくれた。俺が二人の仇を取ります。

 それから、手紙は来なくなった。報告もなくなった。消息は途絶えた。死を意味していた。

 一騎打ちは今も続いている。剣戟を繰り返す金属音は耳元で響いている。身を護る鎧は全て破壊された。手に持つ剣も最早危うい。

 ならばもうこの口で相手の喉下を食い破ってやる――そう誓った。悲しみのあまり誓わずにはいられなかった。

「一刀殿、少々提案があるのですが……ぬ、一刀殿?」

「あっ、ああ」

 轡を引いて一刀は生返事を返した。我に返った。隣で馬を操る星はジト目を作った。

「何を呆けているのですか?」

「太陽が眩しいせいかな。日差しに弱いんだよ。夜行性だからかな」

 街道から外れた平原、ところどころにぽつんと生える針葉樹の葉がひらりと目の前に落ちた。生い茂る草木から湿っぽい匂いがした。山谷を越えながら周囲を確認する。 人の気配はない。

「今は曇りですぞ……昨晩、二度も出したせいですか。やりすぎましたな」

 星は手をニギニギと動かした。一刀は顔を赤くして逸らす。星のような端整な顔つきなものが卑猥なことを言うと、 余計に生々しく感じてしまう。

「まあ、それは良いとして、提案なのですが……まず、わが国の警部尚書長官と会ってみてはいかがですか?」

「正直……気が進まないな」

「なぜ?」

「そっちの警部尚書長官は黄忠で、副官が馬超だったか。昔、国境沿いの捕り物でもめてな。あんまり頭にきたから川をせき止めて 崖の上から水ぶっかけてやったんだよ。アレ以来かなり険悪になったな」

「子供かお主は……なんてことをするのだ」

 暑い日だった。山賊の一団を追い詰め、頭領を捕まえる寸前で邪魔が入った。山賊の頭領は演技上手だった。 眉目秀麗な男だった。蜀に保護を求めた。逃げられたくなかった。逃がしたくなかった。

 だから強行な手段で蜀の部隊をハメた。

「しょうがなかったんだよ」

 一刀は鷹揚に肩を持ち上げ、すくめる。

「副官の馬超は魏嫌いで有名だった。というより、華琳が嫌いなのかな。敵愾心もあって、見せ掛けの情にほだされて俺達を一歩も通さないという風に凄んできた。仕方ないから引くフリをして 罠にハメた。こっちとしてもずっと追いかけていた奴だった。逃がしたくなかった」

「まあ、臨機応変に対処することも大切だと思うが……」

「あいつは死ぬほど怒ってたな。会ったら絶対俺は首ぶっ飛ばされるぜ」

 一刀は少しだけ愉快そうに笑った。細身の茶髪、端整な顔立ちは歪み、髪が逆立っていた。全身ずぶぬれで長槍を投擲してきた。憤怒に 燃える瞳、槍をかわして薄く笑って手を振った。

 しばらく笑って、一刀は真顔に戻る。

「とまあ、感情でいけばそんなものだが。仕事としては話を通そうとは思っていた。非公式に、だ。仲介を頼める なら頼むよ」

「承った。まあ、これで楽しみが増えた。是が非でもお主を翠に会わせなければならんな」

 それが馬超の真名であることは一刀はわかっていたが、聞こえないふりをした。



























「殺すっ!」

「まあ、落ち着け翠」

 ガンッと鈍い音を立てて槍と槍が交差した。ギリギリと圧力が加わり、拮抗している力。

 星は涼しい顔だったが、翠は鬼気迫る顔だった。星の存在に感謝しつつ、一刀は両手を広げた。

「水かけただけで殺さないでくれよ」

「うっさいっ! アンタあの時私になんと言ったか覚えてるかっ!」

 一刀は思案した。過去の記憶を手繰り寄せた。思い出せなかった。ただ、奥の席で座っている黄忠が指先で座れと促してきたので、席についた。 面接をするような形。実際に部下と面談しているのだろう。執行室としての部屋の広さは申し分ない。

 部屋の奥に机が置かれ、左右には長椅子が陳列され、調度品なのか、壷や花瓶が飾られている。壁紙も純中華風で、 西方から伝わってくる西洋文化の影はなりをひそめている。

「なんて言ったっけ?」

 一刀は訊ねた。翠は顔を赤くした。

「『よっ、水もしたたるいい女っ!』って言ったんだよっ!」

「褒め言葉ではないか」

「そうねぇ」

 星と紫苑は軽い口調で感想を述べた。翠は腕を震わせて叫んだ。

「小馬鹿にした口調だった! しかもテメェで水をかけておいてそれを言うかっ!」

「悪気はなかったんだ。悪意はあったんだがな」

「あるってことじゃねぇかああああっ!」

「まあまあ翠よ。悪気がないところは評価しようではないか」

「同じ意味だよぉおおおおっ!」

「はいはい。皆静かに北郷さんも翠ちゃんを虐めないでね」

 パンパンッと手を叩いて場の沈静化を図る。だが、一刀は唇を歪めた。

「好みの娘は虐めてしまうんだ。許してくれ」

「なっ、なに言ってんだよっ!」

「おや、何ということだ。こんなところに隠された色恋沙汰が」

「静かにしなさい」

 紫苑は眉根を寄せ嗜める。今度は三人も静かになった。紫苑は卓上で指を絡ませて一刀を見つめた。

「さて、魏の刺史様は何をお望みですか? 護衛もつけず、単身でこられたのにはそれなりの理由があるのでしょう」

 一刀は微笑んだ。

「秘密旅行ですよ。息抜きですね。まあ、研修も兼ねてます。こちらの警部騎馬隊はとてもいい案です。五区に分け、 大通りごとに配備している。馬の使い方を熟知した者が考えた分け方です。きっとこちらの騎馬隊は優秀なのでしょう。実に効率的で素晴らしい。そういうもので、うちも見習うべきところが多い」

 一刀は言葉を切った。反応を伺ったが、額面通りの言葉を受け取って照れているのがいるのが翠、微笑んだまま反応を見せないのが紫苑。

 御しにくいのか――心の中で警戒するべき人物として記す。

 傍らに立つ星――面白くないという表情。黙っているなら黙認したということ。無視した。

「情報網もまたいい。要所要所に民間人を使って何かあったときの連絡網もしっかりしている。駆けつけるのも早ければ、 聞きつけるのも早い。詰め所詰め所に指揮権があり、応援を呼ぶ際の人員も確保している。犯罪数の減少は目を見張る ものがある。素晴らしい功績ですよ。考えたのはどなたでしょうか」

「朱里ちゃんよ」

「孔明殿ですか。連弓の開発といい。実に聡明であらせられる」

「それで、要求は何かしら?」

 一刀は目を細めた。どうあってでも手に入れるべきものを要求する。

「資料を見せて頂きたい。この街の事件記録をまとめたものを。裁判記録も欲しい。独自で裁判権を持つ高官が裁いた事案も 欲しい」

 紫苑は悩んだふりをしていた。大げさに顔に手を充てて、指の隙間から一刀を見つめる。

「いいでしょう。断ったら許さないって目をしてるもの。怖いわ」

「ありがとうございます。わが国にもいらしてください。心より歓迎致しますよ」

 一刀は立ち上がった。横目で星をちらりと見た、星は微かに笑うだけだった。

 扉に向かい、外に出て行く。

 足音が次第に遠ざかる。紫苑はため息を吐いた。そして星を非難するように睨む。

「星ちゃん。あの人、どういう人なの?」

「天の御使い殿でしょう。なかなか活きがいいではありませんか」

「お前らのことは全部知っているぞ、っていう暗い目をしていたわ。朱里ちゃんが連弓を開発しているのも知っている。あれ、 秘匿なのよ。こっちの警備の仕組みも、編成も知っている。きっと私達の家族構成に至るまで知っているでしょうね。密偵の 頭領か何かでしょう」

「気味悪いな……やっぱり斬っといた方が良かったんじゃないか」

 翠は片目を瞑って不満げに腰に手を当てた。

「まあ……私の見立てでは我らを快くは思ってはいないようですが、完全に敵というわけではありませぬな」

「私の見立ててでは邪魔する奴は誰であろうが決して許さない、って感じね。あっちは我が道を行く君主ですもの、 その配下も似たり寄ったりというところかしら。うちの桃香ちゃんはのほほんしていていいのにねぇ」

 危機感を交えながら紫苑は頭痛を抑えるように頭に手を置いた。

「確かに悪い奴がする目つきだったな。それも相当辛酸を舐めた奴の目つきだ。ああいうのは手ごわいぞ」

「むぅ、随分とお二人は否定的ですな」

 二人は顔を見合わせた。そして呆れたような顔つきに変わる。

「災いの種は運んできて欲しくないわ」

「同感。星も遊びすぎるなよ。いざとなったら始末はつけろよ」

「おやおや物騒な……相手は魏武の高官ですぞ」

「関係ないわよ」

「関係ないな」

 仇為すなら容赦をするな、そう言われている気がして、星は頷いた。

「末席とはいえ、私も蜀の将、わかっているとも」

 星は一刀が手をつけなかった茶を飲んだ。苦い味が口内に広がった。



























 情報――成都の地図。扇状に広がった街。民家、手工場、商家、酒家、各行政施設。

 中央に首城、長江の支流の岷江が流れている。中央に水路をつくり、街の生活水にしている。人口は八十万 とも百万とも言われている。人の出入りが激しく、省都との行き来は激しい。上下左右に街道があり、物流の 拠点となっている。

 情報――街の要注意人物。三人のマフィアのボス。表向きの仕事をそれぞれ持っている。税払いが良く、尻尾を 出さない。捕まえたとしても小物。既に裏社会は掟を作り、見せ掛けの仁義を作っている。

 警部の汚職事件――人数が少ないせいか、癒着しているせいか、腐っているのか、数は少ない。概ね贈賄で小物が 掴まり、簡単な刑に服した後に別の職務につく。縁故採用の比率が異常に高い。そういう気性なのか、惰弱なシステムには 吐き気がした。

 情報――白粉。一ヶ月の逮捕事件は三桁を割る。概ね、中毒者が暴れまわって掴まる。罪刑は魏よりも遥かに軽い。 危機感が薄いのか、それとも劉備は更正を信じる性質なのか、現在では不明。

 知りたい情報――鬼人。記載なし。それらしい噂が一行ほどあったが、鬼人という文字は見つからない。

 知りたい情報――黒粉。流通量が圧倒的に少ない。白粉が九割。黒粉が一割。黒粉の物価指数は白粉よりも高い。 効能や被害についての記載は少ない。あまり熱心でもないのか。事前に知っていたが、驚きは隠せない。洛陽とは真逆の数値。

 疑問点――源泉があるのは成都、ならば源泉こそ黒粉が蔓延していてもおかしくはない。しかし、現実は違う。何かが 狂っている。どこかがおかしい。薬は金だ。鬼人は金を求めずにいられない人間だと思っていた。人物像に修正がかかる。

 影が作るシルエット、嘲笑い。暴力と権力を武器に人々を操り、謀略を毛細血管のように巡らす。相当な大物であることしか まだわからない。男なのか、女なのか、高官なのか、マフィアなのか。いずれにしろ、必ず探し出してくびり殺す。

 呉の情報が欲しい。呉の黒粉の内情はどうなっているのか――調べるには時間が足りなさ過ぎる。ツテがない。密偵からの 連絡は待っていられなかった。

 疑念――金葉は自分の命を賭けてまで流通経路を暴いた。その情報が間違っているのか。

 否、漢中の役員は言っていた。三ヶ月前まで入ってきたいたと。間違いなくこの国のどこかに源泉がある。

「あっ、あのぉ〜……」

 目を通していた書類から顔を上げた。扉はいつの間にか開いており、目深く帽子を被った少女が伺うように一刀の 様子を見ていた。

 一刀はバサッと机の上に書類を置いた。目の前の少女は困っていた。確かに書類室の惨状はひどかった。引っ掻き回した残骸、 ところかしこに散らばっている。

「ああ……片付けるよ。すまなかった」

 書類をいくつか手に持って収納棚や本棚にしまっていく。巻物を丸め、一つ一つしまう。

 一刀は少女が書庫の整頓係か管理係の類だと当たりをつけた。その証拠に一刀が散らかした書類を元の場所に 淀みなく戻している。

 背伸びをしている姿が可愛らしかった。服装は高官が着るような格式ばったものだったが、どこかの高官の娘がわざと そんなものを無理やり着せているのだと考えた。

「悪いな」

「いえ……」

 無言でお互い片付けに没頭する。あらかた終わったところで、一刀は少女に向き直った。

「一つ道を尋ねたいんだが、この成都で一番治安が悪い界隈はどこかな」

「……えっと」

 地図を広げて見せる。少女は目を丸くしたが、恐る恐る指で示した。住宅街の内、貧民街と思われる区間。

 視線を移した。ぽっかり空いた石壁の外。宵闇が訪れている。街が炎の薄明かりに包まれ、ほのかに光っている。

「ありがとう。君は親切だ。だが、忠告させてもらうと俺のように素性の知らない男にむやみに近づくものではない。 とても危険だ。以後気をつけるように」

 肩に手を置くと、少女はビクッと体を震わせた。一刀は微笑んで、懐から水飴の包みを手渡した。そしてその場を立ち去った。



























 暗闇の中の道、軒を連ねる母屋、ぼろきれを着た住人、道端にうずくまる物乞い。暗い目で空を見上げたまま 動かない男。道端で酔っているのか眠りこける男。

 一刀は歩きながら正気を保ってそうな男の前に立った。アパートの壁際でぼんやりしていた男、一刀の顔を見ると だらしない顔でよだれを垂らしながら視線を向けた。

「なんだぁ……」

 一刀は不意を突いてその顔面を殴打した。男は壁にぶつかってうめき声を上げた。一刀は男のボサボサの髪を 握り締めて顔を無理やり上げさせる。

「白粉をやってるな。どこから手に入れたものだ」

「いきなり何しやがるっ!」

 もう一度殴った。繰り返す作業。男の目に恐怖が混じった。一刀は薄く笑った。嗜虐心がこみ上げてくる。だが、 殴るにも値しない相手だ。

「やっ、止めてくれよぉ、一体なんなんだよぉ……」

「白粉を売ってる奴を探している。俺も白粉が欲しいんだ」

「俺もほしぃよ。だが、金がねぇんだ」

「売ってる奴のことを教えてくれたら、金をやるぞ」

 目の前で茶巾包みを吊り下げた。男の目に卑しさが混じった。

「そっ、そうは教えられねぇって……筋者が関わってるんだし……」

 一刀は微笑した。もう一度殴った。今度は手加減なしで。男の歯が飛んだ。男はうめきながら這いつくばった。

 周囲の人間が何事かと集まってきた。貧民街の薄っぺら仲間意識。一刀は後ろを向いた。

「面白いか? 見ていて。お前らもぶん殴りたいか?」

 凄むと、誰もが視線を逸らした。刃向かう活力を持っている奴はいなかった――馬鹿野郎どもが。胸中で呟いた。

「あっ、アンタ……刑部の人間か?」

 わかっているのか――そういう匂いがするのか。気配でわかるのか。一刀は首を振った。

「違う。純粋に白粉が欲しいんだ。俺の目の下のクマを見ろ。頬もこけてる。お前と同じ面をしているだろ。薬が 切れた時の症状だ。お前は今ぶっ飛んでいる。お前のような奴を痛めつけたくてしょうがないほどイライラしてる。話せよ。薬が きれてやばいんだよ」

 狂気の形相――作る必要がなかった。怒りと憎しみを表に出すだけで容易に作ることができた。

「うそを……いっ、いや、もう殴らねぇでくれよ……櫂船酒家ってとこで……注文するとくれるんだよ」

「どこにある」

 地図を見せる。男は地図に指を刺す。一刀は茶巾袋から銅銭を取り出し、投げつけた。地面に落ちた銅銭、男は顔色を変えて 金に手を伸ばした。

「うっ、うへ」

「なんて注文すればいい」

「かっ、簡単だよ。白湯を二人前頼めばいいんだ。一人でいくことが条件なんだ」

 卑しい顔と声を滲ませ、男はにやけた笑いを見せた。

 一刀は去り際ににその男の顔を蹴り飛ばした。男が失神した。散らばって音を 立てる銅銭、その音を聞きつけてて我先へと群がる人々――どこもぶつけることができない憎しみが湧いてきた。



























 白湯を二人前頼んだ。こじんまりとし、古ぼけた酒家を切り盛りする中年夫婦、厨房で白髪の中年男が鍋を振るい。ウェイトレスをしている四十代かそこらの女は 一刀の顔を見て腰に手を当てた。

「どれほど欲しいんだい?」

「これでどれだけ買えるかな?」

 チャラチャラと銅銭がテーブルの上に転がった。小銭ではなく、それなりの額。一家五人で一週間は食っていける 金。

 上客と思ったか、女は油にまみれた顔を歪ませた。ひったくる様に一刀の置いた金を掠め取った。

「待ってな」

 女は店の奥に消えた。他のテーブルに居る客は麺をすすっているが、チラリと一刀を見る者もいた。まともな人間ではないことは 服装を見ればわかった。この吹けば飛ぶような酒家に似合わないシミのない反物。

 裏社会の人間の溜まり場。ここで何か面倒を起こせば近くの詰め所から清龍刀を持った人間が押し寄せてくる。

 女は茶巾包みを取り出し、テーブルの上に置く。

「やり方はわかるかい?」

「吸い込めばいいんだろ」

「分量を間違えると死ぬよ。気をつけな。小さじの半分で一回分としては丁度いいよ」

 一刀は茶巾袋を手にとって懐にしまった。中年女に視線を移す。

「小姐、俺の友達にもこの店のことを紹介しても構わないかい?」

 女は胡散臭そうに一刀を見つめる。

「どういう友達かによるね」

「俺は色んな遊びがしたいんだ。友達も色んな遊びがしたい。そのためには、こういう楽しい薬がないと楽しみ が半分になっちまう。定期的に仕入れたい」

 一刀は自分の外見がわかっていた。貧民街に寄った後に着替えた。貴族の師弟。昔言われた言葉。ギラギラの金刺繍の半纏、背中に 白金の龍。赤い帯は長く、だらしなく見えるように。

「そうかい。遊びはほどほどにしといた方がいいんじゃないかい」

「父さんはよくそう言うけど、父さんだって昔は遊んだって言ってたよ」

「なら仕方ないねぇ」

 中年女は舌をなめずりしているように見えた。

「今度はいつくるんだい?」

「この量だと、すぐ使っちまうから……またすぐ来るよ。その時に切らさないようにしておいてくれるかい?」

「わかったよ。何か食ってくかい?」

「ごめんよ。家の物以外は口にしないことにしてるんだ。母さんに外の物は汚いから食べるな、って言われててね」

 中年女の顔に明らかに侮蔑の視線が混じった。気に入らないという態度、だが、すぐに可愛らしい猫を見つけたかのように 優しい顔つきになる。

「そうだねぇ。まあ、食べたくなったら言えばいい」

「わかった。まあ、今日はこれで失礼するよ。また来るよ小姐」

「いつでも来な。アンタを見てると出て行った息子を思い出すよ」

「嬉しいよ」

 その内、その顔面を地べたに叩きつけてやるからな――今の返答を正しく訳するとそういう言葉になる。一刀は微笑んだまま 店を後にする。

 大通りを歩くと顔が強張った。あの店に火を付けて燃やしてやりたくなる。暴力的な衝動が抑えられず、拳を 自然と握り締めた。

 出て行った息子? そんなものが本当に居るのかどうかも怪しかった。アンタは息子に薬を売りつけるのかと問うてやりたかった。

 まあいい――今は餌をまく段階だ。

 白粉を買っていれば、その内に黒粉にも手を出せるようになる。流通しているのは白粉だ。黒粉はどうにも 勝手が違う。勘に過ぎないが、この街では黒粉は何かある。

 洛陽では違った。白粉は黒粉の圧倒的な物量と安さで駆逐されようとしていた。白粉を扱っていた裏社会の人間は 慌てた。慌ててボロを出しまくって一刀に蹴り上げられることになった。

 問題は黒粉を仕切ろうとする奴だった。洛陽で黒粉を仕切っていたボスを殺すために尖健が死んだ。捕まえるためには潜入捜査をやるしかなかった。情報を 手に入れるためには自らも闇の中に飛び込むしかなかった。

 俺に狗の仕事だけじゃなく、鼠の仕事をやれって言うんですか――尖健は激怒しながら言った。自分を恨んでいるのを 知っていた。自分を憎んでいるのも知っていた。それでも、頼れるのは自分を憎んでくれる四人だけだった。

 そうだやれ――それが俺の命令だ。冷徹に言った。尖健のおかげで大規模な薬の取引現場を叩くことができた。黒粉を 仕切っていたボスの一人を始末できた。その引き換えに尖健は報復して目玉をえぐられて喉を掻き切られた。

 アンタのせいだ――恨み言は脳髄に染み込んで消えない。必要な犠牲とは言えない。言えるはずがなかった。

 だが、言ってやった。心底憎んで欲しかった。

 俺を憎め――だが、俺はお前達を誇りに思っている。

 残った三人は散々泣き叫び、罵った後に一刀を赦した。赦すしかないことを知っていた。自分が死ぬほどずるく汚いことを一刀は知っていた。

 と。

 人にぶつかった。一刀は短く謝った。ぶつかった人間は一刀を気にすることもなく人ごみに消えた。

 中央通り、軒を連ねる商家。蝋燭の明りが一番輝く通り。露天商のように天幕を張り、物を売る者達。大勢の町民が 道を埋め尽くし、歩き回っている。

 食い物が大部分だが、工芸品や反物、貴金属や生活用具までも売っている。賑やかな喧騒、夜になってもまだ 人々は商売に精を出し、顔に笑みを浮かべていた。

 赤い灯篭の光に一刀は目を細めた。頬に一筋だけ涙が落ちた。



























 宿をどこかに取ろうと思った。できなかった。気がつけば騎馬隊に包囲されてしまった。

 下唇を舐めた。官憲に取り囲まれるのは二度目だ。気分のいいものではない。いつも自分が犯罪者に対してやっていることだが。それでも 理不尽なものを感じた。

 目に見えない圧力が肩に圧し掛かる。雰囲気は物々しい。虎の森に迷い込んだ野鹿のような気分だった。

「北郷一刀殿ですね。我が主が貴方にお会いしたいと」

 声は綺麗なものだった。女の鈴のような声。

「俺は会いたくない……と言っても、会わなきゃなさそうだ。貴女の主となると劉備様か?」

「左様」

 黒髪の艶やかな女は馬から下りた。暗がりで表情は見えない。一刀は両手を広げる。

 顔を見た覚えがあった。いや、旗を見ればわかった。関と書かれた文字。劉備の最大の腹心。圧力に満ちた声色。

 からかってやるか――面白くない気分を込めて口を開いた。

「俺は自分で言うのもアレなんだが。酷い無礼者だ。俺を劉備様に会わせるのはお勧めしない。外交問題にな ってしまうかもしれないし、こんな月の綺麗な夜は若い女に男は近づけるべきではないと思う」

 一刀は空を見上げた。下弦の月。切れるようなほっそりとした月。

 愛紗は幾分か不快に思ったか、声に苛立ちを混ぜる。

「私はついて来いと言っているんだ」

「わかった。わかったよ。落ち着けって。会うよ。こんな夜に会わせるのはそれなりの理由があるんだろう?」

 普通ならば昼間にしか会わない。玉座にふんぞり返り、高官を囲み、見下ろしながら用件を問いただす。それなのに、夜に引き合わせるということは密談がしたいと言う意味だ。少なくとも、 そう一刀は受け止めた。

 愛紗はそっぽ向いた。

「桃香様が夜更かしをしたいと言ったのだ……お主にそれなりに興味があるらしい。ジタバタ駄々をこねて私の言う事を聞かん。寝てくれ ないのだ」

 愚痴っぽく言ってくる。馬鹿げたくだらない理由に一刀はめまいを覚えた。少しだけ倒れそうになったが、持ち直して促されるままに馬に乗った。

「しかし……貴公は派手な格好だな。魏では皆そうなのか?」

 自分の格好を見下ろした――貴族の師弟が着る派手な服装。着替えるはずだった。もう遅い。

「言うなよ」

 一刀はうんざりしながら吐き捨てた。



























「失礼します」

 愛紗に先導される形で洛陽城を歩き、官憲の宿舎の部屋の一室で足が止まった。

 間取りはそれほど広くなかった。というよりも、仮にも王を名乗る者の部屋とは思えないほど部屋はこじんまり としていた。

 勿論、ベットは豪奢なもので、天井に括りがあり、桃色のカーテンがかけられていたが、それ以外の調度品は 目を見張るものはなかった。

 寝室と思われるその部屋には二人の女が居た。一人はベットで両足をくの字型に開き、女の子座り。一人は立ったまま 一刀を見つめていた。両方とも武勇に優れているように思えない。

 俺が殺手(殺し屋)だったら死ぬぞこいつら――そう一刀は思ったが、促されるままにテーブルの横の丸椅子に座った。

「こんばんわ。貴方が魏の刺史さん?」

「ご機嫌麗しく劉備様。此度は……」

 恭しく礼を取ろうとすると、枕が飛んできた。驚いて顔を上げると、桃香は勝ち誇ったような顔をしていた。

「畏まった挨拶はいーよ。砕けて話そ」

「とてもそのようなことはできません。貴方は王であり、私とは身分違いです」

 なんだ、礼儀はあるではないか――愛紗の小言が背中を殴打した。

 一刀は笑い出しそうだったが、その調子で優雅に微笑んだ。

 できるなら――色々と問い詰めてやりたかった。必要な情報を吐かせてやりたかった。もしも後ろに虎がいなければもっとやりようがあった。だが、今は まずい。まだその段階ではない。

 その段階が来たならば――皇帝だろうが、どこの誰であろうが決して容赦せず叩いてやる。

 誰も信用するな――偏質狂ような考え。頭の隅で静かに燃えている。

「うーん、じゃあ、別にそのままでいいからさ。色々聞きたいんだけどいい?」

「なんなりと」

「華琳さんは元気?」

 瞑目した――最後に見た顔、霞んでいる。黒粉、部下の死、焦燥する神経。憑り付かれたように仕事にのめり込んだ。

 嫌われてはなかった。疎んじられてもいなかった。ただ、遠くから見られていた。遠ざけてしまった。

 頬の筋肉が痙攣した。怒りとも、悲しみとも言えない感情が濁流のように押し寄せてきた。

 落ち着け――考えないようにしていたことを突かれただけで、動揺するな。

 一刀は歯を噛み締めた後に微笑んだ。

「とても元気ですよ。最近は壷に絵を描くのが楽しいと言ってました」

 デタラメだった。何が好きだったのか、もう何もわからない。わからなくなってしまった。

「そっか。良かった。でも、うまくいってないんでしょ。そんな顔を今チラッとしたよ」

 ふふん、と悪戯を見つけた少女のように意味ありげに微笑んだ。

 この野郎――一刀はこみ上げてくる怒りを飲み下した。

 貴様に何がわかる。黒粉のせいで骨と皮になった多くの人間を見たのか。死ぬこともできず、愛する家族を 裏切りながら薬におぼれる人間を見たのか。

 ちんけな薬のために善良だった者が人を傷つけ、更なる痛みをもたらすあの生き地獄を見たのか。血で血を洗う戦場よりも酷い煉獄だった。悲しみも 怒りも叫びもそこにあった。

 剣でも、金でも、情でも、法でも救えなかった。絶つしかなかったのだ。欲望の元を。黒粉の源泉を焼くしかないのだ。人は 清廉潔白ではいられない――誰もが浅ましい心がある。誰もが欲望と戦う強い意思があるわけではないのだ。

 だから俺が代わりに戦うしかないのだ。あの哀れな者たち代わりに全てに挑むしかない――絶え間ない激情は胸をしめつけた。

 一刀は首を振った。微笑みを作る作業。怒りを消す作業。心がヤスリで削り取られるかのようだった。

「あはは、わかりましたか。いや、私も努力してはいるのですが、なかなか乙女心というものは難しい」

 柔和な顔を貼り付けた。桃香は人差し指を立てた。

「華琳さんはきつそうだからねぇ〜……ねぇねぇ。二人きりの時ってどういうことして遊んでるの?」

「そうですね……」

 意味もないくだらない会話が続いた。一刀は懸命に応え続けた。開放されたのはそれから一時間かそこら 経った時だった。

 洛陽城の宿舎を使っていい――お客様なのだから。申し出は快諾した。だが、今日のような無駄話にまた付き合わされる と思うと寒気がした。

 心を落ち着かせるために中庭に出た。綺麗に刈り取られた芝生。庭師が手入れした池。池に浮かんだ月を見ながら 心を鎮めた。

 全ては八つ当たりだ――あの女は能天気なだけで、何も悪くはない。悪いのは自分だ。悪いのはうまく立ち回る ことができない自身だ。

「……俺がもっと賢ければ」

 力のなさをいつも恨む。だが、結論は変わらない。ないものねだりはするな、今できることだけをしろ。

「あの……」

 か弱い声に一刀は振り返った。

 石像のように桃香の隣に佇んでいた少女、朱里は些か警戒しながら距離をつめてくる。一刀は警戒を消すために 微笑んだ。

「やぁ、諸葛亮さんか。なかなかいい月夜だ。静かで、虫の声もしない。ただ冷たい空気と微かな風が心地いい。こんな 日だから、散歩したくなる」

「えっ、ええ……その」

 言いにくそうに、顔を下向けては上向ける。一刀は自身の視線が重しになると思ったか、視線を戻した。

「私は星さんから聞きました。桃香様と愛紗さんは知りません」

「星は口が軽いな。困った人だ」

 だが予想の範囲内だ――星が喋れば喋るほど、黒粉の話は蜀に蔓延する。すると、それを追う自分が付け狙われる 可能性が高くなってくる。

 楽しい――三度暗殺されかけて、そう思うようになった。誰かが殺しに来るということは、そいつは情報を少なからず 持っているということだ。鬼人の喉元が見えてくるということだ。

 ならば歓迎できる。ならば誰に裏切られても平気になれる。

「いや、星さんが口が軽いわけじゃないんです。ただ、私に一刀さんを助けてあげて欲しいって……」

 勇気を振り絞った声だった。

「なるほど、俺を助けてくれるのか。ならその前に俺からどうしても確かめたいことがあるんだが、いいかな」

「はぁ……」

 一刀は朱里との距離をつめた。微笑みながら、すぐ傍まで寄り、ゆっくりとした動作で朱里の口元を隠した。朱里は きょとんとした。

 そして――空いたもう一方の手に光る刃。

 朱里は目を見開いたが、刃先が自身の目の前にあることと、一刀の冷たく暗い目を見て動きを止めた。

「質問をする。首を横か縦に触れ。嘘を言ったり、どちらも選択しなかったこの場で殺してどこかに埋める。外交問題 なんて本当は俺はどうだっていいんだ」

 むぐっ、と声を出そうとした余韻がこぼれる。一刀は優しく微笑んだ。それが逆に恐ろしかったのか、朱里は顔から 血の気を引いた。

「お前は黒粉の取引に携わっているな?」

 首は横に振られる。冗談じゃないという風に。

 一刀は瞳を覗き込んだ。赤い目の奥底まで見透かすように見つめた。

「お前の知っている人間は黒粉を持っているのを見たことがあるか? 今度は十秒やるよくよく思い返せ」

 朱里は瞳を上向けて思案した――十秒経つ前に横に振られる。

「俺は正直、お前か劉備が少なからず携わっていると思っている。ぶっ殺してやろう思ってる。一方的に決め付けてる。俺は手段を 選ばずに黒粉の首魁を殺す。逮捕なんてしない。殺してやる。それでも尚も俺の手助けがしたいと思うか?」

 今度は目に見えて顔がしかめられた――だが、迷いはなかった。首は縦に振られた。

「良し……これから手を離す。だが、叫ぶのはなしだ。叫んだら俺は逃げるし。正直、この街の警邏兵とは敵対する 形になるのは良しとしていない。最悪の場合は仕方ないと思っている。この行動は全て覚悟の上だ」

 手を外した。朱里は怒っていた。怒っていたが、激情で叫ぶのを恐れてか、剣呑な態度を示すだけで、一言も 口を聞かなかった。

 だから一刀は先に声を上げた。

「お前と劉備を疑ったのには理由がある。魏に災いがあって利となる人間だからだ。黒粉を蔓延させれば国力が 低下する。蜀は単独では魏の六分の一程度の兵力しかない。耐えず恐れているはずだ。何とかしたいと思っても なんら不思議はない。俺がお前の立場で、必要なら悪辣な手を染めるかもしれない」

「疑いは晴れましたか?」

 低く静かで怒りの成分が全面的に混じった声――一刀は苦笑した。

「九割は白だと思っている。一割はまだ疑ってる」

「くぅぅう……」

 朱里は納得いかないという風に唸った。一刀は「そういう性質なんだ」と言い訳がましく言い、親指サイズの小剣を懐にしまいながら 視線を逸らした。

 先ほどの恫喝と剣呑な雰囲気は完全に消えていた。何もなかったという風に一刀は空を見上げた。

「俺に協力してくれるか。協力してくれるなら残り一割を消してやってもいい」

「なっ、なっ、なんて傲慢な……私は色々と言いたいことがあるのですが」

 憤怒と打算で百面相をしていると朱里を見、一刀は薄く笑った。

 脅す、すかす、丸め込む。簡単な手だったが、これで朱里は確実に奔走するだろう。この屈辱的な日が忘れられずに目の色を変えて。

 こいつは鬼人じゃない――些か残念でもあった。早々に尋問する機会が与えられた時は天の采配かと感じていたが。

「盟友なんだろ」

「だっ、誰がですか」

 怒りの割合が理性を吹き飛ばそうとしているのか、声は上擦っていた。

「星さ。他ならぬ盟友の星が君に俺を助けてやってくれと言ったのなら、頑張るしかないよな。期待してるよ」

 片目を瞑って肩を叩いた。朱里は膝をついた。怒りの余り途方に暮れたようだった。

 一刀は笑いながら宿舎に戻った。しばらくして天に向かって吼えるような甲高い声が響いたが、もう関係なかった。



























 仇を討ってくれ――誰かが言った。誰だったか。思い出せない。

 黒粉の捜査はどこからか足を引っ張られる。

 工部からの通達『その辺りは俺達の開発地域だ。建設中の建物がある。絶対に立ち入るな』その場所で黒粉の取引があった。わかったのは 遅すぎた時だった。捕まえることができなかった。

 黒粉の捜査はどこからか足を引っ張られる。

 礼部からの通達『この積荷は外交特史の物だ。封を切ることなど許さん』その荷物に大量の黒粉が積まれていた。わかったのは 遅すぎた時だった。防ぐことができなかった。

 黒粉の捜査はどこからか足を引っ張られる。

 部下からの報告――取引現場を押さえましたが、黒粉は消えました。裏で売りさばいて金を手にする部下達。信じていた はずの部下――どこにもいない。

 疑心暗鬼になった。暗い泥の中で泳いでいる気分だった。違う。最初から自分の居る場所は泥川だった。気づかなかった。 ずっと清廉な川を泳いでいると能天気に思っていた。

 泥を除くことなどできない。気づいた時は笑ってしまった。だが、同時に地の底から湧き上がる怒りをあった。

 泥川の中にいるのならば、それ相応の泳ぎ方をするまでだ。

 警部の中で、卑部を作った。権力、既得権益を監視する人間。仲間の粗を探し、仲間を捕まえ、仲間に唾を吐きかけて 真実を求める仕事。汚れ仕事の中の汚れ仕事。

 仇を討ってくれ――それは自分自身の声だった。

 こんな境遇に追い詰め、こんな仕事をさせた者。こんな辛酸を舐めさせてくれた奴――全てを賭けて滅ぼしてやる。



























「一刀、久しぶりですね」

「貴方もお元気そうで」

 椅子に腰掛けた。豪華な椅子、座り心地が最高に良かった。調度品に金がかかっていた。素人の目を見ても 金がかかっていることがわかった。

 西洋文化に影響されているのか、飾られた工芸品に中華とは違った美しさがあった。中でも目立ったのが彫像の人魚姫だった。一刀は それを見た時、少しだけ目を見張ってしまった。

 鼈甲と翡翠で作られた中華と西洋の人魚姫――苦笑することしかできなかった。骨董品や美術品の収集家だと聞いていた。

 礼部の特派員の所在地。蜀の中の異郷。魏から派遣された男。一刀は何度か言葉を交わしたことがあった。何度か 一緒に飯を食ったことがあった。戦乱が終わった後、文官として仕官した理知的な光を持った男。物静かで柔らかい物腰が特徴的だった。

 稟が太鼓判を押し、風が手腕を褒めていた。三十代後半だったが、年相応の老獪さも垣間見えた。

 階級は――一刀と同じ刺史。だが、一刀は文官として目の前の男の方が優れていることはわかっていた。近いうちに尚書に昇格する という噂もあった。高官として最上位になる。

 自分はお飾りで、あっちは本物。話しているとそういう現実がぶら下がる。それが少しだけ嫌だった。だが、認めない わけにはいかなかった。

「私のことは阿明でいいですよ。それにしても、話を聞いてびっくりしました。私を驚かさないでください」

「阿明。俺は非公式にここに来ている。呼び出しには応じられるが、貴方の公務を邪魔したいわけじゃない」

「何をおっしゃるか。私達は魏という国の一つの家族のようなものではないですか。飲茶はいかがかな」

 給仕が蒸籠を運んでくる。蓋が取られると、中には焼売が詰まっていた。白い湯気が沸き立つ。茶が用意される。

「最近の流行は白葉茶と言うものでして。なかなか甘い香りがするものなのです。女性と飲む時にこれを勧める ときっと気に入られると思われますよ」

「阿明――」

「何か困り事ですか一刀。顔を見ればわかります。私ができる限りなら、協力しましょう」

 一刀は首を振った。できるならば何も知らない親しい人間は巻き込みたくなかった。

 部隊長の凪、真桜、沙和。あの三人が良い例だった。黒粉の捜査からは全て外した。あんな物に触れてしまえば精神が歪むと思った。ヒイキだが、そうせざる 負えなかった。

「阿明、貴方はここで平凡にやっていればこのまま出世できる。俺のようなひとでなしと付き合う必要はない」

「ひとでなし、と来ましたか……私にはとてもではないが、貴方がひとでなしには見えない」

 茶を啜り、阿明。実際の名前は環明。環明は細い糸のように目を細めた。髪は油でひとまとめに後ろに流し、歳を取ってはいるが充分に 二枚目として通じている。

 だが、妻子がいることも一刀は知っていた。愛妻家だという噂も聞いた。一度、奥方に会ったことがある。穏やかで心優しい以外に取り得はなさそう だったが、好印象を持った。

 平穏な家庭を持った有能な男。それが環明という者の印象だった。

「黒粉の首魁がここに居ると確証を掴んだ。貴方を巻き込みたくない」

 眉がぴくりと動く。顔色は変わらないが、瞳の輝きは強くなった。

「なるほど……随分と手を焼きましたが、やっとその外道を処断できるのですね」

「ああ……だが、俺はうまくいかないという確信もある。通常の手では無理だ。だから、荒っぽい手も取るつも りだ」

 一刀も茶をすすった。甘い味はしないが、甘い香りはした。茶の表面に浮く小さく白い花。センスが感じられた。

「穏やかではありませんね……」

「阿明、俺を見なかったことにした方がいい。そうすれば累が及ぶことはない」

「一刀は私のことを少し勘違いしてらっしゃる」

 一刀は訝しげに環明を見る。環明は相好を崩して焼売を齧った。

「私は元々は商家の息子です。利には誰よりも聡い。貴方に協力を申し出るのはそれなりに私に有益なことが あるからなのです」

「俺に何ができるって言うんだ。貴方も知っていると思うが。名ばかりの男だ」

「名ばかりな男でも、私の息子を警部に入れてくれることくらいできるでしょう」

 意味がわからなかった。一刀は首を傾げた。環明は視線を落とした。

「私の息子は……出来が悪い。私が厳しくしすぎたせいもありますが、とても文官にはなれない。才のないろくで なしです。しかし、私は親心から何とかしたい」

 ようやく、話が読めてきた。官としてのそれなりの立場を与えるように便宜を図ってくれ。縁故採用の典型例だ。

 華琳は能力主義を採用している。だからこういう事例は許されない。目を盗んで不正をやれということだ。

 また、環明は自分の礼部に息子を招けないのを知っている。真っ先に槍玉に挙がるからだ。

 一刀は少し笑った。誰もが清廉潔白ではない。わかっていた。それがまたわかって面白かった。悲しかった。

 普段の自分なら――断った。諌めた。何を言っているのかと言った。もうできない。

「阿明。俺が誰よりもそういうことを嫌いなのを知っててそう申し出るのか?」

「ええ、ですが貴方は私と似ている。目的のためには何も気にしない。矜持も信念も捨てると」

 環明は間違っている――だが、正しい。何もかもが捻じ曲がった世界だ。矜持も信念も移り変わる。

「押収物の書庫番が高齢でね」

 言葉を選んだ。

「近々退任だ。代わりに若い者が欲しかった。退屈な危険のない場所だ。だが、その分給金がいいし、しっかり護っていれば 出世も図れる。俺が生きていればそういう真面目な者には必ず報いる。さて、向いている人材はいるかな?」

 環明の笑みは深くなった。一刀は何を要求するべきか考えていた。環明は実業家だ。野心家だ。蜀で安穏と しているわけがない。

 必ず、何かしら商売をしている。その商売がこじんまりとしているわけがない。この部屋を見ろ。蜀の王よりも 豪華な部屋だ。ここは宮殿のような屋敷だ。

 金は力だ。力はあらゆるものを制する。

「一刀、私と貴方は心臓を握り締め合う。構いませんね?」

「馬鹿なことを言うなよ。俺はただ、人材を探してるだけだ。ただ少しばかり目が霞むかもしれないが」

 どうしてこうなってしまったのか――どうしてこんなことを言ってしまうようになったのか。

 わからない。ただ、体の中にあった輝かしい剣は錆び、折れ曲がり、相手を殺すためだけに特化した異形の姿になった。

「おっと、これは失礼しました。茶のおかわりは如何かな?」

「貰うよ」

 環明の手からお茶が注がれる――何もかもがおかしくなっている。頭からつま先までトチ狂ってきている。もう後戻りはしないと決めている。



























 新たに手に入れた情報――高官の名簿。

 三省六部を地で行っていると思っていたが、蜀では更に役職は細分化されている。一つ一つの単語を吟味する。どうにも、個人が全体の仕事を把握できないようになっている。

 例えば、何かの会計をしても、それが何の会計なのかわからない仕組み。不正を未然に防ぐ努力。システムを 見るだけで手に、肌にその涙ぐましい努力が伝わってくる。

 人口推移、外省人の対策、会計帳簿――税収、財政についての明細は見ることはできない。ただ、どこに 流れているかわからないようなブラックボックスマネーは必ずある。腑に落ちない点が多い。必ずどこかに無理がある。

 いや――この金の流れを漠然と追うだけでは時間がかかりすぎる――もっと荒っぽい手を使ってやる。

 一刀は唇を舐めた。何もかも厭うつもりはない。何をしてでも、目的を遂げる。

「あのぉ……」

 急な声。一刀は顔を上げた。手にした書簡を机に置いた。眼鏡を外した。細かい字を見るようになってから、眼鏡を つけるようになった。

 似合ってないわ――華琳が言っていた。その通りだと思った。

 扉から顔だけを覗かせているのはどこかで見たことがある少女だった。魔女が被るようなとんがり帽子、鍔が広く、 円状に広がっている。

 瞳は不安と何か使命を帯びたような弱々しい光があった。昨日、書類を片付けるのを手伝ってくれた少女だった。

「何か?」

「あのぉ……朱里ちゃんが、執務室に来てくれって……後、その……」

 ためらうように顔を下向け、しばらく思い悩む。だが、決意したようで顔を上げる。

「ばっ……」

「ば?」

 一刀は眉根を寄せた。何か伝えにくいことでもあるのかと思った。

「バーカ」

「……」

 兎が敵に追われたかのような素早い行動で少女は姿を消した。慌てたような足音。

 一刀は椅子の背もたれに体重を乗せた。天井を見た。黄ばんだ木目が見える。

「昨晩の……意趣返しか、諸葛亮め」

 罵詈雑言には慣れている。だが、思いもよらないところから思いもよらない言葉。

 一刀は目頭を摘んだ。頭を振りかぶった。少し傷ついたことに気づいた。



























 部屋に入ると朱里は眩しい笑顔で一刀を出迎えた。一刀は頬をひくつかせたが、そのまま部屋に入って部屋の 中を観察する。

 両脇にびっしりと埋まった本棚、中央奥に黒の重厚な机、扉のすぐ傍に長方形の四足テーブル。それほど高さはない。恐らくこの部屋の 主人の目線に合わせている。テーブルには小ぶりの竹篭が三つ乗っている。

 中身は千々に千切れた黒い葉。どっさりと積み重ねられている。

「一週間前に押収したものです。一応魏のものと相違ないかどうか確認を取ろうと思いまして」

 一刀は竹篭に手を伸ばした。一欠けら手に持ち、噛んだ。その後で、窓の外に吐き出した。

「こいつは売り物にならないな。押収したんじゃない。拾ったんだろ」

「なっ」

「純度が低いと言ってもいい。失敗してる。乾燥させる時に高温で湿気のある時にやっちまったんだろ。もっと 口に含んだ時に甘い味がする」

 一刀は黒粉を摘んで朱里の口元に差し出した。朱里はためらった後、口に咥える。

「にが……」

「そう、非合法な麻薬とはいえ、手入れを怠ると失敗する。雑菌が入り、成分が破壊されてしまった。効き目が 半減すると……ってお前食ったな。なぜ吐き出さなかった」

 朱里は欠片を喉の奥へと啖呵し、慌てた。

「はっ、はわわっ! 食べちゃいましたよっ!?」

 自分で食っておいて何を言うか――。

 一刀は頭痛をこらえるように顔を手のひらで覆った。口にしたものを何でも食べるとは子供のようだった。

「大丈夫だ……そんなもんじゃ中毒にならない。よく麻薬と聞くと脊髄反射で忌避する者がいるが、分量と 用法さえ間違えなければ痛み止めとして摂取してもいい」

 動揺から立ち直ったのか、朱里は自らの体に異常がないことを確認すると、一刀に向き直った。

「それで、魏と同じものですか」

「ああ……そうだな。同じものだ。恐らく、これはスケープゴートとして押収させたんだろ」

「すけーぷごーと……」

「見せ掛けの身代わりのことだ。これを押収させて、警部の面子を保たせたんだろ。或いは油断させた。代わりに本物を取引する。目くらまし みたいなもんだ」

 一刀は部屋の隅に置かれている椅子を持ち上げ、中央に置いて座った。

 テーブルに肘をつき、立ったまま思考の海を泳いでいる朱里を見る。

「成功すると、人間は調子に乗る。これを押収させ、ひと満足させればやりやすくなる。狡猾なクズが考える ことだ」

 吐き捨てた。屈辱を味わう度に経験を積み上げた。見抜けるのはそのためだ。

「……一刀さんは相当知識がおありみたいですが、黒粉について教えてくれませんか?」

 一刀は片手を持ち上げた。

「茶をくれよ。長い話になる。喉が疲れる」

「そのように」

 鈴の音が響いた。侍女が飛んできた。エプロンドレスのような服が特徴的だった。恭しく用件を承り、茶の 準備が行われる。

 一刀は茶が運ばれるまで黒粉を睨んだ。分量としては少ない。大体、二、三キロ。それでもこれが本物ならば 小さな家が一軒建つほどの金になる。

 茶が運ばれてくる。ツマミなのか、豆大福のようなものが置かれた。

「あっ、君可愛いね。どう、今日の夜にでも街に一緒に行かない?」

「えっ、えっと……」

「一刀さんっ!」

 朱里が若干、キレ気味に叫んだ。一刀は肩をすくめた。先ほどの意趣返しを更に返すためだったが、少しは 効果があった。

 髪のウェーブがかかった侍女はおどおどしながらも役目が終わったことを察して足早にその場を去った。

「うっ、噂通りの方のようですね……」

 笑顔のまま引きつった顔、一刀は微笑んだ。

「種馬だったっけか。不名誉だったが、まだ子供はいない。役目が果たせていないんじゃ、その名は俺に似つかわしくない」

 子供――何度か考えたことがあった。子供ができたならば変わっただろうか。警部の仕事など金繰り捨てただろうか。自分の分を弁え、小賢しく 生きることができただろうか。

 考えても仕方がない――だが、拭いきれない悔恨だった。

「いっ、いい加減にしませんと……私にも限界がありますよ」

 ピクピクと痙攣する頬、朱里は相当無理をしているようだった。一刀は潮時を悟って神妙な顔つきになる。

「率直な意見を聞きたいんだが、麻薬について君はどう思ってる?」

「あってはならないものです。医療用の痺薬でならば考えますが」

「では、麻薬をやる奴についてはどんな風に思う?」

 歯がかみ合う。朱里は若干悲しみを見える。

「……人生に悲観した人とか、悪い人とか……何か心に闇がある人だと思います」

「なるほど、君はそういう特殊な人間が麻薬をやると思っているようだが、真実は違う」

 一刀は八重歯を見せた。少しだけ皮肉るように。

「どこにでも普通の人間が麻薬に手を出す。いくら高潔な奴でも、いくら善良な奴でも、ほぼ間違いなく手を 出させる魔法の言葉があるんだ」

「そんなものがあるんですか?」

 腑に落ちないという表情で朱里は一刀を見つめた。一刀は朱里を手招きして呼び寄せる。そして内緒話を するように耳元に唇を近づける。

「『これを使うと女を抱く時の快感が何倍にもなる』」

「なっ――」

 朱里は飛びのいた。一刀は再び真顔に戻った。反応を楽しむようなまねは今度はしなかった。

「もっと味のいい料理を食べたい、もっと綺麗な服を着たい、もっと居心地の良い家に住みたい――欲望だ。 人間と欲望は切り離せない。どのようにして付き合うかでその人間の人間性が決まる。ただ、いつも同じ距離感を 保っていられる奴は少ないよ」

 薬に手を出す者たち――魔が差した、こんなつもりじゃなかった、ほんの少しだけなんだ、言い訳は聞き飽きた。好奇心が 刺激されたのわかっている。

 淫乱な女を抱きたかったんだろ、遊びたかったんだろ――そう言ってやった。それだけが全てだ。

「往々にして男が女に薬を使わせるのが常だな。比率としてそれは現れている。勿論、例外もある。女の方から 薬に手を出す場合もある。性交は快楽だ。快楽を増幅させるのは味のいい料理を求めるのと何ら変わりない」

「っで、でも、善良な人なら踏みとどまることもあるんじゃないですかっ!」

「勿論。だが、魏ではこんな噂話も広がった。『黒粉を使って性交すれば、子供ができやすくなる』。迷信かも しれないし、本当にそうかもしれない。戦乱が終わり、家族が死んだ者にとって新しい家族を求めて止まない ものだった。悲願と言ってもいい。卑劣だよな。悲しみにも喜びにも付け込んだ。あの手この手さ。黒粉を扱っているのは権謀数術に 長けた最悪の野郎だ」

 学のないものは簡単に引っかかる手。噂話の流し方もまた妙だった。黒粉の常習者を使い、噂話を巻けば黒粉の 値段を下げて渡してやると言う。

 鼠算式に増えていく患者――一もう何人売人の首を跳ね飛ばしたか覚えていない。

 生首を片手に脅し、他の売人を問い詰めたことがあった――どこに鬼人がいる。どこから黒粉を持ってくる。

 真相はいつも見つからない。人と人の繋がりは追い続けても、どこかで途切れた。相当用心深い奴だった。歯噛みした。目つきが 険しくなった。どこにもぶつけることのできない怒りだけが蓄積していった。

「通常は黒粉は磨り潰して湯に溶かして飲む、または鼻の粘膜、或いは秘部にすり込んで使用する。噛んでもいい。白粉と大差 ないが一つ違うのは葉の状態で持ってきても使えることだ。形として液体や葉でも入ってくる場合がある。面倒だぜ。酒樽の中に紛れ 込んでた時もあった」

「……恐ろしい人ですね。この成都にその首魁がいると思うと身震いします」

「人間じゃないかもしれない。人面獣心ってやつだよ。人の皮を被った鬼だ」

「人相とか……名前とか、わからないのですか。一刀さんはその人を追ってここに来たと思っていたのですが」

 一刀は静かに首を振った。絶対的な強い確信があるわけじゃない。疑問点もある。だが、感じている疑問点を 朱里に伝えたくはなかった。

 幾つかの符号――鬼人の正体は不明だが、鬼人の考えは少しづつ理解することができるようになった。その思考 は策略によって浮かび上がらすことができる。

 もしも俺が鬼人なら――なぜ蜀に居るのか、何をしようとしているのか、共感できるところもある。

 この身を闇に沈めてこそわかったこと。戦い続けて理解できた感覚。話してもきっと理解してくれないだろう。

「鬼人という名前しかわかってはいない。ただ、必ず見つけ出してやるさ」

「私たちの国ですので……あまり勝手なことされても困るのですが」

「そうだな……引くところは引くよ。だが、俺も含みがある身だ。多少のことは折衷して欲しい」

 引くつもりなどこれっぽっちもなかった。邪魔する奴はどんな奴でも叩き伏せてやる――と。一刀は違和感に 気づいた。

 どうにも、朱里の様子がおかしかった。何かを我慢するかのように小刻みに指先を痙攣させている。顔色も 悪い。白かった首筋が赤くなっている。

「体調が悪いなら休んだ方がいい」

「いっ、いえ……まだ色々とお聞きしたいことが」

 それならばなぜ顔を逸らす――一刀は疑問符を浮かべながら観察する。しばらくして、思い至る。食べてしまった 黒粉の出来損ない。その効果はそれなりにあったか。

 内股でもじもじとし、両手を重ね、逸らした瞳は涙でうっすら濡れている。

 ああ――少しだけまずい。

「効能として、神経が過敏になる。よく滋養強壮など肉体を強化する薬が持てはやされるが、その割りには神経が 強化される薬は売られない。なぜなら、筋肉よりも遥かに神経は繊細だからだ。神経が強化された状態が続くと、 損傷する可能性が出てくる。そして神経は多くは元に戻らない」

「えっと……」

 言いながら、手招きする。朱里は熱に浮かされたように一刀に近づいた。一刀は少しだけ残念そうに笑みを浮かべた。

 頬に手を当てると、肌は滑らかだった。柔らかく、瑞々しく、曇りがない。

「別に君は何一つとして悪くない。普段より色欲が増しても仕方がないことなんだ」

 かぁ、と顔が赤くなった。

 一刀は手を頬から肩に廻した。引き寄せて、抱き寄せる。甘い匂いが強くなった。体臭は独特で、脳髄が 痺れるような香しいものだった。

 抵抗はそれほどなかった。拒否するように腕が上がったが、すぐに捻じ伏せる。

「意中の人間がいるなら、そいつを呼びに行こう。いないなら俺が相手になる。つまるところ、今の君は酷く 男にとってみれば魅力的に見えるようになっている」

 全身から伝わってくる色気――誘いこむ空気。弱々しい仕草の一つ一つが囮に見える。誘蛾灯に似ている。手を出すと火傷をするとわかっていても、手を 出さずにはいられない。

「あっ……」

 手を胸元に差し込む、ボタンとボタンの隙間に。乳房を揉み、頬にキスをした。

 空いたもう片方の手でスカートをまくって太ももに手をつける。白いもっちりとした肌、欲望に火が付く。自制する。 耐えることには慣れているが、下腹部に血流が流れ込むのは防げない。

 一刀は軽く舌を歯で噛んだ。流されてはいけない。

 下着まで手が到達する。反応はないが、朱里は状況を見守っているように見えた。一刀の股間をチラリと見、顔を更に 赤くさせていた。

「期待してる?」

 首はすぐ振られる。少ない理性をかき集めて逃れようとする。両碗に力を込めて押さえつける。逃げられないことを口実にする必要がある。

 すぐに身じろきは収まる。逃げられないことを悟ったが、大声は出そうとしない。

 一刀はすぐに朱里の下着に手をかけた。下着越しにそこを撫でる。朱里は弾かれるように反射した。少しだけ 笑みがこぼれた。

 クレパスをそっと撫で、指を押し込んだ。荒い呼吸が聞こえた。どちらの呼吸だったのか。混ざっているのか。

 一刀は手を動かし、刺激した。水気のある音が静寂に満ちた部屋に響く。朱里は恥じるようにきつく目を縛った。

 指先で刺激を加え、徐々に激しくしていく。朱里の体は折れた。たまらないという風に。だが、すぐに元の位置に 引き寄せた。

「あっ……うっ!」

 段々と閉じていた口からも声がもれた。頬を涙が伝っていた。涙を舌先で舐め取った。快楽は薬で増幅されて いる。病み付きになるほど――心地いいはずだ。

 下着の中に指先を滑らせ、膨らんだ陰核をねじった。朱里は閉じていた目を見開いた。一刀に視線を向け、口を 開けては閉じる。

「うぅうっ!」

 達するうめき声と共に体が痙攣する。一刀は両碗の動きを止める。今まで補給できなかった酸素を取り込むように朱里は全身から力を 抜いて一刀にもたれかかった。

「はぁはぁ……わっ、私は……なっ、なんてことを……」

 後悔するような声色――それでいて、自らの体が別物に思えているようにも見えた。

「まだやり足りないだろうが。我慢しろ。味を覚えられても困る」

 言い捨てて、一刀は朱里を自らが座っていた椅子に座らせ、立ち上がった。指先についた粘液を舐め取った。

「うぅう……つっ、冷たい人ですね」

「しょうがないだろ。俺は今、死ぬほど我慢してるんだ。これ以上は俺がまずい。一回手伝ってやったんだから 俺の責任は果たした」

 と。朱里は視線を一点で止めた。一刀は視線の先を見た。自身が膨らませているモノ。ズボンの上から隆起して いる。

「見るなよ」

「その……今度は私が手伝ってあげましょうか」

 潤んだ瞳――どこか期待に満ちている。

 どうやら人物像を見誤ったと一刀は思った。もっと大人しいものとばかり思っていた。いや、こういう好奇心が強いからこそ文官として頂点に立っているのか。

 朱里は一刀の返答を待たずに距離をつめ、ズボンに手をかける。瞳はぎらついたものへと変化している。

 一刀は断るつもりはなく、なすがままに自身を露出させた。

 朱里はそれを未知のものに接するように不思議そうに見、顔を緩ませて手を伸ばし、掴んだ。

 と。

 戸が音を立てて開いた。一刀はギョッとして顔を向けた。

 そこには朱里の伝言を一刀に伝えに来た少女――雛里がいた。

「朱里ちゃん、やっぱり私もお話を……」

 顔を覗かせ、状況を理解した段階で雛里は静止した。時が止まった。

 一刀は思った――俺にもう一度、時を越える力をくれ、と。



























 充てもない散策――手がかりを求める。

 複数の売人と接触、白粉はあるか? どんな種類がある? 黒粉はあるか?

 大抵の奴は首を横に振る。あれはなかなか手に入らない。仕切ってる奴がいる。そいつが流すが、そいつは 滅多に流さない。

 誰が仕切ってる?

 お前は警部の人間か? 目つきが鋭くなる。李楊湖の名前を出す。目つきは緩くなる。警部の体臭を消すために 薄汚れた服を着る。豪奢できらびやかな服を着る。演技をする。別の誰かになる。金をばらまく。

 どうしても手に入れたいなら桐(トォングー)に会いな――そいつはどこにいる?

 知らねぇよテメェで探しな――葉貴餐(ヤーグィサァン)のとこの下っ端だよ。

 葉貴餐、成都のマフィアのボスの一人。資料を探す。構成員は百人弱。前科はなし。南方にある竜泉地区の縄張りを持っている。 酒家の用心棒達をまとめている。警備会社のような役割。ただ、本質はごろつきであることは間違いはない。

 拠点はどこにある――円舞酒家の二階だよ。尖がった建物だからすぐわかる。概観だけ見に行く。確かに 針のように屋根が伸びている。

 葉貴餐に会うか――地面を固めてから会うべきだ。まず桐に会わなければならない。出方も決めなければならない。一人で行くほど 命知らずでもない。

 袖口から茶巾袋を取り出した。金は確実に目減りしている。戸行に預けた金は引き出しにはいけない。引き換え券 である割符があるが、この国では使うことはできない。

 人を使うには金がいる。割符を担保に環明から後で金を借りるとして、狗(いぬ)を何匹か飼いたい。情報を集めてくる狗。 野に放っていて損はない。毛並みが悪い者から毛並みの良い者、あらゆる狗が手元に欲しい。

 と。

 遠くから陶器が派手に割れる音がした。露店商が連ねられた中央道夕刻市、大規模な小売業の達の集会。その一角で喧嘩が起こっていた。

 喧嘩は毎日にように見る光景で、別に不思議なことでもなんでもなかったが、一刀は興味本位で人ごみの中をすり抜けて 殴り合っている者達の顔を見る。

 グシャグシャになって地面に散らばった黒い茸。飛散している売り物。岩茸は貴重品だ。地面から突出する山の岩壁に生えている。成都平原が 広がっているせいで山脈を連想する者は少ないが、山の幸がないわけじゃない。

 三人の男達が一人の男を殴っていた。いや、ヤキを入れられていると言った方が正しいかもしれない。一方的な 暴力。傍観者は誰もがつまらなそうな顔だ。

 止めるべきか――どうせ官憲が来る。この国の警部の縄張りを荒すべきではない。

 一刀は会話を拾った。払いが遅れている、誰のおかげで商売――ヤクザの地場代。特に見物だとも 思えなかった。

 ただ――首領格の男に見覚えがあった。鉢巻を大きくして眉まで隠していたせいで、気付かなかった。

「助利……」

 失ったと思った部下。それが二人のヤクザ者を抱えて商人を叩き伏せている。

 前に出ようとしたが、コトは終わってしまったようで、三人は引き上げようとしていた。人垣のせいで思うように 進まない。

「助利ィッ!」

 叫んだ。振り返った。助利は一刀の顔を確認した。驚き――すぐに収まる。表情の読めない平坦な顔、小刻みに唇が動く。

 今はまずい。明日の明け方にこの場所で会おう。

 唇の動きだけで理解した。三人は遠ざかっていた。一刀は立ち尽くしたままそれを見送った。



























 金葉、龍呉、尖健、助利、何百人もいる警部の者、責めに来たのはたった四人だけだった。

 押し寄せる外省人――ルールを護らない奴ら。ルールを知らない奴ら。悪化していく治安。綺麗事で生きていくにも限界がやってきた。それでも 限界までは綺麗事を貫いた。そのつもりだった。

 洛陽の極道者、李楊湖と手を組んだ噂はすぐに広がった。誰も責めに来なかった。誰もが仕方ないとわかっていた。部隊長の中で 一番正義感が強い凪まで目を瞑った。一刀のことが好きだから――責められなかった。

 四人は言った。疲労困憊になった体を突き動かしながら、ろくに眠らずに仕事をして倒れそうになりながらも。

「どうして極道者となんか手を組むのですかっ! アンタは警部の者全てを裏切ったひとでなしだっ! 俺達はまだ やれる。見くびるんじゃないっ!」

 金葉が代表して言った。冷笑した。ひとでなしでなることで治安が護れるのならば――悲しみが減るのならば、 それでいいではないか。

 清廉とした正義感を突き通してどうなる。汚汁を被ることを恐れては何もできないではないか――この理屈は 正しいようで間違っていた。それがわかっていて、どうしようもなかった。

 軍隊を動かせばそれなりに解決するだろう。だが、常に軍隊を動かし続ければ莫大な金が必要になる。負担はすぐに 民に行く。それならば一番安上がりで確実な方法を取るしかないじゃないか――殴られた。避けようとも思わなかった。

 四人は散々一刀を殴った後に赦した。赦してくれた。上官に手をあげることで死ぬ覚悟も固めていた。自分が失くしてしまった心を 四人は持っていた。羨ましかった。憎らしかった。だからどんなに嫌われても好きだった。

 鼠の仕事。仲間を刺す役目を負わせた。負担ばかりをかけた。陽の当たる場所から暗がりへ押しやった。それでもなお 正義を持っていることができる者達だった。

 二人の死体は見た――残りの二人。生きていてくれと祈った。祈りは届いたのか。

「一刀殿、箸が進んでおらぬではないか」

 遅めの夕餉――星はレンゲを中空で軽く振った。

 猫のように目を細め、一刀の所作を観察していた。一刀は首を振った。

「うまいよこれ」

 麺をすすった。味など感じなかった。磨耗した精神が味覚を失わせている。

「宮廷面点師が作った麺ですぞ。このアワビなど、この国では滅多に口にすることができませんよ」

「乾貨にして、戻しをするのも手間がかかるんだろうな」

 蜀から海は遠い。何千里も越えてやってくる海産物。長江の川から何百種類の魚は取れるが、海のものは取れない。

 目の前の一杯だけでも相当金がかかっているのはわかった。宛がわれた客室も質素なものではない。

「ところで一刀殿」

「ああ」

「御仁は疎んじられていますぞ」

「わかってるよ」

 スープを飲んだ。海産物のダシの効いているだろうスープ。喉の奥に流し込んだ。味がわからなくとも活力は必要だ。栄養が 必要だ。

 自分を見る高官の目――敵を見る目。場違いな者を見つめる目。あからさまに嫌がらせはされていないが、早々に 立ち去れと誰もが言っている。肌でそれは伝わって来ている。

 表向き、歓迎はされている。過剰なくらい。それでも異端者であることは変わりない。

「まだ呉の者ならば良かったのですが」

「ついこないだまで敵国だ。いや、今も仮想敵国かもな」

 自嘲するように言った。戦の禍根は消えない。事実として残っている。家族を失った痛みはそうは癒えない。

「わかっていますならば早めにコトを終わらせなされ」

「そうもいかなくてな……まあ、手はいくつか打ったよ」

「ほぉ。例えば?」

「馬超に蹴られた。見ろよこの痣。ひでぇもんだろ」

 一刀は上着をまくって胸を露出された。くっきりと靴の痕がついていた。星はくすりと笑った。

「なんと言ったのですかな」

「『お前の騎馬隊を貸してくれ』」

「まだあるでしょう」

「『お前の隊が一番使えそうに見えた』」

「それぐらいでは照れはしますが怒りませんよ」

「『お前は別にいらないよ。油売っててくれ』」

「それはまずい言葉ですな」

「わかっちゃいたが、あんまり嫌悪感丸出しの顔だったんでな」

 一刀は捲くった上着を下ろした。テーブルに肘をついた。

 自室での密談、星は一刀の残した杯を凝視し、箸を伸ばし、麺を避けてメンマだけを掠め取った。

 一刀は気にした様子もなく、咎めなかった。もとより食欲は減退している。

「本音を言うなら諜報戦に慣れた者が欲しい。規律正しく力強い奴よりも――小賢しくて、金に汚くて、性格が歪んでる奴がベストだ。 そういう人材が欲しいな」

「なんとも……信が置けぬ者を欲しがりますな。それが魏の流儀なのですか」

「俺の流儀だ。ただ国に忠誠を誓う奴よりも、自分の欲望に忠実な奴の方が貪欲に目端が効く。しかも俺の場合は短期的に使う だけだ。信もなにも築けるものか。金のために動く奴ほど動向が読みやすくて使える奴はいない」

「うちの将が聞いたら耳を疑うお言葉ですな。人の絆を軽んじている」

 些か棘のある言葉――裏切りを繰り返されればわかるさ――一刀は議論するつもりはなかった。だから薄く 微笑んだ。

「俺を嫌いそうな将軍を教えてくれよ。なるべく、関わらないようにするからよ」

「皆、嫌いでしょうな。私も嫌いになってきました。厭世界的な言葉ばかり。それでは希望を持てませんよ」

 ぴしゃりとした物言い。一刀は嫌われていることを感じたが、逆に爽快にも思えてくる。真っ直ぐ嫌ってくれると 気が楽だった。

 気が緩んでいるのも事実――誰かに内情をペラペラと喋るべきではなかった。気を引き締めなければならない。

「好かれようなんて思っちゃいないさ。だが、協力はしてもらう。同盟国ならばその義務があるはずだ」

「なるほど、権威を振りかざしますか……どうやらこの趙子龍、見誤ったらしい。失礼する」

 星は一刀をきつく睨むと、席を立った。一人残された一刀は茶を一口飲んだ。

「手は一つづつ、打って行くか……丁寧に」

 呟いた。味方がいなくなれば、後は敵だけだ。敵の姿を見るためならば、手段は選んでいられない。何も厭う つもりはない。

 荒らしまわってやる――声に出さず、そう誓った。



























 歯車の音が聞こえる。金属が噛み合う音。歯車は何かを形作っている。歯車は何かを作るためにある。その全体像を見ることができれば、鬼人 が誰なのかわかる。

 いや――もう既に鬼人に会っているはずだ。もう既にその姿の一端を目にしているはずだ。鬼人の視線は感じていた。あざ笑う声が聞こえて いた。奇妙な確信。闇に潜めてからこそわかる感覚。まだ確固たる言葉として形作れない。

 夢を見る。夢は最悪な夢だった。

 中年の乞食のような男を追いかけていた。クズのような男。黒粉を売りさばく売人。その男のせいで何人もの中毒者が出た。哀れにやせ細った死者がでた。

 追いかけ、捕まえた。

 ――なぜこんなことをする。

 言った。男は答えた。わからない。ただ、そうするように言われただけだ。そうするようにしたかっただけなんだ。

 ――誰に言われた?

 男の瞳孔は開いていた。青白くなった唇を震わし、発作のように胸元から短剣を取り出し、襲い掛かってきた。だから咄嗟に斬り付け、その首を 跳ね飛ばした。

 ためらいなどなかった。人殺しの腕は磨きかかっていた。人殺しは爽快さを感じさせた。

 憎らしい敵を討つ。気分が良くなった。自然に口元に笑みが浮かぶ。

 不意に背後からか細い声がした。自分の身長の半分しかない少女がいた。まだ十歳にも満たない少女だった。

 ――お父さん、どうして。

 瞳に光はなかった。少女の手に持った竹篭がどさりと落下した。自分が今、殺した者の娘だった。父の罪の許しを請うための 供物は泥にまみれて転がった。

 なぜ赦せないのか――どうしてこうなってしまったのか。全ての原点となった光景だった。全ての感情が収束された 地点だった。

 赦してくれ――そんな言葉は言えない。言えるはずがなかった。

 だから代わりに――殺してやると叫び続けるだけだ。



























 歓迎できないという顔つき――どいつもこいつも殴り飛ばしてやりたかった。

 怒りを静めた。小さな屯所の傍ら、人通りの少ない幹線道路に面した場所、目の前には三人の男、それぞれが 馬の手綱を持ち、一刀の前に佇んでいる。

 要請した人数は十人以上、来たのは三人。翠が嘘を言ったのか。紫苑が嘘を言ったのか。兵が嘘を言っているのか。 どれでも構わない。ただ、使える兵は三人だけだっていう話だ。

「知っての通り、俺は東魏の役人だ。お偉いさんって奴だ。ここだけの話だが、愛人はこの片手で足りないくらい居る。 羨ましいか?」

 挑発してみても、警邏兵は無表情だった。義務として来ているが、それ以上のことはするつもりはない。そんな態度。

「おい、お前。一月の給金はいくらだ?」

 金額が告げられる。一刀は唇を釣り上げた。

「この街ので取引される黒粉の情報を持ってきた奴にはその二倍くれてやる」

 三人は顔を見合わせた。そして渋面を作った。言わなくてもわかった。敵国の者から金を貰うわけにはいかない。特に貴様の ような者から金など貰いたくない。

 舐めやがって――怒る代わりに笑みを浮かべる。

「お前ら三人の名前は覚えた。もしも、ここでクビになっても俺が雇ってやる。給金もこの国よりも多いぞ。国力が 違う。どうせ豚小屋みたいな宿舎で複数人で缶詰になってるんだろ。俺は一軒家をくれてやるぞ。家族と安心して暮せる 仕事だ。故郷の両親を呼んで街暮しができるぞ」

 三人はまた顔を見合わせる。頬が幾分か緩んでいる。見せ掛けの忠誠心など利の前にすぐに崩れる。地位のない下士官は 掟に縛られているだけと言ってもいい。

 誰だって生活のために働く。家族のために働く。快楽のために働く――全ては金の力で支えらている事象。

「本当ですか?」

「本当だとも。隊の者にも話を伝えてくれ。仲間で行動した方が何かと便利だろ。俺は俺のために尽くす奴を愛する ことにしてる。そして俺は博愛主義だ。制限はない。頑張ってくれ。俺はここを拠点にする。俺がいなかったら、違う情報を 探しにいけ。もっと金がもらえるぞ」

 三人は弾かれたように行動を開始する。隊宿舎に駆ける者、目星があるのか真っ直ぐ通りを走って行く者。迷い ながらも馬を走らす者。

 概ね、満足な結果だと言えた。これで少しはマシになる――手のひらに汗をかいていた。

 ぬるりとした感触、こんな甘言を撒き散らせばどうなるかもわかっている。少しだけ恐怖心が芽生える――拳を握り締めて耐えた。

 昨日の中央通り、陽が昇ってからしばらく経った。馬で向かったが、朝市が終わり、片付ける商人達の姿が ちらほらと目に付く。

 助利――柱を背にして立っていた。

 痩せた体躯。高い背。鋭利な顔つき、三日月のように細く鋭い目。白い唇。褐色の肌。トレードマークの鉢巻。

 一刀は距離をつめ、馬から下りた。

「助利……まさか、生きていてくれるとは」

「久しぶりですね隊長」

 たまらなくなって抱き合った。残された者との邂逅、嬉しくないわけではなかった。一刀は涙を滲ませながら助利に視線を 合わす。

「今まで何をしていたんだ。なぜ洛陽に戻ってこなかった。金葉は? 金葉はどうなった?」

 二人組みで向かわせた――助利は字が下手だった。いつもそれを金葉が馬鹿にしていた。だから報告書はいつも 金葉が出していた。

 まさか字が下手だったから報告書を書かなかったってわけじゃないよな――浮かれる心が生み出すつまらない考え。

 助利は視線を周囲に向けると、一刀の手を引いた。

「人目がある。路地で話しましょう」

「あっ、ああ」

 促されるままに、大通りから離れ、貧民街の外れに案内される。石壁を背にして、助利は一刀を睨んだ。

「ずっ、助利、金葉は……?」

「隊長、なぜここに来たんですか」

 質問には答えず、責めるような声色――一刀は胸に手を置いた。襟元を握り締める。

「お前らが死んだと思って……他にいい密偵がいなかった」

「養成すればよかった。頭のアンタが来て何になるって言うんだ。アンタはいつだって俺達の話を聞かない。傲慢 だからだ」

「俺は――」

「ただの自己満足だよ。噂も広がってる。魏の警部の役人が来た。その程度だが、俺の潜入捜査の邪魔になった」

 一刀は目をつむった。言う通りだった。一分も反論できるところがなかった。

 視線を逸らして地面を見つめる事しかできなかった。

「すまない。連絡が途絶えてから居ても立ってもいられなかった……俺達の努力が全て潰れるのも時間の問題だったんだ」

「全部潰れてしまえば良かったんだ――そうすれば金哥も死なずにすんだっ!」

 愕然とした。手先が震えた。瞼が痙攣した。微かな期待は壊れた。助利が生きていたのならば、金葉も生きていてくれるかもしれないと思って いた。

 一刀は目をきつく縛ると、拳を震わせた。

「すまない……全部、俺のせいだ」

 苦渋の声。助利は更に目を細めた。

「そうだ。アンタが傲慢じゃなければ、黒粉はもう終わっていた。もうとっくに解決するはずだったんだ」

 冷徹な声色、一刀は地面に膝をつきながらも顔を上げた。

「それは違う――鬼人を」

「鬼人? アンタに鬼人の何がわかるってるんだ」

「見たのか助利、鬼人を?」

 問いかけると、助利は視線を逸らした。懐から煙管を取り出すと、紫煙を燻らせた。白い息が中空で消える。

「いや、直接見たわけじゃない。葉貴餐の野郎がそうじゃないかと疑っている。あいつじゃなかったとしても、 この街にいることだけは確かだ。そうじゃなきゃ――説明がつかないことが多すぎる」

「助利、お前は今何をしている」

「葉貴餐のところの幹部をやってる。黒粉を売りさばく仕事と取り立て業さ。何度かやばい橋を渡ったおかげで信用も厚い。情報を かき集めてる。だけど隊長、俺は怖いよ。ヤクザなんてやってると自分が本当にヤクザになったような気がしてくる」

 語尾は震えていた。助利は何かを考えるように瞑目した。

「隊長、アンタの下についてから三年だ。それなりに情も感じている。だから言ってやる。洛陽に帰りな。何もアンタまでやばい橋を渡る 必要はない。ただ俺みたいなクソッタレを使って上から指示してりゃあいいんだ」

「助利――」

「俺達四人は義兄弟の契りを交わした。金哥、尖哥、阿呉――アンタとは兄弟じゃない」

「助利――」

「金哥は誰かもわからないほどバラバラにされてドブ川にぶちこまれた。俺が鬼人を殺す。アンタは引っ込んでな」

「助利――俺は」

 俺は何だって言うんだ。何も言えない。口に出る言葉は余りにも軽すぎる。

 助利は煙管から灰を落とした。一刀はうちひしがれたまま頭を振り続けた。



























 悔恨――足枷。体が鉛のように重くなった。

 金葉――まだ自分と同じ変わらぬ歳だった。まだ世界を知る途中だった。いや、他の死した二人にも未来があった。輝かしい世界が広がって いるはずだった。

 なぜこうまでして暗い世界に居るのか――光のない場所でしか生きられない魚のように深海に居るのか。

 止めれば良かったのだ。何もかも放擲してしまえば――歯を噛み締めた。違う。選択は間違ったかもしれないが、 生き方は間違えていない。

 こうすることしかできなかった。こうすることが自らの信念であり、薄汚れていようが、これが自身の生き方なのだ。例え死したとしてもただ 自らを通す。

 そうでなければ――積み重ねた屍にどう報いる。

「貴様、やってくれたな」

 目の前に刃先が現れた。一刀は足を止めた。目の前に立つ憤怒の形相――愛紗が正眼に青龍偏月刀を構えていた。

 一刀は足先を変え、その横を無言で通り過ぎようし、肩を掴まれた。

「まっ、待てっ! 話くらい聞かんかっ!」

「お前の相手をしてる暇がない」

「――っ! 私が用があるのだっ!」

「俺には用がない」

 面倒そうに手を払って歩を進める。背後から増す怒りのオーラ、一刀は半歩横にずれた。先ほどまで居た場所に切っ先が唸り声を 上げて空を切った。

 一刀は振り返った。剣呑な視線――殺気が充満している。

「よくぞ避けたっ! だが次は――」

「あれか。後ろから攻撃するのがこの国の慣わしなのか?」

「むっ……いっ、今のは」

 あからさまにうろたえながら言葉を詰まらせる。怒りに任せての乱雑な突きだったのだろう。

 一刀は神妙な顔つきを作った。

「明後日、正式に洛陽城中庭で勝負だ」

「むっ……わかったっ! しかと承った」

「じゃあ、そういうことで」

 手を振って歩を再開する――が、すぐに走りこむ音が聞こえ、回り込まれた。

「ちょっ、ちょっと待て……貴様、来る気ないだろ」

「人を信じろよ。俺も東魏の刺史だぞ。我が誇りにかけて約束は違えない」

「むっ……」

 愛紗は視線を巡らせたが、頷いた。

 誇りなんてどうだっていい――一刀は心の中で半ば呆れながら呟き、視線を中空に向けた。空にはどんよりと曇った 黒い雲。厚みがあり、一雨きそうだった。

 これからどうする――ささくれ立った心を鎮め、思慮し、冷静に鬼人を追い詰める作業を開始するのだ。

 と。

「待て……待ってくれ。まだ私は用を言っていない。そして果し合いがしたいわけじゃない」

 また肩を掴まれる。一刀は肩を落とし、首を横に振った。

「何なんだよ。俺のことが好きなのか? 愛の告白でもしたいのか」

「違うっ!」

「だったら特に聞きたいとは思わない。どうせ小言と文句だ。しかも怒りを伴っての」

「わかっているのなら聞けっ! なぜ兵達を扇動するような真似をしたっ!」

 一刀は愛紗と向き合った。顎に手を当て、だらりと首を傾ける。

「必要だからだ。俺には手足がない。だから手足を作る。駒は多い方がいい」

「お前のせいで街の治安が乱れた。どう責任を取る。それに我が国の吏部の者達を騙し、人員名簿を掠め取ったな。何が目的だ。悪辣な ことを考えているとしか思えんぞ」

 怒気を含ませた声。鼻で笑った。

「騙される馬鹿が悪いんだよ。治安が乱れた? しっかり統率してねぇからそんなことになるんだ。他の奴は俺から直接頼んでないぞ。 他の奴を扇動したのはその三人なんだろ? 俺は三人しか使っちゃいない」

「貴様ぁっ!」

「俺を怒っても仕方ないと思うぜ。もう俺が流した話は成都中の警邏兵に伝わっていると思うし、俺も止めるつもり はない。俺を縛にして転がしたって俺は絶対に訂正しない」

 愛紗はしかめっ面を作って一刀を睨んだ。一刀は涼しい顔で受け流した。

「俺を制裁に来るより、諸葛亮ちゃんに知恵でも借りに行った方が賢明だ。まあ、そうしたらそうしたでまた別のやり方で 扇動するけどな」

「我らが軍師と知恵比べで勝てるとお思いか……」

「いや、勝てない。だが、俺は小物なりに小賢しい奴なんで、それなりに引っかき廻してやるさ。負け戦なら負け戦 なりの戦い方がある」

「やはり……皆の言うように斬るべきか」

 愛紗は腕に力を込めた。一刀は冷たい視線のまま、薄笑いを浮かべた。

 嫌悪ここに極まりか――どうだって良かった。

「折衷案を出す。俺の最初の要求通り十人寄越せ。混乱は収めてやる。そしたら今度からそちらにキチンとお伺いを立ててから計略をやって やる。俺を斬るより、俺の手足を縛った方が穏便に行くと思うぜ」

「ふむ……確かに悪くない案だな」

「だろ」

「だが、その前に個人的な私の腹立ちをぶつけさせて頂く」

 愛紗は手の中の槍を反転させた。柄を一刀に向ける。視界の中の柄がブレた。

 おいおい――額に衝撃が来て――一刀の視界はブラックアウトした。



























 雨の匂いがした。水の匂いがした。冷え切った体が震えた。

 ぐっすりと眠ったのは久しぶりだった。気絶も悪くないと考えたが、今の状況は好ましくなかった。

 鉄格子の牢の中。場所はきっと洛陽城の地下牢。予想の範疇だったが、こうも予想が的中すると面白いと 思えなくなってくる。もう何時間経ったか。音沙汰はない。

 ただ雨音が聞こえる。激しい音――心まで冷え込んでいる気がした。

 撒いた餌と釣り針、どこかで引っかかるはずだ。黒粉の噂をこれだけ流せば、黒粉に携わっている高官は将達に 必ず諌言する。

 あいつは危険だ――斬った方がいい。

 普通ならば、外交特使をそう簡単に斬ろうとするはずがない。思ったとしても、目の前で口に出すものか。無礼を働くのならば本国にその旨をを伝えればいい。

 特使といえど、国の重鎮というだけだ。舐められたならばその旨をそいつの上役に言うのが正しい対処だ。それが外交だ。

 恐らく、黒粉に関わっている者ならば国を思うフリをして抹殺を企てる。悪言と甘言を混ぜて所構わず撒く。粛々と国の者を扇動する。将や他の高官の嫌悪に歪んだ目はそれに気付かず、言葉と 態度で現れる。誰だって、多くの者が同じことを言えばそんなものか、と信じて盲目になってしまうものだ。

 性格などによっては選別が難しいが、黒粉に携わっている奴の目星にはなる。

「……とはいえ、俺が死ぬのが先かもしれないな」

「死ぬつもりなんですか?」

 凛とした声で一刀は視線を横向けた。朱里がつぶらな瞳で一刀を見つめていた。

 一刀は視線を逸らした。

「腹が減ったよ」

「嫌われてるから御飯抜きなんですね」

「嫌いすぎている奴はいるか?」

「不自然なほど嫌っている人がいますね。これが目的なんですか?」

 これだから頭のいい奴は好きだ――無駄がない。如才ない。予想通りに動いてくれる。予想通りに見抜いてくれる。

「悪口の計とでも名付けようかな。まあ名前なんてどうだっていい。肝心なのは中身だ。その不自然な人については 調べておいて欲しい」

 吐き捨てて、何気なく石壁を撫でた。いつまでもグズグズとしてはいられない。ここから脱獄する必要もある。

「しかし、不自然なほど貴方の味方をする人たちもいます。おかげで対立してしまってますよ」

 かけておいた保険――環明。

 人心掌握に長けた男だった。二年近くこの国に居る。この国の高官とも親しいはず。甘言を交えて味方を作ってくれている。

 汚い取引の成果――如実に出ている。

「正直、困るんです。荒しまわってもらうのは……いくつ計略を放っているか知らないですが、この国の平穏を乱さない で下さい」

「推移を見た。麻薬犯罪の増加率だ。蜀はいいな。右肩下がりだ。消滅はできないが、それなりに結果は出てる。戦乱の 傷跡も癒え、小康状態になってる」

 一呼吸置いた。中空に視線をさまよわせた。

「俺がお前の立場だったらこう思う。いや、誰もが思う。『厄介事は持ち込んでくるな。そっちのコトなど知った事じゃない』まあ、 他山の石って奴だ。当然と言えば当然だ。しかし、そういうわけにもいかない。付き合ってもらう。少なくとも俺かあいつがくたばるまで終わらない」

 朱里は顔をしかめた――物音がした。

 鉄扉が開く音。オールバックの髪型。鷲のような目をした男。環明が手を叩きながら現れ、二人に近づいた。

「おおっ、何と言うことだ……一刀。無事ですか。困りますよ孔明殿。こんな仕打ちに我が国の官にしてもらっては。 まず私に通すのが筋ではございませんか」

「連絡が遅れまして――貴方が志官達を買収していたので、声をかけるのも無粋と思いまして」

「確かに無粋ですな。心遣い、痛み入ります」

 棘のある言葉を涼やかな微笑みで受け流し、環明は手を出した。何かを朱里にねだる様に。

「鍵、頂けますか? 一刀はとても清潔好きでして。こんな不衛生な場所はとてもとても……」

 朱里は袖を動かし、鍵を取り出す。環明に渡すと、顎に手を当てて二人を交互に見つめた。

 閂が外れる音。一刀は腰を上げて檻から外に出た。

「では、参りましょうか一刀」

「悪く思うな」

 一刀は若干、悔恨を交えて声を出した。環明は最初から最後まで涼しげな顔をしていた。

 朱里は二人を見つめたまま微動だしなかった。だが、何かを考えるように目を瞑った。



























「一刀。大分と金を使ってしまいましたよ」

 言外の意味――これからの口利きでは足りない。

 酒家での食事、一番奥の座敷。運ばれてくる鴨料理。一刀は鴨の足を食いちぎった。噛んだ。相変わらず味は 感じない。それでも、空腹には違いなかった。

 二人以外は客はいなかった。夜も遅くなった時間。無理やり店主に店を開けさせた。環明はあらゆるところに圧力をかけることができる人間だった。

 まるで極道者のようだった。高官も極道者も、力を振り回すという意味では似たり寄ったりかもしれない。

「俺とお前の仲だろ」

「そうは言っても。商売は商売ですから」

 環明は両手で茶を飲んだ。ぎらりとした瞳――利で動く者の瞳。

「俺に何をして欲しい?」

「できるならば本国に戻り、私のために色々と動いて頂きたい」

「俺に帰れと?」

「一刀……潮時というものがあります。鬼人を追いかけるのは貴方じゃなくてもできる」

 口から出た言葉――牽制した。

「俺は鬼人のことをお前に話したことはない」

 伸ばされる箸、鴨の丸焼きの目玉をえぐった。目玉を取り出し、環明はそれをうまそうに食った。

「噂は聞き及んでおります。私も貴方と同様に常に狗を飼わなければ生きていけない立場なのですよ。いや、登りつめた者なら ば誰もが自分の耳の他に、他者の耳が欲しくなる」

「残念だが、俺は帰らない。帰るのは全て終わってからだ」

「一刀……庇い立てするにも限界が」

 一刀は嘲笑した。環明は眉をひそめた。

「黄巾の乱は知っているか」

「知らぬ者は大陸におらぬでしょう」

「では、黄巾の乱によって集められた財宝はどうなったか知っているか?」

 環明は考えるように目を閉じた――目を開けた。

「通常考えて、あの時の勢力が山分けしたと。私はその場にいませんでしたから知りませんが」

「そうかな? そうだろうな。概ね九割方、そうなったと言ってもいい。だが、一割は違う。黄巾の乱に参加した者の ほとんど餓えたものだった。漢王朝に不満があるからと言って志を持って動いた者などほぼいない。少々は居たかもしれない が、そいつらは立身出世を目指した者達だった」

「一刀、言っていることがわかりません」

 一刀は片手を上げ、手の中の箸を握り締めた。

「俺は調べた。財宝がどこに行って。どいつの懐に消えたのか。身内も、外の奴も、あらゆる武将も、何もかもを洗い出した。俺は この大陸一の勢力を持つ国の警部官僚だ。調べられないことはない」

 唯一つ――鬼人のことだけは調べられなかった。屈辱の言葉は飲み込んだ。

 環明はため息を吐いた。

「なるほど、例えば一刀。私がその財を使い。この地位を築いたとして、何か問題でもあるのですか?」

「何もないさ。ただ、俺は民に返すはずの金もあったと思うだけだ。罪に問えるかどうかは微妙な線だな。しかし、 我らが主君は潔癖であらせられる。どうなるかな」

 環明は感嘆したようなため息を吐いた。自身が脅されているというのに表情に濁りはなかった。

 実際問題――これは微妙な線だった。実際に国庫に収められてしまった財は戻せない。戻さない。略奪された者が嘘偽りなく金額を 伝えることなどほとんどない。

 また、多くは生きていない。被害者のいない犯罪には誰も見向きもしない。しかし、環明の出世の道は閉ざされる。

「私はたまに思う。貴方が鬼人ではないかと」

「もしそうならば話は早いな。自刃するだけで済む」

 一刀は亀の血のスープを飲んだ。甘口の味噌が混じり、独特の臭み。嗅覚まで死んでいないようだった。

「これを受け取ってくれ」

 一刀は袖口から割符を取り出した。洛陽にある戸行で換金できる引き換え券。それなりの額面は刻まれている。

 環明は目を細めると、その割符に手を伸ばし、マジマジとそれを見つめる。

「脅した後に金を渡す。随分と巧妙な手口ですな」

「厳しく躾け過ぎた犬は誰にでも尻尾を振る」

 笑い声。小さく、声を殺しての。一刀は笑わなかった。視線も合わせようとは思わなかった。

「一体幾人、人の恥部や弱味を握ってらっしゃるのかな」

「百を越えた辺りから忘れた。最初は好奇心からだった。今は知らずにはいられなくなった――俺はおかしくなっている。トチ狂って きている。知らず知らずの内に黒粉の毒が廻ってきてるのかもな」

「蒙にして、卑になり、毒となる」

 僧が読経を唱えるかのような声。

 言いたいことわかった。男が妙薬によって卑しくなり、その毒気が全身に巡って身を滅ぼすと。

 環明の笑みは不意に広がった。凄惨な笑みだった。地獄の釜で煮えている亡者を見下ろす泰山府君のようだった。

「一刀、貴方は遠くない未来、死にますよ。貴方の持っている情報はとても危険だ」

「死ぬ前にゴミ掃除くらいさせて欲しいものだ」

 スープを飲み干した。ウェイターを呼んだ。追加の皿を頼んだ。食欲はなくとも、詰め込むだけ詰め込みたかった。



























 放っておいた狗が情報を持って来る。黒粉の売人、葉貴餐の下っ端、桐の居場所。いつも六曜の終わりの日は安い娼妓を買いに金丑通りの娼館に出向く。

 曜日感覚はあまりなかった。太陰暦自体に慣れなかった。太陽暦ならば馴染みのある七曜。今でも陽時計にも慣れなかった。太陽の傾きと月の傾き、季節によって日々を判断していた。聞くと、 今日が六曜の終わりらしかった。

「案内しますよ」

 壮年に差し掛かった男は陳(チャン)と名乗った。本名とは思えなかった。どうでも良かった。ただ金を見せると、嬉しそうに金をひったくった。

 兵達が駆け回っているのを噂で聞き、俺の居場所を聞き、持っている情報を兵に渡さず直接持ってきた。

 日雇い労働者だと言っていた。兵の搾取を恐れる。当然だ。目に見え、そこにある金しか信用しない。

「普段は竜泉の大通りに広場があるんでそこに突っ立ってるんですよ。あそこは日雇いの集まりなんですよ。たまたま……えっと」

「小刀だ」

「シャオディア?」

「シャオトウ」

 陳は眉をしかめた。発音が気に入らないのか、読み方が嫌いなのか。だが、すぐに何かを思いついたかのように陽気に笑いかけてくる。

「この銅銭、新金ですね。小刀、役人ですよね?」

 着ているものはみずぼらしいものだったが、満更馬鹿というわけではなかった。はぐらかしながら尋ねる。

「貝銭の方が良かったか?」

「今更あんな古臭いの使ってる人いないですよ。簡単に偽造できる」

 口ぶりはやったことがあるというものだった。歩きながら、肩を竦めた。

「銅銭を偽装するには重さが難しいんだろ。秤にかけたら一発でわかる。手に持ってもわかる。商売人なら微妙な重さをわからない奴は馬鹿だよ」

「同じもの作るのはできなくはないんですけど、中の成分がわからない。小刀、知ってたら教えて下さいよ」

「俺も知りたいさ。ところで、陳はどこ出身なんだ」

「平夷。皆、南部から来る。ここは新しい国です。皆、お金欲しい。皆、金持ちになりたい。新しい国には可能性があります」

 洛陽で聞き飽きた言葉を聞いた。農作業を繰り返し、畑を耕すのに飽いた若者達。毎日に嫌気が差し、広まった甘い噂を鵜呑みにして何も 考えずにでかい街に行く。

 成功する奴もいる。失敗する奴もいる。多くは失敗する。職業斡旋のブローカーに騙される。同胞が同胞を食い物にする。人に扱き使われる。安い賃金で働かされ、それでも明日を、変わるきっかけを 探して求めている。

「平夷には――」

 世間話を装って、本当に聞きたかった質問をぶつける。

「黒粉はあったか?」

「ありませんね。この街に来て、初めて見ました。白粉、どこにでもあります。黒粉、どこにもない。なぜかわかりますか?」

 頭の中に浮かべた地図にバツをつける。一刀はにやりと笑った。

「白粉より気持ち良くないからさ」

「そうですね。しかも白粉より高い。小刀はなんで黒粉なんて欲しがるんですか?」

「俺の女が黒い方が犯されてる気がして良いって言うんだよ」

 陳は破顔した。警戒心が抜けきった下卑な笑みだった。くだらない話が飛んでくる。

 故郷の女の話。男かも女かもわからない女の話。化粧をすれば垢抜ける――成都の女達は垢抜けている。いつか、抱きたい。化粧をし、着飾った綺麗な女と結婚したい。夢見るような口ぶり。田舎者の 幻想。

 化粧などすぐに剥がれる――一度何かが起これば、繕った顔などすぐに剥がれる。

 女か――いくつかの顔が浮かんで消えた。禁欲にこだわったわけじゃなかった。ただ自然と禁欲的になった。愛欲に溺れて大事な何かを 失ってしまうのを恐れた。

 大事な何か――復讐心。憎悪。憤怒。胸を焼く黒い炎。正義。規範。嘆き。悲哀。何もかもが混ざり、明確な殺意へとすり変わっている。

 陳は足を止めた。三階建ての木造アパート、いや、娼館。連れ込み宿と言ってもいい。受付で金を渡し、女としけ込むシステム。

「桐はいつもここ使います。多分、いると思いますよ」

 陳は特徴を告げる。饒舌な口ぶりだった。

「白粉を摘むのは止した方がいいぞ」

 一刀は娼館を眺めながら言った。視線は合わせなかった。黒粉より白粉の方が高いと知っている。黒粉の売人を知っている。確定的だった。

 加えて陳の顔、眼窩は変色し、黒ずんでいる。血管が浮き彫りになっている。歯もところどころ欠けていた。中毒者の顔つき。

 陳は表情を変えた。驚き、やがて諦めたように笑った。人生に諦めた顔だった。卑屈な顔だった。

「誰もやりたくてやってるわけじゃないですよ。ただ毎日が死ぬほどクソになってるだけです。日陰者ですからね」

「俺は役人だが、毎日はクソだ。馬鹿みたいな奴らばかり相手にしてる。給金のほとんどは捜査でぶっ飛ぶし、恋人とも疎遠になっちまった。だが、薬はやらない。頭に くるからだ。誰かに食い物にされるのが苛付くからだ。お前は白粉の売人に食い物にされて苛付かないのか? 俺だったら叩き殺してるね。白粉を 売りつけて、あいつは薬狂いの馬鹿だと言っているんだ。嘲笑っているんだ。それでも白粉を売ってくれと泣きつくか? 足を舐め、股座を潜り抜けて売ってくれと叫ぶか?」

 陳は苦渋を噛み締めるように怒りと嘆きに満ちた顔つきになった。やがて、黙りこくって一刀から背を向けて歩き出した。

 一刀は背中を一瞥したが、もう何もかける言葉はなかった。

 目の前の娼館、玄関口に入ると左脇に老婆が座っていた。

 段差のあり、盛り上がった座敷のような場所。白髪、しわだらけの顔、閉じていた瞼が開く。

「一人は泊めないよ。帰りな」

「桐という男を捜してるんだ」

「あの極道者かい……とはいえ、客だ。帰りな」

「大姐、目が悪いんじゃないか」

 老婆の足元の銅銭を転がした。目が大きく開く。口元がくちゃりと曲がる。

「最近はとんと目が見えなくてね……二階の一番奥の部屋だよ」

「何かあったら、耳も遠くなって欲しいな」

 もう一度、銅銭を転がす。すぐに懐にしまわれる。クソ婆――なぜ、こうも金に汚い奴ばかりなんだ。嘆きに似た想い。

 いや、間違っている。一刀はすぐに湧いたきた想いを否定した。

 一番汚いのはこうして簡単に金を放り投げる自分自身だ。

「ありがとう大姐」

 返事は帰ってこなかった。角度のある階段を登った。二階、部屋数は左右に四つ、奥に一つ、奥の部屋を目指す。  歩いている途中、女の喘ぎ声と男の血走った声が聞こえる。壁は薄い。独特の鼻につく臭気まで漂ってきている。気分が悪くなる。一秒でも早く去りたくなってくる。

 奥の部屋の扉、木造扉。そっとドアノブに手を伸ばす。鍵はかかっている。

 腰かけた長剣の柄を撫でる――思い切り、扉を蹴り飛ばした。

「なっ」

「きゃっ!」

 ベットの上で重なり合っている男女。抜き出した剣を突き出しながら様子を見守った。恫喝の言葉は出す必要がなかった。手元の剣は 何よりも雄弁に語る。

 女は蒼白な顔――男は――見た顔。死にたくなった。

「隊長……」

「お前かよ……」

 ベットの上から這い出て、助利は顔に手を当てた。女は成り行きを見守るようにシーツを胸元に持ってきて、全身を隠す。

 一刀は目配せした。助利は頷いた。

「おい、終わりだ。着替えて出てけ」

「ちょ、ちょっと」

「とっと行け。金は払っただろうが」

 女は不満そうに喉を鳴らした。だが、一刀の剣を見、立ち去る方が賢明と悟ったのか、急いで腰布を手にし、着物を身に付け、足早に 部屋から去った。

 足音が遠ざかるのを確認して、一刀は剣を下ろした。

「桐ってのは別名か?」

「ええ、まあ……しかし、つまんねぇことしないで下さいよ。俺の唯一の楽しみなんですよ」

 非難する声、知ったことじゃなかった。

「あの女は?」

「街の娼妓ですよ。よく買ってるんです」

「今すぐ追いかけて口塞いだ方がいいんじゃないか。お前は俺を『隊長』と呼んだ。お前が裏切り者だとわかるぞ」

 助利の瞳は忙しなく左右に動いた。やがて定まった。急いで着物を着る。

「行ってきます。少し待っててください」

「殺すのか?」

「あいつは亭主持ちなんですよ」

 意訳――亭主に不徳をばらされたくなかったら余計な口を利くな。

 いつの時代でも、どんな場所でも、妻が他の男に股を開くのは大罪だ。ルールを捻じ曲げることができる権力者じゃない限り、厳しい 罰が与えられる。

 官憲の目がある場所でも、たまに地面に引き回しにされている女を見る。血縁を第一と考える精神が広まっている。広まりすぎている。

 一刀は助利が来るまで部屋の中を見回した。ベットが一つ、箪笥が一つ、サイドテーブルに花瓶と煙管、安っぽい部屋。壁紙は破れて地色を 晒しているし、天井はひび割れている。

 助利は五分もしない内に戻ってきた。顔は渋かった。

「金を寄越せと言われましたよ。こっちの女は気が強くていけねぇ」

「結婚した女は皆、気が強くなるんだよ。国に関係なくな。次から独身の女にしろ」

「隊長は結婚したんですか?」

 すぐに首を振った。

「俺は愛妾のままだよ」

「羨ましいですよ。やりたい放題じゃないですか」

「やりたい放題できると思うか?」

 助利は含み笑いをもらした。思わないと顔で伝えてくる。

 結婚――子供の頃、漠然と思っていた。年齢がきて、相応しい相手に出会い、そのまま結ばれ、子供が生まれ、家庭を作る。今では特に そうしたいと思わなくなった。環境が変わったせいか、自分が変わったせいか、両方かもしれない。

「くだらない話は終わりだ。助利」

「ええ」

「俺は葉貴餐を潰す。いつものように締め上げてやるつもりだ。俺に協力しろ。金葉の弔いだ。嫌とは言わせん」

「いつもそうですよね隊長――アンタは一度決めると、誰であろうが思い通りに動かそうとする。その不適さが羨ましいですよ。でも、俺が拒否ったらどうするんです?」

「いいや」

 一刀は目を伏せた。数拍後、顔を上げた。

「お前は裏切らないさ。なぜなら、死んだ三人と義兄弟だったからだ。俺が憎くても、義兄弟の仇を討つために俺に協力せざるをえない。そうだろう」

「そうですね。その通りですよ。隊長、頭いいですもんね、俺は馬鹿ですけど、隊長の言ってることが正しいことくらいはわかりますよ。腹が 立ってしょうがないですけど。俺一人じゃ結局何もできやしない」

 助利の瞼は痙攣していた。胸のうちに潜む何かが助利を震わせている。

 一刀はサイドテーブルに置かれた煙管に手を伸ばした。

 細長い金装飾の煙管。黒く丸めた煙草が先端に置かれ、吸い口は潰れて平べったくなっている。火打ち石で火を点けた。口に咥えた。

 煙草――ほとんど吸わない。それでも、ストレスを緩和できるなら吸いたかった。無駄だと知りつつも煙を吸い込む。

「黒粉に携わっているだろうこの国の高官はもうすぐ締め上げられる。次は裏社会の奴を締め上げる。黒粉に関わるものは全て焼き尽くしてやる」

 憎悪に似た想い――助利の顔が驚きで歪んだ。

「どうやってそんなこと――ああ、すいません。そうですよね。隊長ならどんな手でも使いますもんね」

「葉貴餐が握っている黒粉の貯蔵庫と取引の流れを教えろ」

「鬼人はまだ見つかってませんよ。姿すら見えない。誰なのかもわからない」

「鬼人を炙り出すために必要なことだ」

 助利は視線を逸らした――首を振った。突然、握り締めた拳をベットの上に叩き付けた。

 発作に似た行動。わだかまりがぶつかり合い、表面化した。一人では何もできない不甲斐無さをぶつける。

 一刀はその行動を見つめながら煙草の煙を吐き出した。表情に変化はなかった。

「俺達は手柄を立てても、アンタのせいで誇れなかったっ!」

「わかってる」

「狗の仕事だからだ――鼠の仕事だからだ。出世はできない。故郷の両親にも報告できない。ずっと嫌だった。仲間のあら捜しなんてしたくなかった。裏切り者なんか見つけたくなかった。 ヤクザと関わり合いなんて持ちたくなかった――全部アンタがやらせたんだっ!」

「わかってる」

「俺が一卒兵だからこんな扱いなのか――下士官だからこんな扱いなのか。ずっと考えてた。ずっと怨んでいた。でも、アンタが正しいから 従ってきたんだ。その正しさが俺は嫌だった。正しいのが嫌なんだ――でも、皆はアンタが好きだったっ!」

「それは知らなかった。俺はずっと嫌われてるものだと思っていたよ」

 助利は瞳は涙で濡れていた。目の周りは真っ赤に染まっていた。一刀は肩を落としてベットに座った。煙管を助利に手渡した。

 助利は煙を吸い込んだ。吐き出した。

「俺は今でも嫌いですよ隊長。俺だけはアンタが嫌いなんです」

「それでいい。俺が何もかも呑み込んでやる――俺に何かも任せろ。罪も罰も押し付ければいい。いずれ俺が泰山府君に会って訴え かけてやる。俺が全て悪いと。俺が全ての元凶だと。俺に全ての責を与えろと」

 アンタが嫌いだ隊長――助利は嗚咽しながらその言葉を何度も繰り返していた。

 一刀はその呪詛を聞いていた。聞きながら、時折、頬を伝う涙を袖で拭った。



























 明日、俺が見聞きした全てを教えます。

 助利は言った。いますぐ話せと言った。作るべき書類があると言った。待つしかなかった。

 夜が来ていた。中央通りには香辛料の匂いが充満していた。露天商が客に向けて何かを叫んでいた。家々から立ち上る白煙が夕餉の支度を告げていた。

 岷江から引っ張ってきた水路に洗濯物が流れていた。洗濯板を片手に川べりで服を擦っている女が居た。転がった岩に座って煙管を吹かしている男がいた。 酒家の裏手で酒樽を準備している男がいた。野犬が食い物の匂いを探して鼻を鳴らしていた。

 深く空気を吸い込んだ。成都、ここ数日間で足が棒になるほど歩きこんだ。これからも歩き続けなければならない。

 目を瞑った。歯車の幻影が見える。何かを訴えかけるように回転している。責めて立ててくる。神経が燃える。目の奥が熱くなる。

「一刀さん」

 声で視線を動かした。人ごみを掻き分けて、朱里が顔を出した。

 一刀は傍に歩み寄った。

「大体の目星はついたか?」

「こんば……ええ、まあ、それでですね」

 挨拶を遮られる形になったが、朱里は言葉を続けようとした。一刀はすぐに口を開いた。

「携わっているのを割り振ると礼部が五割。後の吏部が三割。残り四部に二割くらいだろ」

「えっ、ええ」

「司法関係の門下や中書が関わってそうなら慎重に調べた方がいい。知県の中で関わってるのがいたらそいつはすぐに山の中に埋めてやれ。幹部になってる。地方の頭が腐ると 上から下まで腐る」

「ええっと……」

「恐らく怪しい奴で急に羽振りが良くなった奴を中心に調べてるんだろうが。それは正しい。戸部の財政記録なんて充てにならない。俺は三度 偽造帳簿を渡された。煮え湯を飲まされる度にめまいがしたよ。一番性質が悪いのは黒でも白でもなくてただ額面通りに動く頭の悪い官だ」

「少しでいいから喋らせてください……」

「俺はあまり会話したくない」

 疲れたように朱里は言ったが、一刀は肩を竦めて歩幅を合わせようとしなかった。朱里は一刀の上着の裾を握った。一刀はつんのめって 立ち止まった。

「なんで急に頑なになったんですか? 何か隠してるんじゃないですか?」

「そうだ。ぼろが出ると困る。色々とまだまだやるつもりなんで。喋りたくないんだ」

「色々と不自然な点をお聞きしたいんです」

「例えば?」

「協力しろと言っておきながら、何も重要なことを打ち明けない一刀さんが一番不自然ですよ。何を考えてるんですか?」

「俺は最初から最後まで目的は一つだ。鬼人を殺す。黒粉を追うことは鬼人を殺すことに繋がる。それだけだ」

「重要なことが抜けてるんですよ。その過程で」

 ため息が出た。空を見上げた。雲がちぎれて波のようになっていた。薄く広がった雲、月がその輪郭を為そうとしていた。

「もうすぐ終わるさ――そんな確信がある。何も心配することはない。何も心配することはないんだ」

 一刀は声のトーンを下げた。久しく出していない優しい声色だった。赤子をあやすような声だった。

 朱里はしばらく一刀の瞳を覗き込んでいたが、やがて視線を逸らした。

「恐らく、一刀さん、私の考えが正しければきっと貴方は――」

「おーい、朱里っ!」

 声が途切れる。威勢の良い声。翠が馬に乗って現れる。一刀を見ると露骨に表情を変えた。警戒するような瞳。

 一刀は肩を竦めた。反対方向に背を向けた。

「今日は城に戻らない。いや――もう戻らない。俺は嫌われ者だからな。勝手にやらせてもらう」

 朱里は瞑目した。一刀は歩きながら手を軽く振った。



























 洛陽での戦いを思い出した。あらゆる高官と相対した。あらゆる部下と相対した。あらゆる将と相対した。

 大小合わせて二十の組織を叩き潰した。それなのに、口を揃えて同じことを言う――もう止めろ。もう休め。もう何もするな。

 憔悴する神経が足を動かす、走らせる。止まることなどできない。夢の中で殺してしまった男の娘が虚ろな視線をぶつけてくる。

 暗い瞳。濁った瞳。何も感じていない瞳。能面のような顔。人形のような顔。亡霊のような顔。

 剣で何もかも引き裂ければ良かった。剣ではダメだった。頭に勝負するしかなかった。計略を駆使すればするほど人の心の闇が浮き彫り になっていく。誰かを使うことは誰かの闇を見ることだった。

 もうすぐ終わりだ――予感があった。何もかもが終わる。鬼人の一騎打ちが終局に差し掛かっている。どちらの首が先に飛ぶか。試したくて しょうがなかった。



























 倉庫街。不動産所有者は成都公行貿易連合組合。半ば民であり、半ば官である者達。民と官には必ず間に入る者がいる。

 明け方だけあって、倉庫街の人影はまばらだった。大きく口を開けるはずの家屋は口を閉じたままだった。大きな門を構えた倉庫、 赤い塗料で印字が刻まれている。

 鷹の印字が刻まれた倉庫で話し合おうと助利は言っていた。倉庫街に入って十分もしない内に見つけた。大通りから入ってすぐの倉庫 だった。勝手口が開いていた。閂が落ちていた。恐らく、助利が開けた。

 一刀は首を中に突っ込んだ。暗がり、明りはついていない。天井のひび割れからもれる木漏れ日が中を薄暗く照らしていた。

 中は空だった。申し訳程度に竹篭の束が合ったが、それらにも何も入っていない。もぬけの殻だった。

「助利、どこだ」

 かび臭い匂い――埃の匂いとあいまって、どこかツンとした鼻につく匂いもした。いやな匂いだった。

 嗅いだことのある匂い。何度も嗅いだもの。だが、臭気の正体よりも今は助利を見つけたかった。

 小さいが、張り詰めた声を発し続ける。反応はなかった。薄暗がりの中で目を凝らした。見えてきた人影が二つ――警戒信号。腰を低くした。だが、その人影は 微動だにしない。

 近寄った。徐々に三つの人影が鮮明になっていく。

「人形……いや」

 死体だった。

 テーブルの上に座らされた死体。男が三人。服装からして、ヤクザ者が一人。一人は痩せ型で鉢巻をつけている――神に祈った。助利でないことを祈った。祈りは 届いた。

「こっちの高官の服……礼部のか」

 赤と紫の丸い龍文様。顔に少しだけ見覚えがあった。役職は相当高かった。慇懃無礼な言葉を浴びせられた記憶があった。

 なぜ――疑問が浮かび上がる。

 よく見ると、二人の足元には別の死体があった。複数、ざっとみて――五人。

 全員が喉をばっさり切られて苦悶の表情で息絶えている。抵抗した様子はない。鞘に剣は収まったままだった。

 合計で七名の殺害。見事な手際だった。殺手として相当な調練を積んでいる。手際だけでそこらの猛将に負けない腕があることがわかった。

 鬼人――そんな名前が頭の中で点滅した。

 恐ろしい手際。恐ろしい腕。周囲を見回した。音もなく、声もない。恐怖心が芽生える。自然と息を殺した。

「……どういうことだ」

 周囲に目を配る。気配はせずとも、やらずにはいられない。

 疑問が点在する――テーブルに中央にある包み、そっと開いた。黒粉。二十キロはくだらない。これだけあれば百人分の月給になる。

 推測、黒粉の取引をしようとした。取引の最中、見知った誰かがきた。油断した。誰かはこの場にいる人間を皆殺しにした。

 不意に慌しい音が聞こえた――馬のいななきが聞こえた。勝手口から誰かが入ってきた――助利?

 顔を向けた。期待は裏切られた。

「関羽に……馬超か? それに」

 ぞろぞろと現れる兵。表情は一応に厳しい。それぞれ、武器を抜き身にしている。

 間抜けが――どこからか声が聞こえた。泣き出したくなった。事実はわかっていても、事実を認めたくなかった。

 目に涙が浮かんでくる。止め処なく溢れる熱い液体。自制できなかった。

 松明が跳んできた。兵の一人が投げた。場に光が満ちた。

「通報があって来て見れば……北郷一刀。これはどういうことだ? なんだそこにいる者達は」

 険しい声――敵意に満ちた声。わかった。わかってしまった。これが答えなのか。

「裏切ったな――裏切りやがったな助利っ!」

 叫んだ。符号が一致した。間抜けだった。すぐに逃げ出すべきだった。

 歯をきつく噛み締めた。ないと考えていた。そんなことはありえないと思っていた。

なぜならば、苦楽を共にしてきたから。ずっと五人で戦ってきたから。例え残り二人になったとしても、最後まで戦い抜くと思っていたから。

 怒りのあまり視界がぐにゃりと揺れた――何もかもがおかしくなっている。最初からわかっていたはずだ。一年前から。何もかもがトチ狂ってきている と。

 剣呑な空気。怒りを燃やした。燃やせば燃やすほど思考は冷え切ってくる――心が冷たくなっている。ただ一人、ただ一人だけ全幅の信頼を寄せた男に 今、裏切られた。

 落ち着け――落ち着け。このままでは済まさない。このままでは赦せない。このままでは殺人の刑を負わされる。

 この国において裁量権はない――人殺しは赦されない。ましては、相手国の高官を殺してしまったとなればただでは済まない。

「どういうことか詰め所で説明してもらおうかっ!」

 話し合うような態度には見えなかった。決め付けてかかっている。嫌悪と憎悪で濁り、揺れている。周囲の者の顔も一緒だ。誰も彼もが安易な 犯人を欲しがっている。

 逃げろ――だが。その前に。

「言っとくが、俺じゃない。俺の姿を見ろ。返り血を浴びていない。ここまで血まみれにしておいて俺は血を一滴も浴びていない」

「話は詰め所で聞くと言った筈だっ!」

 その声が号令となって、兵達が行動を開始する――体を反転させた。走った。なりふり構わず走った。

 視界の端に裏口の扉が見えた。ドアを開けている暇がなかった。背後から聞こえてくる兵隊の走る音が神経を逆撫でる。ドアを蹴り破った。

「……逃がさない」

 蹴破った先、開いた世界。岷江の河川が見えた。雄大な長江へと続く川。あそこに飛び込めば逃げれる――姿をくらますことができる。反撃のチャンスが めぐってくる。

 それなのに――目の前には女が一人。見覚えがあった。飛将軍。天衣無縫。武神。

「呂布か――」

 剣を抜いた。しゃらんと音がした。向こうも槍を構えた。脂汗が吹き出てくる。唇が震える。足が震える。

 やれる――馬鹿げたことを考えるな。

 やれるはず――思い上がるな。お前は強くなった気でいるだけだ。

 背後から声が聞こえる。残り数秒で取り囲まれる。助けはない。

「畜生っ! まだなんだっ! まだ何も終わっちゃいないっ!」

 叫びながら剣を構えた。歯軋りした。

 隙を窺え――そんなものがあるはずない。

 ならば後ろの虎を殺しに行け――無謀すぎる。

 やらなきゃならない――涙がこぼれた。

 必ず――必ず殺してやるぞ鬼人――耳障りな嘲笑う声が聞こえてくる。

「てええええええっ!」

 翠の怒りに満ちた気迫の声。視界がぶれた。背後からの一撃。骨が砕ける音がした。

 目の前が暗くなった。何も見えなくなった。意識が吹き飛んだ。



























 夢を見る――鬼人。シルエットが徐々に鮮明になっていく。目を疑う。自分の姿。鏡を見ているようだった。

 鏡の中の自分は嘲笑していた。まだわからないのか、馬鹿め――何がとは聞き返せなかった。

 胸が裂かれるような苦痛で目を覚ます。

 暗い天井。石垣の天井。何度か見た天井。牢屋。口の中に錆びた味。血の味、吐き出した。咳き込んだ。

 激痛で気を失う。また夢を見る。今度は五人で集まっている時の光景だった。

 酒を飲んでいた。まだ誰も欠けていない頃の思い出だった。仕事の話をした。金の話をした。女の話をした。最後に仲間だった裏切り 者の話をした。

 ――なんだってあんなに役人どもは悪事に手を染めるんだ。

 四人は言っていた。清麗高雅と名高い内史は農村の子供を殺して快感を得るクソ野郎だった。質実剛健で通っていた御史は何人もの商人から 賄賂を受け取り、工部の人間と組んで談合をやっていた。

 暴き、責め、追い詰める。そんなことばかりをやっていた。そんなことばかりさせられた。数多くの部下がいて、それでも本当に信用することが できたのは四人だけだった。

 黒粉が現れてから――鬼人が現れたから、戦いは激しくなった。対応できなくなった。それでも、やるしかなかった。

 ――俺達がやらなくて誰がやるって言うんだ。

 リーダー各の金葉が言っていた。力強い声だった。他の三人もそれに続いた。俺は少し離れた場所からそれを心強く思っているだけだった。

 形作られる影、シルエット、鬼人。鏡を見ているような気分。

 気づけ――俺の首を跳ねて見せろ。わかっているはずだ。どうすればいいか。どうやれば首を跳ねられるか。もう充分にヒントは出した はずだ。気づきたくないのか。気づいていないのか。どっちなんだ。

「鬼人……」

 一刀は目を覚まして名を呼んだ。涙を拭った。笑い出した。笑うことしかできなかった。

 

























 足音が聞こえた、目を開けた。上体を起こした。

 視線を下げた。千切れた上着、胸が裂けていた。背中から衝撃を加えられたはずなのに胸に裂傷があった。背中を強打されて勢いよく地面に叩きつけられたのだと 予測した。

 肋骨もきっとへし折れている。臓物にもダメージがある。時折、持ってこられる水を飲むと、必ず血の味がした。怒りは湧いてこない。これは しくじった結果でしかない。

 足音が近づいてくる。距離がつめられる。複数の足音だった。

 兵――馴染みのある衣装。

 引き連れている将――馴染みのある顔。

 予感していた――きっとそうじゃないかと思っていた。経過した月日を計算すればわかることだった。

「お兄さん……久方ぶりですね」

「ああ、久しぶりだ。何だか懐かしく感じるよ。まるで何年も会っていないかのような気がした」

 風は微かに微笑んだ。後ろに引き連れている兵に手を振った。どこかに行けという号令、兵はためらったが、命令に従って遠のいて いく。

「色々とまずいみたいですね」

「まずい? まずくなんてないさ。こうなることもあると思っていた」

「牢屋に入れられるのがですか? ろくに治療もして貰えずに血溜まりの中で寝るのがですか?」

 声は震えていた――一刀は目を瞑り、目を開けた。風は何かを堪えるように微笑んだ。

「帰りましょう。私が話をつけました。引き取ります」

「嫌だね。帰るくらいならここに居た方が遥かにマシだ」

「だだをこねないでください……風はもう疲れました」

 一刀は深く息を吸い込んだ――相好を崩し、ベットに足を乗せ、膝に肘をつけ、ふてぶてしく頬杖をつく。

「何人連れてきた?」

「何をですか」

「護衛兵だよ。そこそこ使える奴らなんだろ。全員、俺に貸せ。俺が使う」

「もっ、もう止めましょうっ!」

 叫び――無視した。一刀は片手を上げた。何かを握り潰すように。

「風、もう少しだ。もう終わる。何もかももう終わりにする。あとはつめるだけなんだ。本当だ」

「そうですね……もう終わりですね」

 瞳が光った。剣呑な瞳――一刀は眉をひそめた。

「お兄さんの企みも、護りたかったものも、残念ですが潰れましたよ」

 風は視線を逸らした。遠くを見るように。

「何を言っているんだ。俺は何も企んじゃいないぜ」

「華琳様は知りましたよ。軍を使いました。しらみつぶしに叩き潰して――お兄さんが掴んだものを遅ればせながら捕まえました」

 止めろ――心臓が止まった気がした。呼吸困難になった。うまく口が回らなかった。

「よくもまあかき回してくれましたね……最初、お兄さんが流行り病で全身が爛れたと聞いて風は気を失いそうになったんですよ。部屋を 護る門番達は決して退かなかったし、皆、本当だと思いました。まさか嘘を言うはずがないと。それぐらい門番達は頑なでした」

「風――」

「最初の三日で華琳様が頭に来て、門番を退かせました。そしたらもぬけの殻……問いただせば『呉に行った』『新都に行った』『長沙 に行った』『広陵に行った』皆言うことが違う――足跡を辿っても、掴めない。偽装工作がうまくなりましたね」

「風――」

「何かがおかしい、皆、考えました。黒粉で頭を悩ませてたのは事実でしたが、洛陽の黒粉組織の大部分はお兄さんが叩き潰しました。それなのに、 なぜ居なくなる――不合理でしたよ。我らが軍師が一晩考えても結論が出ませんでした。それから、お兄さんの変わりに華琳様が警部を統率 し、軍を使ったらすぐに居なくなった理由がわかりましたよ」

「風――」

「お兄さんはずっと握り潰していたんですね。裏切り者ですよ」

 瞑目する――深く。もう瞳など開かなければ良いと思った。覚悟を決めたはずなのに、心が揺らいでいた。洛陽を出た時から、何もかもが まやかしだった。まやかしに縋って力を振るっていた。いずれ壊れるのは当たり前だった。

 このまやかしの力――まだ持っていたかった。もう、警部の刺史でもなんでもない。それなのに、そうであるように振舞った。

「公行を使って黒粉は運ばれてきた。つまり、どういうかと言いますと」

「止めろ。もういい。俺は裏切り者だ。わかってる」

「いいえ、わかってませんよ。だから言って差し上げますよ」

 風は目を細めた。責めるような視線――逃れたかった。逃れられなかった。

「これは宣戦布告なんですよ。蜀が管理している貨物である公行を使って黒粉を我が国に輸出し続けた――我が国の民を毒に盛った。赦されることではない」

 歯を噛み締めた。首を振った。訴える。

「違うっ! 鬼人さえ始末すれば――っ!」

「そう、首魁さえ始末すれば何とかなると思った。だから洛陽から逃げ出したんですよね。一人で。誰にも言わず。言えるわけありません よね。どこからか漏れる可能性があった。知っていたのはほんの数人だったんでしょう」

 一刀は黙ったまま鉄格子を握り締めた。隠し通し、隠密にコトを終わらせるつもりだった。甘かった。思惑通りに進むわけがなかった。だが、 そうしたかった。

 また戦争が起こる――一部の悪人のせいで。赦せるわけがない。赦せるわけがなかった。

 助利は言っていた――傲慢だと。その通りだった。もっと早くこの事実を伝えさえいれば、洛陽の黒粉は全て片付いていた。この国を攻め立てる ことで。洛陽の苦しみは何もかも自身が招いた災厄だった。

 天秤にかけた――洛陽の民の苦しみを。それだけでも耐え難い苦痛だった。だが、戦争になればもっと多くの血が流れる。だから選択した。もうしばらく の間、苦しんでくれと。

 なんという不実。街を護る者の最高位でありながら裏切った。裏切り続けた。

「風……聞いてくれ。これは罠だ。その証拠に、成都には黒粉がほとんど流通していない。これは意図的なものだ。俺達をはめようとしている多くの者達の 思惑なんだ」

「だとしても――赦されるわけありません。聞けば、黒粉の捜査に来た我が君に然したる協力をせず、疎み、放置した。見れば、我が君は無実の罪で傷つき 倒れている。これを断罪せずとしてどうしろと言うのですか――こんな国、滅ぼしてしまえばいい。我らを憎んでいるのですよ。この国の多くの 高官達は。ならば戦って切り捨てるまででしょう」

 憎悪を揺らしながら、歌うような言葉。

 一刀は歯を噛み締めた。恐れていたことだった。

 違う――言いたかった。確かに黒粉に協力した者達は噛んでいるだろう。この憎しみを。自らの利と混ぜ合わせることで。

 だが、だからといって何もかも滅ぼしてどうする。罪なき者の血が流れてもいいと言うのか。

「稟ちゃんは孫策に話をつけにいきました。聞けば彼の国も黒粉の被害が出始めていると。間違いなく見捨てるでしょうね。もう劉備に統治能力なしと 見るでしょう。報いですよ。他者の国と侮り、自分の国だけをのんびり見ていた者達への報いです」

「違う――この国に責はない。俺が悪かったんだ。何もかも俺の責だ。俺がすぐに報せていればっ!」

「お兄さん、嘘つきですね。もうどうにもならないほど黒粉が国中を巡ったときに気づいたのでしょう。叩き潰している最中に気づいた のでしょう。このままではまずいと」

 何もかも見抜かれている――頭の回転では勝てない。それでも、抗わなければどうする。抗わなければならない。

 丸め込め――急げ。もう足元に火が点いている。軍が押し寄せてくる。遠くない将来に戦火を見ることになる。

 その前にカタをつけろ――誓ったはずだ。洛陽を出る時に誓ったはずだ。全ての元凶を焼き尽くしてやると。この身などどうなっても よいと。

「きっと、他の者が警部の刺史なら庇い立てしなかったでしょうね。お兄さんだから庇ってしまったのでしょうね。せっかく庇っているのに、 血を流し、苦しみ、泣き叫びながら頑張っているのに、貴方はずっと冷たくされ、疎まれ、今はこんな惨状……もういいじゃないですか。華琳様が 赦さないとおっしゃるならばこの風が共にゆきましょう。どこにでも。もう止めましょう。もう楽になって下さい」

 まだだ――まだ何もかも終わっちゃいない。哀れむな。侮るな。殉職した者達への弔いが済んでいない。

 何のために生きている――何のために怒り、猛り、気が狂わんばかりに走り続けた――まだ何も終わっちゃいない。

 諦めてたまるか――諦める時は死ぬ時だ。それまでは決してこの煉獄の炎は消えやしない。

「風、俺のことを愛してるか?」

「愛していなければ……こんなに泣くものですか」

 気づけば、風は涙していた。哀れんでいた。我が身の不遇を自分の痛みとばかりに泣いていた。胸がしめつけられる――一刀はそれでも 言葉を続ける。

「なら、俺に兵を貸せ。最後の手を打つ」

「……まだ戦うつもりなのですか。なぜですか。我が国よりもこの国がそんなに愛しいですかっ!」

 怒りに満ちた声。見せたことのない初めて見る憤怒の形相、一刀は首を振った。そんなわけがなかった。

「違う――俺が俺のためにやるだけだ。いつだって俺はそうだ。俺がそうしたいから、そうするだけなんだ」

 そう、それだけが全てだった。

 

























「一刀、お茶はいかがですか。今度は赴きが違うものなのですよ」

 涼しい顔で環明は茶を勧めてくる。今度は様々な色合いの花が入った茶。上品な香り。白いテーブルクロスの上に置かれる。

 環明は何があったのか知っている。何もかも知っていて、涼しい顔をしている。一刀は持って来たズタ袋を床に下ろした。

「俺は失脚したぞ」

 椅子に腰掛けた。牽制の言葉、涼しい顔は崩れない。

「知っておりますとも。ですが、我らの友情が壊れたわけではない……よければ我が商家の主人をやりませんか? 一刀ほどの度胸なら きっと勤まるでしょうか」

「何を卸してるんだ?」

 環明はひとさし指を立てた。

「主に銀です。銀や金はいいですよね。どれだけ時代が変わっても人間は欲しがります」

「悪くないな」

「でしょう」

 環明は油断のない瞳で一刀を見つめながらカップを運ぶ。洗練された動作。洗練された言葉遣い。洗練された調度品。環明と居ると全ての 汚れから抜け出したような錯覚に陥る。

 一刀は薄く微笑んだ。

「色々あったが、旅に出ようと思う」

「どちらへ? ある程度のところなら口を利きましょう」

 ある程度――環明のコネクションについて追及したくもなかった。一刀は視線をさまよわせた。部屋の中の調度品、一級品。美術品に狂った 金持ち。

「華琳に睨まれないところへ」

「天へ帰りますか?」

「無理だな。帰り方がわからない――それにもう帰りたいと思わない。俺はここで犠牲を払いすぎた。友を作りすぎた。もうこの大陸が俺の 故郷だよ」

「なるほど。ではどうなさるおつもりで?」

「旅は中止にした。その代わり、面白いことをしてやろうと思う」

「何をするおつもりですか」

 少しばかり怪訝な顔をした環明――その顔が崩れるのが楽しみだった。

 一刀はズタ袋から金細工を取り出した――否、金細工というにはあまりにも派手すぎた。ツバのない帽子、頭の上にジャラジャラと大小様々な 宝石が乗り、色彩豊かな色を放っている。

 翡翠、鼈甲、白金、黄金、金剛石、鋼玉、青玉――散りばめられた様々な宝石。

 蔓草の文様の上に二匹の龍が踊っていた。手には宝玉を持ち、お互いを食い破ろうとしている。

「これは……」

 感嘆したようなため息。一刀は笑った。

「洛陽の宝物庫から抜いてきた。始皇帝の数ある王冠の内に一つらしいぜ。これは持ってるだけで王族の末裔を名乗れるほど値打ちもんだ」

「一刀……貴方という人は」

「俺は何かと保険を打っておく性質なんでね。こうなることも予測していた」

 できれば使いたくなかった保険の一つ――もうなりふり構っていられない。宝物庫への侵入は斬首だ。もう後戻りはできない。もう帰る 国はない。行くべき国もない。どこにも。

 初めからわかっていたことだ。何もかも失くしても、ただ一人を討つと。

「まあ、ここで相談だ。これを買ってくれよ環明、俺達の友情の最後のはなむけだ」

 環明は笑った。大きな声だった。今までの上品さはどこかに消えた。心底面白いという声だった。

「一刀……かずとぉ……くそ、面白いですよ。なんだって……こんな愉快なことは何十年ぶりかっ!」

「これからもっと面白いことを言ってやる。お前の財産の半分を寄越せ」

 笑みが凍りつく。環明は笑い声を消した。冷ややかな瞳が戻った。

「その王冠で私の財の半分を? 一刀、見くびってもらっては困りますよ。私がどれだけ財を成していると思っているのですか」

「いいや、お前は必ずうんと言うさ。必ずな」

 一刀は懐から書簡を取り出した。巻物を放り投げた。紙に書かれた黒い文字。環明は目の色を変えた。

「これは……」

「俺が今まで調べ上げた。あらゆる権力者の弱みだ。我が国のものが中心だが、これを使えばのし上がれるぜ環明。つまらない銭を気にして、 この機を逃すか?」

 環明は顔を上げた。瞳には深い闇があった。暗い目。何もかも呑み込むような、そんな目。

「一刀、貴方は恐ろしい。今すぐに殺すべきかもしれない」

「お前は無茶をしない人間だ。わかるぞ。保身を第一に考える。これを使っても、必ずどこかでブレーキをかける。この書簡が死ぬほど まずいものだって判別がつくからだ。だから、俺はお前に俺の情報を託していいと思った。俺は間違っているか?」

「いいえ」

 環明は首を振った。言葉を続ける。

「貴方は正しい。この取引は飲みますよ一刀、そうじゃないと。貴方はきっとこう吹聴してまわるでしょう『環明はお前達の弱みを握って笑っているぞ』と」

 環明は茶をすすった。静かな動作だった。何もかもわかっている、と全身で伝えていた。

「一刀、貴方が私のことを理解するとうに、私は貴方のことがわかる。同じ才覚を持っているからです」

「そうかな。まあ、どうだっていい。ありがとう環明。我が異郷の地の同胞よ。我が友よ。感謝する。この日のことは決して忘れない」

 一刀は席を立った。

 環明は茶を飲み、窓の外を見つめた。穏やかに降り注ぐ陽光を眺めていた。

 

























 最後の手――単純な手。白粉と黒粉の買占め。

 値を吊り上げる。成都から麻薬を消す。笑ってしまうような手だが、それで成都の黒粉は消滅する。そうなればどうなるか。中毒者 達が悲鳴をあげ、金を求めて運び屋達がこぞって蠢き出す。

 片方だけ買い占めれば、片方が幅を利かせる。黒粉を買い占めたなら、白粉が横行するだけで、黒粉はすぐに入ってこようと しないかもしれない。時間がないのに、悠長なことはしてられない。

 また、白粉だけを買い占めることに意味はない。この国の黒粉の量は一定だった。推移を見た。白粉が無くなったからと言って増える 保障はない。

 両方を買占めなければ、黒粉の源泉は見つからない。こうすることしかできない。

 今まで、この成都にどんな風に運んできてるかわからなかった。どこから入ってきてるかわからなかった。それでも、必ず外から運ばれて来ると わかるなら、手の打ちようがあった。

 公行を通す、つまり民行ではなく成都の烙印を押して輸出する。そのためにはこの街のどこかに行かなければならない。この街の権力と 組まなければならない。

 買い占められる期間は決まっている。これが失敗すればもう黒粉の源泉を辿ることは不可能に近い。

 また、運び屋達が自重すれば終わりだ。これは最も愚かで最悪の手だ。しかし、金の放つ魔力逆らえるのは死人と聖人だけだ。必ず誰かが出し抜こうとする。

「隊長、手に入れたものはどうします」

「焼け――そうだな。一番でかい大通りで焼いてやれ。風向きに気をつけてな。笑えるぜ。ほんの少しあれば家が建つもんが燃えるんだ。最高に笑える だろ?」

 一刀の酷薄な笑みを見て、兵は引きつった顔をした。

「あと、薬を抜こう何て考えるなよ。お前達は信用しているが。万が一がある。万が一があった場合。俺はそいつの家族から親戚、友人、故郷の村に至る まで焼き尽くしてやる。隊の者達も、誰も生きて帰れると思うな」

 凄んだ。兵は固まった。やがて動くことを思い出したのか、ブリキの玩具の様に敬礼し、その場を離れた。

 何事かと見に来る人々、焼かれている物を見て、顔色を変える者、何もわからない者。顔をしかめるだけで眺める者。小さな囲いが できつつあった。

 燃える薬――ひしゃくで油をぶっかけた。風の連れてきた兵――五十人。鼠の仕事ができそうなのが十人。純粋に暴力を振りかざせるのは全員。

 買い取れ――もしも、売らないと言うなら容赦する必要はない。

 軍部に所属した者達は思い切りがいい。毎日調練を積み、血みどろの戦に明け暮れた軍人。極道者のような怠け者には負けない。

「隊長」

「なん……ああ、そうだった。派手にやりすぎたな」

 視界の隅に移る隊列を作った兵隊――こちらの者とは色違い。こちらは紺色で、あちらは赤色。数はこちらと同等。向こうも五十人前後。だが、今は ここには十人ほどしかいない。薬の買取に奔走している。

 率いている将は――粒が揃っている。翠。愛紗。星。絡め手でねじ伏せるには難しい相手。兵に耳打ちした。

「俺が合図したら四方に一気に散れ。俺が前に出て、適当に誤魔化す。失敗したら、俺も逃げる」

 伝令がすぐに伝わる。ただ合図したら逃げろという意味。口早に兵達に繋がる。

 腰元にかけた剣――使うことはできない。勝てるはずがない。別の手で行くべきだ。別の手――何もあるわけない。

 それぞれ、目つきは冷然としている。ただどこか遠くを眺めているような錯覚。怒りは見えない――呆れ果てているのか。疲れ果てて いるのか。ただ蔑んでいるのか。

「何をしている?」

 愛紗が代表するように一歩前に出て口を開いた。一刀はゆっくり首を振った。

「何って……芋焼いてるだけなんだがな。ああ、そうか、そうだった。すまなかった――確かに許可を取ってなかった。別のところで焼くよ」

 微笑みながら動向を注視した――足が一番速そうのは星。油断ならない。後ろの兵達は後退している。

 逃げ道――民家のわき道が三つ。小径とはいえ、迷路のようになっている。地図を頭に浮かべる。密集した住宅街がある。

 逃げるとしたらあそこに滑り込む。今度こそ逃げ切ってやる。この胸の痛み――この苦痛。この屈辱。二度と味わいたくない。

 ジリジリと距離は詰められている――愛紗が肩を小刻みに震わせている様子が見えた。

 そんなに俺が憎らしいか? 問うてやりたかった。だが、どうでもいいことだった。誰が何を思おうがもう知ったことではない。

 一刀は小さく笑った。後ろから駆ける足音が聞こえた。目の前に立ち塞がる影が三つ。

「隊長。俺が――」

「いや、この俺が防ぎますよ。その間に」

「正直、事情なんて知ったことじゃないです。ただ、我らが舐められてることだけは伝わってきますよ」

 震えながらも威勢のいい声。一刀は目を疑った。

 知った顔とは言えなかった。何の関係がないと言うわけでもないが、口などほとんど聞いたことがない者達だった。それでも、護ろうとして くれているのはわかった。

 畜生なんだってお前ら――何もかも見誤っていた気がした。ほとんどの者を信じなかった。誰もを疑ってかかっていた。

 ただ偏狭な神経がそうさせていただけだった。知らないところに信じるにたる者達はいた――泣きたくなった。

「俺は――」

 歯を噛み締めた。逃げるべきだ――厚意を無にするな。合理的に動かねば、何もかも見失ってしまう。

「何やら物々しくなってきましたが……一刀殿、我らは別に捕まえに来たわけではありませんよ」

 場を宥めるようなのん気な声、一刀はすかさず反論した。

「なら引っ込んでろよ。そんな武装した強面の兵隊達を従えて近づいてきたら誰だって怯えるだろうが」

 言いながら後退した。信用できなかった。できるはずがなかった。距離を取る。ちらりと小径を一瞥した。飛び込めば闇に逃げ込める。

「だからまずいと言ったではないか」

 星は責任転嫁するように愛紗を見つめた。慌てたように目を見開く。

「わっ、私のせいにするのかっ!」

「兵を連れぞろぞろ連れてこさせたのは貴公だろうに。公式なものにするとか言って」

「おいおい、内輪もめは止めようぜ。向こうさん、完全に逃げる準備してるぞ」

 翠の目ざとく言った。一刀の前に立ち塞がる三人も後退していた。一刀が服を掴み、後退させた。今なら全員逃げることができる。

「そのな……その、疑ったりしてすまなかった」

 高官殺しの罪が晴れたのか――風が理を持って晴らしたのか――別にどうだっていい。

「わっ、私もつい……思いっきり叩いちまった。ごっ、ごめんな」

 一刀は目を細めた。謝罪の言葉など欲しくなかった。何もかも心には響かない。憎んでくれていた方がまだマシだった。憎まれることに 慣れていた。慣れきっていた。だからその方が気楽だった。

 一刀は胸に手を置いた。軋んだ痛み、ズキズキと針を打ち込まれているかのような鋭い痛み。避けた胸の傷口、未だ塞がっていない。痛む。 今だってベットで寝転んでいたくてしょうがない。

 息を短く吐いた。返す言葉を選ぶ。

「別に謝らなくても結構だ。君達は自分の職務を全うした。俺は疑われるような真似をした。この国に迷惑をかけた。だから何も間違っちゃ いないさ。なにも、憎たらしい奴に謝る必要なんてない。だが、謝りたいというのなら、受け入れよう。俺は許すと言おう。だから――」

 どこかに行ってくれ。顔を見せないでくれ。俺はお前らが恐ろしい。今だって足が震えている。いつ気が変わってまた血反吐を吐かされ、地面にはいつくばらされ、牢屋に ぶち込まれ、何もできなくさせられるのが恐ろしい。

 言葉は呑み込んだ。言わなかった。一刀は力を抜いた。三人の兵達の肩を叩いた。三人はそれぞれ抜き出していた剣をしまい。一刀の 後ろに下がった。

「私から一つお聞きしたいことがあるのですが」

 黙っていた星が声を上げる。一刀はうんざりとした顔つきで肩を下ろした。

「何だよ。悪いが俺は忙しい。あまり時間がないんだ。短めに頼む」

「ならば簡単に。この国を庇い立てしていたのは事実ですかな?」

 不意を突かれた。目を閉じた。目を開けた。知られてしまったならば――伝える責任がある。危機を知らせる責任がある。選択させる 責任がある。

「事実だ」

「やはりか……朱里が全部話してくれました。風も全て打ち明けてくれました。この耳でその言葉を聞くまでそうでないことを祈って ました。さもなくば自身が何と悪鬼外道ではないかと――我らの目は曇っていた」

 三人はそれぞれ俯いた。暗い表情、苦渋を噛み締め、悔恨に満ちた顔――舌打ちした。

「勘違いするな。俺はお前らのことなど知ったことじゃない。俺は俺自身の道理を通しているだけだ。勝手に加害者面するんじゃねぇっ!」

 一刀は激昂して叫んだが、叫び終わった後で、丸い何かが頭にぶつけられた。

 少しだけ驚いて一刀は頭に手を当てた。欠片から、それが桃だとわかった。桃は破裂し、一刀の顔に果汁を撒き散らした。

 一刀は桃が飛んできた方向を見定めた。風が呆れたよな顔をしていた。

「お兄さん、冷静になってください。甘いものでも食べて」

「……冷静だとも。いつだって俺は冷静だ。冷静に怒っているだけだ」

 舌でペロリと果汁を舐め取った。甘い匂いがした。よく熟れた実だった。味が戻ってきていた。味覚が感じられるようになった。

「すいませんね。皆さん。この人は凄い恥ずかしがり屋なのです。悪態をついて事実から逃れようとするんです。つまるところ、これは 照れの裏返しなのです」

「おい――」

「違いますか? 風が正しいでしょう。憎まれてばかりだったのに急に好意を寄せられて、どうしていいかわからなくなってるんでしょう?」

 何も言うことができなかった。反論しようとして、口が塞がった。その通りだった。認めたくないだけだった。だから決して認めない。

「なるほど、そうでしたか。この趙子龍、またも見誤るところでした」

「ふふふっ……そう見ると、可愛らしいですね」

「ああ、確かに……憎まれっ子が世を憚るってことか」

 慈愛に満ちたような瞳――一刀は天を見上げた。顔に手を当てた。決して認めてやるものかと硬く誓った。

 

























「そーいう、わけでして。解説はお兄さん。司会進行はこの風がやらせて頂きます」

 真っ黒な石版を白い石筆で叩き、風は蜀の将軍達を見回した。円卓のテーブル。それぞれが席についている。もっとも、成都に居る将達だけで、他の将都にいる将は呼ぶことが できなかった。

 一刀は風の横で頭を下げ、死刑台に上がる前の囚人のような顔でうめいていた。

「はーいっ! 風ちゃんっ! 質問っ!」

「はい。桃香ちゃん。どうぞ」

 めまいがした。めまいの余り気を失ってしまいたかった。

「一刀さんは何であんなにやる気がないんですか? 私達の恩人さんなのに。もっと威張っていいんじゃないですか?」

「いい質問です。お兄さんは魏だとほとんど褒められないもので、そういう羨望の視線とかが弱点なんです。そういうきらきらした目で ずっと見てあげればその内、土の中にもぐりますよ」

「いいか、調子に乗るなよ。俺は――」

「はいはい。議題に関係ない質問は止めましょうね。頭硬い人がいますから。あっちも硬くて乱暴なんですよ」

 一刀をいなしながら風は頬を染めて手を両頬に添えた。面々は一様に照れたり、興味深げにしたり、目を細めたりした。

「まあ、それは置いておきまして。今、お兄さんの成都浄化作戦が進行しております。大体、あと三日も経たないうちにほとんどの白 粉や黒粉はまとめて燃やされるでしょう。勿論、この数字はこの街の全警邏兵や軍部の駐屯兵を借りた場合ですが」

「勿論、協力します」

 桃香は朗らかに笑った。一刀は幾分か釈然としないものを感じつつ、口を開いた。

「わかってるのか? お前は民に恨まれるぞ。速ければ速いほど、関係ない奴も関係ある奴も締め上げて、家捜しするハメになる。金を使えば それほど遅くない内に集まるはずだ。止めておけ。軍を動かせばそれなりの代償を払うことになる。俺がやっときゃ、お前が恨まれることもないはずだ」

「ううん。ダメだよ。もしも私が王様失格になってもそれは私のせいだもん。皆が助かるならそれでいいよ」

 屈託のない笑み――一刀は唇をわななかせ、顔を逸らした。

 損得を考えていない。保身を考えていない。嫌いなタイプの人間だった。好きなタイプの人間だった。その生き方が目を焼くほど眩しい。

「でも、言ってくれてありがとう。そうやって全部、被ってくれなくて良いんだよ。そういう優しさは痛いよ。皆、一刀さんに犠牲になれ なんて思ってないんだよ。皆、一刀さんのことを知って、好きになってる。だからもう無理だよ」

 言ってやりたい言葉が浮かぶ――何を言っても無駄そうだった。閉口した。目線は合わせないと誓った。情けない誓いが増えていく。

「まあ裏街道の人たちはこれだけ大規模に狩りをすれば皆地下に引っ込むでしょうが、商売っ気は必ず出すでしょう。後押ししてあげて 下さい。出所に問わず、黒粉や白粉を買い取ると」

「余財を全て吐き出してでも――買い占めましょう」

 朱里が決断するよるように宣言した。顔色は良くなかった。復興のための資金、備蓄、全てが失われる。

「それで公行の認可を得る黒粉ですが――成都の陸路に全て検閲を引くことは不可能です。一つ一つ中身を調べるには物量が多すぎますし、人出も足りません。正確には、 黒粉に知識があり、生真面目に全ての荷物を暴き立てる潔癖な人間が数多くはいません。必ず贈収賄で転ぶ人や、粗雑にやる人がいます。誰かさん みたいに凄まじい執念があればいいんですが。そこでいくつか現実的な絞り込みをします」

 一刀をちらりと見ながら風は言った。一刀は若干ふて腐れながら顔を逸らしていた。

 風は構わず成都の地図を描き、いくつかの線を描き、勢力図を描いた。

「恐らく、一ヶ月以内に全てを片付けなければ華琳様は派兵してくるでしょう。呉の力なしですと、この国の兵力は魏の六分の一。どう あがいても勝てる数字じゃありません」

「戦をするつもりはないが……程c殿、その言葉は過ぎたものではないか」

「そうねぇ……ちょっと言いすぎかしら」

 愛紗が幾分か苦味を感じさせる声を発した。両手を組みながら微笑む紫苑は賛同した。空気が少しだけ重くなる。

 風はため息を吐いた。一刀に助けを求めるように視線をやる。

「お兄さん。悪いところをもう一度見せてください」

「どういう意味だ……いや、否定はしないが。まあ、俺がもしも華琳なら、力の差があったとしても単独で攻めてこない。絶対に孫策に打診する。『勝利した 暁には私と分割統治せよ』と。呉も思惑がある。絶対に話に乗るだろうな。黒粉が向こうに出回ってきている。義がどちらにあるかは もう誰の目にも明らかだ。そうなると――六倍が十倍の兵力差になる。勿論、戦をしない前提の予測の話なんだが」

 重苦しい空気が冷え込んだ。不承不承だが、風の言葉の訂正はそれ以上求められなかった。

「一刀殿、もしも戦になったら貴方はどちらにつきますかな?」

 星の言葉で視線が集中する。期待のこもった瞳。あなたはもう私達の味方であるはず、そんな顔つき。うんざりだった。

 血の気が多すぎる者達――仕方ないとは言え、宥めなければならない。

「絶対に戦にはならない」

 断言して言葉を切った。

「俺があと一ヶ月で何もかも終わらせるからだ――いや、俺達が全て終わらせるからだ。血を流すのはこの国の人々じゃない――俺達の誰でもない。悪しき者達 だけだ。毒を振り回した悪鬼外道だけだ。そうだろう。そうでなければならない」

 傍らに立つ風が小さく手を叩いた。他の者達も習うように手を叩き始めた。拍手が起こった。一刀は引きつった顔で笑った。

 だからそういうのは止めてくれ――言葉して口に出せたらどんなにいいことか。

 

























 昔は考えなしだった。愚か者だった。今は考えすぎるほど考えて、行動している。それでもまだ愚か者かもしれない。

 罪を着せらそうになった事件。殺された七人の名簿――葉貴餐の名前があった。黒粉のボスが首を掻き切られて死ぬ。子分も皆殺し。

 なぜ?――考えられる理由。鬼人を裏切ったからだ。或いは鬼人の怒りに触れたからだ。総元締めである鬼人――本当にそうか。本当に 鬼人が総元締めだと言えるのだろうか。

 金の流れを追った。どこにも行き着かなかった。葉貴餐は稼いだ金を着衣と不動産に廻していた。裏帳簿に書かれた事実、ほとんど収入の増減がない。鬼 人に流れている金がない。なら、鬼人は無関係だ。敵対していた可能性もある。

 普通なら、もしも黒粉を手に入れる立場なら、もっと売ろうと考える。利益を上げようと考える。極道もまたビジネスの形。暴力を背景に金を稼いで いるだけだ。

 黒粉の口利きをしていた礼部の役人。葉貴餐と密談しようとした死体。公行の認可を担当していた者の一人。兵が役人の住居を家捜しさせようと した。家は灰になっていた。

 何もかも燃やされていた――その家族ごと。冷徹と残虐性、混ざり合って鬼という名に相応しい。

 公行――止めることができない。いや、民行を含めて認可のあるなしに限らず、物流とは都市の血管のようなものだ。血が止まれば心臓も停止する。物流が止まれば暴動が起こる。商人達が激怒し、人々は国に対して戦いを挑む。煮えたぎる熱い心。その気性はわからなくはない。

 百万人が使用する一日の消費、途方もない。全てを精査することは不可能に近い。

 積み上げられる貨物。商人が運んでくる荷物。行き交う人々が運んでくる荷物。旅をする者が運んでくる荷物。門の前に行列ができる。荷物 検査が粗雑になる。黒粉が入ってくる原因になる。

 どうしようもない――運良く、運び屋を捕まえても運び屋を拷問にかけても――何も知らない。人から人へと分離し過ぎている。誰も源泉 を知らない。儲けなど考えていないのか、恐ろしい智謀を持っているのか。

「……暑いな」

 呟いた。倉庫の中は熱気で充満していた。手拭きで額から流れる汗をぬぐった。上着を脱ぎ捨てた。汗でべたつく肌着を脱ぎ捨てた。

 調べるべき大きな竹篭の密集地。検閲官は笑いながら『信頼できる馴染みの業者から入ってきた茶葉ですよ』と言った。三十個の内、一個に黒粉の包みがあった。竹篭の底に隠れて いた。検閲官の顔色は青ざめた。俺は首を横に振った。

「業者が知らない内に入れてるんだよ。国に入ってから回収しようとしたのか、囮なのか――或いは疲弊させようとしているのか」

 指示している奴は賢い。智謀に長けている。世が世なら優秀な軍師になっていただろう。それだけは認めることができる。憎らしいほどに。

 荷物を調べる作業。地道で気が狂いそうになる仕事。気がつけば陽が落ちて夜が来た。兵達に無理はさせられないし、夜は物流がほとんど止まる。

 固定観念――夜に移動する奴は馬鹿だ。夜道を歩かせれば馬が怪我をするし、都に入ろうとすればあらぬ疑いをかけられる恐れがある。

 だが、馬鹿な行いだからこそする奴もいるかもしれない。人から見て愚かだと思うところに落とし穴があるものだ。

 頭が硬い――実感する。黒粉、最初も甘く見たせいで痛めに遭った。もう二度と甘く見るものか。

 一刀は手を止めた。視界が揺らいだ。足元が覚束なかった。

「……チッ」

 舌打ちし、壁に手を当てた。鍛えていた貧弱な体、ガタがきている。額も熱っぽい。何よりも胸が痛む。張り裂けるような熱さ痛み、消毒し、 包帯を巻いてもまだ続いている。

 傷口から細菌が入った――当然。骨もきっと折れている。自然治癒など待ってられない。

 コツリと聞こえた物音。手にした松明の炎、音がした方に向けた。

「まだやってたんですか?」

「諸葛亮さんか」

「朱里で結構ですよ……ところで、その包帯は」

「痛がってることは馬超には話すな。俺を情けない男にしないでくれ」

 ため息が聞こえた。帽子を取り、振り回す。埃っぽい空気をかきまわして朱里は一刀に向き直った。

「休めばいいじゃないですか。もう充分ですよ」

「皆、俺にそう言う。聞き飽きた嫌な説教だ」

 挑むような視線、朱里は受け流した。腰に手を当てて、つんとそっぽ向く。

「もう少し、人の話を聞いた方がいいですよっ」

「確かにその通りだ。何かわかったこととか、気づいたことがあるなら教えてくれ」

 朱里は周囲に視線を向け、目を止めた。五十センチくらいの木箱、埃を払い、その上に腰掛けた。

 足をぶらぶらさせながら、視線を落とす。

「この一週間で入ってきた黒粉の件数は三件。白粉が二十五件です」

「すり抜けたのは?」

「……見当もつきません。売りに来ますが、罪には問わないという一時凌ぎの法を作ったのを後悔してしまいました」

「それでいい。成功した奴がまたやろうとする。また、その金儲け話が拡散していく。今のこの世界には一攫千金を願う奴は多いよ」

 朱里は何ともいえないもどかしい顔つきに変化した。炎の明りに照らされ、瞳が揺れ動いていた。

「白粉は――追えるんですが。黒粉は追えないです。誰が嘘を言っているかわからなくなります」

「誰も嘘を言っていない可能性もある。取調べは俺にも参加させろ」

「どこに行くんですか?」

 一刀が身じろぎしたのを見て、声をかけた。一刀は面白くなさそうに首を振る。

「人にこれだけ細かい指示をするんだ。必ず鬼人の密偵がどこかにいる。複数いるはずだ。そいつらは真実に近いところに居る」

 思い浮かんだ顔。助利。もうこの成都に街にはいない。確信がある。それでも、何人かの狗に足跡を辿らせている。何を考え、何を求めて いるのか――問いたださなければならない。

 なぜ――いつから裏切っていたのか。考えたくないこと。考えなければ先に進めない。

 朱里は一刀に近寄った。無作為に手を伸ばした。止めるように伸ばした手。一刀はその手を掴んだ。

「まあ野郎を探し出してぶん殴る前に、頭をすっきりさせたいな」

「はっ?」

 掴んだ手を引っ張った。朱里はつんのめって一刀にぶつかった。一刀はしゃがんで唇を奪った。朱里の目は大きく開いた。舌をねじ込んだ。 開いた手で腰布に手をかけた。団子になったつなぎ目を外した。上衣がはらりと落ちた。

「はわわっ?! なっ、何を!?」

「こんな暗い密室で男女二人がやることなんて決まってるだろ」

 下着を剥ぎ取った。むき出しになった乳房、白い首筋から乳首まで線を描くように舌を這わせた。朱里の力が一瞬だけ抜ける。押し倒した。 スカートをまくった。細い太ももに手を這わせた。

 どれも肌にすいつくような瑞々しさ――情欲が湧いてくる。

「前の続きをやるぜ。期待してたんだろ」

 朱里は俯いた。顔を赤くした。視線を逸らした。瞳は微かに期待があった。発情した女の顔だった。

「でも、ちょっと……その」

 返答をまたずに下着をはぎった。石畳に転がった松明の炎、照らされた秘部はあまり濡れていなかった。口をつけた。粘膜に舌を這わせる。音を 鳴らした。朱里は体を震わせた。

 一刀はズボンを下ろし、陰茎を秘部にあてがった。口元には面白がるような笑みが浮かんでいた。

「あれだけ積極的だったんだ。まんざら初めてってわけじゃないだろ。楽しもうぜ」

 体重を乗せて一気にねじ込んだ。朱里は顔を歪めた。口から小さな悲鳴が漏れた。中は狭かった。暖かかった。きつかった。唇を貪り、腰を動かした。

 違和感、動きにくい。スカートをまくった。結合部には愛液にまじって血が滲んでいた。

「……はぅう……ひっく、ひどい……」

 顔には大粒の涙が浮かんでいた。非難がましい瞳。しゃくりあげる声。一刀は歯噛みした。

「俺の目もまだまだか……だが、最後までやらせてもらうぞ。もう止まれそうにないんでな」

「……その、うぅう……」

 腰を動かそうとして、止めた。訴えかけるような涙交じりの瞳、一刀は頷いた。

「好きだよ朱里。とても最初に見た時から好ましいと思っていた」

 唇を合わせた。今度は朱里の方から舌が入ってきた。小さな舌。懸命に絡ませようとしてくる。

 一刀は目を閉じた。

 

























 ここ二週間の推移。玄武門。主に北の方角からもっとも多く黒粉が入ってきていた。旅人の荷物のチェック。兵が麻袋の中身を 桶に転がしては戻すのを見つめていた。

 灼熱のような熱波、地面から立ち上る陽炎。竹筒の中の水を飲み込んだ。

 一刀は門から少し離れた場所で椅子に座りながらその様子を見、思考に耽っていた。

「何を考えておられるのですかな?」

 星がどこからかひらりと飛び降り、現れた。門から沿った長城、見上げるとざっと十メートル前後はあった。一刀は呆れたが、今更何かを言うつもり にもならなかった。

 何で将軍ってのは化け物ばかりなんだ――自らの体の貧弱さが恨めしい。

 星は手に土産なのか桃を二つ持っていた。一刀は顔を露骨にしかめた。桃は風にやり込められた過去を思い起こさせる。

 差し出される桃は受け取らなかった。星は邪気のある笑みを浮かべた。確信犯――性格の悪さが窺えた。

「好意を無にして欲しくないものですな」

「悪意は無にすることにしている」

 一刀は言い捨てた。そして膝に肘をつけて頬杖をついた。 「何を考えているかと聞いたな。ヒント――いや、言い方が悪かった。手がかりを探してるんだ。小さいことから何もかもが凋落していく ものだ。その小さな傷を探してる」

「もう二週間ですな。戦の準備をする動きも出てきております」

「慌てるなよ。まだ二週間だ」

 いざとなったら――何とか、何とか期間を増やしてやる。偽情報を流し、かく乱させる手もある。或いは馴染みの将を騙してやる。どうせ裏切ったんだ。最後まで裏切り通してやる のも悪くない。

 引っ張ってもう一ヶ月はいけるはず。戦をするにしても慎重になるはずだ。あらゆる手を打ってもう一ヶ月は増やせるはず。

「一刀殿は時にとても悪い顔をしますな……我が龍牙槍が疼きますぞ」

「その判断は正しい。だが、悪い奴を倒すためには悪い奴が必要になる場合がある。義侠心はわからなくはないが、見逃せ」

 ため息。諦めたようなもの。

「自らを悪としますか……ところで、朱里の味はいかがでしたか」

 飲み込んでいた水を吐き出した。むせた。一刀は顔を歪めて星の顔を凝視する。星は涼しい顔をしていた。

「嬉しそうに、恥ずかしそうに、話してくれるもので、もう皆知ってますぞ」

「耳年増だな……」

「どうですか、次は私がお相手しましょう。最初に会ったのは私ですのに、この差はあまりにも酷い」

「交わるのは嫌って言ってたじゃねぇーかよ」

「心変わりしました。あっちの勝手口の右手に個室がありますので、良ければ……」

 門の横の長城入り口を視線で示す。淫欲に耽っている場合じゃない。それでも、見せてくる太ももと主張している形のいい乳房に目が行く。

 馬鹿な――止めておけ。

「いいか、趙……」

「星でよろしいです」

「星……俺達はこんなことをしている場合じゃないんだ」

「ふむ」

 浮かんだいやらしい笑み。星の手が一刀の股間を撫でた。一刀の顔は引きつった。顔の距離がせばまる。端正な顔つき。凛々しさと美しさが混じった瞳。  吸い込まれるように唇が重なる寸前。誰かの荒れた声が聞こえた。

「どうしたっ!」

「チッ……」

 一刀は駆けた。背後で星の舌打ちが聞こえたが、聞こえないふりをした。

 集まった兵。囲いを作り、旅人を取り押さえていた。捕まえているのは二人――一刀が近寄ると、兵の一人が敬礼した。

「どうした」

「ハッ! こやつらがこの黒粉を持っていたもので……」

 差し出された茶巾袋、中身は葉の状態の黒粉。真っ黒に近い葉。一刀は目を細めた。

「手柄だ。お前の顔は覚えておくぞ」

 兵は顔はほころび、弛緩した。一刀は地面に這いつくばった二人を見る――呆れる。

「漢中の盗賊か……今度は運び屋に転職したのか? そつがないな」

「だから止めようって言ったのにぃ〜」

「しかたねぇーだろぉ。でも、惜しかったなぁ」

 泣き顔とふて腐れた顔。斗詩と猪々子――一刀は顎でしゃくった。兵が二人を離す。

「なぁお兄さん。顔馴染みだろ。見逃してくれよ」

 一刀は心底疲れたように顔に手を当てた。舐めてるのか貴様ら――怒鳴りつけてやりたかった。怒鳴る代わりに問う。

「誰に頼まれて黒粉を運ぶように言われた」

 どうせまた死人の名前やどこにも存在しない奴の名前が出る――そう思いながら問う。だが、猪々子は首を傾げた。

「別に頼まれてないぜ。街に黒葉茶を持ってたら金になるって聞いてさ。いやぁ、路銀がもう底についちゃってさ」

 黒葉茶――黒粉。初めて耳にする名。

「お前、自分が何を運んだかわかってるのか?」

「景気付けみたいなもんだろ。戦が起こるって聞いてたからさ。これを集めて使うのかと思ったけど……」

「違うに決まってるでしょ〜っ! どう考えても危ないことに使うって言ったでしょっ!」

 いまいち事情が読めない。

 頭の良い方に聞いた方が早いか――一刀は斗詩に向き直った。

「どうやら、俺の知らないことを知っているようだな。詳しく話してもらおうか」

「罪に問わないんだらいーぜ」

 横から無遠慮な声が飛ぶ。一刀は腕組した。

「罪は罪だ。犯罪を犯せば罪が与えられる。しかし、なかったことにはなるかもしれないな」

「どういう意味?」

「暗に見逃してくれる、ってことだよ……公に認めるわけにはいかないけどってこと。はぁ〜」

 泣きそうな声。一刀は着いてくるように二人を促した。

























 馬賊の戦闘方法――匪賊、蛮族の戦い方。

 黒粉を煎じて飲む。精神が高揚する。自我が肥大化し、前後不覚になる。痛みが飛ぶ、人を殺せない者でも人を殺せる者へと変化 する。

 気の弱い人間、戦いを恐れる人間。麻薬を使わせ、優秀な兵士に変える。

 メリット――恐れと痛み、全ての現実から開放される。

 デメリット――命令を無視するようになる。陣形が組めなくなる。中毒になる奴がいる。敵味方の判別がつかなくなる。

 胸糞悪い話。聞き続けた。猪々子は皿を積み上げていく。腹が減っているのか、運ばれていく料理は見事に胃袋に収まっていく。

  「でさ、俺達の祈祷師とかもやってたんだよ。偉大な応龍に近づけるとか何とかでさ」

 古霊――四霊の一つを口にした。麒麟、鳳凰、霊亀、応龍――彼らが居るとしたらいい迷惑だと思った。薬で狂った人間と同列に並ぶ など耐え難い屈辱だろう。

    「兵法としては主にどうしようもない、っていう状況の時に飲むものなんです……まさか蜀の人たちに限ってそんなことはないと思った んですけども」

 不穏な噂――流れ始めている。軍が動き出せば必ず噂がもれる。戦いの鐘の音。誰もが敏感だ。

「なるほど……用法はわかった。それで、君達が黒葉茶は運んだのではないのなら――どこから持ってきた?」

 一番聞きたかった問い――斗詩の口が開いた。言葉が紡がれる。期待した。どうかそうであってくれと。

「摘んできたんです。群生地は知っていますので」

 胸に嵐のような想いが渦巻いた。ずっと求めてやまなかった情報。たまらなかった。一刀はレンゲを握り締めた。レンゲが砕け散った。手の中で 血が滲んだ。二人は驚いた顔つきになった。一刀は薄く微笑んだ。

 天の采配――これほど身を持って感じたことはなかった。

「群生地を教えてくれないか?」

 手についた血を舐め取った。二人は顔を引きつらせつつも、応える。

「あっ、明日もうまい飯食わせてくれるないいぜー」

「ちょ、ちょっと文ちゃん」

「死ぬほど食わせてやるさ。どんなものでもな」

 一刀は笑った。腹の底から笑い続けた。













 都江堰(とこうえん)――成都の繁栄の証。繁栄の守り神。一刀の時代にもある遺産。何千年も鎮座するであろう施設。

 ダムと形容してもいい。成都の穀物地帯を支える要。古代の水利施設。そこを乗り越え、馬をあぜ道に走らす。なだらかな山脈が見え始める。

 都江堰を越えれば本格的に森林地帯に入る。一気に熱気と湿気が混ざり合って肌を突き刺す。大葉の植物、太い蔦植物、高くそびえる木々。彩り鮮やかな鳥獣。大型の 肉食獣である虎の姿もある。

 高山地帯にあるんですよ――あるとしたらこの辺りです。斗詩の説明。頷いた。

 名もなき山を登る。村が見える。集落。緑色の茶葉を栽培している。

 村人に会う。中年の農夫。褐色の肌。太い眉と濃い顔つき。朗らかな顔、並ぶ兵を見て顔色を少しだけ変える。

「どっ、どうしたことかな。こんな村に」

「茶葉を見せて貰えますか?」

「いいだが……」

 斗詩の問いに快くではないものの、答え、栽培している緑の葉を手渡す。斗詩はそれを見つめ、地面に転がった枯れ木を集め、火打ち 石で火を点ける。

 ボォと灯る炎、茶葉を軽く火で炙る――茶葉が黒ずむ。見たことへあるものへと。

 一刀は舌打ちした。

 黒い葉。こんな形で現れる。これなら、普段は普通の茶葉と見抜けない。元々がそれで、黒く染まったり、加工されたのは 全て囮だった――怒りが湧いてくる。見抜けなかった自分が呪わしい。

 だが、説明もつく。加工された黒粉の運び屋――全てがダミー。ダミーから真実を見ようとしても、無駄なだけだった。

 しかし――どんな形であれ、ここまで辿り着いた幸運。何もかもが無駄だったとしても、成果が現れたのならば構わない。

「これはどういうことだ」

 馬に乗ったままの一刀が尋ねた。斗詩は首を振った。

「誰かが持ってきたんでしょう。これを栽培すれば金になるぞ、って風に……そうですよね」

 斗詩の問いに村人が頷いた。そして剣呑な雰囲気を察してか、頭を擦り付けた。

「値段が良かっただ。だからおらも……村人も皆で作っただ。まずい茶葉だで、なんで売れるんか不思議だったが……」

 やばいものだとわかっていた――自白しているようなものだった。問い詰める前に、罪を問う前に、やるべきことをやれ。

 恐らく、この辺りの全ての集落で黒粉は栽培されている。実入りがいいから。今まで誰も罪に問われことがないから。

「誰がこの茶葉を買っていくんだ?」

 追い詰めた――長かった旅の終わり。すぐ傍らにある。



























 誰かの駆ける音がした。終わりの音。一刀は顔を上げた。茶をすすった。ドアが開いた。驚愕に染まる顔。

「隊長……」

 鉢巻をした男。助利は戸を開いたままの状態で立ち尽くした。

 薄暗い小屋。真実の黒粉の貯蔵庫。一刀はテーブルに座ったまま、視線を動かした。

「誰かが来る方に賭けた。山を派手に燃やしてやったんだ。黒粉に関わってる奴の顔は青ざめると思った。だが、お前が来るとは思わなかった よ」

 一刀は目を閉じて茶を飲み続ける。すすりながら腰元の剣を撫でた。止め具が外れる金属音、助利は剣を抜いた。

「いつから裏切っていた? 四人で俺を殴りに来た時からか? いや、違う。あの時のお前の目は正義で燃えていた。だが、今は狗にも 劣る」

 助利は周囲に視線をやった。敵を探していた。一刀は笑った。

「安心しろ。俺を殺せばお前は逃げられる。一騎打ちと行こうじゃないか」

「本当に俺は逃げられるんですか?」

「嘘を言ってどうする。お前らの隊長だぞ。信じろ」

「信じられるわけありませんよ。貴方はそういう人だ」

 一刀の笑みに助利は笑みで返した。笑いあった。笑い声が響く、笑いながら助利は踏み込んだ。振り下ろされる剣――一刀は自分の座っていた 椅子を蹴り飛ばした。

 飛んできた椅子に足を取られて助利はつんのめった。一刀はよろめいた隙を狙って拳を叩き込んだ。顔面から衝撃を受けて助利は吹き飛んだ。

 一刀は倒れた助利を冷たい目で見下ろした。

「なぜ俺を裏切った。金か?」

「黙れっ!」

 飛び跳ねるように助利は立ちあがった。唾を吐き捨て、剣を構えた。今度は下から凪ぐ剣戟――一刀は剣を受け止めた。

 目を細めた。助利の目には動揺があった。すぐに看破できた。

「なるほど、金か……いくらくらいだ? ずっと食っていける額か? それとも今こうして定期的に稼ぐ金のためか?」

「アンタには何もわかるものかっ!」

 剣を戻し、突きを連打する。体を捻ってかわした。狭い廃屋に穴が開く。穴から光が漏れる。助利は荒い息を吐きながら一刀を睨み 続けた。

 一刀は冷めた目のまま、受け流し、はき捨てる。

「金で同胞を売ったか? 金葉を殺したのか? 俺の大事な部下を刻んでドブ川にぶち込んだのか? 自分の義理の兄を騙し討ちしたのか?」

「仕方なかったんだっ!」

「いや、仕方なくなんかないさ。死ぬんだ助利。もう俺もお前も赦されない。大丈夫だ。言ったろう。何もかもが俺が呑み込むと。俺はもう 何もかもわかっている」

 助利は大きく目を見開いた。そして諦めたように笑った。涙にまみれた顔、剣を翻した。自らの腹部に突き立てた。血が吹き出た。だらりと 体から力が抜け、地面に倒れ伏した。

「アッ、アンタの……汚い剣なんかで……死んでやるか」

 口から血を噴出した。一刀は近寄り、その顔を見ながら、しゃがみこんだ。

「いつから俺を裏切った?」

「……すぐだよ……俺は賄賂を受け取っていたんだ……ちくしょう、アンタにだけは知られたくなかった」

「それをネタに脅されたのか?」

「一度きりさ……たった一回ぽっちなのに……俺は俺が赦せなかった」

 魔が差した。気が迷った。だが、言い訳できなかった。

 推測――一度きりの収賄。誰かに見られた。脅された。そして黒粉に関わることになった。警部の情報を流す。動向を話す。黒粉の 捜査を遅らせる。それは利益を生む。利益が生まれ、金に目がくらんだ。

 金と背徳が体をがんじがらめに縛った。動けなくなった。脅されるまま、言われるままに行動することしかできなくなった。

 金葉――兄貴分にそれを気づかれた。正義を歌う者の不徳。赦されるわけがない。殺すしかなかった。自らの崩れかけた足場を建て直すために、殺すしかなかった。

 罪を重ねる。自己嫌悪に陥る。それでも、走ることは止められなくなってしまう。

 一刀は微笑んだ。そして涙した。

「馬鹿だ。お前は馬鹿だよ――そんなこと知ってた。俺は握り潰したんだ。お前に賄賂を渡した馬鹿は俺に密告してきた。追い返して やったんだ。お前と同じだ。俺も誰よりも正義を歌いながら不徳を犯す外道なんだ」

「……ちくしょう……なんだって俺は――ならなんだって俺は……」

 助利は動かなくなった。目は天井を睨んだまま動かなくなった。助利は死んだ。

 なんだって俺は――あんな過ちを犯してしまったのか。

 声は最後まで続かなかった。天を呪う声。自らを呪う声。頭の中でこだましている。

 不意に戸が開く音がした。愛紗がしかめっ面で立っていた。待機させていた兵も後ろで待ち構えている。

「終わったか?」

「ああ……悪いな。話したいなんて言っちまって」

 信じられるわけありませんよ。貴方はそういう人だ――助利はよくわかっている。わかりすぎるほどに。

「して、鬼人というのはその男なのか?」

 愛紗は死体を眺めて尋ねる。一刀は首を振った。そして顔に手を当てた。

 もう何もかもわかっている――何もかもが見えてしまった。

「いや、鬼人ってのは――俺のことだ」

 愛紗は怪訝な顔をした。何を言っているかわからないという顔つき。

 一刀は喉を鳴らした。笑い声が少しづつ漏れていく。自分の影を探していた。自分の尾を追い掛け回す犬と何ら変わらなかった。

 そう――俺が鬼人だ。

 確信し、一刀は剣の柄を握り締めた。黒粉の源泉は焼き尽くした。後は自分自身との一騎打ちを終わらせてやる。



























「こちらへどうぞ」

 侍女の案内――従って歩いた。宝物庫への案内。吹き抜けの天井。ただっ広い部屋、多くの工芸品、多くの美術品、多くの貴金属、無造作に置かれている。その中心に台座があり、王冠が飾られていた。

 環明は一刀に気づくと、涼やかに微笑んだ。

「歴史は見て感じることができます……この王冠は間違いなく、私の収集品の中で一番良いものになるでしょう」

「おめでとう。しかし、俺に財を半分寄越しておいて――まだ随分と持ってるもんだな」

「貴方が持っていってしまった分もあればもっと敷き詰められたのですがね」

 環明は言葉は責めるようなものだが、口調には棘がない。

 王冠を惚けるように見つめる。いたく気に入った様子だった。一刀は煙管を取り出した。助利の遺品。火を点けた。環明が顔をしかめた。

「一刀、煙は困りますよ」

「お前の息子に会ったことがある」

 環明の顔色が変わった。構わず、口を動かした。

「利発な奴だった。十五かそこらだったか。算術が得意だった。警部には向いてなかった。なぜお前が警部に入れたいと思ったか。簡単だ。 自分がやっている汚いことを見られる恐れがあったからだ」

「一刀、言いがかりは止して下さい」

 一刀は煙を口から吐き出した。白煙、空に登って行く。涼しい顔つきの環明、化けの皮が剥がれたところは見たことがない。

「職業柄かな。何でも知らずにはいられなかった。それが全ての災いになった。全ての元凶になった。俺が鬼人だ」

 そしてお前が――。

「俺の影法師だ。歯車の油さしだ。鬼人の威光を利用した狐野郎だ。ハリボテを盾に小金を稼ぐだけの薄ら馬鹿だ」

「……何をおっしゃっているのか、順を持って話して下さい。そうすれば誤解はすぐに解けるでしょう」

 一刀は微かに笑った。煙管を咥え直した。

「最初、黒粉が洛陽に蔓延した時、おかしいことに気づいた。黒粉の利益がどこにも行っていない。首魁がいないのだ。居ても、それは 小さな組織の頭ってだけだ。つまり――流通の仕方、売り方、管理の仕方。あらゆることは綿密に絵を描いても、決して利益のほとんどを 取ろうとしない奴が首魁だった」

 組織は上から下があるから組織だった。しかし、組織のほとんどは横しかなかった。だからいつも捜査がつまった。

 全ては固定観念のせいだ。黒い粉を麻薬と思わなかった。茶葉が黒く染まるはずがないと考えていた。組織は上から下があると思った。何もかも違った。

「そいつの目的はわけがわからない。だが、同時に臆病ってことはわかる。保身に長け、智謀に長けた奴だ。黒粉を売りまわす洛陽になどいること などできなかったのさ。洛陽のことを良く知っておきながら、洛陽に居ない奴が首魁なのさ」

 歯車の全体像――歯車は何も作っちゃいなかった。ただ無意味に回転していただけだった。意味などなかった。

「その首魁が私と言うわけですか?」

「違うか? 俺の情報をまとめた書簡をお前に見せた時、お前は死ぬほど落ち着いた顔つきだったぜ。俺はわりととんでもないことを書いたんだぜ。 誰もがその場で震えても仕方ないようなことばかりを書いた。保身に長ける高官のお前がなぜびびらない? 俺はあれを作ったせいで不眠症になった。なぜ びびらなかったのか答えは簡単だ。あの情報を――助利から受け取って高官達を掌握していたんだ」

 何もかも――自分のせいだった。自分がいなければあそこまで黒粉が蔓延することはなかった。権力を持ち、その権力を利用された。

 愚か者め――どこから声が聞こえた。正しい。認めてやる。死にたくなってくる。

「それだけで私が犯人だとするならば、おかしな話ですよ一刀」

 環明は首を振った。一刀は畳み掛ける。

「最初から何もかもがおかしかった。最後くらい素直になれよ環明。お前の周囲を洗えばすぐわかることなんだぜ。いくら十重二重に 策を練ろうが。的を絞れば策も何も通じなくなる。俺は機会を与えてやってるんだ。俺をこの場で殺せばまだ何も発覚していない」

「ふむ……いいでしょう鬼人」

 呼び方は変わった。

 環明は壁に飾りかけられた宝石剣を手にかけた。二振り飾られていた。片方を一刀に投げる。一刀はそれを受け止め、剣を抜いた。

 鋼の剣。白く美しい曲線。惚れ惚れするような名工が作った刀剣。

「私が鬼人にたかる狐かどうかは別として、貴方が鬼人であることは確か――正義のために討ちましょう」

「いいね。そういう理由は大好きだ」

 踏み込む――環明の剣撃の速さ――目に見えぬほど速い。

 響き渡る金属音。振り下ろされる剣、弾く。胴を狙った剣、弾く。後退する。足元に転がった工芸品を投げつける。つまらなそうに斬って捨てられる。

「鬼人。そんなものですか」

「葉貴餐を殺したのはお前を裏切ったからだ。葉貴餐は洛陽に運ぶはずの荷物を横流していたからだ。お前はこの国の公行の役人と手を組んでいた。 それなのに、二股をかけたのが役人も許せなかった」

「なるほど、いい推測です。さすが鬼人」

 神速の突き――喉元を狙ったもの。一刀は寸でのところでかわした。横に飛んだ。

 かわし切れなかった分、頬を深く斬った。血がだらだらと流れ落ちる。

「お前は押さえ切れなくなった。洛陽の馬鹿が勝手なことをやるのは許したが、この自分が居る国で好き勝手やるのは許せない。当然だ。 もしも火の粉がかかってきたら困るからな。せっかく、輸出で小金を稼いでるんだ。護りたくてしょうがねぇよな」

 剣撃――細身の体から繰り出される恐るべき速さ。

 一刀は守備に回ることしかできなかった。反撃しようとすれば、その隙を狙って斬り殺される。

 腕の差は歴然としていた。相手は手馴れている。人殺しに。一刀よりも遥かに多くの人間を殺したものの動き。冷酷な瞳。深淵のように暗い瞳。

 唾を呑み込んだ。数手合わせただけだが、まともに戦えば勝てる相手じゃなかった。

「俺を遠ざけようとしたのは――俺に消えて欲しかったからだ。助利も不自然なほど俺を拒絶していた。あいつは嘘つきだが、嘘がへたくそ すぎる。俺が怖かったか? すぐに殺せばよかったのに。そんな度胸もなかったのか」

「よく喋りますね」

 苛立った声――一刀は口元を歪めた。

 もっと化けの皮をはがしてやれ――残酷な暗い喜びが全身を包む。

「狐野郎。お前がなぜ混沌を望んだか俺にはわかるぞ。お前は火事場泥棒の味をしめたからだ。黄巾の乱がそんなにおいしかったか? 人々から 略奪した宝物がそんなに眩しかったか? お前はまた戦乱が欲しかったんだ」

「……鬼人っ!」

 踏み込んでくる。遮二無二に振られる剣。それでも、一刀よりも剣の技量は上。一刀は逃げ回る。

 背は向けはしないものの、飛んでくる剣を弾き、受け止め、受け流し。笑い続けた。神経を逆撫でし続けた。嘲い笑い続けた。

「笑えるな。つまらないな。そんな理由で黒粉をまき続けたのか? よだれを垂らすほど洛陽での黒粉の売り上げが欲しかったはずなんだ。だが、 お前は自分の力と智謀を恐れたんだ。有り余るほど才がありながら度胸がなかったんだ。多くの人の弱みを握り、多くの人を操っておきながら怖がって いるんだ。それが生み出す力を。だからこんな街でくすぶっている。黒粉の売り上げをかき集めるのを諦めている」

「殺してやるぞ鬼人っ!」

 涼やかな顔はもうどこにもない。憤怒に燃える瞳――憎悪に揺れる瞳。痛いところを抉り取られ、激怒している。

「いいとも。やってみろ。俺を殺して終わらせてみろ。誰でもない。俺が鬼人だ。俺を殺せば鬼人になれるぞ。もうハリボテを使わなくていい。本当の意味でお前が誰もが 恐れる鬼人だ」

 環明の剣の揺れが収まった。顔を下げ、上げる。決意した表情――一刀は貼り付けた笑みを解いた。

「一騎打ちだ環明。決着をつけよう」

 上段に剣を構え、刃先を環明に向けた。

「ついこないだまで、人を殺したこともないようなボウヤが私に勝てると思ってるのですか?」

「勝てるさ。俺は鬼人――鬼の名を冠する者だからな。何より、お前は必ず油断するさ」

 環明は小さく笑った。そして憎しみを込めた目で一刀を睨んだ――閃光のような速度で踏み込んだ。

 貰った――環明の目は輝いた。

 一刀はほとんど動いていなかった。動くことができないのか。単に鈍重なのか。環明に比べて一刀は 遅かった。遅すぎると言っても良かった。

 神速の突き――環明の人生に置ける最高のタイミングだった。伸ばした腕、伸びきった剣。一刀の胸に突き刺さった。ズブッとめり込む刃先。しかし、浅い。手ごたえ は少ない。

「……なっ!」

 環明は驚愕で目を見開きながら刃先を見た。体の内部には達している。それなのに、手ごたえが少ない。

 まるで鉄の壁を突き破ったかのよう――切れた上衣から壊れた鎖が零れ落ちた。突きによって破壊された鎖かたびら。

 迂闊――環明は飛びのこうとした。横から風きり音がした。首筋に迫る白金。

 避ける――間に合わない。

「油断しただろ」

 袈裟懸け。肩から胸にかけて一刀は剣を振り下ろした。肉を絶ち、骨を絶つ嫌な音。環明の体が揺れた。血が噴出した。よろめき、 ばったりと後ろに倒れた。

 一刀は胸に刺さった剣を掴み、雄たけびを上げて剣を抜いた。

 血が吹き出る。鎖かたびら――破壊された。だが、無ければ死んでいた。

「くそ……そんな……汚い」

「暗殺されかかった。三度も。俺は普段、全身鉄だらけさ。今まで守備に回ってたのは布石ってわけだよ。つまらない手だ」

 吐き捨てた。環明は歯を噛んだ。目の焦点が合わなくなっていた。口から泡が出ていた。

「それは私が……指示したんじゃないんだ」

「わかってるよ。最初の鬼人は仕組みのことだった。黒粉に関わっている者達全てがそれぞれ勝手に動いていた。だから、俺も見つけられ なかった。段々お前の意思と関係ないところに行ったんだろ。皆、利で動いていた。人の利を操るお前は大したもんだったよ。だが、その代償に 段々と自分の利を失っていった。そうなんだろ」

 一刀は傷口を押さえながら環明を見下ろした。環明は笑った。

「いいや……一刀、貴方が鬼人だ……貴方が全ての……」

 環明は笑ったまま、死んだ。

 一刀は目を閉じた――全身がだるかった。

 血が出すぎた。何もかもが終わった。何もかもがおかしかった。何もかもがどうでも良くなった。

 環明は最後の呪いの声――貴方が全ての元凶だ――きっとそう言いたかった。環明は正しい。

 俺がいなければここまで環明も力をつけることがなかった――国を滅ぼしかねない鬼人など生まれなかったかもしれない。

 そう思わずにはいられなかった。呪いの源泉。この身こそ人々の苦しみを生み出す元凶――深く、噛み締めた。

 視線を感じ、振り向いた。壁に鏡台が飾られていた。血まみれの自分の姿が映っていた。頬はこけ、顔は青白く、髪は伸びきって ぐしゃぐしゃになっていた。

 それなのに、黒い目だけがぎらつき、餓えた狼のように剣呑な光を放っている。

 鬼人――必ず殺してやる。そして鏡の前にいるのが鬼人。紛れもない自身。

 誓いを護らなければならない。全てを賭けた怒れる誓い。何よりも神聖なもの。握った剣を喉元に持ってきた。この喉を掻き切れば全てが終わる。

 鬼人を殺すためだけに今まで非道な真似をしてきた。四人の腹心を失い。多くの兵達の命を犠牲にし、多くの人々の心を踏みにじった。

 全ての元凶の首を跳ねてやる――それが誓いだった。元凶は今ここにある。しゃくりあげような嗚咽(おえつ)が聞こえてきた。すぐに自分のものだと気づいた。自分の意思に反して涙がこぼれ落ちていた。

 責任を果たせ――どこからか声が聞こえてくる。

 誰も彼も死んだ。お前も死ぬべきだ――底冷えする恐ろしい声が聞こえてくる。

 夢遊病者のように体が揺れた。震える手。首筋から血が流れてくる。ぴたりと手は止まった。

 鏡に向かって剣を投げつけた。鏡が派手な音を立てて割れた。

 一刀は嗚咽し続けた。

 

























 

























 

























Ending



斬人鬼首 


1