「完全自殺マニュアル」まえがき

前書き・・・というのも変な話だが、この本の「まえがき」を私はとても気にいっているので、ここに記しておきたいと思う。
ここに書いてあるような考え方はどうだろうか。本をお持ちで無い方、良かったら目を通してみてください。


「完全自殺マニュアル」鶴見 済

はじめに。

 この本には1冊まるごと、自殺の方法だけが細かく書かれている。
 よくありがちな、自殺者のルポでもなければ、自殺に関する理屈を述べたものでもない。雑学本としても読めるけれども、あらゆるベクトルは「どうやって自殺するか」という方向に向いている。
 ゴタクはもう聞き飽きた。
「若者たちはなぜ死に走るのか?」なんてずーっと前から、何回も何回も何回も言われてきた。そのたびに、たとえば70年代なら「三無主義」とか「シラケ世代」みたいなことが結論めいて言われた。最近の流行は「死に対する感覚が、それまでの世代とは根本的に違ってきた」だ。だけど、「どうして自殺しちゃいけないのか?」「なんで生きなきゃいけないのか?」という問いには、相変わらずなんの解答もない。
 もういい。今必要なのは、自殺を実践に移すためのテキストだ。
 そういえは、10年くらい前に出た、「自殺のしかたが書かれている」という触れ込みの本も、ほどんどゴタクが並べてあっただけでうんざりした覚えがある。今知るべきことは、純粋に自殺の仕方なのだ。
 アメリカには1台だけ、ある学者が作った安楽死できる自殺装置がある。(→ケース30)。この本は日本でただひとつの、コトバによる自殺装置だ。

 といったところで、さっそくクスリの飲み方から紹介をはじめたいところなんだけど、とりあえず、なんで今自殺なのか?っていうことを明らかにするために、またその他もろもろの営業上の理由で、一応ゴタクを書かなきゃいけない。


CHERNOBYL(チェルノブイリ)
ボクはいつだって「デカイ一発」を待っていた。20年前学生が暴れていた時、「お、デカイやつがくるぞ!」と思った。アポロが月に行ったり、石油がなくなりそーだったり、ソ連がどっかに侵攻したり、昭和が終わりそうだったり、そのたびに「今度のはデカいぞ」と思った。だけどどれも震度3、ブロック塀が倒れるテード。顔をみあわせ、「すごかったね」で笑って終わりだ。(しりあがり寿『夜明ケ』あとがきより)


80年代が終わりそーなころ、”世界の終わりブーム”っていうのがあった。。「危険な話」が広まって、いちばん人気のあったバンドがチェルノブイリの歌を歌って、子どものウワサはどれも死の匂いがして、前世少女たちがハルマゲドンにそなえて仲間を探しはじめた。
僕たちは「デカいのがくるぞ!」「明日世界が終わるかもしれない!」ってワクワクした。
 だけど世界は終わらなかった。原発はいつまでたっても爆発しないし、前面核戦争の夢もどこかに行ってしまった。アンポトウソウで学生が味わったみたいに、傍観しているだけの80年代の革命家は勝手に挫折感を味わった。
 これでやっとわかった。もう”デカイ一発”はこない。22世紀はちゃんとくる(もちろん21世紀はくる。ハルマゲドンなんてないんだから)。世界は絶対に終わらない。ちょっと”異界”や”外部”に触ったくらいじゃ満足しない。もっと大きな刺激が欲しかったら、本当に世界を終わらせたかったら、あとはもう”あのこと”をやってしまうしかないんだ。


A LONG VACATION
「つまんない」なんて言ってもしょうがない。僕たちは運悪く歴史のそういうステージに生まれついてしまったのだから。
 22世紀まで僕たちはマイニチマイニチ朝7時に起きて、学校や会社に通って、とりとめのないムダ話をくり返す。学校では英単語や歴史の年号を何度も何度も暗記して、会社では「つまらねー」なんて言いながら、本当につまらない仕事を1週間、1ヶ月、1年なんていうサイクルで何週間も何ヶ月も何年もくり返す。
 延々と最先端スポットができ続けて、延々と政治家は汚職をし続けて、テレビのなかは延々と激動し続ける。だけどテレビのスイッチを消してまわりを見回すと、いつもとなんにも変わらない毎日があるだけだ(テレビをけしたあとの、あの奇妙な暗さを錯覚させることが、この本のもうひとつの狙いだ)。
 三島由紀夫は自伝的小説『仮面の告白』のなかで、「戦争より『日常生活』のほうが恐ろしかった」って書いた。僕たちはガマンにガマンを重ねながら、この「身ぶるいするほど恐ろしい日常生活」を生きていく。得体のしれない”安定した将来”をしっかり引きつけておくために。1歩1歩慎重にコースを踏み外さないように気をつけながら。
 テレビのドラマみたいなハッピーエンドはない。ただグロテスクな”ハッピー”が延々と続いていくだけだ。
 そう。キーワードは「延々」と「くり返し」だ。延々と続く同じことのくり返し。これが死にたい気持ちを膨らます第1の要素だ。


ANOTHER BRICK IN THE WALL
 78年に「あみだくじ自殺事件」っていうのがあった。
 富山県に住む高校1年の双子の姉妹が、林の中で首を吊って死んでいるのが発見された。ひとりのノートには4本の縦線と何本かの横線が引かれたあみだくじがあって、その下にそれぞれ、「日本人のX」「自殺」「ROS」「御三家」っていうよくわからない言葉が書かれていた。結局両親にも動機として思い当たるところがなかったので、ふたりはあみだくじでそうなったから自殺した、ということになった。「ROS」はローリング・ストーンズのことかもしれないと言われた。「日本人のX」はノートに「アジア人なんてきらい」などと書かれていたので、それと関係がるのかもしれなかった。だけど結局、言葉の意味はわからなかった。
 むかし「人ひとりの命は地球より重い」なんて言った裁判官がいた。だけどこれはくだらない誤解だ。70年代にふたりの女子高生がとっくに気づいていたように、人ひとりの命は軽い。「日本人のX」や「ROS」と同じくらい軽い。
 50年代末にアメリカ大衆社会論者が「大衆は無力感に陥った原子のようなものだ」って言った。70年代の末にイギリスのロックバンドが「僕たちは壁のなかの1個のレンガだ」って歌って大ヒットさせた。90年代になったからって、少なくともこの日本じゃ、状況はなにひとつ変わっちゃいない。相変わらず僕たちは、無力な壁のなかの1個のレンガだ。その証拠に、僕たちの誰かが死んだって、必ず別の誰かが変わりにやってくれる。誰ひとりとしてかけがえのない存在なんかじゃない。暗殺するに足る政治家もいない。レンガが1個なくなったくらいじゃ壁は壊れない。
 僕たちひとりひとりが無力で、いてもいなくてもどうでもいい存在で、つまり命が軽いこと。これが死にたい気持ちを膨らます第2の要素。


CLOCKWORK ORANGE 
 こうして無力感を抱きながら延々と同じことをくり返す僕たちは、少しづつ、少しづつ、”本当に生きている実感”を忘れていく。生きてるんだか死んでるんだか、だんだんわからなくなってくる。「生きてるんだなぁ」ってどういう感じだったっけ?今や生きてることと死んでることは、消えかかりそうな、ほそーい境界線で仕切られているだけだ。
 だからもう「命は大切だから自殺はいけない」だの「生きていればいつかいいことがある」だの「まわりが悲しむから生きなさい」だのといった言葉は、「犬も歩けば棒にあたる」ほどの重さしか持っていない。自殺を止める有効な言葉はとっくになくなってしまった。自殺することにゴー・サインが出てしまったんだ。
 そう、もう死んじゃってもいい。学校jや会社に行ったり、生きているのがイヤだったり、つまんなかったり、それどころか苦しかったりするんなら、細い境界線を踏み越えて死んじゃえばいい。誰にもそれを止めることなんかできない。
 前にも書いたけど、生きてたって、どうせなにも変わらない。エスパーじゃなくても、だいたいこれからどの程度のことが、世の中や自分の身に起こるのかもわかってくる。「将来、将来!」なんていくら力説してもムダだ。あなたの人生はたぶん、地元の小・中学校に行って、塾に通いつつ受験勉強をしてそれなりの高校や大学に入って、4年間プラプラ遊んだあとどこかの会社に入社して、男なら20代後半で結婚して翌年に子どもをつくって、何回か異動や昇進をしてせいぜい部長クラスまで出世して、60歳で定年退職して、その後10年か20年趣味を生かした生活を送って、死ぬ。どうせこの程度のものだ。しかも、絶望的なことに、これがもっとも安心できる理想的な人生なんだ。
 こういう状況のなかで、もうただ生きてることに大した意味なんてない。もしかしたら生きてるんじゃなくて、ブロイラーみたいに”生かされている”だけなのかもしれない。だから適当なところで人生を切り上げてしまうことは、「非常に悲しい」とか「二度と起こしてはならない」とか「波及効果が心配」とかいう類の問題じゃない。自殺はとてもポジティブな行為だ。


ANGEL DUST
 僕の知人に、それを飲んだら平気でビルから飛び降りちゃうほど頭のなかがメチャクチャになっちゃう”エンジェル・ダスト”っていう強烈なドラッグを、金属の小さなカプセルに入れてネックレスにして肌身離さず持ち歩いている人がいる。「イザとなったらこれ飲んで死んじゃえばいいんだから」って言って、定職になんて就かないでブラブラ気楽に暮らしている。

  この本がその金属のカプセルみたいなものになればいい。


いかがでしょうか・・・。自殺を勧めるのでは無く「いざとなったら死んじゃえばイイ」って気持ちで気楽に行きましょう。そんなお守りみたいな本です。


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