第二章:二度目の奇跡をこの手に(金稼ぎ編)
第六話:マリアとイシュタリアの一問一答
マリーがしっかりと事情を話し終える頃、この日の夕食がテーブルへと並べ終った。
それを今か今かと待っていた、腹を空かせた女性たちが、ぞろぞろと食堂へと入ってくる。今日は半日ずっと草むしりに追われていたせいで、とても空腹な状態だ。いつもよりも瞳を輝かせた女性たちは、夕食が置かれたテーブルの席へ、腰を下ろした。
今日の夕食は、いつものパンと、ニンジンと玉ねぎをしっかり煮込んだクリームシチューであった。ハーブでミルクの臭みを入念に取られたスープには、ほとんど嫌な臭いは感じられず、微かに香る香辛料の香りがほんのりと食欲を誘う。住人の中でも一番料理の美味い人が今日の担当であったらしく、シチューを見た女性陣は喜びに舞い上がった。
しかし、その中で、ひと際異質な空気を放っていた女性がいた……マリアである。彼女は椅子に座ったまま、老婆のように腰を曲げた状態で俯いていた。背中に、重りでも背負わされたかのようだ。その隣で、事情を説明したマリーとサララは、苦笑するしかなかった。
マリーが予想していたとおり、マリアは目に見えて落ち込んだ。
その高揚の落ち込みとったら、それはもう酷かった。背後に見え隠れしていた満開の花びらが、瞬く間に枯れていくかのように肩を落としたマリアは、とぼとぼといつも座っている席に腰を下ろすと、力無く肩を落としてしまったぐらいだ。
そして、それは夕食が始まっても続いている。いつもならマリアが挨拶をするのだが、落ち込んでいるマリアは反応が薄い……というか、ほぼ無反応だ。
仕方がないと判断したシャラが音頭を取り、イシュタリアの紹介と、住人全員の紹介を終えた後、いつもより少し遅めの夕食が始まったという次第であった。いくらなんでも落ち込みすぎだろ、とマリーは思ったが、何も言わなかった。
雑談を交えながらの夕食にて、ちらり、ちらりと女性陣の視線が、マリアと、その隣に腰を下ろしているマリーへと向けられ始めたのは、女性陣の胃袋がある程度満たされて、余裕が出始めた頃であった。様子に気づいた女性陣は皆、互いに顔を見回して何が有ったのかを探っているが、知っているのはマリーとサララと、イシュタリアの3人しかいない。自然と、事情を知らない女性陣の視線は、4人へと集まる……特に、新顔のイシュタリアへと向けられていた。
「……そう、イシュタリアちゃんは、お友達じゃないのね」
「……いや、お前はいいかげん現実を受け入れろよ」
「……そうね、冷めないうちに食べましょう……いただきます」
ようやく気持ちの再起動を果たしたマリアが顔を上げたと思ったら、ポツリとその一言を呟いた。さすがに鬱陶しく思えてきたマリーの促しにマリアは軽く礼を述べると、のそのそとスプーンに手を伸ばし、静かにシチューを食べ始めた。
(やれやれ、ようやくか……)
溜息を堪えつつ、マリーはサララの隣に座っているイシュタリアを横目で見やる。実は先ほどから、イシュタリアもちゃっかりとご相伴を預かっているのだ……まあ、それ自体は別にどうでもいい。ただ、「誰かに作ってもらうご飯は、何時の時も美味じゃのう」と笑みを零しているあたり、イシュタリアの、普段の食生活がなんとなくうかがい知れる。
飛び入りで参加したので夕食の量が足りるかどうか、少し不安に思ってはいたが、どうやら間に合ったようだ。何時もより多めに作っていたのもそうだが器に盛られたシチューを半分程食べたあたりで、サララへと譲っているのが見えた。
遠慮……しているわけではないらしい。そういえば、ダンジョン内にて軽食を取った時も、驚く程少量しか口にしなかったのを、マリーは思い出す。単純に、イシュタリアは食が細いのかもしれない。そう、マリーは思った。
ちなみに、食べ物に関しては特に思うことは無いのか、サララは特に気にすることなくイシュタリアのシチューを平らげていた。
「……それじゃあ、飯が食える程度に落ち着いたところで悪いが、結局、マリアとしてはどうなんだ? イシュタリアの滞在……イシュタリアが満足するまで、この館をホテル代わりに利用するのはいいと思うか?」
マリーの言葉に、マリアはゆっくりと顔をあげた。
「ああ、そのこと……それなら、別にいいわよ。ただ、今日はもう遅いし、空いている部屋はろくに整理されていないから、泊まるなら私のベッドで一緒になるわね」
「……え、いいのか?」
さて、どの角度から説得するべきか。そんなふうにして頭を悩ませていたマリーを前に、マリアは至極あっさりとイシュタリアの滞在に賛成した。正直なところ、意外である。『しっかり見定めてからじゃないと……』ぐらい言われるだろうと予想していたマリーは、マリアの発言に目を瞬かせた。
そんなマリーの視線に、思い当たる部分を自覚していたのだろう。「いや、まあ、マリー君が驚くのも分かるけど……」マリアは、苦笑を零した。
「いいに決まっているじゃない。確かに私にも譲れない部分はあるし、それをオーナーであるマリー君の意志であっても曲げるつもりはないし、いざとなれば徹底抗戦するつもりよ。でも、今回の相手は女性でしょ……いくら何でも、こんな夜更けに放り出すつもりは無いわよ」
そう言うと、マリアはカリカリと頬を掻いた。
「まあ、さすがに連れてきたのが男性だったら、話は違ったでしょうけど」
「ああ、まあ、それはそうだな」
普通に生活しているマリーが言うのも何だが、ラビアン・ローズは、言わば女の園だ。見た目完全な美少女であるマリーだからこそ、許されているようなものだ。そんな場所に、普通の男性を連れて来たらどうなるか……間違いなく、女性陣は良い顔はしないだろう。
「まあ、それとは別に、これは私の勘なんだけれども……」チラリと、マリアはイシュタリアを見やった。
「イシュタリアちゃんは、多分……娼婦をしていたんじゃないかしら?」
「……は?」
突然のマリアの発言に、マリーは呆然とマリアを見つめた。マリアは、ぱたぱたとその視線を振り払うように手を振ると、何とも言えない笑みを浮かべると、「イシュタリアちゃん」と名前を呼んだ。くるりと、イシュタリアが振り向いた。
「なんじゃ? 私が残したスープはお嬢ちゃんが全部飲み干してしまったから、もう無いぞ」
もそもそと、細かく千切ったパンを噛み締めながら、イシュタリアは言った。
「この館に滞在するのであれば、是非とも聞いておきたいことがいくつかあるのよ。夕食が終わったら、ちょっと付いてきてくれないかしら?」
「……別に、ここで尋ねてもらっても構わんのじゃ。知られて困ることは誰であろうと話さぬつもりじゃからのう……しばらくはここに居る以上、下手に隠し事をするつもりはない。存分に、聞きたいことを尋ねるがよい!」
(いや、なんでお前そんなに態度デカいんだ? ていうか、声でけえよ)
胸を張って自信満々の笑みを浮かべるイシュタリアに、マリーは耳を押さえて半眼で睨んだ。さすがは100年以上の時を生きた魔女と噂されているというべきか、どんな相手でも一切の遠慮というか、謙虚な姿勢を見せない。マリーとそう変わらない背丈でそれをやっている姿は、年頃の少女が背伸びをしているかのようにしか見えない。
しかし、不思議とイシュタリアの姿は、様になっていた。長い月日が見させるのか、彼女自身が持っている自信のような何がそう見せるのかは分からないが……自然と、騒がしくない程度に賑やかだった食堂が、静まり返っていた。決して、イシュタリアの声が大きかったからでは、ない。
「あら、それじゃあ、色々と気になっていることを聞くわね」
その中で、緊張感を与えないように笑顔を浮かべられるマリアは、さすがであった。
「さっき自己紹介した時、イシュタリアちゃんは100歳以上、としか言わなかったわよね?」
「む……思い出せば、確かにそうじゃな。というか、言った私が聞くのもなんじゃが、お前は私が100歳以上だと、あっさり信じるのじゃな」
たいていのやつは、冗談だと怒るか笑い飛ばすかのどちらかだというのに。そう呟いたイシュタリアに、マリアはそのまま笑みを持って答えた。
「うふふ、そんな嘘付いたって仕方がないでしょ。それに、マリー君から話を聞いた限りだと、それが嘘だとは思えないわ」
なるほどのう、とイシュタリアは頷いた。それを見たマリアは、タイミングよく続きを切り出した。
「年齢を聞いて思い出したわ……ねえ、不躾な質問で恐縮なんだけれども、実際の所、本当は御幾つなのかしら? これは私のただの好奇心だから、答えなくてもいいわよ。でも、もし気を悪くしていないのであれば、実際の年齢を教えて貰えないかしら?」
「残念じゃが、それは教えられんのう」
きっぱりと、イシュタリアは首を横に振った。「やっぱり、そうよね。ごめんなさい」と頭を下げるマリアに、イシュタリアはそうじゃない、とさらに首を横に振った。
「単純に、実年齢を覚えておらんだけじゃ。私ぐらい長生きすると、もはや齢なんぞどうでも良くなるからのう……分からない、というのが答えなのじゃよ」
「あら、そうなの……」
「……まあ、そうじゃなあ……だいたいで言うならば」かりかりと、イシュタリアは頬を掻いた。
「正確な年齢は覚えておらぬが、400歳以上であることは確かじゃな」
「まあ……」
400歳。その言葉にマリアのみならず、会話を聞いていた女性陣も驚きに目を見開く。それはマリーも同様で、思わずマジマジとイシュタリアを見つめた。さすがに、予想の4倍以上の年齢だと分かれば、驚きもする。
今のイシュタリアは、昼間のヒラヒラした黒い衣装とは違い、シンプルな長袖とスカートだ。ダンジョンから出た際に『用を足すついでに着替えるから、ちょっと待つのじゃ』と一方的にトイレに駆け込んだ後、今の姿になっていた。
ドレスを着ていたときよりも、ずっと大人しい……平たくいえば、ラフな格好になっている。そのせいだろうか……どこかにいそうな美少女然とした雰囲気が強く、とてもではないが、400年を生きているような雰囲気は感じられなかった。
「それじゃあ、次からはイシュタリアさんと呼ばないと駄目かしら?」
「いや、ちゃん付けでも構わんよ。私は見た目が見た目じゃからな……ちゃん付けされるのも慣れておる。呼びやすい方で呼ぶがいいのじゃ」
とはいえ、マリアはけっこうマイペースなところというか、変なところで天然な部分がある。少しだけざわついた女性陣を、手をあげて静かにさせると、「お言葉に甘えて、イシュタリアちゃんでいかせてもらうわね」と言った。
「そっちの方が、呼びやすいもの」
「そうか、それは構わんが……まさか、聞きたいと言ったのはそれだけじゃなかろうな?」
「もちろん、違うわよ。さっきの質問は、ただの私の好奇心……本当に聞きたいのは、これからよ」
「私は回りくどいことをやらされるのは嫌いじゃぞ」
「うふふ、ごめんなさい。お詫びに、単刀直入に尋ねるわね」
にっこりと、マリアは再び笑みを向けた。
「イシュタリアちゃん……あなた、以前に娼婦……あるいは、それに近いことをやっていたわよね?」
……その瞬間、食堂の空気が、凍りついた。(こ、こいつ、直接尋ねやがった!)降って湧いたかのような事態に、マリーはヒクッ、と頬を引き攣らせた。
「うむ、昔は娼婦であったぞ」
イシュタリアが怒りだすのではなかろうか。そんな予感に、いつでも動けるように魔力コントロールを行っていたマリーであったが、肝心のイシュタリアはあっけらかんとした様子で質問を肯定した。(いや、お前もそんなあっさり答えるのかよ)思わず、マリーは握りしめていた拳を解いた。
「とは言っても、私が娼婦であったのは、かれこれ何百年以上前の話……今は、真っ当な仕事に就いておるのじゃ」
「……そこまで教えてくれて、ありがとう。文句なしで、第一関門突破ね」
イシュタリアの言葉に、マリアは満面の笑みを浮かべた。「……第一関門?」意味が分からないマリアを言葉に首を傾げたマリーは、ちらりとマリアを見つめた……けれども、マリアは手をかざして質問を拒否した。
どうやら、聞きたいことが終わるまでは黙っていてほしいようだ。それを理解したマリーは、ふう、と肩の力を抜くと、大人しく残りのシチューを啜り始めた。マリアもそうだが、マリーも大概マイペースである。
「それじゃあ、二つ目の質問。イシュタリアちゃんは、今――」
「おっと、ちょいと待つのじゃ」
マリアの質問を遮る形で、イシュタリアが待ったを掛けた。パチパチ、と目を瞬かせるマリアに、イシュタリアははっきりと告げた。
「催した。トイレはどこじゃ?」
「え、あ、トイレなら、食堂を出て隣よ」
「礼を言おう。それでは、少しばかり待つのじゃ」
そう言うと、イシュタリアは呆気に取られているマリアを他所に、さっさと席から腰を上げると、わき目も振らずに食堂を出て行った。
ぽかん、とした様子でそれを見送ったマリアの「なんだか、調子が狂っちゃうわね」という言葉に、マリーとサララは力強く頷いた。
しばらくして、戻ってきたイシュタリアに、マリアは次々に質問を重ねていった。それに対して、イシュタリアはほとんど淀みなく、誤魔化すような素振りを見せることなく、はっきりと答えていった。
そして、ほとんどの人が食べ終わり、幾人かがぼんやりと質問に意識を向け始めた頃……マリアが放った一言で、ようやく穏やかさを取り戻しかけていた食堂の空気を、一変させた。
「イシュタリアちゃんは、ここがどういう館か……どういう場所なのかは、知っているわよね?」
瞬間、食堂の中から声が消えた。「……んん?」と一人首を傾げているマリーを他所に、イシュタリアは、うむ、と頷いた。
「無論じゃ。しかし、私はマリーから、ここが元娼婦館とだけ聞かされておるだけじゃ」
「それじゃあ、私が…私たちが、元娼婦だってことは聞いているかしら?」
ざわっ、と様子を見守っていた女性陣に動揺が広がった。食堂の空気が、わずかに張りつめる……けれども、誰も一言も発することなく、真剣な眼差しをイシュタリアへ向けた。
視線の束が、圧力となってイシュタリアへ降り注ぐ。けれどもイシュタリアは顔色一つ変えず、不敵な笑みのまま……静かに、首を横に振った。
「……いや、それは初耳じゃな。私が聞いたのは、あくまでこの館のことと、住んでおるのが女ばかりだというだけじゃよ」
チラリと、マリアはマリーを見つめた。首を傾げるマリーに、マリアは静かにため息を吐くと、改めて視線をイシュタリアへ向けた。
「それなら、率直に尋ねるわ。今、それを知って、イシュタリアちゃんはどう思ったかしら? 何を、感じたかしら?」
「どうも思わんし、特別何かを感じることは無い」
はっきりと、イシュタリアは言った。
「現実に存在する数多の仕事の中で、たまたまそうであった……それだけの話じゃな。そこに至る過程などどうでもよいし、知ったところで何かを言うつもりは無い。私にとって娼婦とは、その程度の話でしかないのじゃ」
「…………」
イシュタリアの言葉に、食堂は静まり返った。女性陣はもちろんのこと、マリーも、空気を読んで押し黙っていた。その中で、マリアは「私は……」と言葉を続けた。
「……私は、私個人は、娼婦という職業は、巷で言われているように、唾棄すべき職業であると思っているわ」
瞬間、女性陣の視線が一斉にマリアへと向けられた。けれども、マリアはそれらを振り払うように顔をあげると、穏やかな……どこか、寂しそうな笑みを浮かべた。
「もちろん、その結果に至るまでの原因は、人それぞれよ。本人が原因でそうなった人もいれば、無関係なのにそうなってしまった人もいる。そうしないと、生きられなかった人もいる。けれども、それらを抜きにしても、娼婦という職業は、唾棄されるべき職業である。私は、そう考えている……それについては、どう思うかしら?」
ふむ、とイシュタリアは顎に手を当てた。そのまま、しばしの静寂が訪れる……そして、イシュタリアは最初と同じように、ふむ、と唇を開いた。
「……そうじゃな、世間一般の感覚で考えるならば、蔑まれる職業であるのは事実じゃな。そうなる理由は様々じゃが、私の個人的見解から考えても、マリア、お前の意見には大方同意するのじゃ」
「……大方、ということは、少なからず違う部分があるということよね。それは、どこかしら?」
「唾棄されるべき職業であると同時に、娼婦は絶対に必要とされる職業だということじゃよ」
『――っ!?』
食堂に居る女性陣の、息を呑む音が食堂中に響いた……ような気がした。
「……なぜ、そう思うのか、理由を聞かせて貰えないかしら?」
「娼婦という職業があることは、女性にとって有利だからということじゃよ、マリア・トルバーナ」
ふう、とイシュタリアはため息を吐くと、ゆっくりと足を組んで、太ももに頬杖を付いた。そのまま軽く目を瞑った後……ジロリと、マリアを見つめた。
「確かにお前の言うとおり、娼婦という仕事は唾棄すべきものであり、蔑まれなければならない職業じゃ。しかし、娼婦という仕事があるからこそ、助かっている面は、確実に存在しておる。それを無視することは、決してしてはならんのじゃ」
「女性としての尊厳を奪う職業であるとしても?」
「それこそ、そんな仕事を選んだそいつの自業自得じゃな。嫌ならば、別の仕事を探せばよい。仕事が無いからとほざくやつは、そいつ自身にそれだけの能力が備わっていないだけ……嫌ならば、実力を付けて抜け出せばよいだけの話じゃ」
「それじゃあ、そうせざるを得なかった人たちは、どうなるのかしら?」
力強い眼差しを、マリアは向けた。
「自身が行った結果でも何でもなく、周りから無理やり押し付けられた不幸の結果、娼婦とならざるを得なかった人たちも、自業自得なのかしら?」
「……極論を持ち出すか。まあ、よい。例外はあるものの、その場合を自業自得とするには、少しばかり酷というものじゃな」
ふう、とイシュタリアはため息を吐いた。
「しかし、そういう事情があるからこそ、娼婦という仕事はなおさら必要なのじゃ。皮肉なことにのう……」
「それは、なぜ?」
「頭が悪かろうが、多少の見てくれが悪かろうが、ある程度の金を稼ぐことが出来るからじゃよ」
きっぱりと、イシュタリアは言った。
「普通に働くよりは短期間で、かつ金を稼ぐことが可能なのは、どの歴史を解いて見ても、娼婦や男娼といった身体を売るのが一番手っ取り早いのは、明白なのじゃ……とはいえ、娼婦が薄汚れた職業であることも、明確な事実であることには、変わりないがのう……」
そこで、イシュタリアはテーブルに置かれたコップの水を、ゴクリと飲んだ。そして、改めてマリアへと向き直った。
「……それじゃあ、この世界から、娼婦と言う職業が無くなればいいと思ったことはあるかしら?」
「もちろん、あるのじゃ。しかし、現実的ではないし、無くなれば困るのは娼婦たちじゃな。仮に、明日から一切の売春を禁止された……そこまでは、よい。しかし、その後はどうやって金を稼ぐのかという話になるのう……そう、都合よく手ごろな仕事が転がっておったら、誰も苦労はしないのじゃ」
「……それじゃあ、娼婦を買う男連中を、恨んだことはあるかしら?」
「……無い、と言えば、嘘になるのう。私も娼婦となったその年ぐらいは、男どもを汚らわしく思うておったのは事実じゃ。何度衝動的に客のイチモツを噛み千切ってやろうと思ったことか、自分自身、分からぬのじゃ」
けれども、ある時思ったのじゃ……そう続けたイシュタリアは、初めて苦笑した。
「その汚らわしい男どもに、情けなく媚びへつらって股を開いている私は、いったい何なのだ……とな」
「…………」
マリアは、何も言わなかった。イシュタリアは、どこか遠くを……自らの過去を振り返るかのように、虚空を眺めた。
「結局のところ、客である男連中が1人も来なくなれば、当時の私は……いや、娼婦は全員路頭に迷うこととなるのじゃ。そうなれば、困るのはどちらか……考えるまでもなく、私らなのじゃ。肉体という商品を買って貰わねば、明日の飯すら満足に用意できない存在なのじゃと……気づいてしまったのじゃ」
「……つまり?」
問い質すようなマリアの促しに、イシュタリアはニヤリと微笑んだ。
「お前の機嫌を損ねるようで悪いが、私は男どもを恨んではおらぬ。あやつらは、金を払った。私は、その金に見合う働きをした。ただ、それだけの話なのじゃ」
そうイシュタリアは言い終わると、静かにため息を吐いた。二人が問答を始めてから、ずっと静かであった食堂に、そのため息は重く響く。イシュタリアを含めた、その場に居る全員の視線が、マリアへと集まる。
考え込むように、目を瞑った軽く俯いたマリアは、一体何を考えているのだろうか。始めて見る神妙なその姿に、マリーは何とも落ち着かない気持ちで、マリアから視線を逸らした。
(……な、なんて重い会話してやがるんだ、この二人は……)
二人の問答を聞いたマリーの、それが正直な本音であった。
(よくわからんうちに、なんか難しい話になっていやがる……マジで何故だ?なんか俺が滅茶苦茶悪く言われているような気さえしてくるぜ……気まずくて、目を合わせることすら勇気がいるぜ……ていうか、昔は俺も女を買っていたことがバレたら、色々な意味で危ない気がするぜ……!)
イシュタリアの言葉に思うところが有り過ぎて、もはや何がこうも己を苦しめるのか、マリーにはさっぱり見当がつかない。今でこそマリーはこんな成りをしているが、昔はまあ、それなりに女を買っていた。それこそ、毎日のようにとまでは行かなくとも、結構な頻度で娼婦館の扉を叩いていたことなど、けっこうはっきり思い出せる程度には経験を重ねてきている。
「そういうことじゃから、お主も女を買うときは、あまり気にするではないぞ……いや、お主はいちいちそんなことを考えたりはせぬな」
「……なぜ、俺にその話題を振る」
「その理由を、わざわざ説明する必要は無いと思うのう」
ぽん、と肩に置かれたイシュタリアの手に、マリーは思わず身体をびくつかせた。慌ててイシュタリアから視線を逸らすも、その先にいたサララの……というか、女性陣からの生暖かい視線に、うっ、と息を呑んだ。
「……大丈夫。それぐらいのことで、マリーを軽蔑したりはしない」
「そうよねー……よく考えたら、マリー君だって立派な男の子なんだものねー……女体ってやつに興味津々であっても不思議じゃないわよねー」
「女の子のように可愛くても、ちっちゃくて可愛らしいアレでも、立派に男の子ですものねー」
「私、マリー君なら一晩も二晩も、付き合ってもいいかも」
「それ、いいわね。マリー君には大きな恩があるし、マリー君の為なら私、頑張っちゃう!」
(……え、なにこれ、喜んでいいのか? それとも貶されていることを悲しめばいいのか? 俺は、どっちの行動を取ればいいんだ?)
とりあえず、この胸を抉る様な痛みから推測するに、悲しむべきなのだろう。マリーはそっと、滲んでくる涙をこっそり拭った。
「こら、あなた達、売春は絶対認めないわよ!」
ヒートアップし始めた女性陣を、困ったように傍観していたマリアが、目じりをつり上げて声を荒げる。普通の、それも男ですら思わず肩をびくつかせるほどの迫力であったが、しかし、女たちは、全く堪えた様子を見せなかった。
「大丈夫よ、マリア。お金なんて取るつもりは無いもの。これは、いわゆる自由恋愛ってやつよ」
「そうよ、単純に私たちがしてあげたいだけだもの。それだったら、娼婦の仕事でも何でもないでしょ?」
「……た、確かに。い、いや、でも、マリー君はサララのボーイフレンドで……でも、そのサララが全く嫌な反応を見せないし……それはちょっとおかしいかしら……う~ん」
女性陣の反論に、マリアは言いよどむ。確かに、マリアは娼婦であることを徹底的に禁じているが、男との交際を禁じたことは無いし、ましてや性交渉を禁じたわけでは無い。あくまで、売春を禁じているだけなのである。
「なにより……マリー君、女の子よりも、ずっと女の子らしくて可愛いものねー!」
「ねー! いっぱいサービスしたくなっちゃうわー!」
うんうん、と女性陣は互いの顔を見合わせて、頷き合った。
その言葉に、マリーは己の頭に、かつてない程の熱が昇って行くのを実感した。出来ることならば、永遠に体験したくなど無かった猛烈な羞恥心と屈辱に、思わず両手で顔を隠した。
(ち、ちくしょう……! お、俺だって……俺だって……この身体になる前は、けっこう大きかったんだぞ! それなりに、喜ばれるサイズだったんだぞ!)
そんな憤りは、もちろん言葉にすることはしない。そしてその仕草は、はた目から見れば美少女が羞恥のあまり顔を隠しているという、実に男心というやつをくすぐるものであった。
幸い、この館にはマリー以外の男性は居ないので、胸を高鳴らせる者はいなかったが……別の意味で心を刺激された女性陣は、慰めるようにマリーへと纏わりついた。
「ああん、大丈夫よ、マリー君。マリー君みたいな子は、大人になる頃にはびっくりするぐらいの美人になっているから」
ぎゅうっと、少しばかり日焼けした女が、マリーを背中から抱きしめる。
「そうそう。それに、マリー君は顔立ちから北欧系の血が混じっているでしょうから、きっとアレも大きくなるって!」
男にとっては堪らない意味で色々大きい女が、ちゅうっと音を立ててマリーの頭にキスをした。
「大きすぎるのも痛いだけだし、何事も程々が一番。というか重要なのはムード作りだよ!」
よしよし、と茶髪の女がマリーの頭を撫でる。そのほかにも、続々とマリーを慰める為に近寄ってきた女性陣が、口々にマリーへと慰めの言葉をかける。マリーは……色々な意味で、死にたくなった。
(サララ、俺はもう駄目だ。いっそお前の手でこの地獄を終わらせてくれ……)
裏の無い励ましは、時に人を傷つける。顔はおろか、耳すらトマトのように紅潮したマリーは、纏わりついた女性陣を振り払うように蹲ると、椅子から降りて、テーブルの下へ隠れてしまった。
「やーん、マリーくーん。怒らないでよー。今日もお風呂でいっぱい身体を洗ってあげるからさー」
「何言ってるのよ。あんたの手つきいやらしいから、いつもマリー君途中で逃げちゃうじゃない。ここは私が、大人の手腕というやつを見せてあげるわ」
「駄目、マリーの身体は、私の手で全身を磨く。マリーを綺麗にするは、私の仕事」
けらけらと、女性たちの笑い声を感じ取りながら、マリーは静かに意識を閉ざした……。
目の前で起こった突然の羞恥攻めに、イシュタリアは完全に言葉を無くしていた。
(お主よ。すまぬ、すまぬ……話を振った私が言えた義理ではないが、思っていたよりも気の毒過ぎて、胸が痛いのじゃ)
ぶつぶつと、テーブルの下で蹲っているマリーを見て、イシュタリアは思わず頬を引き攣らせる。さすがに、今のマリーの姿を見ておちょくろうとは思えない。というか、下手にそんなことをすれば、そのまま姿を眩ましてしまいそうで、とてもではないがそんなこと出来ない。
(女共も、決して悪気があってしているわけでは無いのじゃろうが……いや、悪気が無いからこそ、堪えるのかのう……)
心配そうに、申し訳なさそうに、蹲っているマリーの背中に手を伸ばしている女性陣の姿を見て、イシュタリアはそう思った。イシュタリアから見ても、マリーは女性陣から慕われているというか、好かれているのがはっきりと分かる。
(確か、お嬢ちゃんが話しておったが、お主はこの館の住人にとって、大恩人であったなあ……なるほど、これは恩返しのつもりなのかのう)
女性陣からすれば、マリーに少しでも恩を返したい一心なのだろう。本当は、感謝の証として色々な物を送りたいし、感謝の言葉を送りたいのだろう。
けれども、今のマリーにはそこまで物欲は無いし、自己顕示欲も薄いうえに、女にモテたいと血気盛んというわけでもない。望むとすれば、せいぜい毎食を豪華にしてくれというぐらいだろうか。けれども、一人だけ豪華だと、それはそれで気にしたりもするので、そういうことも出来ない。
その結果、女性陣たちはあの、本当か嘘かは分からないスキンシップに落ち着いたのだろう。(おそらく、風呂で身体を洗ってやっているのは本当じゃろうなあ……その時の情景が、目に浮かぶのう……)なんとなく女性陣の言動から真実を推測したイシュタリアは、言葉無く苦笑した。
マリーは、イシュタリアの感覚から見ても、絶世の美少女だと太鼓判を押す見た目の、美少年だ。男であることは、魔法術を用いて事前に調査はしていたが、女の子扱いを嫌ったマリーの口から、言質は取っている。
人生において、一度ぐらい目にするかどうかというレベルの美少年を前に、女性陣が少しばかり過激なスキンシップに走ってもおかしくない……と、イシュタリアも思うのは事実であった。
「……んん?」
ふと、イシュタリアは、いまだ腕を組んで考えあぐねているマリアに目が留まった。その瞬間、フッと湧き上がった疑問に、気づいたらイシュタリアはマリアへ声を掛けていた。
「ところで、マリア・トルバーナ。今しがたの質問は、いったいどういう意図があるのじゃ?」
「……え、あ、ああ、ごめんなさい、何かしら?」
「だから、今しがたの質問には何の意図があるのかと聞いておるのじゃ」
ハッと我に返ったマリアに、イシュタリアは改めて尋ねた。
「ああ、そのこと。まあ、一言でいうなら、私なりの面接みたいなものかしらね」
マリアの言葉に、イシュタリアは首を傾げた。
「……面接? 何のじゃ?」
「イシュタリアちゃんが、この館に滞在する為の面接よ」
「……なぬ?」
パチパチと、イシュタリアは目を瞬かせた。
「この館の住人になる前に行っている、ふるいみたいなものと考えて貰ったらいいわ。通過すれば、今後ともよろしく。通らなかったら、はいサヨナラ。今のは、そういう面接だったのよ」
「……んん、待て、私はあやつから、そんな話は一切聞いておらぬぞ。それに、お前は今さっき、『こんな夜更けに叩きだすつもりは無い』と言ったばかりではないか。その面接に私が落ちていたとしたら……」
「明日の朝一番に、問答無用で叩きだします」
再び、イシュタリアは目を瞬かせる。そんな彼女を見て、マリアは晴れやかな笑みを浮かべた。
「言ったでしょ。マリー君相手でも、私は自分の考えを曲げるつもりは無いって。イシュタリアちゃんは文句なしで通過したから、これからは何時でも泊まりに来ていいわよ」
「……意外と、怖い物知らずじゃのう。そこで蹲っているやつに、叩きだされることを考えたりはしないのじゃな」
「うふふ、マリー君は、そんなことしないわ。あの人は、そういうところは凄い面倒くさがりだし、私の気持ちをしっかり考えてくれるもの」
脅しでも何でもなく、純粋な疑問を尋ねる。返って来たのは……やっぱり、晴れやかな笑みであった。それを見たイシュタリアは……ぽかん、とマリアを見つめた後「くくく、あはははは、そうか、そうじゃろうなあ!」けらけらと軽やかに笑った。
「ところで、何度も質問して悪いんだけれども、最後に一つだけ聞いていいかしら?」
「ふふふふ……はは、はあ、いいぞ。答えられることであれば、答えてやるのじゃ」
そう、ありがとう。そうお礼を述べたマリアは、ふと、笑みを引っ込めると、真剣な眼差しをイシュタリアへ向けた。
「ねえ、イシュタリアちゃんは、カチュの実についてはご存じかしら?」
カチュの実か? イシュタリアは頷いた。
「無論、知っておるのじゃ。あの味は、一度食べたら忘れられぬのじゃ……むむむ、思い出したら、また食べたくなってきたのじゃ……しかしまた珍しい名前を聞いたのじゃ……それで、カチュの実が、どうかしたのかのう?」
「実はね、今、私達はカチュの実を……」
イシュタリアの目が、見る間に大きく開いていく「なるほど、それなら私にも一枚噛ませてもらうのじゃ!」彼女の背に、やる気の炎が立ち上るのは、それからすぐのことであった。
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