第一章:娼婦館ラビアン・ローズ救済編
第12話:地下一階Δ
地上階とそう変わらない光景である、下一階の空気は、地上階よりも少しだけ肌寒かった。至る所に生えたウィッチ・ローザの数は、そう変わらない。少しだけ湿った地下一階の地面は、むしろ、ところによっては地上階よりも明るい場所すらあった。
地上階への入口を出発してから、幾ばくか。階段の向こうから聞こえていた喧騒は、もう聞こえない。マリーとサララが生み出す音以外、何も無い。そのわずかな音ですら、むき出しの土壁と地面が吸い取ってしまう。二人分の足音など、羽が落ちたかのように、周囲へと響くことはなかった。
……地下の世界は、とても静かであった。静寂による耳鳴りで、痛みを覚える程に、地下世界は無音であった。変わることの無い景色に、暗黒色の海を漂っているかのような気分になりそうだと、サララは思った。
脳天を走る鈍痛に、サララは眉根をしかめる。何か変化があれば、そちらに気が紛れてくれるのだが、起きるとすれば、モンスター襲来による有事のときだ。さすがに、サララはそれを望むようなバカでは無かった。
黙って、サララは背中を向けているマリーを見つめた。緊張によって縮こまりそうになるサララを他所に、マリーは銀髪をさらりと揺らしながら、まっすぐ前方へと足を進めていた。
運が良いのか悪いのか、二人はいまだ、モンスターに全く遭遇していなかった。あらゆる想定を想像し、常に臨戦態勢を取っていたサララは、いつしか肩の力を抜いていて……マリーに注意されて、慌てて気を引き締めた。
「息つく暇も無くモンスターが押し寄せるときもあれば、今みたいに全然遭遇しないときもある」というのが、マリーの弁であった。休む暇も無くモンスターが襲ってくるのを想像していたサララは、なんとも拍子抜けするような思いがあった。
意外に多い、ダンジョンに関する誤解の1つが、これだ。サララもマリーに教えられ、実際にこうして地下に潜るまで知らなかったことだが、地下には、溢れんばかりにモンスターがいるというわけでは無いのである。
マリーが話した通り、地下一階にはモンスターが出現する。そして、モンスターは一部の例外を除き、入ってきた部外者である人間を襲う。ただし、モンスターたちは常に部外者の動向に気づいているわけでは無く、中には人間に気づかないモンスターも当然いるのだ。
いや、むしろ、各階に生息しているモンスターの大多数は、人間が入ってきたことにすら気づいていない。地上階よりもはるかに広大な、地下空間。人間を超える身体能力を持つモンスターといえど、入ってきた人間の存在をピンポイントに見つけ出すのは難しいのである。
嗅覚や聴覚といった索敵器官が発達したモンスターを除けば、モンスターたちが人間の存在を察知する為には、人間側がモンスターに居場所を知らせるか、モンスター側が人間を見つけるかしかないのだ。
以前、マリーが戦ったランターウルフの場合で考えよう。ランターウルフは視力が悪い分、抜群の性能を持つ嗅覚をもって敵の居場所を突き止める、モンスターの狩人だ。距離の離れた地点の臭いを敏感に察知することができ、位置を特定したが最後、その命が尽きるまで敵を追い続ける。
けれども、言い換えれば嗅覚のレーダーに引っかからなければ、怖れる必要は何もないのだ。マリーとなって初めて遭遇したランターウルフを前に取った行動のように、上手くやれば戦闘を避けて進むことが出来るのである。
下層を狙う探究者には必須の知識だが……意外と、これを知る探究者は多くない。それも、当然だろう。モンスターを狩ることで生活を立てる探究者にとって、金券と等しいモンスターから逃げるということは、その分だけ時間の無駄だ……と考える探究者は、少なくないのである。
けれども、例えモンスターが出なかったとしても、サララにあった小さな余裕はすぐに汗と一緒に流れ出てしまった。耳を澄ませ、瞳を左右に向け、全身の感覚を研ぎ澄ませる。何時襲いかかって来るか分からないモンスターの影を捉えんがために、サララは持てる精神力を奮い立たせる。
言うは易いが、行うは難しい。瞬く間に消耗していく己を自覚しつつあったサララは、背後へと振り返った。既に3つ、通路を曲がってきている。サララの視界に、地上階への入口が映ることは無い。
あるのは、土くれの壁と、どこまでも続いている茶褐色の地面だけであった。
ごくりと、サララは唾を飲み込んだ。背筋からのぼってくる、寒気にも似た恐怖に身震いする。居ても立っても居られなかったサララは、慌てて目の前を歩くマリーの裾を掴んだ。
瞬間、ピタリとマリーの足が止まったと同時に、マリーが勢いよく振り返った……そして、サララの顔を見たマリーは、苦笑した。かりかりとマリーは己の頭を掻くと、サララの肩を優しく叩いた。
「そろそろいい時間だろうし、戻ろうぜ」
「――っ、う、ううん、まだ行ける!」
マリーの提案に、跳び上がらんばかりに顔をあげたサララは、力いっぱい首を横に振った。それを見たマリーは、ははは、と笑みを零した。
「いや、もう戻るべきだな。今日はあくまで雰囲気に慣れるのが目的だし……どこで切り上げるべきか、俺も悩んでいたぐらいだ。今日の所はとりあえず、引き返そう」
「……で、でも」
申し訳なさそうに俯くサララを前に、マリーは両手を顔の前に合わせて、頭を下げた。
「お願い、この通り」
「…………え、ちょっと」
「お願いします、サララ様。なんかもう疲れてきたので、俺は帰りたいんです。俺の為を思って、引き返すという英断を選択してくれませんでしょうか」
「…………」
呆然と、サララはマリーを見つめた。正確にはマリーの頭だったのだが、とにかくサララは呆然とマリーを見つめた。しばらく、そうして黙っていたサララは「分かった、帰ろう」と、了承した。誰の為の提案なのか、分からない程サララは子供では無かったから。
「ほんとか?」
サララの言葉に、マリーはパッと顔をあげた(あ、可愛い)改めて見るマリーの顔に、サララはそう思った。帰ると判断した途端に生まれた余裕に、サララはそっぽを向いて頬を掻いた。
「そうか、ありがとう。それじゃあ、今度も俺が前を先行するから、サララは背後の気配を探っていてくれよ」
それだけを言うと、マリーはさっさとサララの背後へ回った。一度振り返ってサララの表情を見て微笑み「それじゃあ、行こうか」と声を掛けてから、歩き出した。
サララは一つ頷くと、そっとマリーの後ろに並んだ。ほんの僅かだが、歩く速度がさっきよりも遅いように感じる。それが、マリーなりの労りであることに、サララは嬉しさを覚える反面、自らの不甲斐なさを情けなく思った。
(……これじゃあ、足手まといでしかない)
何という体たらくなのだろう。そう、サララは自らの現状を思う。シャラと口論をしたとき、サララは何度も考えた『自分ならば、そうならない』と。己は、他の人のような不甲斐ない結果に終わるようなことはない。心のどこかで、そう考えている自分が居たのを、サララは思い出す。
何気なく、サララは己の胸へと……真新しいプレートへと、指を這わせた。胸全体を覆っている、簡素な防具。ダンジョンに入る前は『これで十分だ、これ以上は邪魔にしかならない』と考えていたこの装備。
あの時は、あれだけ頼りがいのある防具だと思っていたのに……今は、不思議と頼りなさしか感じない。分厚いと思ったプレートが、やけに薄く感じてしまう。
そっと指先でプレートを押す。安物とはいえ、相応の強度を誇るプレートは、サララの力でどうにかなるようなことは無い。凹ませることなど、出来はしない、当然だ。なのに、どうしてここまで不安を覚えてしまうのだろうか……。
「ほら、サララ」
ふと、掛けられた声にサララは俯いていた顔をあげた。視界に入ったのは、振り返ったマリーの姿であった。サララよりも幾分小さめな、ナックルサックで保護された手を、サララへと差し出していた。
「ちょっとの間だけだぞ」
ぱちぱちと、サララは目を瞬かせた。次いで、頬が軽く膨らんだ。
「……なんだか、子ども扱いされている気がする」
「落ち込んだり、寂しくなったりしたときは、誰かに手を繋いでいてもらいたいものさ。少なくとも俺は、そうされたい」
その気遣いが、胸に痛い。けれどもサララには、マリーの手を拒否するなど出来はしなかった。
「……それじゃあ、ちょっとだけ」
そう、サララは声に出した。言い訳を述べたのは、マリーに向かってから、あるいは己に向かってなのか。サララには分からなかったが、構わずマリーの手を握った。ぎゅう、と力を込める「おう、ちょっとだけ、な」とマリーが笑みを零して握り返した……マリーは、何事も無かったかのように進み始めた。
その後を、サララは黙って追いかけた。マリーの邪魔にならないよう、歩調を合わせながら。
(……これが、探究者……)
これが、経験の差なのだろうか。悠然と、特に緊張した素振りも無いマリーの後ろ姿を見て、サララはため息を吐きたくなった。シャラがあそこまで激怒した理由を、サララはようやく理解した……ような気がした。
行きと同じ道を、逆に進む。先ほどとは少しだけ違う景色に、目を向ける。相変わらず、土くれの壁と地面に変化は見当たらないが……っと。
突然、マリーの足が止まった。つられて足を止めたサララが、モンスターかと身構える。何時でも攻撃を避けられるよう、神経を研ぎ澄ませた。
「ああ、サララ。別にそこまで警戒する必要はないぞ」
直後、マリーから掛けられた言葉に、サララはキョトン、と緊張の糸を解いた。わけも分からずサララはマリーを見つめると、マリーは「ほら、あそこを見てみろ」と壁の一部を指差した。
言われるがまま、サララは指差した方へと視線を向ける。見ると、土くれの壁の一面……その一部分に、楕円状の赤い何かと青い何かが、ポツリとあった。
(え、なにあれ?)
思わず、と言った様子で、サララは目を凝らした。赤色と青色の、楕円状の何かは、茶褐色の地下世界には、異質の存在感を放っていた。最初はペンキか何かだと思ったが、よくよく考えたらペンキが塗られているのもおかしいし、よく見たら楕円状の何かは、数センチぐらいではあるが、壁から盛り上がっていた。ちょうど、三角形を横に向けたような形だろうか……少なくとも、光の陰影とか、そういうものではなさそうだ。
「……あれって、なに?」
恐る恐る、サララはマリーに尋ねた。一瞬、モンスターかと疑ったが、これだけ近づいているというのに、こちらに反応を示さないのは、あまりに変だ。普通なら、モンスターは人間を見つけたが直後、がむしゃらに襲いかかって来るはずだ。
あれは、モンスターなのだろうか。そう思ってサララはマリーへ視線を向けると「モンスターだよ」視線を受けたマリーは、当たり前だと言わんばかりに軽く頷いた。
「え、あれが?」
反射的に声を荒げなかったのは、運が良かった。そっと口元を隠されたサララは、内心己を叱咤してからマリーの手を外すと、その背中に隠れるように身体を縮こませた。
「あ、あれもモンスターなの?」
「そうだ。あれが、探究者たちのアイドル、アメーバちゃんだ」
「……えっ」
「だから、探究者のアイドル、アメーバちゃん」
効き間違いだろうか。
そう思って漏らした戸惑いの上から、マリーの言葉が圧し掛かった。再び、己の中で緊張の糸が千切れる音を、サララは聞いた……ような気がした。
「……アメーバ、ちゃん?」
「そう、アメーバちゃん。正式名称は、アメーバ種という種類に属するモンスターで、あれはレッド・アメーバと、ブルー・アメーバだ。見た目はアレだが、赤い方が熱に強く、青い方は冷気に強い、れっきとしたモンスターなんだぞ」
「……なんで、ちゃん付け?」
脳裏に浮かんだ最初の疑問を、サララは口にした。サララの美的センスから言えば、アメーバと呼ばれるモンスターは、ちゃん付けされるような外見では無かったからだ。というよりも、そもそも、お世辞にも可愛いとは思えない。
「まあ、それは至極最もな意見だろうな……まあ、見ていろ」
首を傾げるサララから手を離したマリーは、その場に落ちている石を一つ、拾った。軽く振りかぶって石をアメーバの傍に、投げた。瞬間、ぼすん、と腹に響く爆音と音と共に、石が壁の中にめり込んだ。
「……は?」
「ほら、アメーバを見てみろ」
いや、そんなものよりも、ずっと凄い何かが、今、起きたような気がする。
そう頭の隅で考えつつも、サララは促されるがままアメーバへと視線を向けた。めり込んだ……というより、着弾した個所に興味が引かれたが、とにかくサララはアメーバへ視線を向けた。
赤色と青色の楕円が、しゅるしゅると土壁の上を動いていた。思わず「やだ……」と鳥肌を立てたサララは、けっしておかしくない。もごもごと震えているそれは、まるで一塊の粘液が蠢いているようだ。
よくよく見れば楕円が動くたび、その周囲から土が飛び散っている。アメーバには足や手というものが無く、己の身体である粘液を絶妙に振動させて移動を行う。周囲に土が飛び散るのはそのせいで、見た目が気持ち悪くなるのもそれが原因であった。
しゅるしゅる、しゅるしゅる、しゅるしゅる。奇妙な音を立てながら、青と赤のアメーバはマリーたちから……正確に言えば、着弾した石の地点から離れ始めた。別段、その点に何らおかしいところは見当たらない。
あ、逃げちゃう。
意外な素早さを見せるアメーバに嫌悪感を催しつつも、サララは黙ってアメーバを眺めた……「あっ」変化が現れたのは、その直後であった。
ぺちょん、と、赤と青のアメーバがくっついたのだ。触れ合った部分から白い蒸気が噴き出し始めたと同時に、アメーバの身体が瞬く間に小さくなり始めたのである。
蒸気の勢いは凄まじく、しゅうしゅうと音を立てながら、絡み合うように小さくなっていくアメーバ……時間にして十数秒程で、赤と青のアメーバは、影も形も無くなってしまった。
後には、呆然と立ち尽くすサララと、悲しそうな眼差しでアメーバが居たあたりを見つめる、マリーが残された。
「…………」
「…………」
「……え、終わり?」
「終わりだ」
「……ええっ……」
再度訪れた静寂に、サララは言葉を濁した。何というか、感想が全く思いつかなかった。それは、マリーの分かっていたのだろう。困惑するサララの姿に苦笑すると「アメーバちゃんは……」と話を切り出した。
「モンスターの中では珍しい、とても臆病なモンスターなんだ。今みたいに、外敵の存在を察知すると、戦うよりも前に逃げ出すぐらいに、な」
「……別に、おかしくないと、思う」
そうサララが言うと、マリーも頷いた。
「アメーバちゃんには、それぞれ固有の弱点がある。赤いやつは冷気に弱く、青いやつは熱気に弱い。共に、そういった環境に置かれれば、一分と生きていられないぐらいに弱いんだ」
「…………」
「アメーバちゃんは……凄く、寂しがりでな……外敵に見つかると、どうしてか固まって逃げ出そうとするんだ」
サララは、黙ってマリーを見つめた。マリーも、サララを見つめた。
「しかも、なぜかアメーバちゃんはよりにもよって弱点である力を持つアメーバと行動するんだ……そして、外敵が現れた逃げたときは決まって今のようにもつれ合って……」
「……自滅する」
「……そうだ」
二人は、改めてアメーバが消えたあたりを見つめた。少しずつ薄れていっている蒸気の奥は、もうすっかりいつもの土肌が見えていた。
「……アメーバちゃん、だね」
「……そうだろ」
何とも言えない空しさが、二人の間を通り過ぎて行った。
とりあえず、更新はここまで。
フゥハハー! ダンジョンは地獄だぜ! でもやり方によっては対処できそうだぜ!
的なことを説明した回ですが……なんか、しっくりこない……
誤字訂正、指摘箇所訂正など、後日行います
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