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第一章:娼婦館ラビアン・ローズ救済編
第9話:焦らない、焦らない
 
 翌朝、マリーはむくりとベッドから身体を起こした。寝ぼけ眼を擦りながら、欠伸を零す。寝癖一つ無い頭をがりがりと掻くと、白銀色の髪がさらさらと揺れた。
 部屋にある唯一の窓から差し込む朝日の明かりが、目に眩しい。マリーは眩しさに目を細めながら、枕元に置かれた小型照明スタンドのスイッチを切った。ほんの僅かだけ、室内が暗くなった。
 自宅のベッドとは違う感触と部屋の内装に、視線をキョロキョロと彷徨わせる。物が所狭しと置かれているせいで、スペースこそ狭くは感じるものの、部屋の大きさは自室の倍以上はあった。
 殺風景な自室とは違い、物だらけの部屋は古ぼけていて、年月を感じさせる。壁紙や、床に張られたカーペットのどれも、見覚えは無い。
 ここはどこだろうか。そう首を傾げるマリーは、数秒ほどしてから「ああ、そういえばサララのところに泊まったんだなあ」と現在の状況を思い出した。
 そういえば、物置部屋に泊まったんだなあ、と、マリーは昨夜ぶりにその事実を思い出した。ついでに、物置部屋なのに自室より広いという事実を思いだし、軽く項垂れる。
 最初は自宅に帰ろうかと思っていたマリーではあったが『少しでも時間を節約した方が、効率がいいでしょ』というのはマリアの言葉だ。その、マリアの部屋に泊まる方向で話が進んでいたのを知ったときは、驚きに言葉が出なかったのを、マリーは思い出した。

 しかも、寝床はマリアのベッド。つまり、同じベッドで寝泊まりすればいいという話であり、もう謹んでとか、そういう話では無い。

 空いている部屋は無いのかと尋ねても『全部埋まっている』の一点張り。寝られればどこでもいいと言っても『マリー君をそんな場所で寝泊まりさせるわけにはいかない』という強い反論。
 さすがにそれは色々な意味で危ないと思ったマリーは、折衷案として、物置部屋にて寝泊まりすることとした。ブーイングがマリアとサララの二人からあがったが、マリーは黙殺した。
 とはいえ、物置部屋と言っても元は普通に使っていた部屋らしく、中身はそんなに悪くは無い。荷物があると言っても、元々売れる物は全て処分した後なので、物の絶対数そのものは少ない。
 ベッドシーツを取り替えて、簡単な掃除をすれば、寝床としては十分すぎる。そこに、マリーが自宅から必要なものをある程度持ち込んだところで、特に不便を感じるようなことは無かった。
 ぐう、とマリーの腹が音を立てた。とにもかくにも、腹ごしらえをしなくてはどうしようもない。大きな欠伸を噛み殺しながら、身体に掛かった毛布を捲り上げて……露わになった裸身に、視線を落とした

「……あれ、おれって裸で寝たっけかな?」

 マリーは首を傾げた。元々寝るときは裸と決めているマリーではあるが、さすがに他人の家でそのようなことをするつもりは無い。着替え等は全部自宅から持ってきているはずで、枕元にはマリーのものらしき着替えが置かれていた。
 昨夜の記憶を振り返る「とりあえず仲直りはしましょうか」というマリアの一言で、シャラともいちおうは仲直りし、その日、たまたま帰って来たラビアン・ローズの住人の一人と、挨拶を交わしたのは覚えている。その後食事をして、一番風呂を進めてくるマリアたちに遠慮して最後に入り、早めに布団の中に入ったのも覚えている。
 問題は、その後だ。マリーは記憶の引き出しを漁った。
 確か、そのときは服を着ていたはず……と思うのだが、実際は下着すら身に纏っていない。なんだか妙に身体が重くて、濡れている身体をそこそこにベッドに倒れ込んだまでははっきり覚えているが、どうもその後があやふやだ。

(もしかして、そのまま寝てしまったのか……だとしたら、風邪引かなくて良かった。いくら何でも、風邪引いて行けなくなったとかだったら、目も当てられない)

 自らの軽率な行いに恥じを覚えながらも、マリーはそっとベッドから身体を起こした。枕元に置かれた下着を手に取り、履く。次いで、シャツを着ようと手を伸ばし……ふと、鼻腔をくすぐった臭いに手を止めた。
 汗の臭いとは、少し違う。汗の臭いに近いのだが、どうも違う。けれども、どこかで嗅いだことのある臭いだとは分かる。鼻先に二の腕を押し付けて、すんすんと鳴らす。自らの汗の臭い……とは違う、何かの臭いをわずかに感じ取った。
(なんだ、こりゃ)マリーは首を傾げた。手早く着替えを済ませてから、改めて臭いを確かめる。やはり、気のせいではなかった。
 嫌な臭いというわけではない。されど、良い匂いというわけでもない。出所を探そうと、部屋中にくんくんと鼻先を向ける。その鼻先が、今しがた眠っていたベッドで動きを止めた。

「…………」

 おそるおそる、今しがたまで身に掛けていた毛布を捲り上げる。途端、むせ返るような臭いが立ち上る。軽く手を当てると、ところどころ湿った感触が指先から伝わってくる。毛布全体をくまなく観察したマリーは、捲り上げた毛布を戻した。

(毛布自体は古いやつだし、もしかしなくても原因はこれだな……まあ、売れる物は片っ端から売ったらしいから、予備が無いのは仕方ないとして……しかし、古い毛布ってこんな臭い出すもんなんだな)

 毛布を変えて貰おうかな、とも思ったが、そんなものがあればそっちを出しているだろう。わざわざ古いのを使わせるなどという嫌がらせ……とも考えたが、マリーはすぐさま首を横に振った。
 見た所、古いだけで特に汚れているわけでもないし、カビなどが生えているわけでもない。大方、汗による湿気で臭いが出ているのだろうな、とマリーは結論付けた。

(さすがに、こんな臭いさせて外出るわけにも行かないだろ。朝食の前に、シャワーでも浴びるか……)

 枕元に置いた財布を手に取り、残金を確認する。十分に金銭が入っているのを確認したマリーは、部屋の隅に置かれた大きな鞄に歩み寄ると、着替えを取り出した。財布と着替えを片手に持って、部屋の扉を開ける。

「あっ」
「おっ」

 ばったり。髪にタオルを当てたサララと鉢合わせた。これから風呂に入るので、シャツと短パンという身軽な姿のマリーであったが、サララは薄手のタンクトップと下着一枚という、それ以上に身軽な姿であった。
 タンクトップを優しく押し上げる、両端の膨らみの先端。ぽつん、と存在を主張するそれもそうだが、なにより、すべすべとした肌触りを予想させる、シミ一つ無い太もも。廊下の窓から差し込む朝日に照らされている、桃色下着と褐色肌のコントラストは、非常に目のやりどころに困る光景であった。

(……なんとなく気づいてはいたけど、サララの肌って本当に綺麗なもんだなあ、おい。俺が見てきた女性の中でも、トップクラスに入りそうだ)

 思わず、マリーはサララの全身へ舐める様に視線を上下させる。分かってはいても止められない、悲しい男の性。視線が、浮き出た二つの先端とデルタ地帯に集中してしまう。
 なかなか失礼な反応……というより張り倒されてもおかしくないマリーの対応であったが、サララは気にした様子も無くマリーへ笑顔を向けた。マリーの胸中に、軽い痛みが走った。
 サララは、わずかに寝癖の付いた黒髪を、撫でつける様に掻いた。

「おはよう、マリー。昨日はよく眠れた?」
「え、あ、ああ、眠れたよ」
「それは良かった。朝食なら、もうすぐ出来るらしいから、ゆっくりしていて」

 サララの笑顔が、深まった。毒気も何もない笑みを前に、マリーは気まずそうに頬を掻いた。
 これは、怒ってないと捉えていいのだろうか。それとも、気づいていないと捉えればいいのだろうか……いまいち、マリーには判断が付かなかった。とりあえずマリーは、何か言われる前にその場を離れようと会話もそこそこに、サララの横を通り過ぎようとして「んん、待って」とサララに腕を掴まれた。
(やっぱり気を悪くしたか?)と思って振り返ると、目と鼻の先にサララの顔があった。驚きに目を見開くマリーを他所に、サララは形の良い小さな鼻先をマリーの首もとへ近づけた。
 すんすん、すんすん。サララの鼻が、音を立てた。
 臭いを嗅がれているのだということを悟った瞬間、マリーの脳裏に羞恥心が生まれた。静かに距離を離したサララの顔を見た瞬間、それは爆発的に広がった。

「ねえ、昨日、誰か部屋に尋ねてこなかった?」
「…………」

 マリーは、答えられなかった。けれども、なんとかサララの質問に、首を横に振った。マリーの返事に、サララははっきり苦笑すると「今の時間帯はお風呂空いているから、入るなら今の内だよ」とだけをマリーに告げると、さっさと身をひるがえして、廊下の向こうへと歩いて行った。
 ……その後ろ姿を、マリーは黙って見つめる。サララの姿が見えなくなったと同時に、マリーは我知らずひそめていた息を、深々と吐いた。今更ながら、心臓が激しく鼓動していることに、マリーは気づく。下腹部から感じる熱に、マリーは思わず腰を引いた。

(ははは……自分で言うのも何だが、元気だな)

 いくら何でもあれだけでと、情けない気持ちになる。幸いにも、気づかれてはいないようではある。もしもバレていたらと思うと……そこまで考えて、マリーは泣きたくなった。

「分かった。あれは怒っているわけでもなけりゃあ、気づいていないわけでもねえ……あれは、俺を男として見ていないだけだ。へへへ……なんか、空しくなるなあ、おい……」

 誰も居ない廊下で、あはは、とマリーは肩を落とした。




「探究者登録は、昨日の内に済ませた」と、サララが興奮気味にマリーに話したのは、朝食を終えてすぐのことであった。目の前のテーブルに置かれたコーヒーを眺めて、予定を考えていたマリーは、サララへと顔を向けた。

 じっくりと、靴下に包まれた両足から、視線を上げていく。初めて見る長ズボン姿に新鮮な気持ちになりながらも、しっかりと確認したマリーは、うん、と頷いた。

「用意が早いな」

 そうマリーが言うと、サララは軽く胸を張った。少し襟元が皺になっているシャツの上に纏ったプレートと、前腕を覆う手甲が、窓から差し込む日差しによって鈍い輝きを見せる。両方とも、プレートの中でも一番軽量で安価な、胸周りだけを覆うタイプのものであった。

「時間が無いから。少しでも時間を節約できるときに節約しないと、後々困るでしょ」

 サララは、右手に持った槍の柄を、どん、と音を立てて誇示する。何だ、と首を傾げながらもマリーは槍に目を向けて……一目で業物であることが分かるそれを見て、なるほど、と思った。
 装飾の施された柄もそうだが、若干紫掛かった刃先を見れば、それが普通『鉄製』の槍ではないことが見て取れる。売れば、かなりの大金になりそうだ。

「その槍はどうした?」

 その言葉を待っていましたと言わんばかりに、サララはさらに胸を張った。

「シャラさんから譲ってもらった。怪我する前に使っていたやつで、もう自分には扱えない代物だって……今まで何度か売ろうとしたみたいだけど、その都度マリア姉さんに反対されて、埃被っていたのを私が譲り受けた」

 えっへん、とサララは仁王立ちする。サララの向こうにいる、シャラの苦笑がマリーの目に映る。その手には、今サララが手にしている者とは雲泥の差がありそうな、普通の鉄槍が握られている.シャラから貰った餞別が、よっぽど嬉しいのだろう……マリーは、そう思った。

「ちょっと後ろ見せて貰えるか?」
「うん、いいよ」

 くるりと、サララはマリーに背中を見せる。上にばかり気を取られて気づかなかったが、長ズボンに包まれた臀部の形が、はっきりと見えていた。

「おい、ワイヤーサポーターは付けていないのか?」
「なにそれ?」

 上半身だけ振り返ったサララが、首を傾げた。もしやと思ってシャラへと視線を向けると、シャラは両手を合わせているのが見えた。申し訳なさそうに頭を下げているシャラの姿に、マリーはため息を吐いた。

(まあ、売れる物は片っ端から売っているだろうし、ワイヤーサポーターは基本その人に合わせたオーダーメイドだしな。持っていなくても、不思議じゃないか)

 ワイヤーサポーターとは、ショーツなどの下着の上に身に纏う、特殊繊維が編み込まれた防御服のことだ。サポーター自体は様々なタイプがあるので、一概に一括りは出来ないが、着ると体の線が出にくくなる特徴が共通している。値段によって性能は変わるが、地下を目指すのであれば装備して損は無い防具である。
 ズボン越しでも分かる、サララのむっちりと張り出した臀部の形は実に目の保養だ。サララが軽く身じろぎするたびに形が変わるのが、いい。いや、見えない分、余計にそう感じるのかもしれない。

「……やる気十分の所に悪いけど、今日はそこまで潜らんよ」
「えっ」

 くるりと、サララは振り返った。その顔には、驚愕の二文字が浮かんでいた。大方、今すぐダンジョンに潜っていくつもりであったのだろう。ぷく、とサララの不満げな頬を見て、マリーは苦笑した。

「何の準備も無しに、いきなりそこまで潜るわけがないだろ」
「でも、時間が無い」
「時間が無いからこそ、確実に金を稼ぐ方法を取るべきなのさ」

 唇を尖らすサララの肩を、マリーは叩いた。本当は頭を撫でたいところだが、背丈が足りないので諦める。不格好な体勢で撫でるのは、やる方も辛いのだ。
 それでも納得がいかないのか、サララはねめつけるようにマリーを見つめた。

「それじゃあ、今日は何をする? 特訓でもする?」
「まずは買い物だな。槍は……今回は邪魔だな。プレートは付けたままでいいか。ビッグ・ポケットも必要だから、忘れるなよ」
「えっ?」

 呆気に取られたサララを前にして、マリーは、ぱちん、とウインクした。様子を伺っていたシャラの「こいつ、本当に男なのか?」という言葉は、無視した。


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