徳川義直

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徳川 義直
Tokugawa Yoshinao.jpg
時代 江戸時代前期
生誕 慶長5年11月28日1601年1月2日
死没 慶安3年5月7日1650年6月5日
改名 五郎太丸(幼名)、義知、義利、義俊、義直
別名 幼名:千々代丸
字:子敬
通称:徳川右兵衛督、尾張大納言
諡号 源敬公
墓所 愛知県瀬戸市定光寺町の定光寺
官位 従四位下、右兵衛督、従三位、参議、右中将
権中納言、従二位権大納言
甲斐国甲府藩主→尾張国清洲藩
尾張藩
氏族 徳川氏尾張徳川家
父母 父:徳川家康、母:お亀の方(相応院)
兄弟 松平信康亀姫結城秀康督姫
徳川秀忠松平忠吉振姫武田信吉
松平忠輝松千代仙千代徳川義直
徳川頼宣徳川頼房
異父兄(同母兄):竹腰正信
正室:浅野幸長の娘・春姫
側室のち継室:津田信益の娘・お佐井(貞正院)
側室:お尉の方
光義(光友)京姫広幡忠幸室)

徳川 義直(とくがわ よしなお)は、江戸時代初期の大名徳川家康の九男。尾張藩の初代藩主で、尾張徳川家の始祖である。新陰流第4世。

家系・名前[編集]

父は江戸幕府初代征夷大将軍・徳川家康、母は家康の側室・相応院()。正室は浅野幸長の娘・春姫。春姫との仲は良好だったが子供が産まれず、後に側室2人を迎えている。

幼名五郎太丸(その以前には千々代丸という幼名であったらしい)。義知(よしとも)、義利(よしとし)、義俊(読み同じ)と名乗った後、1621年元和7年)には義直(よしなお)に改名している[1]

附家老成瀬正虎は初代成瀬正成の長男、同じく附家老の竹腰正信は義直の異父兄である。なお義直の墓は、愛知県瀬戸市定光寺町の應夢山定光寺にある。極位極官は従二位権大納言諡号は源敬公。二品前亜相尾陽侯源敬公。

生涯[編集]

慶長5年(1600年)11月28日、徳川家康の九男として大坂城西の丸(京都伏見城(現在の清涼院)とも)で産まれる。

甲斐国関ヶ原の戦いの後に徳川氏が再領し、甲府城代の平岩親吉と四奉行による支配が行われていたが、慶長8年(1603年)1月には甲斐25万石を五郎太が拝領し甲府藩主となる。甲斐へ入国することはなく、五郎太は家康や生母お亀の方とともに駿府に在城し、平岩親吉が五郎太の家老・守役となり、さらに直臣旗本や武田遺臣らが五郎太の家臣として編成された。甲府城に在城する平岩は側近の佐枝種長らを五郎太に近侍させ、家康・五郎太の意向を受けて甲斐統治を行っている。

慶長11年(1606年)に五郎太が元服すると、翌慶長12年4月26日には、死去した兄の松平忠吉の遺跡を継いで尾張国清洲藩主になると甲斐25万石は返上され、甲斐は国主・城代不在の城番制に移行する。家康は中部地区及び東海道の要としての重要なこの地域を管轄すべく、名古屋に天下普請の城郭として名古屋城を築いて本拠地とし、平岩親吉ら家臣団も尾張へ移り、附家老として尾張犬山城主となり尾張支配を主導した。義直自身は家康死後の元和2年(1616年)に尾張へ入国する。

慶長19年(1614年)、大坂冬の陣で初陣を飾り、天王寺付近に布陣した。翌年大坂夏の陣では後詰として活躍した(天王寺・岡山の戦い)。

長じてからは藩政を自ら行ない、灌漑用水の整備、新田開発などを積極的に行なって米の増産に務めた。そのほかにも検地による税制改革などで年貢収納を確立した。

義直は学問を好んで儒教を奨励し、「孔子堂」の建立や城内の尾張東照宮の建築を進めた。歴史書「類聚日本紀」を著した。また、家康の形見分けで受け継いだ「駿河御譲り本」に自身で収集した書誌を合わせ蓬左文庫を創設し、「決して門外不出にすべからず」と現在の図書館の走りとなる文庫とした。日本武術も好み、柳生利厳から新陰流兵法の相伝も受けている。義直は鷹狩りをしに朝宮御殿を拠点によく春日井原に行ったという。また、いつ襲われても対処できるようにするためか、寝る際には寝返りを打つごとに脇差の位置を常に手元に置き、さらに目を開けながら絶えず手足を動かして寝ていたとも言われている。

慶安3年(1650年)、中風症で病臥していた義直は、江戸藩邸で死去した。享年51。子の光義が光友に改名して跡を継いだ。

人物[編集]

  • 義直の最大の特徴は尊皇思想にあり、これは後々の尾張藩の行政に大きな影響を与えた。一方、家康の実子としてプライドの高かった義直は、たびたび甥の3代将軍徳川家光と衝突した。物事において筋目を重んじた義直は「生まれながらの将軍」を自負する家光には目の上の瘤であったと言える。寛永11年(1634年)、家光が病床に伏した際、義直は大軍を率いて江戸に向かい、家光や幕閣を慌てさせた。このとき義直は御三家の尾張藩として、当時継嗣のいなかった家光に万が一の事態が生じた場合、尾張藩が江戸幕府を護るという強い意志の現れであった。義直は儒教を篤く信じており、この軍事行動は義に従っての行動であり、自ら将軍職を引き受けるという考えはなかった。そのために、尾張家は将軍を出さぬまま終わっている。義直は愚直に尾張藩としてのあり方を示したが、それを幕閣は理解できなかった。
  • 義直は、現代の名古屋及び東海地方の発展の基礎を築いた日本有数の名君であったといえる。
  • 柳生利厳より新陰流剣術を学び、利厳より流儀を継承して新陰流第4世宗家となった。

官職位階履歴[編集]

  • 慶長8年(1603年)、甲斐国府中藩主25万石知行
  • 慶長9年1月5日(1604年)、正五位下
  • 慶長11年8月11日(1606年)、元服。義利を名乗る。従四位下右兵衛督。
  • 慶長12年閏4月26日(1607年)、尾張国清洲藩主53万石余に転封。
  • 慶長15年閏2月6日(1610年)、尾張国名古屋藩主53万石余に移封。
  • 慶長16年3月20日1611年)、従三位参議左近衛権中将。その後、年月不詳にて参議辞職。
  • 元和元年(1615年)、浅野幸長の娘春姫を正室に迎える。この頃、木曽福島と美濃国内に62万石加増。
  • 元和3年7月19日(1617年)、権中納言。  7月20日、権中納言辞任。
  • 元和5年(1619年)、61万石余となる。
  • 元和7年6月18日(1621年)、名を義直と改める。
  • 寛永3年8月19日(1626年)、従二位権大納言

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ いずれも「」の字は、徳川家が祖としている新田義貞から取ったものとされる。もともと「」の字は(義貞も含め)清和源氏通字の一つとして名前に用いることが多く、これを名前に用いることで徳川家が源氏の末裔であることを示す狙いもあったとみられる(二人の弟頼宣頼房が「頼」の字を名前に用いているのも同様の理由と考えられる)。

関連項目[編集]