おとといの6月4日はぼくにとっては大切な日のひとつ。
今から20年前、ぼくはまだ大学3年生でした。
毎日平凡に過ごしていて、学業にサークルに打ち込み、当時付き合っていた彼女もいて、まぁ、学生としては幸せな過ごし方をしていたのではないかと思います。
そんなぼくの平凡な生活に衝撃が走ったのは…平成3年6月4日でした…
その日は日曜日。朝の7時半過ぎ。一本の電話でぼくは起こされました。
親友のユウイチのお母さんからの電話でした。
電話の内容は…ユウイチが自分の部屋で首を吊って自殺した、との連絡でした。
ユウイチのお母さんはぼくと高校時代からの友人のタカオにのみ連絡をしていました。
ユウイチのお母さんと話をしたあと、タカオに連絡してとりあえずユウイチの家に行こうと言うことになり、ぼくらはユウイチの家に行きました。
ぼくとユウイチの出会いは予備校でした。ぼくはその予備校には高校から行っており、現役合格ができなかったのでそのまま予備校部に、ユウイチはタカオとともにその予備校に進んだのです。
ユウイチとは間もなく仲良くなり、お互いに大学合格を目指して切磋琢磨しあった仲でした。
ユウイチとタカオのほか、タキオ、カズユキ、テツヤ、ユタカ、リカ、エミ、アツコ、フサコ、エツコ、カオル、チホと予備校生なのにお互いがお互いを刺激しあう仲間にめぐり合えました。
その、浪人生活は辛いながらも楽しい一年間を送ることができ、ぼくらはそれぞれの道に進んだのです。
で、予備校生活が終わった後も、集団でバーベキューやキャンプ、旅行など大きなグループもあれば小さな人数で動いたりと、かなりの結束の強さを維持していました。
でも…大学に進学できなかったメンバーもいたのはたしか。ぼくはタカオと同じ大学に入り、同じサークルで大学生活を謳歌していました。
で、大学に進学できなかったメンバーもいて、そのうちの一人がユウイチでした。
ユウイチは専門学校にすすみ、英語を必至にマスターし、ホテルマンとして大手のホテルチェーンに就職することができました。
ぼくから見れば、目標があって、その道に進むことのできたユウイチを誇りに思ったし、すごいと自分のことのように喜びました。
ユウイチはぼくからしたらスキーの師匠でもあり、ユウイチがいなければスキーでバイトをするまでのことをしなかったかもしれません。
そんなユウイチが、就職した年。ぼくもどことなく仕事が忙しいユウイチと時間を合わせることが難しくなり、会えない日々が続きました。
そんなある日、ぼくの留守中にユウイチから電話があったそうです。
折り返して電話をするとお母さんが出て、ユウイチは車に乗って出かけてしまったの、との返事。
仕方がないなと思い、週末にでも電話してみるかと思っていました。
そして週末。ユウイチに電話すると「ごめん、今帰ってきたんだけど、疲れたから休むわ…」
「じゃ、明日大丈夫なら電話してよ」「うん、わかった…」
この会話が最後の会話になってしまいました…
連絡を受けたあと、ユウイチの家で最後の対面をしたとき、なぜか涙が出ませんでした。
なぜ?どうして?という感情だけしか湧いてこず、涙が出ませんでした…
その晩のお通夜、翌日の告別式、まったく涙が出ませんでした。
そして、ぼくらチーム13人のうち代表で6人、斎場まで付き合いましたが…
そうとうストレスをためていたのか、お骨上げをする際に、骨がもろく崩れてしまったのです…
ちょうど腕のあたりや脚のあたり…その様子を見てホントになぜ話を聞けなかったのか…後悔だけがずっと残りました。
自宅に帰って、落ち着いても不思議と涙は出ません。ぼくはユウイチに対して悲しいけど、それがうまく表現できなかったみたいです。
ひとまず落ち着いて、学校に行ったとき、彼女と会いました。彼女と話しました。その時になって初めて涙が出ました。
その後数年は毎年命日近くにお墓参りをしていましたが、しばらくたつと仲間も離れ離れになり、いつしかぼくも自然と思い出す程度で、お墓に会いに行ったのは再婚して最初の命日のとき。
ユウイチの前でいろいろなことを話し、まだそっちには行かないからなと伝えてから6年がたってしまいました。
ユウイチのお父さんはお亡くなりになって、一緒に入っていました。お母さんもおそらくご高齢になり、元気にされているか今はわからなくなってしまいました。
ユウイチの住んでいた家はどうなっているのかわかりません。
今年は20年という時間の節目。久しぶりに仲間に連絡してユウイチのところに行こうかと考えています。
この20年。ぼくらはいいおじさん、おばさんになってしまいました。
でも、ユウイチのことを話すときは20年前の年齢のぼくらのままです。
節目ということで、大事な友人の話をアップしました。
今でも、ユウイチが使っていたスキーの道具は大切に残っています…