ここから本文エリア

沼田鈴子さん 直接被爆・距離1km(東白島)
被爆時22歳 / 広島県広島市南区13340
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
1.8月10日早朝、自分の左ひざまでくさったのを麻酔もなしで大腿部より切断され、
命を与えられたこと。8月6日の一瞬にしてのあの閃光と、助け出されて気がついて目にし
た生き地獄の状況と変りはてた人間の姿と、叫び声(水、苦しい、助けて、お母さんの助
けを求める)がいまも耳の底から離れない。
2.死がせまっていた自分がいま生きている。365日が毎日あの日である私にとって死者を大切にする心と死者の思いを1人でも多く伝えていきたい。死者から生かされた使命が私
にある。
3.・平和の原点は人の痛みの分かる心を持つ人間であること。
・真実を求める知恵は平和を創る大きな力になる。
・平和はじっと待ってくるものではない。勇気、知恵、努力によって1人ずつつくりだす義への行動をしなくてはいけない。
※今から7年前(数字は2010年に修正)から毎年入退院をくりかえすような体になりました。この度もイライラしながらベッドにおります。
(2005年)
○戦争は人間がひき起こすもので、人間の知恵と努力で防ぐことができる。
戦争は勝っても敗けても多くの犠牲者をだす。
○現実は外国も日本の国内も命を虫ケラのように、未来を生きのびなくてはいけない大切な命を奪っている人間がいることは戦争だけではありません。日常にもしっかり目をむけて真実をみつめて冷静な判断のできることが大切です。
○原爆の影響は熱線、爆風、放射能で、放射能は色も形もにおいもなく後障害をあたえられ生かされている現在の私も苦しみ、不安がどれだけ続くのかはっきり分らないだけに恐怖です。
○爆心地より1kmの地点で被爆した私は未来を生きていく若い世代に被爆体験をしっかり伝え核排絶に手を結び、命ある限り取組む決意をしている。
月に2回は病院に通い、体調のよいときには修学旅行生や講演依頼に応じております。
肩関節のリウマチのため字が思うように書けませんのでお許し下さいませ。
語り伝えることの大切さ
私は、一九二三年七月三十日、大阪で生まれ、五歳のとき私の父の仕事の関係で、広島に来ました。家族は、両親、兄、妹と私の五人でしたが、一九二九年四月に、広島で弟が生まれて、六人の家族になりました。
私は小さい時から何不自由なく、わがままいっぱいの少女として成長しました。小学校を卒業し、やがて夢多き女学生として、楽しい出発がはじまっての日々を過ごしておりました。
二年生になった一九三七年七月七日に、突如として、日中全面戦争へ突入ということを知らされましたが、後に人生も、心までも変えさせられてゆくなど、戦争への意識は全くなく、実感として、受けとめることができませんでした。そのような私達は、何時の間にか、軍国主義の体制の中を、軍国少女になっていったのです。
満州事変から、一九四五年八月十五日の敗戦までの十五年戦争といわれた中で、日本の中国への侵略、東南アジアへの侵略、南京大虐殺、重慶大爆撃、朝鮮半島に与えた苦しみ、日本が加害国になっている侵略の事実は、深く教えられることもなく、唯、聖戦、愛国、正義、勝利の美名のもとに「八紘一宇」「一億一心火の玉になれ」「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」など多くの標語や、軍歌を力一杯、口ずさみ、命令を疑う事もなく、戦争の勝利のために、すべてを協力し、頑張りました。
一九三九年七月十四日から五日間、四年生であった私は、軍需工場の兵器支廠に、勤労奉仕ということで、大砲の玉の表のサビ落としに、一年生、二年生、三年生の全員で通いました。服装は、セーラー服と折りのスカートをぬぎ、膝までの作業着としての短いズボンをはき、体操服を着用し、靴下もはかず、ズック靴に白い軍手をはめての姿でした。戦争は人間の大切な心までも狂わされていることに気がつかず、むしろ、女学生ながら、戦争のために、名誉な仕事をしている誘りを感じました。
このサビをひとときも早く奇麗にして、戦場に送りたい、自分たちの磨く大砲の玉が、敵の一人でも多く殺せば、日本は戦争に勝つのだという思いを持って、一生懸命に磨きました。戦後もずっと後に、このことが私の教育の恐ろしさと、反省となって、戦争を加害と被害の両面から、みつめ考えていくことになったのです。
女学校を卒業し、一九四二年に、父が勤めていた広島通信局に、妹が四月、私が五月に事務員として勤務しました。親子三人が同じ庁舎内で働いているうちに、一九四三年十月に、十九歳の私は婚約をしたのですが、食糧の不足も夢も希望もない統一された防空服装を身につけていることなど、心の喜びのため我慢をすることができたのです。後に私達と共に働いた動員学徒の生徒さんが、私の喜びを知って、どんなに喜んでくれたことでしょうか。
一九四四年三月の三回目の彼との出会いは、島根県で受け取った赤紙一枚で広島にきて、宇品港よりの出征でした。中学生だった弟も四月に軍国少年となって、松山の予科練に入隊し、終戦まで行方不明でした。銃後を守る女性として、優しい心の表現すらできなかったあの時代、彼とは、一度も手を握ることもないままに別れ、見送った私は、心の中で「死なないで帰って下さい」「軍人として手柄をたてて下さい」と、一生懸命に叫びつづけました。大砲の玉を磨いていた時の恐ろしい心を、再び持ったのです。何時の日か帰ることを願っている中に、国内も沖縄の地上戦、各県へのB29の襲来と、爆撃での想像もつかない程の生地獄、多くの犠牲者の情報を耳にしておりました。
私はその後、一九四五年五月一日付で、四階からの同僚三人と共に、屋上にあった防衛通信中部施設部に勤務を命ぜられ、軍隊に関係の職場のためであったのか、仕事の内容は知らされず、煙草の葉を煙草に巻くことを教えられ、常にその仕事と、使い走りを八月五日の夕方まで命令によって、忙しく働いていました。
一九四五年三月の末頃でしたが、待っていた婚約者が、八月八日、九日、十日の三日間のいずれかに戦場から、軍用で広島に帰るということを知り、両家の親達が、食べる物も、着る物もないが、顔をみた段階で結婚式を、ということで、二十一才の娘として、夢と希望の喜びが胸をふくらませ、八月のくる日をどんなにか待つ者になっていたでしょうか。しかし待っていた婚約者は、七月既に戦死をしていたことを、私も誰も知りませんでした。広島にもB29の襲来は度々あり、空襲警報、警戒警報の度になるサイレンは、不気味さと、不安と、恐ろしさで、身心を動揺させられていましたが、軍隊もあり、軍需工場もあるのに、他県のように爆撃を受けないことが、不思議に思われていました。八月六日の原爆投下まで無傷の広島市内でした。
(2010年送付)