『 剣術修行の旅日記 佐賀藩・葉隠武士の 「 諸国廻歴日録 」 を読む 』 ( 朝日新聞出版 ) 著 : 永井義男
※ それでは、コラム15 ( P275 ~ 277 ) を全て抜粋です。
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明治十年 (1886 ) 三月の 田原坂 ( たばるざか ) の戦い は西南戦争最大の激戦だったが、この戦いに政府軍が勝利したことで戦争の帰趨がきまった。
西南戦争を通じてすべて 銃砲の戦いだったが、田原坂は急峻な地形で起伏も多かったため、政府軍は優勢な火力を有しながらも西郷軍の陣地を攻めあぐねた。 これに乗じて西郷軍は日本刀をふるって斬り込みを敢行し、大きな戦果をあげた。
政府軍は対抗するため急遽、剣術の心得のある警視庁巡査を招集して抜刀隊を組織し、同様に斬り込みを敢行した。 抜刀隊は西郷軍の斬り込み隊と互角に渡り合い、ついには押し返した。
こうして田原坂の戦いでは日本刀による斬り合いがおこなわれたのである。
その後、日露戦争や太平洋戦争でも白兵戦はあったが、銃剣 ( 小銃の先に短剣を取り付けたもの ) 突撃だった。 剣術や日本刀が実際に戦場に用いられたのは田原坂の戦いが最後といえよう。
この抜刀隊で勇名をはせたのが、直心影流の 隈元実道 ( くまもとさねみち ) である。 後に東京で道場 「 振気館 」 をひらいたが、自分の実戦経験にもとづき、著書 『 武道教範 』 のなかで当時の ( 現代にも通じる ) 剣道をきびしく批判した。 つまり ― 、
竹刀の柄は真剣の柄にくらべて長すぎる。
たとえば面を打つ場合、竹刀を中段に構えて平坦な板の間をすり足で進み、ぱっと飛び込みながら、手首のスナップを生かして竹刀の先端でパンと相手の面を打つ。 これは竹刀の柄が長く、足元が平坦な板の間だからできることである ・・・ 。
として、 「 板の裡 ( り ) のみ 」 「 摺 ( す ) り込み打ち 」 と酷評した。
実際に刀で相手を斬ろうとすれば振りかぶり、力を込めて振りおろさなければならない。 また、小石があり雑草が茂った地面ではすり足などできるものではない。 道場剣道は 「 打つ 」 動作であり、 「 斬る 」 動作ではない というものだった。
隈元は振気館では柄の短い竹刀を採用して 「 振気流短柄 ( たんぺい ) 剣術 」 と称し、構えは上段にして、 「 摺り込み打ち 」 をさせなかった。
また、 胆力の養成 を重んじたが、これも隈元の実戦経験によるものだった。 真剣による斬り合いは間合いの取り方がむずかしい。 恐怖から、早く相手を斬ろうとあせって、その結果、地面を斬りつけてしまう。 『 武道教範 』 にこうある ・・・
我が鍔拳 ( つばこぶし ) にて、敵の頭を打割ると覚悟して、深く踏み込みたるとき、漸く我が切先、敵の眉間に達せんとす。
つまり、刀の鍔や拳で頭を殴るくらいの気持ちで踏み込んで、ようやく刀の剣先が相手の身体に届くのだ、と。 さらに、こうも述べている ・・・
長柄竹刀に熟すれば、熟する程に、真剣に遠ざかるを認む。
道場剣道に習熟すればするほど、実戦の剣術からは遠ざかる、 と。
じつは、この傾向はすでに牟田文之助の武者修行時代にも顕著になってきていた。
★ すでに竹刀と防具は現在とほぼ同じ形にまで進化していたが、道場がこんな状態 ( 面積が狭く、足元が土間や筵で不安定 ) では、現代剣道の試合のように竹刀を中段に構え、磨き抜かれた板の間をすり足で縦横に動き回る。 機を見るやパッと飛び込んでいって、竹刀の先端でパシッと相手の面を打つ ― このような軽快で機敏な動きはとてもできない。 ( P62 )
★ 皮肉にも ( 剣術道場の広さが大きくなり、足元が土間や筵ではなく立派な板張りになっている現代剣道場のように ) 整備が進むにつれて剣術の技は実戦から遠ざかり、コラム15で 隈元実道 が酷評したような 「 板の裡のみ 」 「 摺り込み打ち 」 になっていった。 ( P62 )
★ 確実に言えるのは、文之助の諸国武者修行では、ほとんどの道場で
「 板の裡のみ 」 「 摺り込み打ち 」 はできなかったということである。 いっぱう、文之助は 「 進んだ 」 江戸の道場などでは、剣術が 『 道場で勝つための剣術 』 と化していく傾向もひしひしと感じていたであろう。 ( P62 )
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スポーツ化した現代剣道の問題点 ( 11/26 ) ・・・ こちらの記事は、 「 竹刀・防具の進化による 」 「 道場の試合にのみ勝つ為の剣道になってしまった 」 問題点等々が載ってます。
このシリーズ、まだまだ続くかも知れません。
※ 「 喧嘩は度胸だ! 」 なんてよく言いますが、これは別になんにも珍しくも・目新しくもない事なんですが、真実に近いような気がしますね。 ( 要は、 「 ビビったら負け 」 「 怖じ気づいたらおしまい 」 「 萎縮したら終わり 」 というのは、喧嘩に関わらず、何をしようが、何に臨もうが、それが意図的であろうがなかろうが、生きている生物・動物・生命体にとって基本中の基本なのかも知れません )
※ しかし、 「 作為的に作った糞度胸 」 「 痩せ我慢の強気 」 「 強がり ・ 虚勢 」 みたいなものには必ず限界があり、すぐにメッキが剥がれてしまうんで ( こ~ゆうのは数々の経験上よく分かりますw )、そうならぬよう、その部分をどう工夫して日々稽古・トレーニングして、さらには生きていくかのか? ・・・ というのは永遠なるテーマなのかも知れません。
※ でも、 「 なにもしなくても強い 」 「 ただ生きてるだけで強い 」 ・・・ みたいな人って世間に男女を問わずいますよね。 「 根本的に生命が強い 」 「 生き物としてただ強い 」 「 存在そのものが ( 本人気付いてないけど ) この人強い 」 みたいな人が。。。
今までは、 ( 天下泰平250年と言われる ) 江戸時代の半ば頃?からすでに剣術というものが大分変質してしまっている様子ですが、明治時代に入るとさらにとんでもない事にw なっていきます。
( 後、スポーツ化した剣道の批判的な記事ばかりを載せるだけでなく 江戸時代半ばから、すでに形骸化しているものが大部分だった? 実際に打ち合う稽古 ( 柔道で言う “ 乱取り ” のような “ 地稽古 ” ) をしない、型稽古主体の 江戸時代の古流剣術 の記事も書かなくてはなりません )
竹刀・防具・板張り床・審判付き でやる道場剣道の王様?代表格?達人?である千葉周作に、当時の ( 田舎の? ) 古流剣客達は全く歯が立たず、 ( 江戸に住む古流を嗜んでいたある二人の大物剣客には千葉も敵わなかった? 大いに手こずった? そうですが ) バッタバッタとやられたのは本当の史実だと思います。 ( あくまでも竹刀を使った、室内の道場での試合での話ですが ・・・ )
※ 最も千葉周作は古流剣術 もかなり研究したらしいですし、なんとも頭が良い ( ズル賢い? ) ので、そのへんの ( 古流剣術にことごとく勝った ) といわれる様々な他流試合には、何かしらの ( 心技体・場の雰囲気・状況等 全て総動員して、何をやっても結果的に自分が有利勝ってしまうような方法、又、そういう戦いしか絶対しないような ) 必勝裏技的なコツがあったんだと思います。
※ このへんは、この本 『 剣術修行の旅日記 』 の主人公・牟田文之助が江戸で千葉周作の次男である、当時天才剣士と謳われた 千葉栄次郎 に ( 合同稽古的な ) 他流試合を申し込んだ時に、答えとしては 「 後日やりましょう 」 と即答しつつ、後々様々な面倒臭い理由を何度も付けてきて ・・・ 「 のらりくらりと、結局はやらない ( 遠回りに相手の気勢を徐々に削いでいって、最終的には遠回しにやらないという形をとる ) 」 というようなところを見ても、 「 オヤジ ( 周作 ) もきっとこんな感じで、のらりくらりと世渡りが上手い策士だったんだろう 」 ・・・ という私の勝手な推測もあります。。。
★ 如何せん、床反力 ( 地面の反発力の ) の強い板の間で 「 ピョコン、ピョコン 」 と跳ねて、反動を使って動くような癖・習慣が身に付いてしまうと、実戦的な面ではど~なのか?やったことないのでw 分かりませんが、
★ “ みちのく山道 ” 上での約2年間に渡る凸凹の上での生活・トレーニングを楽しんでいる私の実感としては、 「 ピョン、ピョン 」 「 クッ , クッ 」 と一動きごとに地面を蹴る・跳ねる動きが無意識の内に ( 酷い ) 癖になってしまうと ( その延長線上で毎日の日常生活を送っていると )、自然と ( 当然の如く ) 身体は故障しやすくなるのではなかろうか? ・・・ というのが嘘偽らざる実感です。 ( 全くアテになりませんがw )
★ 江戸時代は江戸時代でも ( 竹刀を使って激しく長時間打ち合う “ 凄まじい ( 狂ったような ) 地稽古 ” をやっていた ) 山岡鉄舟の道場では、 板の間に大豆を撒いていた なんて話も聞いたことがあります。