しょう地三郎さん死去 障害児教育、しいのみ学園創設、107歳 [福岡県]
日本初の知的障害児通園施設「しいのみ学園」の創設者で、107歳の現役教育学者として知られたしょう地三郎(しょうち・さぶろう)さんが27日午後2時55分、心不全のため福岡市の病院で死去した。福岡県内の男性で最高齢だった。自宅は福岡市南区井尻1の40の6。葬儀は近親者のみで29日に営まれた。喪主は養女の坪根(つぼね)ちかこさんが務めた。
広島文理科大(現広島大)卒。小学校教師として大阪府で勤務していたが長男が生後間もなく脳性まひとなったことから、福岡市に転居して九州大医学部で精神医学を専攻。次男も脳性まひとなったことから1954年、私費を投じて同市南区井尻にしいのみ学園を創設。園をつくるまでの軌跡を描いた手記「しいのみ学園」はベストセラーとなり、55年には映画化もされた。
2003年、西日本文化賞(社会文化部門)を受賞。特別支援教育や幼児教育に長年携わり、福岡教育大名誉教授や韓国・建陽(コニャン)大名誉教授なども務めた。95歳で妻子全員を亡くして以降は、「99歳までは助走、100歳からが本番」をモットーに4カ国語の勉強を開始。99歳になった05年以降ほぼ毎年、世界一周講演旅行に出掛け、12年8月には公共交通機関だけを利用した「最高齢世界一周旅行者」としてギネス世界記録に認定された。
手作りのおもちゃを使った幼児向けの知能遊びや、ラップの芯で作った棒を使って体操する独自の「棒体操」など健康増進法でも知られ、10年9月には福岡県後期高齢者医療広域連合の健康長寿マイスターに就任。シルクハットやちょうネクタイをトレードマークに健康増進法の啓発に努めた。12年2月、しいのみ学園理事・園長を退任した。今年も活動を続け、11月14日にも同県久留米市で講演。27日未明に自宅で体の不調を訴えて入院、約12時間後に死亡した。
▼自らの体験原点、障害児教育の道開く
シルクハットにちょうネクタイ。人なつこい笑顔が印象的だったしょう地(しょうち)三郎さんが、107歳でこの世を旅立った。「107歳児」と名乗り、さっそうと黒田節を舞う姿は、障害児教育の道を切り開いた教育学者のイメージとかけ離れていた。ユーモアあふれる人柄だったと誰もが口をそろえるが、笑顔の裏には深い苦労と努力があった。
しょう地さんの原点は、2人の障害児の親となった自らの体験だ。生後間もなく高熱で脳性まひになった長男の治療教育を学ぶため、九大医学部などで研究活動をしながら、受け入れてくれる小学校を探した。だが、やっと入学先が見つかっても、いじめられる日々。「自分で学校をつくるしかない」。私財を投じて開設したのが、知的障害児教育の先駆となった「しいのみ学園」だった。
劣等感を取り除くことに専念し、子どもたちが遊びながら伸び伸びと成長していく学園の姿は、映画にもなって人々の心を打った。「子どもたちは敵か味方かを、笑顔で判断する。笑顔は教育の出発点だ」。研究者としての実績を重ねる一方、現場から得た教訓を何よりも大切にした。
2人の息子と娘、妻をみとり、自由な時間ができたのは95歳の時。「人生に余りなし」。活動の場を世界に広げ、2004年には中国・長春市に同国初の特別支援学級「しいのみクラス」を開設。自ら考案した「棒体操」やかむことの大切さなど、長寿のこつを伝える講演活動にも尽力した。世界各地に足を運び、講演回数は年平均100回。今年に入ってからも約30回に上った。6月に九大で開かれた講演会で、元気に黒田節を踊る姿が記者のまぶたに焼き付いている。
体調を崩したのは11月27日未明だが、その数日前から死期を悟った様子だったという。25日ごろ、近親者に「わが人生は楽しかりけり、人生に悔いることなし」と言葉を残した。
30日夕、記者が焼香のため自宅を訪ねると、遺骨の上にシルクハットが載っていた。しょう地さんは10月、雑誌のインタビューにこう答えていたという。「108歳になればパスポートが切れるから、今度は地球を飛び出して宇宙に行くよ」
※「しょう」は日の下に舛
=2013/12/01付 西日本新聞朝刊=