復興を問う:東日本大震災 第2部・消えた法の理念/1 法案作成と重なるチェルノブイリ視察

毎日新聞 2013年12月01日 東京朝刊

ベラルーシの「エートスプロジェクト」を紹介する内閣府の報告書(左)の写真や図は、政府の低線量有識者ワーキンググループの資料(右)と同一だった
ベラルーシの「エートスプロジェクト」を紹介する内閣府の報告書(左)の写真や図は、政府の低線量有識者ワーキンググループの資料(右)と同一だった

 ◇伏せられた報告書 ちらつく経産省関係者

 毎日新聞の情報公開請求で開示された「チェルノブイリ出張報告」の表紙には「平成24年8月」とある。内閣府によるロシアなどでの現地調査から5カ月後で、「子ども・被災者生活支援法」が成立した6月21日より後。日付を見れば立法過程への影響は考えにくい。だが実際は成立前に作成され、「霞が関」の人脈を使って配布もされていた。

 東京・赤坂で2012年5月29日、調査団長だった内閣府原子力被災者生活支援チームの菅原郁郎事務局長補佐(兼・経済産業省経済産業政策局長、1981年、前身の通商産業省入省)が講演し、調査結果を報告した。主催は原発の早期再稼働を求める有識者団体「エネルギー・原子力政策懇談会」。望月晴文元経産事務次官(73年入省)が座長代理を務める。

 その日の特異な経緯を、会事務局関係者が記憶していた。参加者約50人に報告書が配られたが、講演後に回収されたという。会のホームページにもう一人の講演者の資料はアップされているが、菅原氏の資料はない。

 翌30日には、調査に加わった支援チームの松永明参事官(現・中小企業庁事業環境部長、86年入省)が公明党の会合で報告書を配り、説明した。条文を巡り国会議員と政府がせめぎ合っていた時期だ。法案審議と報告書の関連性を、松永氏は「調査当時、支援法を知らなかったと言えばうそになるが、関係はない」と否定する。

 関係者によると、同党への説明を求めたのは浜田昌良参院議員(80年入省)だという。副復興相に12年末就任し、支援法の基本方針をまとめた人物だ。秘書を通じ「記憶が定かでない」と回答した。

 報告書の中身にも奇妙な点がある。

 住民自身が被ばく量を管理して低線量地域にとどまるベラルーシの「エートスプロジェクト」。菅原氏によると、調査団はその実践地区へ行っていない。ところが報告書は政府の11年11月の「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」に国際放射線防護委員会幹部が提出したのと同じ現地の写真や図を使い、取り組みを紹介。「避難」より「居住」「帰還」を促したい意図が透けて見える。グループの会合には菅原氏のほか、支援法を現在担当する復興庁の伊藤仁統括官(82年入省)も出席していた。

 民主党参院議員だった谷岡郁子氏らは11年11月から専門家の話を聞き、年間追加被ばく線量1ミリシーベルトを基準に避難者支援を定めたチェルノブイリ法の理念に共鳴、支援法案を提出したのは12年3月だ。同じ頃、東京電力を監督する経産省官僚たちが現地へ飛び、同法の理念を否定する結論を導いていた。報告書の周辺を追った先にも、経産省出身者らの影がちらついた。

 支援チームは現地調査前、チェルノブイリ原発事故に詳しい京都大原子炉実験所の今中哲二助教に助言を求めている。その今中氏も毎日新聞から初めて報告書の存在を知らされた。今中氏は「チェルノブイリ法制定の背景にソ連崩壊に伴う関係各国の政治的思惑があるのは事実だ」とした上で、報告書について「同法を否定する結論ありきの印象だ。年1ミリシーベルトは一般人の被ばく基準として広く理解されており、議論の出発点として無視すべきではない」と指摘した。

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 「避難」「居住」「帰還」のいずれの選択も尊重し、被災者を幅広く支援するという支援法の理念はなぜ基本方針から消えたのか。原発事故被災地の復興とも関わる法律が被災者に一切知らされないまま骨抜きにされていくプロセスを追った。【日野行介、袴田貴行】=つづく

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 ■ことば

 ◇チェルノブイリ法

 旧ソ連で1991年成立。ロシアでの正式名は「チェルノブイリ原発事故の結果放射線被害を受けた市民の社会的保護について」。年間追加被ばく線量5ミリシーベルト超を「移住義務地域」、1ミリシーベルト超5ミリシーベルト以下を「移住権利地域」とし、国による被災者の健康管理や年金増額などの支援策を定める。移住権利地域では移住するかとどまるかは住民の判断に任され、いずれを選んでも支援が受けられる。ソ連崩壊後は被災地域を抱えるロシア、ウクライナ、ベラルーシ3カ国に引き継がれた。

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