コラム 「授章の意義」
- By fpaj
- 2012/11/14
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自由報道協会は志を同じくする人たちによって、日本社会での報道の自由を推進し、言論空間を開放すべく2011年1月に作られた。日本でも遅まきながらインターネット・メディアの発展に伴い、組織を持たず、また頼らない人たちが発信をはじめ、これまでになく言論・報道が多様化している時でもある。
自由報道協会の賞は、その中から日本社会の報道の自由、人権擁護、民主主義の推進に貢献したと考えられる言論、報道を少しでも取り上げ、その御苦労・努力に感謝の気持ちを表そうという目的で作られ、今回が2年目。人間でいえばよちよち歩きの乳児の段階であり、思考錯誤をはじめたばかりだ。
この賞を昨年は外部から見ていたが、早くも第一回授章の選考過程で選考委員の見解が分かれ、対立し、自由報道協会を去った人がいた、という。
有力政治家である小沢一郎氏への授章が自由な報道を目指す立場から是か非か、の対立だった。いわく、小沢氏は権力側の人間で何時、批判の対象となるか判らない存在であるのに賞を贈るとは言論の自由を拘束することに繋がる。いわく、閣僚をはじめ他の有力政治家がいわゆる既成記者クラブから一方的に発信していて自由報道協会の記者会見要請を拒否したのに小沢氏は何回も引き受け質問に応じてくれた……。
この論争自体が面白く、かつ自由報道協会の本質を明示するものであると思った。
私は明確な基準を作り公表することは必要だが個人的には、報道にタブーを作ってはいけないと考えている。
個人的には小沢一郎氏への授章は、小沢氏が自分の活動を通して日本社会の言論・報道をむしろ創成期の自由報道協会にとって重要な言論の機会を広げるのに貢献した、として自由報道協会貢献感謝状を贈るのが正解だったのではないかと思う。
この委員内部の論争、対立を既成メディアが面白おかしく報じた、というのは、好き嫌いは別にして、それだけ自由報道協会を認知せざるを得ない存在になったからだ。
自由報道協会がこの論争・対立を隠さずに応じたのは良いことだ。
これを失敗とは言わないが、失敗すれば素直に謝罪なり訂正をすることが肝心だ。
我々はスーパーマンでも万能の天才でも、まして神ではない。互いに限界、得手不得手のある個々人が志を同じく共通の目標に向かって歩き出した以上、当然、論争・対立、失敗は起きるものであり、起こすのは避けられない。
世界的に権威となったノーベル賞、あるいはピュリッツァー賞なども色々間違いを犯し批判を受けている。後日、資料などを調べてみると、間違いや批判にノーベル財団やピュリッツァー賞の運営を委託されたコロンビア大学大学院などがどれだけ真摯に対応したかは人によって評価が分かれている。その時は正しいと思ったり、時代背景や様々な理由が考慮されたことがうかがえる。時代の変遷と共に色々代わり、対応を迫られてきたことも事実だ。
大事なのは、間違いを犯しても、間違いの原因となった時代や社会環境が変化しても、その都度改善し、公にし、活動を継続してきたことだ。授章する側、受賞される側を問わず時代を超えた多くの人たちの努力と貢献が、2つの賞を今日世界に占める存在にしたと言って過言ではない。
自由報道協会賞は関係者が真摯に考え、議論しあい、努力を続ける限り、当然これからもどんどん変わる可能性がある。私共も変わり、新しい有為な人たちが取って代わるだろう。何故ならば、この賞は今後の新しい日本の可能性を目指した賞であるからだ。
選考委員長 大貫康雄