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文世光(ムン・セグァン)

文世光(ムン・セグァン−事件当時22歳)在日韓国人。

1951年、日本大阪の東住吉で石綿製品製造業を営む家の三男に生まれた。本籍は慶尚(キョンサン)南道・チンヤンとなっている。日本で高校2年で中退した。その後、大阪在日韓国人居留民団・生野北支部に加入、工場勤労者、ビルの外壁ガラス清掃などをしながら生活した。

文世光が共産主義に没頭したのは高校時から。「金日成選集」、「毛沢東語録」など各種の共産主義書籍を読み漁り、全世界の赤化に熱中したと明らかにしている。

 1974年8月15日に、当時の大韓民国大統領朴正煕の暗殺を企て。大統領夫人、陸英修など2名が射殺された事件の実行犯。この日は日本からの開放記念日である光復節の祝賀行事がソウルの国立劇場であり、朴大統領夫妻がその行事に出席いた。

赤化統一(南を共産化し、北の思想で統一する事)を目指した文は、1973年10月ごろ、朴大統領の暗殺計画を思い立ち、高校時代の友人、ヨシイ・ミキコ(共犯)と大阪のある喫茶店で「韓国で革命を成し遂げるには朴正熙を殺すしかない」と切り出した。

文世光は73年11月、在日朝鮮総聯大阪生野西支部政治部長、金浩竜(キム・ホリョン)から50万円の工作金を受け取った。74年5月、大阪に停泊していた万景峰号で思想教育を受ける。

(キム・ホリョン)の指導の元、用意を着々と進めて(文世光は大阪の派出所の裏門から侵入し、拳銃2丁と10発の銃弾を盗んだ。偽のパスポートや韓国ビザも準備した。) 文世光はトランジスターラジオに拳銃を隠して、8月6日金浦(キムポ)空港を通じソウル入りする。 エックス線検索台は無用だった。ソウル朝鮮ホテル1030号に泊まった文世光は清平(チョンピョン)などを観光し、時間を過ごした。

8月15日、文は日本政府高官になりすまし、1万ウォンでレンタルしたフォードM−20で国立劇場に到着。文世光は大統領夫妻が劇場に入場する瞬間、暗殺を図るが、大統領が歓迎の子どもたちに囲まれていたため、チャンスを逃す。

朴大統領が祝辞を読みあげている途中に、文が壇上に向け5発拳銃を発射する。

 1発目誤射、自分の太もも貫通。銃声はスピーカーの音で消された。

 2発目防弾演説台上部、朴正熙大統領がとっさに演壇後ろに身を隠す。

3発目不発弾。目標を失った文は、陸夫人を目標に変更。

4発目陸英修(ユク・ヨンス)大統領夫人の頭部右側に命中。すぐさま文世光が出席者に倒される。

5発目演壇後ろの太極旗に発射。また、援護した警備員の流れ弾で女子高生が死亡。

文は韓国捜査当局の調べに「短銃は大阪府警高津派出所から盗んだ」と自供し、韓国側は日本の責任を追及、反日感情が高まった。韓国当局は事件の背後に在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)がいる可能性が高いとみて、日本側に朝鮮総連の規制を要請。日本側は「国内法」を根拠に拒否した。

当時の田中角栄首相は8月19日、死亡した陸英修夫人の国民葬に参列。当時の自民党幹部が訪韓し、日韓関係修復にも動いた 10月7日に初公判が開かれ、文は法廷に立った。文は大筋犯行を認め、10月19日に1審、11月20日に2審、12月17日の最高裁ですべて死刑が宣告された。宣告から3日後の12月20日、ソウル拘置所で文の死刑が執行された。

 執行の日、文世光は「執行するのですか」と問い、拘置所長は「そうだ」と答えた。文世光は頭を下げ、しくしく泣き始めた。 「私はバカでした。韓国で生まていれば、こんな犯罪をしでかすことはなかったでしょう。朴(正煕)大統領に本当に申し訳ないという言葉を伝えて下さい。国民にも申し訳ないという言葉を伝えて下さい。陸女史と、死んだ女子学生の冥福を、冥土に行っても謝ります。朝鮮総聯にだまされて、このような過ちを犯した私は馬鹿だったので、死刑になって当然です」涙声で話したため、彼の最期の陳述は途中途中でとぎれた。

つづけて、家族へ遺言した。「母上には、子どもの不孝と、期待外れだったことについて、申し訳ないと言葉を伝えて下さい……」まもなく顔に白袋がかぶせられて死刑が執行された。午前7時30分だった。

 朴正煕大統領は、日韓併合時の1944年に日本の陸軍士官学校を卒業(57期)。終戦時は満州国陸軍中尉だった。その後、大韓民国が独立した後は、新たに創設された韓国軍に入隊した。しかし南朝鮮労働党に加入し、軍内工作の首謀者であったことが粛軍運動で発覚して逮捕され、死刑を宣告される。だが、南朝鮮労働党の内部情報を提供したこと、北朝鮮に通じていることが米軍当局に認められて釈放された。 朝鮮戦争勃発とともに軍役に復帰し、さらに戦闘情報課長から作戦教育局次長へと昇進した。

1961年5月16日、「軍事革命委員会」の名の下、張都暎らとともに軍事クーデターを起こす。これらの権力奪取の過程で軍事独裁政治色を強めていくことになる。それゆえ、頻繁にデモが起こるようになるが、武力でこれらを押さえ込んだ。また、腐敗政治家の排除・闇取引の摘発・治安向上を目的とした風俗店摘発なども行い、「ヤクザも敵わぬ朴将軍」と言われるようになる

当時の韓国の社会情勢は、1968年1月の北朝鮮による青瓦台襲撃未遂事件。

1968年4月青瓦台襲撃未遂事件に報復のため684部隊創設、実美島(シルミド)で訓練し、その後の太陽政策にて計画を撤回し、684部隊の反乱が起こる(映画シルミドで詳しく)

1973年8月8日金大中(のちの大統領)拉致事件などがあり、時代は混迷を極めていた。また、文世光事件は「金大中(キム・デジュン)拉致事件」の1年後に発生した。

この問題と独裁に対する批判などで窮地に追い込まれた朴正熙政権が、局面を転換するために事件を企てたという小説のような陰謀論もあった。

 しかし、その朴正熙大統領自身も、釜山で民主化暴動が起こっていた1979年10月26日、側近の金載圭KCIA部長によって射殺された(10・26事件)

梁石目(ヤンソギュル)の「夏の炎」に宋義哲という主人公が出てくるが、これは文世光をモデルにしている。

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