レイテ:今も残る日本兵の記憶…今、日本は兄弟のような国
毎日新聞 2013年11月30日 11時35分(最終更新 11月30日 12時05分)
【ドゥラグ(フィリピン中部)で袴田貴行】台風30号で甚大な被害を受けたフィリピン・レイテ島で、自衛隊の救援活動「サンカイ(現地語で友達の意味)作戦」が本格化しつつある。太平洋戦争中に島で死闘を繰り広げた米国とも協力して被災者に手を差し伸べる。日本との戦争を体験した地元の人たちはどう受け止めているのか。かつての激戦の地を歩いた。
レイテ島中部の町ドゥラグは、台風30号で全体の約9割の家屋が全壊した。レイテ湾に面する小高い丘に、米軍の戦績をたたえるモニュメントがある。戦争末期の1944年10月、上陸した米軍がこの丘に星条旗を立てたという。丘のふもとの目立たない場所に、もう一つの石碑があった。日本語で「レイテイ島戦没者慰霊碑」「比島に眠る勇者たちに捧(ささ)ぐ」とある。日米双方の碑とも台風で倒れたり破損したりしていた。
町には日本軍政時代をよく知る人が今も暮らす。コペルト・アドネスさん(83)、アノンセーションさん(84)夫婦の自宅を訪ね、日本の記者だと名乗ると、片言の日本語で「こんにちは」「ともだち」と握手を求めてきた。
夫婦によると、日本の軍政時代は学校で日本語の読み書きを教えられ、毎朝6時になると家の外に出て日本兵の合図に合わせてラジオ体操をするのが日課だった。2人は「いち、に、さん、し」とラジオ体操のリズムを口ずさみ、戦意高揚のために日本で戦前に作られた「愛国行進曲」を歌ってくれた。
当時、学校は1日おきで、休みの日は家族総出で飛行場建設の使役に駆り出された。日当は一家で1日2円。当時なら米や魚が十分買える額だった。住民には食料の供給もあり、すしが配られたこともあった。
一方で、一部の日本兵が民家に無理やり押し入って食料を奪ったり、命令を聞かないフィリピン人をムチで打ったりしたこともあったという。
私の祖父はフィリピンでの従軍経験があった。恐る恐る当時の日本兵の印象を聞いてみた。「優しい兵士もいたし、悪い人もいた。一言で説明するのは難しい」。妻のアノンセーションさんが、こちらを真っすぐ見つめながら言った。
台風の直撃で、長男(59)と3人で暮らす自宅は屋根が吹き飛び、近くに住む長女(60)と次男(55)の家は全壊した。米軍が屋根を覆うシートや毛布、食料を支給してくれたという。