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三菱鉛筆

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鉛筆の日記念 明治時代の三菱鉛筆

イメージ 1
Masaki Pencil ( Wood barrel lead holder type ) made in 1887 - 1908. the first products of Masaki Pemcil MFG.

5月2日は「鉛筆記念日」といわれています。
三菱鉛筆の創設者真崎仁六が真崎鉛筆製造所を創設したのが1887年(明治20年)のこの日とか。
私も詳しく調べずそのまま記憶しておりましたが、
これはどうやら根拠があいまいなようです。
真崎鉛筆製造所の創業年に間違いはないものの、
会社の設立日や操業開始日は記録に残っておらず、
鉛筆記念日も三菱鉛筆が言い出したのではない様子。
三菱鉛筆は4月17日を創業記念日と定めており、
これには確かな根拠があります。
真崎鉛筆が別会社の大和鉛筆と合併して
真崎大和鉛筆株式会社が成立したのが1925年(大正14年)4月17日。
戦後1952年(昭和27年)6月9日三菱鉛筆株式会社に改称して現在に至っています。

5月2日の鉛筆記念日は、
なんだか根拠があやふやですが、
折角ですから真崎仁六の製造した最初の鉛筆、
通称「はさみ鉛筆」をご紹介しましょう。

イメージ 2
Three ditches are carved on wood barrel, and 2mm graphite lead is fixed with brass stopper.

芯をおさめる木軸の先端に3筋の溝が切ってあり、
直径2mmの芯を引き出して真鍮の止め金具で固定してあるだけ。
鉛筆というよりとても簡単な構造の芯ホルダーといった感じです。
真崎仁六が操業当時製作していたのは通称「はさみ鉛筆」とよばれたこの鉛筆でした。
現在普通に見られる削って使う鉛筆は「削り鉛筆」と呼ばれ、
すでに明治初期から海外製のものが輸入されていました。

1887年(明治20年)に創業の真崎鉛筆製造所は
1908年(明治41年)東京随一の大手文具卸商市川商店と合併し
真崎市川鉛筆となります。
「はさみ鉛筆」がいつ頃まで生産されていたのか定かではありませんが、
市川商店との合併以前の製品である事は確かですので、
少なくとも102年前に作られたものということになります。


イメージ 3
Niroku Masaki (1848 - 1925 ) Founder of Masaki Pencil MFG. (Origin of Mitsubishi Pencil Co.)

創業者真崎仁六は佐賀藩士の子として嘉永元年(1848年)佐賀郡巨瀬村で出生。
藩命による長崎遊学を経て、
維新後には貿易商社「起立商工社」に入社。
(同社は新政府の有力者で郷里佐賀の先輩大隈重信が後援する半官製の国策会社。)
社命で1876年(明治9年)米国フィラデルフィア万博、1878年(明治11年)パリ万博に出張。
現地において海外製の鉛筆に目を奪われた仁六は、
鉛筆の国産化を志して独自に研究を続け、
ついに1887年(明治20年)内藤新宿の渋谷川にかかる水車小屋を借り受けて
「真崎鉛筆製造所」を創立して独立を果たしました。
これより前、
1873年(明治6年)ウィーン万博の随行員として現地で技術伝習をうけた藤山種広と井口直樹が帰国。
この両名の指導を受けた小池卯八郎が鉛筆の試作に成功し、
1877年(明治10年)に東京上野で開かれた第一回内国博覧会に鉛筆を出品したほか
小規模手工業による鉛筆生産はすでに始まっていました。
しかし動力を備えた工場生産としては真崎鉛筆製造所がその先駆であったといえます。

ちなみに、
ウィーン万博派遣の技術伝習生として現地で鉛筆製造法を習得し帰国した藤山種広、
実質的な総責任者として明治日本初の万博参加に尽力した佐野常民、
起立工商会社の後ろ盾となった大隈重信、
そしてその起立工商会社出身の真崎仁六と、
日本鉛筆業の成り立ちには佐賀藩出身者の影が色濃く感じられます。

イメージ 4
Monument of Pencil , It was built on the site at the first factory of Masaki Pencil.
A water mill supplies the power of factory .

現在新宿区内藤町一丁目の多武峰神社内の児童公園に、
わが国鉛筆工業揺籃の地を記念して
三菱鉛筆が寄贈した「鉛筆の碑」が建立されています。
(厳密には、工場はここから数十メートルはなれた渋谷川沿いに位置していました。)
真崎鉛筆の工場は1916年(大正5年)に荏原軍大井に移転。
渋谷川も暗渠となり当時の面影を偲ぶものは川の対岸新宿御苑の深い森だけでした。

イメージ 5
Not only wood barrel but also 2mm lead is embossed manufacturer's name .
Japanese letter " Registered mark Masaki Pencil " trade mark " 3 scales " is from family emblem of founder Niroku MASAKI . )

「はさみ鉛筆」に目を戻しますと、
縦書きで「登録商標(ミツウロコマーク)真崎鉛筆」と刻印されています。
金具をはずして芯を取り出してみますと、
驚いた事に芯にも刻印が打ってありました。
「登録(ミツウロコマーク)商標 N.MASAKI SM 」
最後のSM二文字の意味はよくわかりません。

余談ながら、
自身の名前の読みについて、
真崎仁六は生前
「ジンロク」は「惣領の甚六」に通じるので
「ニロク」であると言い残したそうです。
はからずもこの芯に刻印されたN.MASAKIがその説を裏付けています。

イメージ 6
Advertising of Masaki Pencil from magazine THE ORIENTAL ECONOMIST 15 Nov.1895.
東洋経済新報創刊号 1895年(明治28年)11月15日発行 掲載の広告。

創業から8年後の真崎鉛筆広告。
依然として「はさみ鉛筆」を製造していた事がわかります。

文中では二度繰り返し、「速記者」の支持を受けている旨誇示しています。
いわく「貴族院御用、貴衆両院速記者諸君の賞賛を博し」
「速記者の鼻祖たる源綱紀先生の證明せらるる鉛筆なり」
この日本速記界の創始者、源綱紀(本名 田鎖綱紀)と云う人がまた、
明治を代表する大奇人、半端ではない生活破綻っぷりなど面白い事この上ないのですが、
またいずれ「速記用鉛筆」の記事でご紹介する事にいたします。

記事では「大本営」(日清戦争における)と並び「逓信省」が大書されています。
当時国内最大の鉛筆需要者であった郵便局を管轄する省庁で、
この6年後の1901年(明治34年)には芯が引っ込むなど不便な「はさみ鉛筆」に替わり、
同社初の「削り鉛筆」が完成して郵便局への一手納入に成功。
この安定した大口販路の獲得が真崎鉛筆の基礎を固める事になりました。
1959年(昭和34年)まで製造が続けられた「局用鉛筆」がこれです。
このとき正式採用された三種の「局用鉛筆」を記念して
1903年(明治36年)に商標登録されたのが、
現在に続く伝統のスリーダイアモンド、三菱マークでした。


<参考資料>
・鉛筆と共に80年 (三菱鉛筆80年史)三菱鉛筆
・時代を書きすすむ(三菱鉛筆100年史)三菱鉛筆
・日本鉛筆史 東都鉛筆工業協同組合

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