ネット君臨:第1部・失われていくもの/5
◇実験―――前日 12月9日(土)
「えっ、携帯でメールできないの?」。慶応大4年の山本丈太郎さん(22)が「明日から携帯とパソコンが使えない」と伝えると、彼女が残念そうな顔をした。山本さんは1日に30通以上メールをやり取りするが、ほとんどが彼女とだ。
「この時間は自宅にいる。何かあれば固定電話にかけて」。不安を静めながら、どんな生活になるか興味もわいた。
@ @
若者にとって携帯電話やパソコンは生活必需品。もし使えなくなったら……。大学生8人(うち1人は早々に脱落)に昨年12月10〜14日の5日間、実験してもらった。
◇不安――――1日目 10日(日)
携帯の電源を切る時、サラ・アンポルスクさん(22)はためらった。米国からの留学生で1人暮らし。固定電話がなく、携帯が唯一の連絡手段だ。この日、バイト先の気になる先輩からメルアドを聞かれた。すぐにメールしたかったのに……。
◇空白――――2日目 11日(月)
授業を終えた佐藤悠さん(20)はバッグの中に手を入れ、携帯を探す自分にハッとした。昨夜は、会員制サイト・ミクシィの日記をチェックしている夢を見た。携帯にも着信が10件。リアルな情景に目が覚め、「あれ? 携帯の電源入れてないよね」と焦った。
初日は手持ちぶさたでイライラしたのか、友人に当たったようで「口調きついけど大丈夫?」と心配された。今日もまだ慣れないが、携帯をいじっていた授業の空き時間や片道2時間の通学時間で約350ページの人物伝を読破した。
◇余裕――――3日目 12日(火)
山本さんは彼女と午後3時半、「東京メトロ銀座線・青山一丁目駅の渋谷方面行きホーム」で会う約束をしていた。決めたのは2日前の実験初日。いつもは前日の夜がせいぜいなのに。余裕を持たせ、30分遅い待ち合わせにした。
「大丈夫だとは思うけど、途中で何かあっても連絡は取れないし」。ホームには午後3時20分に着いた。同じように早めに来ていると思った彼女の姿はまだ見えない。少し心配になりかけたころ、やっと到着した。時間通りだった。
彼女には「余裕を持って動けば問題はない」と話した。メールのチェックから解放され、時間がいつもより少しだけゆったり流れているような気がした。
◇対話――――4日目 13日(水)
大学から帰宅した佐藤さんに、水泳教室に通う母親が話しかけた。「今教わっているのはね……」。携帯から離れ、しっかり相手の顔を見て話している自分に気づいた。今まではメールを打ちながらだった。
大学で友達と話していても「後で携帯メールすればいいや」とはいかない。相手の表情の変化を見ながらしゃべっていると話が進み、「密度が濃い」と感じる。
外を歩いていると、イチョウの黄葉に気付いた。電車が来た時も携帯に目をやる人を見て「携帯に使われている」と感じ、少し薄気味悪い。
◇距離――――最終日 14日(木)
政井萌さん(20)は、この日が誕生日の友達にメールの代わりに便せん4枚の手紙を出した。もともと手紙は好きだが、書くのは夏以来。携帯がなくても、意外とイライラしなかった。
以前はミクシィをやっていたが、時間が無駄に思えてやめた。同じ中学だけどほとんど連絡を取っていない人が、なぜかミクシィの日記で「政井さんは頼りがいがある」と書いていた。「縮まらなくていいはずの距離が、いやに縮まる」違和感があったからだ。
深夜0時、うとうとしているうちに実験の終わりが来た。「微妙に遅れちゃったけどごめんね。おめでとう」。携帯の電源を入れ、誕生日の友達に電話した。
同じころ、サラさんは携帯がまた使えると思うと安心し、体が軽くなった。早速、メールをチェック。かわいい服がないかとデパートの携帯サイトものぞいた。
「友達に話すにはおもしろいネタだけど、これが最初で最後」。それが実感だ。=つづく
ネットほとんど関係無いな。
まさか今の若者が皆携帯打ちまくってるとでも思ってる?
Comment by kk — 2007年1月6日(土曜日) @ 14時19分10秒
記事一通り読ませて頂きました。2chに関して毎日さんは批判的ですね。ネットの弊害ばかりを強調されていますが、あまり賛同できません。
私は50代ですが、2chもよく利用します。最初のほうに管理人のインタビューがありましたが、原典の記事とだいぶニュアンスが変わっていますね。
ネットメディアはまだ歴史が浅いので、いろいろと問題はあると思います。
ただもう後戻りは出来ません。(記者さんも恩恵を受けているはずです。)
既存マスコミは大衆を先導しようとしますが、そんなことは無理です。
かえって、作為的な記事の量産になってしまいます。(現に新聞は発行部数を減らしています。そういえば、つい最近も佐賀のほうの記者さんが2chで話題になりましたね。)
時代は変化するものです。的を射た記事を期待しております。
乱筆乱文失礼しました。
Comment by kawapon22 — 2007年1月6日(土曜日) @ 14時42分31秒
非常に興味深く拝読しております。
私はネットも好きですが、活字中毒でもありますので、新聞・雑誌・本は手放せません。
今、私はmixi中毒になりかけています。
日中は6ヶ月の長男と二人で過ごしており、仕事も退職してしまった今、外界とのやりとりはもっぱらmixiです。そのおかげで、社会から取り残された気がしなくて済んでいるような気がします。10年前、長女を出産した直後は、ひとりぼっちで育児をしているような心細さがあり、またネットで何でも情報を得られる時代ではなかったため、孤独でした。
でも、ネットはしょせんネットです。
直接会って、目を見て話すという行動に勝るものではないと思っています。
やはり、直接人間にふれ合いたいと思い、理学療法士という資格を生かして今年は再就職すべく、病院・施設を探すつもりです。
Comment by はりさしえくぼ — 2007年1月6日(土曜日) @ 15時20分19秒
元旦に話題となってから、毎日読ませていただいています。
率直な感想なんですが、この特集は『ネット=得体の知れない悪いもの』というようなイメージ付けをしたいだけの記事としか読めません。
もともとIT含め技術進歩というのは、利便性を追求し無駄を省くために発達するものです。
そこを携帯・ネットの存在で『使われている』感じと表現する毎日新聞記者の理解不足(故意であれば悪意)を感じます。
携帯・ネットをしなければ、空いた時間でほかのことができるのは当然です。しかし、そのぶん連絡の不備などがでてくるということはサラッと流していますよね。
全体的にIT社会で旧来のコミニュケーション方法が取れないことに問題提起をしたいようですが、表現方法が感情的・各論的過ぎて説得力に欠けると思います。最近の新聞の手法で多い『〜〜といっている人(知識人)がいる』はネットが発達して不特定多数の人間の発言を知ることのできるようになってきた現在は白い目でしか見られませんよ。
全国紙という有力な言論機関に載せる特集としてはお粗末といわざるを得ません。問題提起する以上、責任を持ってある程度の社会的・統計的背景を記載しないと裏づけにならず、まともな理解力のある人間には響きません。元旦の「死ぬ死ぬ詐欺」が背景を記述していなかったように。
裏づけのない感情的な記事は、単なるデマとしか受け取れません。
あともうひとつ。
貴社の記者(笑)で無責任な記事を書いたものに対し、利害関係者ならずとも意見をしたことがあるのですが(「祭り」に近いような状況だったため、ほかにも多数の方が意見したと思われます)特に何のリアクションも返ってこなかったという苦い経験があります。
このような対応が積もり積もって新聞という言論機関に対する不信が(特に電凸など盛んな2ちゃんねるでは)醸成されてきつつあるのではないかと思います。
まいまいクラブもネットの双方向性を活用するのであれば、(承認制は炎上を防ぐためにも仕方ないと考えますが)この特集へも「取材班」としての意見表明でなく「記者個人(HNでも可)」として発言を書き込んでいただくことを希望します。
Comment by みえきおーあ — 2007年1月6日(土曜日) @ 16時02分44秒
>>1
ここは是非、ケータイやネットはやらないがTVばかり眺めているような中高年に「TV無しで、生きられますか」と実験して欲しいですな。ケータイ漬けの学生もTV漬けの中高年も似たようなもんだと思うが。
>>2
ケータイが無くなったら記者も困るはずだけどな。もっとも、「ケータイで仕事の連絡に振り回されて休みも取れない」「帰れない」「寝る時間もない」記者の遠回しの心の叫びが、こういう記事になるのかもしれないと思ったりして。
会社の方針で記者ブログを始めたはいいが更新とコメント対応が面倒で仕事が増えただけだった、みたいな不満も聞いたことがあるし。
Comment by halhal — 2007年1月6日(土曜日) @ 16時11分34秒
読んで思ったのは・・・俺携帯持ってないし(ーー;)
パソコンの利用も土日だけだから〜。関係ないかな。周りが不便みたいだけどさ!
前は持っていたから、持たなくなって解放された感じはあると思う。でも、人それぞれだから良い悪いじゃないと思う。便利かどうかも同じだと思うし。
Comment by cozy — 2007年1月6日(土曜日) @ 16時18分59秒
携帯とパソコンという最新の技術を使わないという企画ですか?
昔はなかったものを使わないで生活してみるという企画なのですか?
それなら、自動車を使わない、テレビをみない、電気を使わない、いろいろできそうですね。
でも、どれも「おもしろいネタだけど、これが最初で最後。」かもしれません。
それだけ、携帯もパソコンも生活に密着していることがこの実験のまとめからは感じました。
ためしに、「一週間、新聞を読まない」と「一週間、ネットを使わない」との2群に分けて検討していただけたら、もっとおもしろかったのにと感じました。
Comment by じゅん — 2007年1月6日(土曜日) @ 16時47分46秒
今回の記事を読んでの感想は「ナンセンスだなぁ」です。TCAによれば2006年11月末現在で携帯電話(PHS除く)の契約数は9,400万件を突破しています。iモードやEZwebなどネットにつながる携帯電話だけをみても8,100万件を超えており、社会インフラと言って差し支えない状況だと思います。
記事の冒頭にある「若者にとって携帯電話やパソコンは生活必需品」という一文に現わされているような気もしますが、答えの見えている実験で、記事全体として携帯電話や若者の「ケータイ文化」に眉をひそめる層に同意を求める媚びた内容に思えました。
現在大学生ぐらいの年齢層では唯一の通信手段であることも多い携帯電話を使えなくして、不便だった、と言わせていることに私は意味を見いだせませんでした。すべての電話の手段を使えなくするならともかく、携帯電話はダメで固定電話がOKというのも、携帯電話が余計な物であるという考えに基づくものでしょうか。
また、被験者はすべて大学生ですが、ここも理解に苦しむ部分です。大学生の大半は自身が生活するための仕事をしていないと考えられますから、この層から無くても生活できるという前提で携帯を取り上げても、結果は予定調和的だと思います。携帯電話やそのメールの恩恵は若者だけが教授している訳ではありません。極端な例なら、これが仮に名詞に携帯電話番号とメールアドレスを刷っているような営業職のサラリーマンだったらどうでしょう。もちろん携帯電話が無かった時代から営業職は存在していますが、現代の営業サラリーマンから携帯電話を取り上げてはたして周囲が納得するでしょうか。
記事では、携帯電話が使えないので手紙を出した、といった内容も書かれており、旧来の通信手段や対面の機会を大切にしよう、という意図も読み取れるのですが、それらは携帯電話を無くして保護するものなのでしょうか。手紙もEメールも手段であり、受け手の喜びの度合いを決定付ける要素ではないと思います。季節の移ろいに目がいくのは個人の資質の問題ではないでしょうか。若者に関して言うならば、極論すれば親の育て方次第だと思います。携帯のカメラで身の回りの写真を撮るようになり、花木に興味を持ち始めたというひともいるのではないでしょうか。それらをメールでやり取りしたりブログに投稿することに楽しみを見出している人もいるでしょう。
若者を中心に急速に普及するケータイ文化について、警鐘を鳴らしたり様々な問題提起がなされるのは大切なことだと思います。一方で、社会問題化している面があるとするならば、それは同時に社会インフラになっているとも言えると思います。
技術の登場も進歩も、またその使われ方もヒト次第だと思います。これに文化的な側面が加わるならば、さらに使われ方が細かく分かれていくのではないでしょうか。日本では、電車内で携帯で喋っていれば白い目で見られますが、とあるアジア地域では当たり前のように電車内で通話していたりします。文化とは言うまでもなく地域に根ざすものですし、ところ変わればマナーも変わり、それぞれは良い悪いといった問題ではないと思います(電波とピースメーカーといった絶対的な問題は別として)。日本国内においても関西、関東でマナーが違うことはありますし、またこういったことは地域だけでなく世代間、そして時代にもいえることだと思います。大人にとっての悪が若者にとっての悪とも限りません。昔の善が今も善とは限りません。家でも移動中でもメールばかりしている若者に眉をひそめる大人がいる一方、それが当たり前の若者の中にはなぜ眉をひそめられているのか理解できない人もいることでしょう。“異文化間の交流”は大切であり、時に刺激的ですが、それにはお互いの理解が不可欠なのは言うまでもありません。
携帯電話・ネットの普及は前述の携帯電話契約者数の数字を挙げるまでもなく変えようない大きな流れだと思います。我々は総体として携帯電話・ネットの普及で様々な恩恵を受け、また様々な問題に直面しています。失われようとしているとする10を挙げるならば、得られるはずの10も挙げてください。貴社の記事を読んで、得られるはずの10が得られないなら、こんな悲しいことはありません。
Comment by ニパ — 2007年1月6日(土曜日) @ 20時19分41秒
単純に携帯とかPCを使えない人を応援する企画かと思いましたが。「使えなくても生きていけるよ」とか。
無しでも生きられるが、無いと効率が悪いので使う。
そんなところでは無いかと思いますが。ハイヤーなしで取材にいけない記者のみなさま、ハイヤーなしで取材されては如何でしょうか?たまには公共交通機関も良いですよ。
Comment by 某S — 2007年1月6日(土曜日) @ 20時25分31秒
メカ音痴の私がパソコンにはまるなんて自分でも驚きです。何がなんでも、一日パソコンをチエックしないと落ち着きません、若い人が夢中になるのは当然だと思います。いくら携帯電話は、ご遠慮くださいといっても誰もが平気でやっています。あきれるのは、病院の中でもです。皆がやっているから、なのでしょうが、矢張り守るべきマナーは、守りましょう。ペースメーカーをつけている方は、どんなにか、ヒヤヒヤしておられる事と思います。
ネット上で、他の人を攻撃するなんてもってのほかです。之では、文明の利器が泣きます。顔を見た事もない人とコミニケーションを取れるなんて,本当に素晴らしいことですから、、、
Comment by さゆり — 2007年1月6日(土曜日) @ 21時32分15秒
毎朝、このルポを真っ先に読んでます。
10年くらい前から思うと、ネットはほんと空気のような存在になったなぁ〜と、常々感じます。
元旦の記事の取材班のコメントに「「誰もが使う」ネットだからこそ、「負」の部分に注意を払う意味があるのではないかというのが第一部のスタンスです」とありましたけど、同感です。
たまたま正月に、森健さんという方が書かれた『グーグル・アマゾン化する社会』という本を読んだこともあって、ネット社会で生きる人間が知っておかねばならないことの多さを痛感しました。
Comment by りんかる父ちゃん — 2007年1月6日(土曜日) @ 22時18分51秒
なにやら批判的なコメントが多いですね。
確かにこれからの時代、ネットも携帯もどんどん発達していくだろうし、そこで得られるものは大きいものかもしれません。
ネット上の法の整備が整わない限り既存のマスコミを越えるとは思えませんが、それでもそれに近いものには間違いなくなるでしょう。
しかし、本当にこの方向性でいいのか。
ネットや携帯に依存しすぎて、何か大事な物を見落としてはいないか。
こういった事を考えてみることは私たちに必要だと思います。
正直な感想として、今回の一連の記事には、何を焦点としてるのか分かりにくいものもあると思います。
しかし、ネットの在り方について、一度立ち止まって考える機会を与えるには十分な記事なのではないでしょうか。
私は今までネットの在り方についての問題提起がほとんど起こらないことに不安を感じていました。
それだけに、今回この話題を取り上げてくれた事をうれしく思います。
ここのコメントには、記事の不備や、「ネットの負の部分を強調しすぎている」等、記事批判の意見が多いようですが、できる事ならネットのこれからについての意見を聞きたいところです。
Comment by あるく — 2007年1月7日(日曜日) @ 04時15分37秒
この記事「ケータイ無しで、生きられますか」に限り、異論を唱えたい。これは無茶と言うものです。
電子メールやニュースサイトのチェックは、云わば現実世界で手紙や電話を受けたり新聞を読んだりするのと同じなんですよ。
自宅や勤務先を、1週間やそこら留守にする事を想定して下さい。連絡事項、手紙、新聞が山のように溜まる事は間違いありません。
“それで生きられますか”と問うているのと同じです。
Comment by アキラ — 2007年1月7日(日曜日) @ 10時46分03秒
>あるく 様 ― 2007年1月7日(日曜日) @ 04時15分37秒
「ネットのこれから」は大切ですが、「ネットのこれまで」も振り返る必要があるのではないかと思います。
インターネットはNiftyやPC-VANなど、もともと企業が運営していたものとは異なり、冷戦下のアメリカ国防総省が開発したもので、最初は大学や研究機関を結ぶ科学的・学術的な情報共有ネットワークで、それがどんどん世界に広がっていったのが成り立ちです。
世界どこにいても瞬時に最新の研究データを閲覧できるメリットだけでなく、データを世界各地に分散し、共有しておくことで、極端な話、冷戦下、ソ連の核ミサイルが落ちていくつかの研究機関が破壊されても、他の研究機関のサーバのデータは生き残るという、危機管理の思想もありました。
一般や商業に広く開放されたのは90年代以降で、それも本格的に普及したのはWin98以降ですが、そもそも国が管理しているネットワークではなく、国境を越えて情報をやりとりするというスタイル自体既に、良く言えばグローバル。悪く言えばアナーキーな性格を秘めています。
後付けでしょうが、世界の国々の市民同士が情報や多様な価値観を共有することで、特定国家による国民の情報統制をやりにくくし、独裁やファシズムを防ぎ、戦争を抑止するという思想もあります。
一方、「知的財産を皆で共有しよう」「自由な学問には国境はない」という、学者の一種原始共産主義的な、理想主義の香りのする部分もあります。
その一つが、過剰な商業主義に対する反発です。パソコンを動かす上で全ての基本になるOSの知的財産をブラックボックス化し、特許で固め、独占的に高値で販売するMSに反発し、オープンソースのLinuxがボランティア技術者によって日々改良し続けられてきました。
ネットも一般に普及したことでそういった「空気」は随分と薄まりましたが、いわゆるアングラサイトのコミュニティあたりでは依然として息づいているようですし、インターネットの黎明期からネット社会の基礎を、技術面そしてハート面で形成してきた人たちの思想が、現在のネットそしてネット社会のありように影響していないはずがありません。
どうでしょう?先日の記事にあった児童ポルノを撮影した犯罪者が警察に捕まりパソコンが押収されても、他の「お仲間」のパソコン上に画像が残るというのは、先に書いた核ミサイルの話を髣髴とさせる話ではありませんか?(笑)
また今回は何故か記事になっていませんが、著作権法を無視してWinnyで自由に音楽や動画を共有する方向に走る根本には、Webの「共有」というか、みんなで分かち合おうっていう思想がそもそもの根本あるからではないかと思われます。
ネット世界も当然現実世界の一部なわけですが、根本になる世界の土台の違いが、ローカルな国ごとに制定されている現行法や慣習とズレすぎて、様々な問題が噴出しているようにも思えます。
ただ、核兵器と同じで「できちゃったもの」をなくすことはもう不可能です。
ネット上の法の整備が整わない限り・・・とおっしゃいますが、
現実社会(っていう書き方もおかしな話ですが)がネット社会に合わせるのか?それとも、ネット社会を現実社会に合わせるのか?
勿論個々のローカルな犯罪については、現在でも例えば、ローカルな法の枠内で、実際にポルノ画像を撮影した、レイプした加害者を罰することは可能です。
著作権法に違反すれば管理団体から請求が来ます。
ただ、私はアナーキストではありませんが、安易にネットを現実社会の・・・つまり国単位の枠に当てはめて規制したり、制度で秩序作るのは、不可能ではないかと思うのです。これまでに述べてきたように、あまりに根本的に違うからです。
ネット社会にも何らかの秩序を与えていく方向性自体には反対ではありませんが、それを作るのは国家ではないと思います。
そもそもあの「イット革命」と言うような、IT音痴な日本の国会議員に秩序作りを任せられますか???
毎日新聞の紙上でもこれだけ意見が違うのに、とても法として纏めきれるとは思いません。
また、せっかく自由なこのネット上に、妥協に妥協を重ねたヘンテコリンな秩序を作り上げてしまうのは、非常に勿体ない気がするのです。
30年後、50年後の、世界のネット社会をどうすべきか?という議論にも繋がってくるのです。
もし規制し、秩序を与えるとすれば、特定の国の意思に左右されない、高度に民主化された(独裁を許さない!)国際的な管理機構ということになるのでしょうが、そもそも技術的に可能なのか?
その議論のきっかけとして様々な情報を提供してくださるように、毎日新聞には期待したいのですが。
ITジャーナリストの橋本典明氏あたりのコメントを掲載して欲しいです。
長々とmixiや携帯など、スレッドの主旨から外れた書込で申し訳ありません。
Comment by 団体職員 — 2007年1月7日(日曜日) @ 12時52分40秒
私もプチネット中毒です
私は学生でブログとyoutubeを使っています
やばいです平日は2時間程度
休日は2時間以上やっていますね
本当はもっとやりたいんですけど時間がないんで。
たしかにネットや携帯がないときついです。もうネットやメディアは生活の一部なので取り除くことは無理だと思います。そして私も2chをよく使います。
Comment by ななせ — 2007年1月7日(日曜日) @ 14時36分47秒
もはやネットと関係有りませんね。
IT全般否定なのでしょうか。
私はPCはやりますが、携帯は一生持たない予定です。
PC使って仕事もしてます、メールもやってますが、携帯有りません。
携帯無しで生きられますか……普通に生きてます。やりようです。
Comment by A/T — 2007年1月7日(日曜日) @ 19時45分39秒
>>12
>ネットのこれからについての意見を聞きたいところです。
ネットのよいところは、情報の提供に驚くほどコストがかからないところにあります。
例えば、新聞であれば紙面の制約がありますが、ネットであれば、その制約はほとんどありません。
ですので、新聞の紙面というのは、編集をする方の主観で、情報を取捨選択することになりますが、ネットであれば、すべてを掲載することができます。
今後の新聞というものは、非常に多い情報を客観的に合理的な要約をして、掲載するのがよいのでは?
そして、その判断の基となった情報をすべてネットに掲載する。
そうすれば、信頼性は増すと思いますよ。
いまでこそ、新聞は信頼されていますけど、今後はどうかわかりません。
政府機関もweb siteでおおくの情報を全世界に向けて提供していますし、上場企業もIR siteで多くの情報を提供していますよ。
それぞれの情報に偽りがないと情報を受ける人は思い込んでいます。
情報の提供に責任が政府も上場企業もありますからね。
新聞は、責任を持って報道しているのですか?
報道内容に対して責任を取ったことがありますか?
責任を取れない報道には、価値がありません。
責任が取れない報道であれば、報道内容のソースを明らかにするしか信頼される方法はないのではないかな?
すくなくとも、報道する側にとって都合がよいことだけを切り取って、紙面を構成するというのは、信頼を損なうと思います。
Comment by じゅん — 2007年1月7日(日曜日) @ 23時34分20秒
読者投稿に新聞記事に関して批判というより 文句が非常に多いのはどういうわけだろうか。違和感を感じる。
記事を自分(または自分と一体と感じているもの)への攻撃と見る
批判や問題指摘を客観的に見られない
自分と違う意見を認められない
こういうことが根本にある人が多くなったということか。自己中心 自己愛だけで 他人のことは想像も考えもできない人間が確かに増えているらしい。
Comment by 小萩 — 2007年1月8日(月曜日) @ 01時12分51秒
re:18
>>自分と違う意見を認められない
>>自己中心 自己愛だけで 他人のことは想像も考えもできない人間が確かに増えているらしい。
つ [鏡]
Comment by ( ゚д゚)ポカーン — 2007年1月8日(月曜日) @ 09時33分47秒