スポーツの Social Performance を問う | 9/9 | |
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広瀬 一郎 | ||
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# スポーツの開放と公共性
いずれにせよスポーツは個人と社会との関係性が不明確になってしまった今日の高度情報化社会において、その関係を実感する機会を最も容易に、かつ自然に与え得る装置なのである。それがスポーツにより地域振興が図り得ると考える根拠なのであるし、「Jリーグの100年構想」という理念もこの点に立脚していると理解すべきであろう。それがスポーツの社会的効果(ソーシャル・パフォーマンス)を問うスタート地点になるであろうし、この点に配慮せずに今後のスポーツのあり方を考えることは問題の解決に向けた議論の成立を困難にするであろう。 スポーツがスポーツをしている者だけのモノならば、スポーツが公共的な存在だとは言えないだろう。スポーツ関係者の時として排他的とも見える態度は自分の権益を守るためには有効かもしれないが、スポーツ自体の拡張、発展には何も寄与しない。勿論外部にはスポーツに対する理解が不十分であるかもしれない。だとするなら理解を進めるのが内部の人間の義務である。従って不十分な理解とは、スポーツの側の怠慢も大いに問題だということが言える。スポーツを外部に開放することは、そのスポーツ内部における従来の関係者の支配できる領域を相対的に狭めることにはなる。だがスポーツの拡張により絶対値としての権益領分は確実に拡張されているはずなのだ。 スポーツの素晴らしさをスポーツ内部のロジックでは証明が不能だという点、今更論を待つまい。スポーツの素晴らしさとは、社会におけるスポーツの外部との関係を通じてしか立証が不可能であり、「スポーツはスポーツだから素晴らしい」等というのは「神は存在するから存在する」という宗教と同じことなのだ。根本に無謬性を据えて説明するのは、怠慢であり逃避であろう。宗旨や教義というものは、他の宗派はもとより一般人にとっても全く認識できないものなのだ。スポーツがスポーツ教となればもう既に一般性と公共性を放棄したも同然なのである。現代のスポーツはスポーツの外部に向かって説得力のあるコトバと論理を見出し、発信し、常に開放的であらねばならない理由はここにある。その努力を怠り、国や企業に対し「スポーツに金を出せ」等とふんぞり返るのは誠に片腹痛い所業だと言うべきであろう。この点に関し多方面からの議論を招かざれば、具体的な処方の立案もその案の遂行もおぼつかないことになってしまうことを予告しておこう。
(終)
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