スポーツの Social Performance を問う | 8/9 | |
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広瀬 一郎 | ||
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# スポーツのソーシャルパフォーマンス
(1)公共心 ここでソーシャルパフォーマンスという点について若干の説明を加える。直訳すれば「社会的達成」というこの言葉は、社会に対してどう寄与するかという点を問題にする。社会的責任という以前の考え方は、責任を問うといった形で用いられ、問う側と問われる側を区別し、問われる側に対し威嚇的なアプローチになりがちだった。しかし問われる側も社会の一員である以上、その責任を果たさなければ社会に損害を与えるため自らもその被害者になるはずだ。社会の構成員という観点では、加害者も被害者の一員なのである。そこで問題解決のアプローチをネガティブに考えるのではなく、ポジティブに考えるために米国で生まれた言葉である。ここではソーシャル(社会的)という言葉が多分にパブリック(公共的)という意味で使われていると考えてよいだろう。公共的であるとは「公」と「私」の共通する部分であると考えられる。公的には関与しないとか、それは私的な問題だ、として自己との関与を否定する事は可能であるが、社会の構成員であれば公共的な問題に関して当事者でない者はいない。また社会的なパフォーマンスを検討するという発想には、社会的コストという考え方が裏打ちをしてをしていると考えられよう。例えば環境問題を考えれば分かり易い。環境汚染を引き起こしている企業は他者に被害を与えているだけでなく、自らにも不利益が生ずる。環境問題を解消するための施策に税金が使われれば、もっと有効な所に向かうはずの資金が消費され、結果その社会が経済的な被害を被って経済が沈滞すれば、あらゆる企業はその影響を受けるのである。 スポーツはどんなソーシャルパフォーマンスが可能であろうか。私は現在以下の5つの課題について大きな機能を果たせるのではないかと考えている。 1.モラル 2.ライフ 3.コミュニティー 4.コスト 5.グローバルである。 複雑化した現代社会において、自分と社会との関係が見えにくくなったおかげで、あらゆる分野でモラルハザードを起こしている。スポーツマンシップの習得を通じて、スポーツがモラル教育の場を提供するのは大いに意味のあることであろう。また生命、肉体、生活の質を高める場としてもスポーツは適しているように思う。近代化の過程で崩壊したコミュニティーの再統合、再生、復活という課題についてもスポーツは有効な働きを示すだろうし、そのコミュニティーにおける生活の充実はきっと低コストの生活を実現させることにつながるだろう。この低コストの生活とはゴミも少なく環境にも優しいものになることは間違いない。無論スポーツがグローバルなコミュニケーションを可能にする点、改めて言うまでもない。前述したように現在の日本ではとりわけ教育的分野において最もそのパフォーマンスを発揮することが期待されよう。 近代スポーツの出自を想う時、教育的なスポーツとは確かに本卦還りのような印象をもたれるかもしれないが、かつての体育が優秀な兵士の供給を目的としたという点、今日でも同様なことが許されるはずがない。現在の日本では、青少年に対する公共心の育成こそが焦眉の急であると考える。 前著でも述べたように我が国では従来「公」はお上のことを意味し、一般人はお上の決める「公」事に従うものだと考えられてきた。そして「私」と「公」は明確に区別され、公私混同は厭うべきものだと言われてきた。しかし社会生活を営む上では、全くの私事とはいえないが公権力によって一々指示されるべきでもない事が多々存在する。いやこの言い方は正しくない。もともと民主主義とは王権(お上の権力)を如何に制限するかという課題をもって始まった体制なのであるから、公権力に指示されることは最小限にするという発想をまず持つべきなのだ。自立した個人が自由に活動することが一番の基本なのである。だがそれは個人が欲望をむき出しにしていいという事を意味しない。独立しながら同時に共同体のためという「公共心」を持った個人であることが期待される。それが「市民」であることの最低条件なのである。ところがそれでも社会の中では軋轢が生ずる。その軋轢を裁くためのルールが法律である。また個人が個別で対処するより共同体全体が共同で処理した方が効率がよい事柄が存在する。その対処や、共同体を外部から守ったり、他の共同体と交渉したりする組織が必要となる。それが政府なのである。斯様に理解する方が民主主義の理解としては正統的であろう。つまり公共心を有した独立した個人という「市民」の存在が民主主義の大前提なのであり、その存在なしには民主主義などは所詮単なる掛け声や見せかけでしかないのである。 翻って現在の日本を見れば、その例を今更挙げる気にならない程公共心の退廃は目を覆うばかりである。ではその日本で「公共心」を如何にしたら培うことが可能であろうか。 本来であれば共同体の日常生活の中で学ぶべき事柄なのであろうが、本来の共同体がここまで崩壊している現状でそれを望むのは百年河清を待つ事に等しい。と言って学校の道徳教育を強化せよ等という論は、日本を取り巻く今日の現状ででは中々言い出しにくいしまた今日的なアプローチとも思えない。そこで公共心を身に付けるために最も有効な具体的テーマとして「スポーツ教育」と「環境教育」が浮上してくるのだ。 どちらも生命や肉体を扱うものであり、現在の日本では最も受け入れやすく、また地球的規模で共有が可能なテーマである。 (2)老人医療費 「環境問題」に関して言えば、従来のアプローチが法律というシステム的なものと、ニューテクノロジーによる新素材の開発や省エネの推進というハードによるものの2つが主であった。どちらも一般人にとっては自らが主体として活動する領域ではなく、誰かがやってくれるものだったのである。しかし環境先進国と言われるドイツや北欧諸国の例を見てもあきらかなように、生活する人間の意識を根本的に変えない限り事態の改善は中々望めないのは明らかなのだ。そしてその意識改善のためには有効な環境教育が必要なのである。無論「環境教育」が公共心を育む点論を俟つまい。 「スポーツ教育」も同様に、スポーツマンシップを培う事を通じて、公共心を養うことができよう。また個性を伸ばし自立心を育む子とにより健全な民主主義を実現する人材が育つだろう。かつての早稲田ラグビーの監督にして早稲田イズムの体現者と言われる大西氏も「闘争の論理」という本のなかで、「スポーツの最大の社会的価値は民主主義の実現だ。」と述べておられた。更に言えば「スポーツ」も「環境」も共同体という発想が必要とされるため、必然的に地方自治をも進めなければ効果は望めない。そして地方自治こそがまた民主主義の実現を可能とする大きな鍵なのである。 あるいはまたスポーツは、どんな社会コストを軽減するのに役立つのであろうか。個人的な見解を述べれば、老人医療費の問題と犯罪に関するコストに対し、一番有効なのではないかと考えている。 厚生省の発表によれば日本の国民医療費は96年度で28兆5210億円となり、1人平均22万円を超えている。どちらも過去最高であり、1人あたりの額では前年比5.5%も増えている。この結果、国民所得に対する国民医療費の割合は7.09%から7.27%にも上昇している。驚くべきは、保険制度別にみると70歳以上の高齢者にかかった医療費は9兆2898億円で、前年度に比べ9.5%増という突出した伸びを示しており、医療費全体に占める割合もほぼ3分の1である。高齢化の進行が医療費全体の伸びを押し上げている実態を浮き彫りにしている。(7月19日付読売新聞)これに小子化という傾向を加えて検討すれば、若年層の一人あたりの負担増と、その帰結として年金制度の崩壊というシナリオを描くのには、それ程高度な想像力を要しまい。将来に対する漠たる不安が、貯蓄率を押し上げ、消費に向かわず、現在の不況を長引かせている原因の1つともなっているのである。今後は、医者にかからずに済む健康な体作りという問題が浮上するのは間違いない。それはまたスポーツのソーシャルパフォーマンスを高める機会でもあるのだ。 (3)犯罪抑止 またスポーツは犯罪発生の抑止力にもなるのではないだろうか。現在犯罪と脳の関係の研究が進んでいる。例えば前頭葉の一部に損傷があったり、ある種のホルモンや化学物質(テストステロンやセロトニン)の分泌が少ない者は善悪の区別がつきにくかったり、悪行が露見することに対する恐怖が湧かなかったりして、常習犯罪者になりやすいというデータがある。(注16) 一種の遺伝子決定論的な議論にも結びつきやすいので、慎重な対応が必要ではあろう。「生まれつきの札付きはいるのか。」それとも「環境が人を犯罪者に仕立てるのか」等という議論をするつもりはない。しかし恐らく答えは「両方が関与している」のである。例えば貧困についても、それ自体が犯罪の原因ではない。「性格、神経化学、遺伝子、ホルモンを通じて、犯罪寄りに傾いている精神を貧困が後押しして、拍車をかけているのだ。」但し「犯罪者への道を歩いたと思われる者は、持っているカードの手が非犯罪者と違うことが最新の研究でわかっている。」(注17) 麻薬常習者を生んだり、常習の犯罪者が出現するのは社会的環境だけではなく、脳やホルモンや遺伝子が多分な影響を与えていることは否めないようだ。そこで脳をいじることで犯罪の発生を抑制することが実際に行われている。映画「カッコーの巣の上で」のロボトミー手術を持ち出すまでもなく、これは有効ではあろうが同時に大変恐ろしい発想ではある。しかし乍らある種の凶悪犯罪が社会不安を起こしたり、その犯人を検挙するために膨大なコストがかかるのも事実なのだ。そこで確かに事前の抑止のための手だてが、真剣に検討されるだろうこともまた想像に難くない。 翻って、身体活動と脳の関係を考えてみよう。なるほど通常脳は身体の活動に指令を与える立場にある。しかしこの関係が可逆的なことも我々は経験的に知っている。例えば指先に刺激を与えることによって脳の老化防止が図ることが可能だとし、老人に麻雀を進めたりするのである。であれば、遺伝的あるいは後天的に獲得した何らかの脳内障害を、薬物に寄る化学治療や外科手術によらず、スポーツという身体活動である程度解消できるのではないだろうか。また少なくとも年齢に関係なく、様々な抑圧から生ずるいらいらを解消するのには、スポーツが最も手軽で有効なのも我々は経験的に知っている。それも犯罪の発生を抑止する効果があると思われる。スポーツと精神的ストレスやホルモンバランスの関係等は、専門家の今後の研究に期待するところが大きい。 もっとも危機意識の低い日本という社会では「危機管理」という認識も未発達なため、「抑止力」を評価する術も未開拓である。つまり「起こるかもしれない事」に対するイマジネーションも乏しく、当然「起こらなかった事」に対する評価もできない訳だ。従って問題への対処は常に「起こった事」に対する事後的なものが中心になってしまうことになる。事故が起こり死人が出るまではガードレールを作らないし、逆にガードレールを作るためにはひたすら事故の発生を待つことになる。だが、死人が出る前にガードレールを作っておいた方が賢明なことは赤子にでも分かる理屈であろう。つまり危機が顕在化する前に、危機の発生を抑止することの方が賢明だし、コストも圧倒的に安くなるはずだ。この点あらゆる分野において、今日深刻な危機の発生する危険性が高くなっている。(原発問題、環境問題、環境ホルモン問題、核の拡散問題、等)危機管理を考える上で「抑止」の発想を持つ必要性が高くなろう。そのためにはまた抑止の評価方法が開発されねばならなくなるであろう。 (4)経済 更にスポーツは経済的な側面でも一定の役割を果たす事が可能なのではないだろうか。現在日本の経済が陥っている深刻な(構造的)下降は、もちろん基本的にはバブルの後遺症としての不良債権が原因ではあるが、国民の心理的な側面も大きく与っていると推測される。識者達の意見を総合すると心理的な側面も2つに大別されよう。 即ち「将来の不安による消費控え」がその第1。他の1つは飽食の時代となり、生活の基本的な物資を既に獲得した事と、魅力ある新商品が登場しなくなっていることに起因する消費意欲の減退。いずれにせよ消費控えが経済の循環に負のエネルギーを与えているという点である。 ではスポーツはこの2点を解消する事に対し、契機を与え得るであろうか。 即断は危険ではあろうが大きな可能性を感じる。例えば97年のW杯サッカーのアジア予選の最終戦、日本対イラン戦を例にとって考えてみる。遠くマレーシアのジョホールバルまで日本から約8千人が駆けつけた。このツアーは10万円前後という決して単価の安くない商品であった。しかも開催地が一週間前に決定したということにも関わらず、約8千人が一生懸命情報を収集しながら、苦労して渡航したのである。つまり魅力ある商品があれば、金を払う事を厭わないし、スポーツはその魅力を与え得るという事実を証明しているのではないだろうか。 因みにここで50%近くの驚くべき視聴率をマークし、その後のメディアに大きな影響を与えた事は、W杯関連で60冊以上の本が出版されたり、昨今のTV番組の「W杯特集」の多さからも明らかである。またW杯関連グッズの氾濫は今更言及する必要はないだろう。或いは、今夏代表チームの応援のため渡仏した日本人の数を想起されたい。 (5)地域振興 最後に93年のJリーグ発足前後からすっかり一般的になった観のある「スポーツによる地域振興」という点について述べておこう。 もちろんスポーツにより地域振興が達成されるなら、それは立派なスポーツのソーシャルパフォーマンスだと言えよう。但しここで言われている「地域振興」或いは「地域の活性化」とは何を意味するのか、曖昧なまま安易にキャッチフレーズ的に使われていると感じるのは筆者だけであろうか。 例えば「長野五輪」を考えてみよう。招致活動の時点から実施に至るまで「五輪開催による長野地域の活性化」というテーマは一貫して掲げられていた。では大会終了後にそのテーマがどこまで達成されたのかという調査と検討はなされただろうか。大会直後に会った関係者からは、閉会式のサマランチIOC会長の賛辞を大会成功の証としてあげる声が多かった。あるいは船木選手や原田選手の活躍が大会を盛り上げたことを大会成功の根拠にあげた人も少なくない。だがこれらの見方は、実はスポーツの側からの評価でしかなく、社会的な評価、つまりソーシャルパフォーマンスという見地からの成果は明らかになっていないのである。ここで我々は国際スポーツ大会招致の際に良く使われる「大会開催による地域の振興」なるテーマの達成度を具体的に測るメルクマール(モノサシ)が、欠如していることに思い至るのである。測る術がなければ評価はできまい。事後の評価があやふやでは、経験がノウハウとして蓄積される事もないだろう。あれだけの時間と金とエネルギーを費やした「長野五輪」は、確かに「原田の涙」という感激のシーンと共に美しい記憶にはなるだろう。しかし現実に得たノウハウがたかだか大会運営のためのもの程度でしかないとすれば、少々物足りないものを覚えずにはいられない。スポーツによって達成可能な「地域の振興」とは、具体的に何を指していたのか、またその目的はどの程度達成されたのか、を調査しておく事を提案したい。そしてそれが今後の国際スポーツ大会開催する際、必ず掲げられるであろう「地域の振興」に関して一つの目安として結実することを切に望みたい。そこで提出される調査結果が元になり、一つの目安が与えられ、さらにそれが洗練されていくことで、国際スポーツ大会開催のソーシャルパフォーマンスを測るメルクマールが確立される事になるだろう。実際この具体的な達成度を測るメルクマールがなければ、大会開催に関するアカウンタビリティーも問えるはずはないのである。
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