スポーツの Social Performance を問う 7/9
広瀬 一郎

   # スポーツと運動の関係について


人間とは言うまでもなく社会的な動物である。社会が存在せずには人間も存在しない。言い換えれば社会の中で自分がしかるべき位置にいるという感覚なしには生きていけない動物なのである。それを「生き甲斐」と言ったり、「アイデンティティ」と言ったりさまざまな言い方があろうが、要は社会の中における自分の存在を実感することが生きる上で必要不可欠なのである。ところが現代はこの感覚を個人が実感することは大変困難になってしまっている。社会が発展し、文明が高度化することが、逆に個人と社会との関係を希薄にするということは考えてみれば大変皮肉な話であるが、それが実態なのである。そしてそれが人々を不安にし、多くの問題を生んでいる。(注14)

特に今日の高度情報化という流れは益々個人の実感を脆弱なものにしていると言っていいだろう。そこで必要となるのは個人と社会の関係を実感させる機会、あるいは装置であろう。スポーツはその機会を提供する装置だと捕らえることが可能だ。それは近代スポーツというフィクションによって成立したという出自を持ちながら、少なくとも今日でもなおスポーツが公共的なものであるというフィクションがリアリティ(現実感)を伴って成立しているからだ。もちろんフィクションである以上、永久的で無謬的なものではない。逆に「スポーツは永遠に公共的だ」などと考えれば、それは宗教と同じ存在に堕してしまうだろう。またスポーツだけが公共的な場を提供するのではないことも自明の理である。

例えば「環境問題」も物理的に人体や環境に被害が出ていることに起因しているのは事実ではあるが、今日のこの問題についての盛り上がり方には何か「公共的なもの」に個人として関与したいという個々のモチベーションが大いに寄与しているのではないかと推察する。自分が社会に対して何がしかの寄与をしているという自覚は個人のアイデンティティの安定に繋がる。それがどんなに小さなことであろうと、またどのような事柄であろうと、個人としての存在を実感してできることは重要なのである。ことの是非は別にして、戦争当事国の国民にはあまりアイデンティティの揺らぎは見られなかったり、またファシズムは国家が個人に対して徹底的に介入することにより、一時的にせよ自国の国民に対して強力なアイデンティティを与えているのは、多くの社会学者が指摘するところである。(注15)

話を元に戻そう。現代のスポーツという概念の定義に関して、筆者は前著「メディアスポーツ」において

(今日の)スポーツ=「運動」+「競技」+「伝達」

と提示した。そして英語でもスポーツとエクササイズやフィットネスとは区別されていることをその傍証とした。その後これに対して反論を頂いたこともないし、現在でも概ねこの定義は妥当であると考えているが、確かにこの定義に馴染まない種目が存在する点、認めねばなるまい。それは「登山」に代表される自然克服型のスポーツである。

「登山」は今更断るまでもなく、他者と競うことや他者に見物される事を前提としていない。つまり「競技性」と「伝達性」が欠如しているのである。といって。エクササイズやフィットネスとは明らかに一線を画す。自分の健康増進や体調を整えるためにエベレストに挑む者はいまい。飽くまで自分に対し困難な条件を課し、それを克服することを喜びとし目的とする困難克服型のスポーツは、他者(性)を必要としない身体活動である。他者を必要としないため、競技ルールも必要としない。それでも「登山」をスポーツと呼ぶべきなのか。確かにスポーツの出自は「気晴らし」としての身体活動であるから、そういう意味では立派なスポーツなのではあろうが、それでもそれをスポーツと呼ぶのはスポーツ概念の統合を損ね、今日スポーツに生じている諸問題の解決を遠ざけてしまうような気がするのだが、如何であろうか。競技スポーツと気晴らしスポーツという区別を便宜的にするのは可能ではあるが、それではスポーツとは単なる運動という意味になってしまう。やはりエクササイズを運動と訳し、スポーツは日本語でもスポーツとする。そして「登山」を野外エクササイズの一つと解するのが一番スッキリするのではないだろうか。識者のご意見を伺いたいものだ。

つづく