スポーツの Social Performance を問う | 6/9 | |
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広瀬 一郎 | ||
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# スポーツマンシップと学校体育
こうしてみると学校体育として始まった日本のスポーツの歴史も案外正統的な受容の仕方だったのかもしれない。ただし、問題があったとすれば、その様式のみを受け入れ、肝心な精神的バックボーン、言い替えれば文化的な背景をほとんど無視してしまったということだろう。(注10) 小学校から始まる今日の日本の学校体育の中で、スポーツが本来目的とした徳目の修養がどのようにプログラムされているだろうか。早く走れと言われたり、高く飛べと言われたりすることがある。あるいは皆に合わせて手足を動かせという指導は何度となく繰り返し実施される。しかしルールを遵守することの重要性や、フェアプレーや、相手を思いやることの必要性など、人間の尊厳についての理解に繋がる精神的な徳目を体育の授業で授かった記憶はあまりない。これらの徳目が総称してスポーツマンシップと呼ばれているものだ。つまりスポーツマンシップの教育が日本では欠落しているのである。にも関わらず西欧の物真似をしスポーツマンであることが一般社会で当然のように称揚される傾向にあること、これが現実なのだ。 冗談ではない。早く走ることや、高く飛ぶことや、遠くへ飛ばすことがスポーツマンシップの必須要素なのであるはずがない。それらはスポーツマンシップを習得する上で付随して身につく技術なのである。もちろんそれを1つの目的とする事が悪いとは言わない。だがスポーツマンシップを伴わない運動能力の高い人間を、我々は今後もスポーツマンと呼び続けるのだろうか。(注11) 例えばここで国語辞典を開いてスポーツマンの意味を調べると「運動競技に秀でた人」等と書いてある。一方手元のオクスフォード英英辞典で同じくスポーツマンを引くと、最初に「Good fellow」と記されている。彼我の差はこれだけ歴然としているのである。スポーツマンシップとは決して大学の文学部哲学科で初めて学ぶことではない。「Good fellow」になるために幼少時に身につける修養徳目なのである。これはまた決して学校だけで教わることでもない。スポーツに携わる全ての人間に共通した課題なのである。無論この点を無視して日本に「スポーツ文化」などという代物が成立するはずもない。 Sports−manがGood fellow(いい奴)という認識が一般に成立するためには、スポーツが少なくとも「善(Good)」き事であるという前提がなければならない。近代社会で「善」であるという評価を得ているということは、スポーツが近代社会において社会的要請に応えているという現実に根差しているということになろう。繰り返しになるが、スポーツは近代の合理性と産業主義を体現したものとして、理念(目的)に向かって努力するという近代の精神を啓蒙する装置として機能し続けてきた存在である。啓蒙的であるという事は教育的であり、かつコミュニケーションを必然的に伴う。スポーツはその誕生時から見せるものとして、語られるものとして、言い換えればソフトとしてメディアとして誠に生産的な存在として有り続けてきた。それが今日スポーツが世界的にかくも普及している所以だと考えていいだろう。 とは言えスポーツの非生産的な側面だと言われているゲーム性や遊戯性を否定するものではないし、たしかにスポーツに仕事と同様な生産性を求めることにも違和感はある。更に学校教育の中で徳目の修養などと言い始めれば必ず一部から戦前の軍事教育を引き合いに出し、国家主義に繋がる等の懸念を唱える向きも出てこよう。しかしそれでは問題がいつまで経っても解決に向かわない。スポーツが人間修養の全てを担うべきだというつもりはないが、スポーツでしか学べないこと、それも肉体という物理的(フィジカル)なことに限らず精神的(メタフィジカル)な事柄も存在するのは確かなのだ。 スポーツが社会に対して提供できること、それをスポーツのソーシャル・パフォーマンスと呼ぶことをここで提案しよう。それはいろいろな分野に亘って標榜し得るだろうが、精神的なもの、それも現在の日本においては少年教育に果たす役割が大変大きいと筆者は考えている。如何なる社会においても、社会を構成する上で何がしかの倫理は必要である。そしてニーチェの指摘によれば、あらゆる社会において倫理の基盤とは、何よりもまず自分の生を肯定する事から始まる。現代の複雑化した社会の中で、人間の生に関する直截的な問い直しの契機を与える機会を提供し得る場として、スポーツは大変貴重なのである。(注12) しかしまたこの点の自覚がスポーツに携わる側にあるのかと問えば、誠にお寒い現状が眼前に浮かんで来るのではないだろうか。 翻ってヨーロッパや米国等のスポーツ先進国を眺めれば、スポーツマンシップに関して既に上述したような点は議論にも値しない常識となっている。またそれがスポーツが文化となっている証だとも言えよう。スポーツという装置を通じ教師が生徒に、地域が児童に、親が子に、人間として身につけるべき基本的な価値観を伝えていくのだ。それがサッカーであったり、野球であったり、競技種目は変わっても共通する点なのだ。価値観などというと、なにやら空恐ろしい崇高なもののように聞こえるかもしれないが、なにが大事なのか、なにを大事にしてきたのかという想いの共有されたものと考えればよい。その中には共同体が共有する記憶、つまり伝説もあるだろう。あるスポーツが民族と国家の価値観をそのまま体現しているケースもあるだろう。野球は言うまでもなくアメリカという国家の価値観を体現したものだ。(注13) わが国日本ではどうだろう。相撲を語りながら礼節が語られているだろうか。高校野球では忍耐、克己、努力等は教えられているようだが、個人的な向上をはかること以外に他人とか社会という他者との関係については問題にされているだろうか。サッカーでは「Jリーグ100年構想」というものが発表されており、サッカーによって地域に貢献することが謳われている。なるほど、Jリーグのチーム自体地域との結びつきを前面に押し出しているが実態はどうであろうか。スポーツ施設の拡充、提供という物理的な目標はともかく、サッカーを通じて地域の共同体に人格の優れた人材を提供しているだろうか。ジュニアチームの練習の時、指導者はスポーツマンシップを教えているだろうか。学校でいじめ等の問題が起こった時、いじめられている子を助けたり、いじめを阻止しようと立ち上がったりする子はスポーツを通じて育っているだろうか。地域の環境問題を解消するために立ち上がったゴミ拾いのボランティア活動に、スポーツマンシップを教えられた子供たちはどれほどたくさん参加しているだろうか。これらのことが現実化して日本中で見られる光景となった時、スポーツが日本の文化の重要な一翼を占めていることに異論を唱えるものはいなくなるだろう。 今、スポーツ関係者に求められていることは実はそういう類のことなのである。それに応えるためにはスポーツ関係者各自が哲学を持っていなければなるまい。哲学を持たないと、例えばスポーツくじ導入に当たってそこで得られるであろうスポーツのための資金の用途として「次のオリンピックで金メダルの数を増やします」などということが、あたかも真っ当な意見であるようにスポーツ関係者から表明されてしまうのである。一般の人間はそのやり取りで日本のスポーツ界における哲学の不在を再確認してしまったのだ。日本のスポーツが文化的定着を進める千載一遇の機会を逸したままスポーツくじの導入の法案は議会を通過してしまった。この事実はスポーツ関係者にとって喜ぶべきことなのだろうか。幸いスポーツくじが実際に導入されるまでまだ数年の間がある。スポーツの側がスポーツの社会的価値についての見解、つまり哲学を示しその現実的な実現に向けてのプログラムを明らかにし、くじによって得られる資金がそのために必要であることを導入までに明確にすべきであろう。まず自らに問うことから始めるべし。「スポーツとは社会にとって善なのか?、善だとしたら何故なのか?」と。
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