スポーツの Social Performance を問う 4/9
広瀬 一郎

   # アマチュアリズムというイデオロギー


 第2の点、スポーツの社会的な正統性の根拠については、「アマチュアリズム」という言葉が長い間象徴的にその役割を担ってきた。この概念にも2つの側面が存在する。1つは騎士道精神の流れを汲む精神性に関する部分であり、具体的には「フェアプレー」とか「友愛の精神」等として表れる。他方はプロフェッショナルに対して語られるものだ。両者とも出自は等しく、ある階級の哲学として発生したものだが、前者が今日も妥当性を維持し得ているのに対して、後者は今や存在理由を失いつつあるのが現実だ。確かにプロフェッショナルに対応するものとしての考え方は、余暇を享受できる特権階級がスポーツを独占しようという意図を持ちながら、それを隠蔽するため「アマチュアリズム」という言葉をイデオロギーとして取り込んだという側面は否定できない。したがってこの考え方に拘泥し維持しようとすると、どうしても現状と遊離した分かりにくい議論に流れる傾向にある。この点ワールドカップの創始者として知られているジュール・リメ、国際サッカー連盟第三代会長は今世紀前半に早くも指摘している。

リメはアマチュアについて熱心に語る関係者を「スポーツ道学者」と呼び「広範で民主的なスポーツの世界の中に、一種の国家内国家を作るため、つまり閉鎖的でやや尊大な少数独裁制の範囲を限定するためにアマチュアという言葉を使う。」(リメ、1986)と喝破する。更に「アマチュアという言葉はスポーツ用語に導入されるとともにその言葉自体の意味が変わってきている。」(リメ、1986)が「本来の意味ではアマチュアはそれに付加した言葉によってそれぞれの分野への好みを意味するだけのものである。」(リメ、1986)としアマチュアを資格として取り扱い、その内容について規定しようという議論を「こうした議論は、まったくむなしいもので、重要なのはスポーツ、特にサッカーのもつ社会的価値、人間的価値である。」(リメ、1986)と言い切っている。またアマチュアリズムはアマチュアの派生語であるが、本来の意味を逸脱しある階級のイデオロギーとして使われているため議論が非常に分かりにくくなっており、少なくともサッカーという競技発展のためにはあまり有用ではない、と見抜いていたのだ。70年代になってアマチュアリズムがなし崩しに壊れていき、74年にアマチュアリズムの権化であったIOCのオリンピック憲章から出場資格として遵守され続けていたその字句が抹消されるのだが、それに先立つこと30年も前にリメ氏は既にそのイデオロギー性を指摘していたのである。(注4)

因みに1914年に開かれたFIFA総会において、スイス代表から提出された「オリンピックのサッカー競技をアマチュアの世界選手権として認める」という動議が採択された。しかし各国協会によりアマチュアの解釈がまちまちであったため、リメ氏は「審査も定義も難しいアマチュアリズムの束縛から開放された大会」として、ワールドカップ創設の必要性をますます強く感ずるようになる。(注5)

私見ではあるが、アマチュアをオリンピックの参加資格として規定してしまったため、プロフェッショナルに対立したものとして、またプロフェッショナルと同様に外部から判断できる属性として理解されるようになってしまい、それがこのコトバを混乱させるに至った最大の原因であるように思う。アマチュアとは精神的な姿勢や考え方に関するコトバではないだろうか?スポーツを愛し敬う事を第一義に考えるのであれば、プロとして収入を得ていようが立派なアマチュアであるとは考えられないだろうか。むしろアマチュアリズムに対立する概念は、コマーシャリズムと捉えるべきではないだろうか。アマチュアの心を持ったプロは徒なコマーシャリズム(商業化)を拒否するのは当然な事であり、まさにここでアマチュアリズムとコマーシャリズムのバランスが求められるのである。

つづく