スポーツの Social Performance を問う | 3/9 | |
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広瀬 一郎 | ||
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# 近代スポーツと産業主義
さてそこで近代スポーツ、つまり我々の知る「スポーツ」なるものの考察に移るが、クリケットを唯一の例外として、現在行われている競技種目のほとんどは19世紀の後半から20世紀の初頭にかけて現在の形になっている。統一されたルールとかゲームを管轄する団体がこの時期に集中的に形成されているのである。 19世紀に近代スポーツという概念が形成される上で最も重要な役割を果たしたと考えられる要素は、大きく分けると2つある。第一に「近代」自身が当初から孕んでいたパラダイムに基づくものと、第2にスポーツがそのパラダイムの中で認知を受け正当化されるために自ら標榜した価値観である。前者は近代のパラダイムの中で「合理主義」という思想や「国民国家」という観念に集約され得ると考える。合理主義に裏打ちされた「科学」という思想は、産業育成、殖産興業を善とし、それを目的とした国民国家というシステムを社会の基本単位と位置付けることになる。もっとも西洋において「国民国家」の成立には、「合理主義」と同時にそれと相反する「ロマン主義」という思潮が大いに役割を果たしている。この事実は、スポーツ概念の成立にとってもまた大きな影響を及ぼしている。ロマン主義はもちろん19世紀における芸術、文学活動における1つの潮流なのだが、それが政治的なものに流用されると民族的な考え方に結びつき、往々にして国民国家のイデオロギーとして採用される。特にそれはドイツに顕著であった。(フィヒテとワグナーの活動はその代表例。)そのドイツにフランスは独仏戦争で惨敗する。そしてグレコローマンの正統な継承者としてのフランスの自負はこなごなになった。戦後、敗戦の理由を兵士の基礎体力に求める声が力を得、国民の体力向上を目的として体育教育が全国的に展開される。仏文学者の鹿島(1992)は、「普仏戦争のあと、最初に体育教育の必要性を説いて政府に必修科目に取り入れるように要請したのは、医者と衛生学者だった。」「なかでも“獲得形質は遺伝する”とするラマルクの進化論は、彼らの主張する体育教育導入の大きな根拠になった。すなわち、思春期の若者を体系的な教育法に基づいて肉知的に鍛練し、健全な成長を促してやることができれば、そこで獲得された形質は遺伝するから、次世代においては、短躯、発育不全、体格異常など民族退化の兆候は減少し、民族再生への道を再び歩むことができると考えたのである。」と述べている。(注3) フランスの体育振興という点で忘れてならないのは、かのピエール・ド・クーベルタン男爵、陸場競技の復活者にして五輪の生みの親である。彼は熱烈な民族主義者であり所謂右翼思想の持ち主だった。女性のオリンピック参加に最後まで抵抗したのもクーベルタン男爵である。その晩年は彼の考えの最大の理解者にして「オリンピック競技大会」を国威発揚の場として明確に位置付け、それを実践し実証した最初の人ヒトラー総統の庇護の元、ひっそりと暮らしていたのは象徴的な話である。いずれにせよクーベルタンが単なる運動競技の国際大会創設を「古代オリンピックの復活」と位置づけたことが、成功を収めたキーポイントであり、それはこの時期の西欧世界におけるロマン主義の流行とも無関係ではありえない。鹿島(1992)によれば「クーベルタンの勝利は、ヘレニズム文化によって形成されたヨーロッパ社会をスポーツという形で再統合するのに、オリンピックというヘレニズムの象徴を持ち出したという点で、まぎれもない理念の勝利だった」ということになる。もっともロマン主義がスポーツの普及に寄与したのは、この近代オリンピックの成立という点のみ例外であったようだ。鹿島(1992)は、「ロマン主義は19世紀の後半のフランスでは、肉体の行使を蔑む傾向に働き、むしろスポーツの普及振興にマイナスに作用した」とも指摘している。 ところでクーベルタンが金・銀・銅メダル授与というアイデアをパリ万博で得たというのも有名な話である。そしてこの万博こそその後の世界の産業主義化の先駆けと位置付けられるものだったのである。「近代」の「合理主義」は、現実には「科学万能」による「産業主義」として顕れる。拡大・発展・向上を是とし、結果を求め努力すること。努力は報われ、努力を怠る者は結局敗者となる。そして最も工夫と努力を重ねた者が勝者となる。これらは全て近代の合理的産業主義の基本的考え方であると同時に「近代スポーツ」のそれでもある。 その考え方が最も意図的に現れたのは1855年に開かれたパリ万博だった。この万博は産業ユートピアの実現というサン=シモン主義に裏打ちされ、ナポレオン3世の全面的支援のもとに開かれ大成功を収めた。注目すべきはその名称で、1851年に開かれた第1回のロンドン万博は「グレート・エキジビョン(大きな展示会)」だったのが、パリ博では「ユニバーサル・エクスポジション(万国博覧会)」となって普遍化され、世界化する方向が明確化されている。つまり近代スポーツも万博も英国で生まれたものが、一度「フランスという場」を通る事によって普遍化=世界化のスタートを切ったのである。そして歴史的にも事実この両者は、近代の産業主義という考え方と価値観を世界の人々に植え付ける視認性の高い具体的装置として作用してきたのだ。 実際英国やドイツではスポーツを専ら自国の繁栄に繋げようとし実績をあげていたのに対し、クーベルタンはフランス流の普遍主義の方向を意識的に目指していたようだ。 近代のパラダイム構造の一つに「理念」と「啓蒙」というものがある。この二者はパースペクティブという関係で結ばれている。「理念」はある時は「自由」であり、「平等」であり、「平和」であり、「民主主義」であり、「進歩」であり、「独立」であった。そして「理念」の実現のために「啓蒙」という運動が要求される。今日あらゆる活動は啓蒙的であらざるを得ない。啓蒙はまたあらゆる類のコミュニケーションの発達を当然促すことになる。「理念」の実現という目標を設定し、そこへ至る方向と距離感がパースペクティブと呼ばれる。啓蒙を担う者と、啓蒙の対象となる者の両者が市民と呼ばれる者達である。近代の成立とともにその体裁を整えて行ったスポーツもこの埒外に置かれるものではない。「理念」を持ち、その実現に向かう啓蒙的な運動がビルトインされているのである。五輪の開会式におけるサマランチ会長のスピーチから小は小学校の来賓挨拶まで、あらゆる場面でスポーツが啓蒙的であることが示されているではないか。 愛国主義と国家主義的な国民体育の推進が直接的にスポーツの普及を促したものなら、合理主義による努力と結果の因果律的解釈はその後のスポーツ概念を規定し、その概念を社会に定着させる大きな推進力を与えたのである。
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