スポーツの Social Performance を問う 1/9
広瀬 一郎

   #「スポーツとは何か?」


 今日テレビでも新聞でもスポーツを取り上げない日はなく、身の回りを見回しても街にはスポーツがいたるところに溢れている。スポーツは我々にとって誠に身近な存在だが、身近であるにも関わらず必ずしも然るべき理解をされているとは言い難い。

スポーツに関して、「明治時代以来、スポーツが体育と混同して考えられ、『スポーツとは何か?』という問いに対する正しい認識が根づかなかったためともいえる。スポーツとは誰もが自由に参加し楽しむ事によってつくられる人間の遊びの文化である。」(玉木、1993)という指摘がある。学校体育の関係者にも言い分はあるだろうが、現在この見方は支持を受けるひとつの考え方となっている。もっともこの指摘だけではスポーツは本来どういう概念なのか明確ではない。スポーツに関していくどとなく繰り広げられる議論が客観的にみてどうも論者の間で噛み合っていないようにみえるのは、この一番基本的な「スポーツとは何か?」という点がおざなりなままであることに起因しているとも考えられよう。

スポーツを論ずる場合に、議論を混乱させる原因には「スポーツ概念」の不統一がある。特に「近代スポーツ」と表現される身体活動に関する認識のバラつきは、事態を深刻なものにしている。スポーツを語る時オリンピックを筆頭に往々にしてギリシャ・ローマの古代にまで遡り、系統学的な説明をしがちである。

「近代スポーツ」という呼び名は、「古代スポーツ」なるものの存在を前提にその対比の中で規定しようという試みであり、そこでは「古代スポーツ」との相違という点よりむしろ「スポーツ」としての継続性や共通性を謳い、系統的な正統性を標榜することに力点が置かれているものだ。「近代スポーツ」なる概念の歴史的イデオロギー性を暴露することは本旨ではないが、そのイデオロギー性を無視して「近代スポーツ」や「アマチュアリズム」、「フェアプレー」の精神等を所与の無謬なるものとすると、現在のスポーツにおける問題の所在もその処方も見えにくくなる。例えば「近代の終焉」だとか「ポストモダン」だとか言われている現在の状況の中で今後我々の社会が脱近代化を果たしていくとしたら、我々はその社会に適応する「スポーツ」という存在にいかなる名をつけることになるのだろうか。我々はそれを「脱近代スポーツ」とでも呼ぶのだろうか。これは決して言葉遊びなどではなく、現在スポーツで我々が直面している諸問題の多くは、前述のように「スポーツ概念」の拡散から生じており、それらは実は社会の脱近代の問題と密接な関係を持っていると思われる。近代スポーツが近代のロジックの体現者である以上そのロジックが破綻を来している現状で、むしろスポーツの中に現れている問題を見ることによって、世界の脱近代化がより明確に見えると指摘する声さえある。(注1) 「近代スポーツ」なるものが「古代スポーツ」の正統な継承者であるとして歴史的な正統性を誇り、したがって「近代スポーツ」こそがスポーツのあるべき姿であるかのような言説にはもちろんある程度の歴史的な根拠は認めざるを得ないであろうが、それはあくまでもある1つの歴史的な見方でしかなく、それ以上でも以下でもない。今重要なのは歴史的な必然性を認めつつ、その必然性をこそ明確にすることであろう。さすれば必然ならしめている社会的条件が変化した時、もはや「近代スポーツ」なるものに拘泥する必要もないことが明らかになるだろう。

つづく