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the deconstruKction of right このページをアンテナに追加

2011-06-25

ある思考実験――「批評家の責任」とは


 例えば、僕がナチスの台頭期の少し前、誰もこんな集団が政権をとるなんて思いもしていないときに、近くにいたとする。そこにいるカリスマのヒトラーは、画家として失敗し、そして支離滅裂な言動を行い、そして信者を獲得し、大きなうねりとなった。

 僕が、そこにいたとする。そして、その理論や行動が、いかにインチキで、どんなに問題があることか気づいてしまったとする。そこで、僕が批判を行う。すると、ヒトラーは心が弱いので、自殺を仄めかす。

 ここで追求をやめるのは、倫理的か? 相手が精神の病かもしれないと思ったときに攻撃をやめるのは、倫理的か? 僕の心は、当然同情に動く。しかし、ここで見逃すとどうなるのか? 「21世紀に生きている僕」はその帰結が分かっている。だが、その当時の「僕」は将来のことなんてわからないだろう。予感はあるかもしれないが、確定した未来は知らない。

 「21世紀の僕」は、そこで追い込んで殺せば、巨大な人類の犯罪を防げたことを知っている。しかし、「20世紀の(仮想のドイツ人の)僕」は、それを知らない。そして、それをすると、それは起こらない。彼は、友人を言葉で自殺に追い込んだ人間として糾弾され、自責の念に駆られるだろう。

 ……この問題は、キングが原作でクローネンバーグが映画化した『デッド・ゾーン』で提出されている問題であった。少し違うが、『マイノリティ・レポート』もこの問題の派生系の部分がある。


 さて、批評家は「何」に対して責任を取るべきなのだろうか? そこで自分が考えたこと、批判すべきと思ったこと、これがのさばるととんでもないことになると思ったことを、政治や経済や友情を犠牲にしても追求することは、この場合なら「人類の正義」に適うだろう。だが、それは本人の妄想かもしれない。彼は単なるルサンチマンに満ちた加害者かもしれない。

 例えば、批判しようとしている相手が心の病かもしれなく、そしてそれを信じている人々もそのような人々に見えたとき、それを攻撃するのは倫理に適うのか?

 そこで、「日本でもっとも絵画についてわかっている」ととある若手美術評論家に評されたという岡崎乾二郎さんの意見を伺うことにすることにした。

文化の感染というのはこうして、まさにマガイモノ的に増殖していくというところにあって、偽者のなかから本物を見抜くだけでは批評にならない。批評が分析し解体すべきことは、そのマガイモノとして増殖しつづける、その多産な感染力そのものでしょう。だからピカソヒッチコックの分析をすることは、七〇年代の日本で言えば「フーテン寅さん」の分析をすることと同じですね。寅さんのことを分析しないでドイツあたりのロード・ムーヴィの分析をしても、寅さんがまき散らしていた風邪には全然効かない(『必読書150』p27-28)

 「日本でもっとも絵画についてわかっている」とまで若手美術評論家に評されるほどの方が仰っているのだから、「マガイモノとして増殖しつづける、その多産な感染力」を「分析し解体」することは、まさに批評の責任だろう。世俗的なことや人間関係ではなく、批判すべきであると認識し、未来に訪れるかもしれない悪い帰結を避けるために、全力で批判を行うこと。それこそが、批評の責任であると、僕はここで確認した。

 だから、僕はマガイモノとそれを信仰する人たちに対し、「感染力」を「分析し解体」することを続けたい。それが、僕の批評家としての倫理であり、責任だろう。




 6月26日追記:こう書いて、この文章が皮肉とあてこすりとアイロニーを駆使した、正々堂々としていない文章であることに恥ずかしく思った。「感染力」を「分析し解体」すると宣言しているのは、カオス*ラウンジとそのフォロワーたち、影響を受けている若い方々に対してです。

 そして、ネット上だけではなく、紙面で正々堂々と論考を書いて論戦をすべきだ、というご意見を頂きました。しかし、それは匿名コミュニティやその周辺の騒動を簒奪して僕が有名になり原稿料を獲得するという、自分が批判しているのと同じことになるのではないか? という理由で躊躇していました。しかし、紙面で公にすることによってこの問題が伝わる層や、ネットではきちんと相手にしない・目に入らないという人がいる以上、そうすることが僕の責任であると思ってきました。どこか公の媒体で3〜40枚ぐらいの論考を書かせていただけるのなら、是非やらせていただけたらと思います。真正面から、やります。原稿料は、いりません。