番組ダイアログ「北島三郎」
福田:今年、もう芸能生活48年
北島:はい、なんか、きましたね
福田:あっという間ですか、それともやっぱり長くつらい?
北島:うーん、とても長くて、気がつけばとても短くて、うーん、まだやりたりないこともいっぱいあったりしながら。でも一年一年を振り返ると、やっぱり40何年というのは長いですよね、
福田:そうですねホントに
北島:その年その年の足跡みたいなもんも、なんかあるのかなあなんて、そんなのも。それもまあ、ここまで来るための、これからまだいくための一つの足跡みたいなもんかな、だと思いますね。
福田:48年と一口で言っても同じことをずっとされてるわけじゃないですもんね
北島:そうですね、歌うことだけは変わってないんですけれども。あとやっぱり時代はどんどん変わってます。だからその流れに流されないように、あるいはうまく乗っていけるように、あるいはやっぱ僕たちの世界はなんかこう、いつもこうてっぺんに、先にこう行ってないと、なんかうしろくっついていくようだとやっぱだめなんですよね、
福田:ああそうですか
北島:うん。結構そんな気がするんですよね
福田:やっぱ二番手三番手だときびしい
北島:だめですねえ。絶えずなんか無意識のうちにライバル意識を燃やしてね、特に、まあそれは専門的になっちゃうんですけど、これは強敵だなとか、こいつは行くなとかいうのはやっぱりコイツとはいっぺんは勝負しておかなきゃとか
福田:やっぱりそういう感じはあるんですね
北島:ありますねあります
福田:今も?
北島:ありますあります。
福田:ほー。さしつかえなかれば、例えば。いまだとどんな方が
北島:いやいやいや、もうみんなそれぞれにスターになってますよね。例えば五木でも森進一でも出た当時はこうだった。
北島:もうだからある時から御三家出てきた。五木君も出てきた。西城でも郷ひろみでも出た。見てるとすごく素敵なんですよ。もう嫌いじゃないの、僕も。うん。で、若い人達のやってる姿を見るとね、ディスコとか行こうじゃないか。汗だくになって踊ってみたりね。だから先の人はあんまり僕全然意識しないんですよ。先輩は
福田:新しい人に?
北島:そうです。もう先輩は、いずれ、来れば
福田:ははは
北島:いずれ、あの、追い越せばいいじゃんかというものが
福田:かえって若い人から刺激がくると
北島:それに追い越されるのはイヤですね。
加藤: 1936年に北海道の知内町でお生まれになりましたね
北島:そうですね、はい
ふるさとは捨てました。
でも、一度も忘れたことはないです。いつもふるさとはあのまんま残ってるんです。
道もすっかり舗装されて、大きな工場もできて学校も立派になってとか。
なんかどんどん変わってるんです。でも頭の中は変わってないのは私だけです。
あそこに川がこう流れていて、あそこにこのうちがあって、
そんなふるさとの風景はそこがあって今日があります。
福田:ご実家はもともと漁師さん。
北島:漁師。はい。漁師やって漁師から、途中から漁がだめになっちゃって、親父も戦争から帰ってきて、それで漁をやめようということで、農業やって。だから私は漁師も農業も両方やってんですね。田植えもしてます。ははは
加藤:そのときの暮らしっていうのはどうでしたか?
北島:うん、だから楽じゃないですね。楽じゃなくて辛くて、だからもっと悪く言えば早く逃げ出したかったかな。ははは
北島:鐘二つなんですね。
加藤:えー
福田:カンカンカンカンとは鳴らなかったんですね
北島:あの当時は今でもこの間もやってました。カンカンカン、合格よ、というふうに鐘を鳴らすんですって、言ってるように。で、惜しかった、って惜しいっていうので、カンカンと二つなる場合と、色が違うんですね、キーの高さが。二つ鳴ったときの会話の中に、宮田さんは優しいですから、「いい声して学生さんですかお上手でしたのにねえ」なんて言われて。「あれ、宮田先生は俺みたいなのにうまいね、上手だねって。」俺はその気もあったかもしれないけど、「歌やれば歌手へ道あるかな」って。そんなのが歌手への目覚めの第一歩かなっていう気がする。
福田:お父様が結構厳しいことをおっしゃったという
北島:ええ、厳しいことというのは、やっぱり長男ですから、出て行って、自分も長男だけど、俺も漁師あんまり好きじゃなかったけど親の後を継いでやってきた。だから子供には、好きな道へ進ませてやりたいと思うけど、お前が選んだ道はなあと、こう言いながらだけど、行きなさいと。ただしお前が行ったら、うちのあとは弟が継ぐようになっちゃうと。もし東京へ出て行ってうまくいかなくて戻って帰ってきても、お前にやるものはなにもない、田んぼくれ畑くれといってもお前にはなんにもないぞと。でも、好きな道に行くんだから、行けばいいじゃないか。って言って。
まあ生意気な事を言うんですけど、その当時のふるさと、北海道、我が家を、ただ後にしたって言えばかっこいいんですが、やっぱり捨てなきゃ出られなかったんです。
加藤:1954年に上京されまして、翌年から流しの演歌師として渋谷で活動されてたということですね
福田:上京されて流しの仕事をされるようになったきっかけって
北島:これはまあ。やっぱり貧乏ですね。我が家から送ってくれるあれも大変ですし、アルバイトして自分で探してなんとかするから、あんまりお金はいらないから心配しないでと言って新聞広告に歌手募集という欄があったんです。おお、これはちょうどいいと。
これでいってどっかクラブかどっかで歌わせてもらえると。昔でいうキャバレーかどっかで。そうするとこりゃ歌の勉強になるなと思って。それで行ったわけですよ。その募集してたところへ。
新聞広告で来たんですけども、と言ったら「ああ、ごめんもう決まっちゃったんだ」っていうんですよ、「ああそうですか、ああ、じゃあ」って言って帰ろうとしたら、「チョット待って、せっかく来たんだから一回歌を聞かせてみてよ。歌ってみる?」「ああそうですか」「あがれや」って言ってあがって、八畳間のとこのオルガン弾いてくれて、で歌ったんですよ。
で、「今、音楽学校へ行ってます」と。「歌手になりたいなあと思うんですけど、生活もあるもんで」って。「じゃあ」つって「わかった。君に決めたよ」って。簡単に言うんですよ。「えっ?」って。「もういい、君に決めた。」って。「ありがとうございます」って。それであの、「月な、半月に五千円。それでその月末に五千円。」これ意味がわかんないですよね。「あの、実は流しなんだよ」って言うんですよ。「流しって裏町で歌う」「そうなんだ。」
それで渋谷の町に初めて出たのは18歳の秋です。
加藤:流しっていうのは、そのお店の中で歌うんですか?
北島:表で歌ってるんです
加藤:へー
北島:表で歌って、いって、飲んでるお客様に聞こえるように歌ってるわけです。三曲100円で。
ただ、恥ずかしかったという事しか何も残ってないです。恥ずかしくてねえ、表いっぱいいるお客様の人がうろうろしてるなか、裏町へ出ていって、なんか路地をこう下って、そうすると、当時渋谷でも70人くらいいたんです。
福田:そんないたんですか
北島:いたんです。新宿でね、150人くらいですかね。ずっとまわってるうちに、もしこんなところで、ここで学校の友達やら同級生やら、知ってる人に会ったらどうしようかなと。思った途端に「大野」って、いきなり俺の本名を呼ぶやつがいるんですよ。町歩いてですよ渋谷で。「えっ」と思って、何を言ってるんだ、誰だって後ろ向いたら、「大野だろ」って。わたし、大野っていうんですよ、ふっとみたら、これが高校の同級生なんです。
加藤:へー
北島:こっちの大学へ来て。「なんだ流しやってんのかよ」いやこのときまたすっごい恥ずかしくてね、なんにも悪いことしてないんだけど、なんかやっぱり変な見栄みたいなのがあってね、そんなこんなの渋谷の町での丸6年間。
福田:でも流しをされてるときに、今の奥様と結婚されたという。
加藤:1959年にご結婚されたんですね
北島:11月30日でした。なんにもなしで。まだ北島三郎じゃないです。なんにもない、どうして、ただのいち流しで。
北島:(流しの)相方の近所にちっちゃなアパートができた。できたとこがある。お前ちょっと聞いてみな、空いてるかもしれないぞって。もう、ほとんどいっぱいです、一間の三畳間があいてた。この三畳間を借りて、半年くらいしてから、お母さんが、うちの娘ですっていって会わせてくれた。一人でいますから、食べ物は全部外食です。洗濯も自分でやるのも、やるしかないじゃないですか。そんなの見てて、気の毒に思ってくれたんですね、あそこの母が、こんなの作ったから食べてとか、洗濯物も出せばしてあげますよって言ってくれた。その時に、僕のとこへおはぎをこれ作ったからって持ってきてくれたのが、嫁さんなんですよ。
加藤:へー
北島:やっぱりすごく嬉しかったんですよね。一人ぼっちのさみしさっていうの、里恋しさでね、もうなんかもう、いつまでも流しやってて、こんなことやってて終わっちゃうのかなっていうのが。体調崩したりなんかするときはこう、さみしくてね、そんなときに人の情のありがたさみたいなのを感じて。あるとき、「海水浴みんなで行くんですけど行きません」っていわれて、「海水パンツないんですけど」って言ったら買ってきてくれたんです。「これあるから行きましょうよ」って。んで10人ぐらいで皆で行ったんですよ。
北島:いやー、まあそのへんから始まったんでしょうね。
北島:「大丈夫、あなたが病気したらね、二年や三年あたしが食わせてあげるわよ」って。
加藤:へー
北島:その言葉ですよ。ええ。で、おれが「結婚してください。でもやっていけるかな?」って。つったときに、大丈夫よって言った言葉が、
加藤:頼もしいですよねー
北島:ねえ。ほんとに。だから、ああ、嫁にするならこういう人かなって
加藤:ははは
北島:これもねえ、やっぱり出会いといいますか。これも渋谷の裏町で、一杯飲んでたお客さんの中に、偶然いいお客さんがいてね、待ってたんです。千円くれたんですよね。千円っていったら30曲歌うわけですね、3曲100円ですから。「ありがとうございます」って一曲歌ったら色んなことを聞くんですよ。それで「明日ちょっと新橋のこういう喫茶店で待ってるから来なさい」と。「だまされてもいいから来るんだよ」と言われて行ったわけです。そこへ昨日千円くれた方が連れてきたのが船村先生です。
福田:ほー。その千円下さった方はどなただったんですか
北島:この方はコロムビアレコードの会社の、芸能部長さんだった。で、なんかその渋谷にそこそこ歌う子がいるみたいだと。ちょうど渋谷で飲むことないんだけど、このへんで飲んだら来るんじゃないかなと思って、どんなやつかなと。そのへんが嘘みたいなほんとの話なんですよねえ。それで飲んでいたところへすっと僕が入っていたんです。だから誰かがひっぱって、ちゃんと合わせてくれたのかなあ。
北島:ずっとレッスンが始まるわけですね。すると入ったばかりだから最後になります。で、後に歌手になった先輩が何人かいるんですね。で、それを、どーも先生は俺の名前を知らないんですよね。
福田:はははは。
加藤:えー。
北島:それでレッスン始まって聞かせてみろって、聞いたときに、おう、で
流しやってて、そう、うんうん、っていうのは林さんの紹介もあったし、
知ってたけど、もうひとつこう、ぴっと伝わってくるものが無いんです
冷たいんだよね。
加藤:ふふふふ。
北島:これは、俺駄目だなって。
それで一年経ち、丁度二年目になる頃ですかね。うちの先生の教えはどうなんだろ。
どうしたらまずこの先生に好かれるか、この先生がどうしたらこの俺に目を向けてくれるか、
耳を向けてくれるか、っていうのを考えたんです。
一遍試してみようと、怒られるかもしれないけど、この先生の教えはこういう教え方してるんだと。
それを俺あんまり得意じゃ
ないけれども、一遍やってみようと思ってやったんですよ。
そしたら引っかかったんです、先生が。お、お前、うまくなったね。
決してそんなに上手くなってないんだけども。ただ、先生好みの手法をしたわけですよ。
福田:要するのこぶしつけたりした形ではなくしたわけで。
北島:なくしたんですよ。要するに胸で、腹で、ハートで歌う。
それまではこぶし入れながら唸ってやってたわけですよ。全然反応無し。
それで、泣けたー、泣けたー、堪えーきれーずに、先生の好きなように
歌ったわけですよ。「おう、上手くなったね。あ、あれ、名前なんて言ったっけかな。」って感じです、
それから。一年ぐらいかかった。
北島:「ちょっと明日、朝早くスケート行くから。」「えっ!?」
「池袋のスケートセンターあるだろ?そこへスケート滑りに行こう、
君北海道だから出来るだろ?」「出来ます。」で、行ったら、9時半頃から
誰もいない、子供が何人かいるとこで、あんま上手くないんだけど、
先生滑るわけですよ。もう流しやってて朝の9時半だったら嫌になるわ
けでしょ。それで暫くしたら、バチっと言われたんです。「俺がスケート
滑りたくて言ってると思ってるのか。」「いや」
「あそこに行けば、何十年か前に俺たちが置いてきた匂いがいっぱいあるんだ。
俺たちの世界はそういうものを忘れちゃ駄目なんだ。
だからお前だってあそこに行って置いてきた大事な匂いをどっかにつけとかなきゃいかん。」
言われるとおりですよね。だから皆置いてきちゃいけないんだ。置いて
きたなと思ったらそこに行って、それをつけてスケートなんて好きで行
ってるんじゃねえ、馬鹿者って怒られちゃったんだ。
北島・加藤:はははは。
北島:だから歌の外に非常に学ぶものがあった。うちのお師匠さんからは。
はい。あの人間として、生き様として。で、12時頃になると電車なくなっちゃうんだ。
帰らなきゃいけないです。モジモジするとすぐわかる。
おう、帰れ。っていきなり言うんです。で、それからその時は言わない。
暫く経ってから、昔はな、修行するともう今日はやらないって言っても
御願いしますって言ってやったんだ。なんだ、お前、俺の所来て。時間来るとそわそわしやがって。
入んなって玄関にずっと待ってたこともあるんだぞ。そんないろんなことをあそこで学んだかな。
北島:これ歌えって。いきなりレッスン始まる前に
今日からな、今までの歌歌わなくていい。今日からこれ歌え。この歌勉強しろ。
譜面をポーンとくれたんです。見たんです。なみだ船。
「え、これ!?」「うん、これをレッスンするの」
言って、ザンザザザンザンザーン、ってレッスンが始まって。
涙の終わりの一滴。でその頃星野哲郎さんが、ちょくちょく先生のスタジオに遊びに来てた。
その星野哲郎さんが私を見て書いた詩がこの涙船の詩なんです。
デビューするきっかけとなったんですよね。
加藤:それが1962年のレコードデビューですね。
北島:生まれが北海道だから北の島で北島、いいじゃんか。
長男のがいいけども三郎でいけと。ということで。
加藤:はははは。
北島:呼びやすいということがいいということで。北島三郎という名前がついて、
会社の会議に三月でしたかな、かかって。6月の5日がデビューと決まったんです。
これがなみだ船だとばっかりだと思ってたんです、
デビューが。突如、デビュー曲はこっちにしようって。
なんですかってつって出来たのがブンガチャ節。
福田:ブンガチャ節。
北島:それで○○こっち向いておーくーれ♪キュッキュキュー、キュッキュキュー、
ボンガチャッチャ、ボンガチャッチャ調子がいいんだよね。
それでこれにしようって言って。ボーンとデビュー。北島三郎、
ブンガチャブシデビューって、デビューして。テレビ三回出たら放送禁止になっちゃった。
北島・福田・加藤:はははは。
北島:これはないですよね。いきなり放送、テレビで歌っちゃいけないっていうんですよ。
夢が実現して北島三郎にしてもらって、デビューした途端にドーン。
だけどこれがあとによっていいんですよね。
ちょっとわいせつ的だよてっていうことで放送禁止。
じゃあ6月から三月後の九月に船村先生がいいじゃないか、お前のデビューは
本当はこっちだったんだから。もうレコーディングしてんだから。
改めて三月おいてなみだ船を出せと。9月になみだ船が出たんです。
北島:(昭和)38年丁度長男も生まれました。
ただ、ごく一般には子供も嫁さんもいるってことを言ってませんから。
福田:その頃そういうことが障りになったわけですかね。
北島:あんまり気にならないかもしれないけど、自分がせっかく北海道から出てきて
さあ歌手にさせてもらった、なんだ、女房がいました、子供がいましたじゃもう明日から
終わっちゃうんじゃないかな。そういうものをすごく感じるわけですよ。
その時にプロダクションの社長がお前の歌はそんな歌じゃないよ。
ここでお客さんが良かったなって褒めてくれる。
喜んでくれるし、堂々と安心して歌歌えばいいじゃないか、
別に悪いコトしてるわけじゃないんだからって言った言葉が凄く嬉かったですね。
はい。それで発表してもらって。その見出しがまたね。忘れもしないんだね、
新聞の見出しがね。北島三郎、涙の告白。妻よ、我が子よ、許しておくれ。何を。
福田・加藤:はははは。
北島:何を悪いことを。
加藤:何も悪いことしてないのに。
北島:まぁ、ほんのわずかな一時ですけど、そんな時代があって。
肩の荷がばれて、ほっとして。さぁ、これからほんとの意味でちゃんと
足つけて歩いていこうと。
加藤:沢山の曲が出てきましたけれども、こちらが、代表曲の一覧となっております。
福田:本当にもう、誰でも知ってる曲ばかりだと思うんですけれども
ただ、ここまで大成功するのも大変だと思うんですけど、
そのあとそれをずっと続けてくってことのほうがもっと大変だという
気がするんですがいかがなんですかね。
北島:あの、ですからあの、これも生意気だと思われると困るんですが、
やっぱり足りないんですよね。
福田:んー、やっぱりまだ足りない。
北島:足りないです。だからあのああ、いいんだってなっちゃったら止まっちゃうかなって
気がするの。よし、今度これやったろう、これいこう、
それでいて、あの色んなものに挑戦したくなるんですよね。
福田・加藤:うーん
北島:それは良いと思いますけど。挑戦して調子に乗っちゃって、自分の太い線を外した歌手が
生意気ですけどいっぱいいるような気がする。
福田・加藤:うん。
北島:もっともっと、なんでこの子が駄目になっちゃったんだろ。っていう
歌手がいっぱいいるんですよ。それがなんかどっからか路線をどっか
変えていっちゃってるんですよ。
福田・加藤:ふーん。
北島:だからどこまでいっても自分の歩いていく道を太い線だけはちゃんとしっかり
踏んでないといかんかなと。
福田:やっぱり自分の道を踏みながらでないと新しいことやるというのは難しいんですね。
北島:そうです。
福田:それって新しげに見せるのは簡単だけど、そうするとやっぱり駄目になってしまう。
北島:そうです。
福田:あー。
北島:入り切っちゃ駄目ですね。やっぱり。やっぱりここに戻ることをちゃんと。
いつでも戻れるようにちゃんとしながらこの太い線からこっちにも流れてんだ、
こっちにも川があるよ、こっちにも水が行ってるんだよっつうところを見せておいて、
それでも私はここへ行きますと。って歩いてないと。
北島:歌い手のその番組は特に私たちが歌う番組ではなくなっちゃった。
NHKさんの歌謡コンサートがBSの方のニッポンの歌しかない。
昔はもっと12チャンでも演歌の花道とか、あるいは各テレビ局でもあった。
だから夜遅くでもいいから寝る前に、明日も頑張ろうや、ゆっくり
休みなっていうような歌を歌ってお休みっていいたいんだけどね。
福田・加藤:うん。
北島:ワンワンワンワン、終わっちゃってるからね。そういう悔しさもあるんです。
でもその人達はせめて俺たちの歌の番組が好きな人は楽しみにしてるから。
やっぱり歌おうと。って続けてきて、まぁ仲間達と一緒にやってきてるんですけどね。
これも時代かなと思うんですけど、やっぱり日本は演歌ですから。
加藤:はい。
北島:僕はやっぱりここの道へ入った。この道を選んだ、この道が好きだった。そしてこの世界へ入ってこの道を歩かせてもらって。夢だったのがやっぱり夢じゃなく現実になって。この道歩かせてもらって。この70、ことし3歳を迎えてこの道まで歩かせてもらえるっていうのは、なんなんだろうと。思ったときにやっぱりそんな、自分で思ったもの以外なものがなんか僕に支えているのかなあやっぱり40何年って言いますけども、10年で、経った時に、一皮むけたような気がするんですよ。
で、20年経った時にもうひとつ二皮むけたかな。ってそんな気がするんですね。
でやっと30年過ぎたときから少しなんか歌ってても自然体になったかなって気がするんです。
福田:30年。
北島:はい。で、やっと自然体になった時っていうのは足下もちゃんと着地している。
ちゃんと土踏んでるじゃんか。フワフワはしてないよ。
仮にその時に攻撃されてもこれからあるいはアタックアンドディフェンス、アタックの時も
デフェンスする時も自然体というのは強いなというのを感じるようになっちゃうんです。
だから自然体でいこう。そして大事な物はこうしてこういう風に変わってきて40年、
過ぎてきたんですね。はい。
北島:「いよいよ最後の舞台が北島さん、コマが終わるんで、最後に〆てもらいたい」と。
「この壁には私の声が染みてます。この舞台を見てください。
ずっと俺を支えてくれたこの仲間が、全部俺の歌知ってますよ。ここに染みてんですよ」
北島:こういう劇場がなくなっていくのはとっても辛いですね~。
やたらめったら新しいの、そんなんじゃないと思う。大小は別として、
やっぱり来てほっとして、「ああ今日行ってきた、楽しかった。ああこれ
一年のうちいっぺんだけいくのが楽しみだ」と。またこれ見て、今日聞いて、
ヨッシャがんばるぞという劇場で。で、アーティストの私たちとファンである皆さんとが
会ったときに、「また来年も会うかい」と、「会うぞー」と。約束の場所だよねここは。
だからやっぱり大衆劇場、大衆ってのは大事で、大衆のおかげに、大衆の中に。
大衆の中にこそ演歌が生まれますかな。」
ただ、大衆劇だって言って、大衆もんだっていって、めちゃくちゃにしちゃう大衆ものだって
いるわけですよね。このごろは特になんかちょっと厳しいけど、言いたくなっちゃうね。
もっと大事にしてもらいたいなと。ふざけりゃいいってもんじゃない。
あまりにもなんか、そのみだらになっちゃって、だらしなくなっちゃって、
とても許せないときも時々ありますよね、会話でも。それからやってることも。
どこまでちゃんとした芸人なのかわかんなくなっちゃったっていうのをすごく感じるんですよね。
そんなときちょっと寂しいなあというときは、すぐ、申し訳ないけどチャンネル変えちゃいますね。
スポーツ見たほうがたのしいね。真剣になって打ったり殴ったりしてる方が。
福田:ほんとに今日北島さんにお目にかかるときに一番伺いたかったのは
やっぱり演歌なんですよね。演歌って言葉自体は誰でも知ってるだけれども、
でも実際に演歌って何かって話は結構難しいっていうか、さっき生活の
歌っておっしゃってたけれども、その辺はどうですか、これだっていうところは、
ここが演歌の本質だよっていうのは。
北島:演歌っていうとすぐ皆暗くてこぶしが回りはどうとかで片付けちゃうんですね。
黒人なんてこぶしが回る塊ですよね。えー。
福田:フフフ。
北島:じゃああれが演歌って言うのかって言いませんよね。だから僕は日本の歌は演歌である。
日本の歌は演歌、生活の歌、木を切るときには、カーン、与作は木を切るでもいいじゃんかと。
海では北の漁場、いやーって歌で全て生活するところには歌があるんです。
それを僕は言うんですよね。だからこれは演歌だろうと。
だから悲しいからって自分だけ悲しんじゃいかん。悲しむなよ。悲しいけれども頑張れと。うん。
この涙はいつか嬉しい涙に変わるように頑張れよっていう風に○○きてんですけどね。
それが演歌の基本じゃないかと。
北島:うちもあの、何人か仲間達がいるんですけども、この頃なーんかお前
ちっともこっち伝わってこないなってよく言うんですよね。で、それは
大事な物放ってないよと。で、私は自慢じゃないけど歌手になってから
ずっと今日までに、歌を歌ってきたけど、私は歌を放ってきた。
それはやっぱり聞く人に僕は投げてた。ピッチングしてたんだ。
それでお客さんは受けてくれたんだ。それをこれからも続けていく。
ここだけで歌ってると段々段々ね、テレビの時代になってきて、
そのいいセットを作ってもらってきてね、そこに行くとね、自分の世界になっちゃってんだよ。
自分だけで今日日凄く多い、歌手が。もうちょっと辛口よしてもらうけど。
だから聞いてる内にすぐ飽きちゃうんです。仮にあんた、元気かい?って歌ってくれたら
うおってなると思うんですよ。
福田・加藤:うん。
北島:それが俺たちの歌だと思うんです。
福田:同時に北島さん、大衆芸能を本当に大事に-
北島:おっしゃるとおり、先生のおっしゃるとおり大衆の歌なんですよね。
大衆芸能だから気取ったことはなにもいらないんですよ。大衆と共につまずけば痛いんですよ。
殴られりゃ痛いし、嬉しいときは笑えばいい。悲しいときは涙ぼろぼろこぼしても、おー、
でも頑張れや。と大衆と共にあるのが演歌かなって気がするんですよね。
北島:母。母は不思議ですね強いですね。北島三郎になるまでは、泣き泣き見送ってくれて。
でも行かないって。あんたと別れるのは辛いからって泣き泣きしてたおふくろも。
いざ歌手になったときには、すでにもう他人になってるんですよ。
「こっちの方にくれば、楽屋だってっそっち狭いからこっちにくれば」というと、
「いやいや、私ここでいいですから」って。
「あれ?」うちのお袋なんですよそれはね。おかしいですよねお袋は。
福田:まあ、義理のお母さん、奥様のお母さん
北島:「母は二人だ」ってよく言うんですけれども、生んでくれたおふくろは大野きくえ、
親父は大野一郎です。そして、北島三郎になる少しまで、そしてなってからもずっと支えたお袋、
これが女房のお袋です。そんなおふくろも最近90過ぎて旅立ちました。
そのときにお袋の手を握ってたら、そっと出して、ずっと握って何も言わないけど、
なかなか離さないんですよね。だけどなんかその握った手がとてもちっちゃく感じてね。
なんか、忘れられなくてね。「だから二人のお袋」って僕はすぐ言うんですけど
だからやっぱり、うん。何十年経っても母は素晴らしいし母は大きい。
そして母に会いたい。母が恋しい。ときどき夢を見る。
加藤:そうですか
北島:やっぱり母も心配してるんだろうね。夢に出てくるのよ。それで病気の母じゃないんだ、
にこにこ笑って頑張ってるお袋が。だからありがたいねえ。
加藤:何か夢の中で会話とかされるんですか?
北島:する。するするする。そっちいっちゃだめだとかね。で、旅立つ前まで
いつも俺に言ってたことが、「兄弟だけは兄ちゃん頼むよ」と。「面倒見てやってよ」って。
今なんぼえらそうなこと言っても、やっぱりこの母と親父あって今日生かされてる幸せ。そして北島三郎もまたあっちこっち、つついたり支えてくれたり磨いてくれてるファンがいて。今日まで歩かせてもらえるから、限りなく行きますな。で、ゴールっていうのはないんですよね。わたしたちは。もうただひたすら行くしかないんです。いずれどっかでとまると思います。でももう行くしかない。
福田:まあそういうふうにおっしゃってる北島さんが、これから叶えたい夢みたいなものはもってらっしゃるんですか
北島:もう年齢も年齢ですし、ただこうやって生かされることに感謝しながら、
やっぱり今日という日はもう今日しかないから、今日だけをしっかり生きよう。
で、明日に。来年ねってなるとちょっとつらい。わかりません。
みんなもう、「来年こうやってやるんだーっ」ていったって、
来年になりゃまた変わっちゃうんですよね。そんなこと思うんだったら、今日。
歌も一番自分の得意なところを歌うのは、あとでいいんです。
一番苦手なところをしっかり歌うことによって、歌は生きるということを感じます。
北島:感謝を忘れず、今日より明日へ生きましょう
福田:それがやっぱり一番、若い人へとっての大事なことだと
北島:はい。感謝とかそういうのなくなっちゃうと、
どうでもよくなっちゃって、滅茶苦茶生きちゃう。
やっぱり「ありがとう」っていうのがあるからだから明日また頑張ろうみたいな気になるから。
福田:じゃあこれはまあ、座右の銘というかやっぱりそういう形の
北島:ハイ
福田:加藤さんは、北島さんのお話を伺っていかがでした?
加藤:そうですね、特に印象に残っているのは、感謝を忘れないという言葉が胸に響きましたね。やっぱりこういう気持ちがあるからこそ、芸道48年間という日々も過ごして来られたのではないかなと思いますし、やはりお話をしていて、こう男らしさをいいますか、義理とか人情とかの熱さがすごく伝わってきたのがとても魅力的だなあと感じましたね。
福田:僕はまあ、昭和40年に「函館の女」と「兄弟仁義」などの大ヒットがあってミリオンセラーも出して、そのあともどうやって頑張ってこれたんですかと伺ったら、やっぱり足らないんだよと率直に、自分は満たされてないんだっておっしゃったことが印象的だったのと、やっぱり長くやってく上には王道を歩みながら、時に反れながら、やっぱりまた戻っていくという。反れてしまうとやっぱりダメになってしまうし、でもやっぱ新しいほうへ戻らなきゃならないというのが印象的でした。