番組ダイアログ「船村徹」

福田:このお店は、いつぐらいからいらっしゃってる?

船村:えぇ~もう大分、昔ですね。ですから私が東京に出てきて、音楽大学に入って、アルバイトでこの辺を演歌師で流して歩いたり。ですから、もうその頃あったんですからね。それでずっと。それからね、で、私も今度は、流しなんか辞めて、書き手の方になりましてね。それからもうですから。やっぱり昭和でいうと30…2、3年ぐらいからだったんじゃないでしょうか。ここに飲みに来るようになってからですね。

福田:雰囲気とあんまり変わりませんか?

船村:全然変わらないですね。

福田:あぁ~。

船村:まぁ~でも何て言うんでしょうね。楽しい時代でしたね。ですから私は、時々考えるんですけども、人間ってなんかこういう風に有り余って、豊かになってもね。何だかつまらない事件みたいなのばっかりがありますし。またああ言う風に何か、本当に戦に負けたどん底から這い上がる時代って言うのもまた人間同士が何かこう触れ合える時代って。どっちが良いのかなって思って考えるんです。真ん中ぐらいが良いんじゃないかって思うんですがね。

福田:今の音楽の世界とか歌謡界というのは、どういう風にご覧になりますか?

船村:はい。私なんかもですね。やっぱりあの子供の頃って言いますかね。そういう頃は、みんなあの西洋の音楽にずっとやってきておりましてね。ですから今もそのような感じのものをやっておりますけども。これは、いつでもですね。それこそクロスオーバーしてる事でその中からどうしてもそう何ていうか、やがて人間がですね。ある程度まともに大人になって行くとやっぱり日本人としてのDNAみたいなものがなんか出てくるんじゃないだろうかなと、その出てきた時までしょうがないなと。それは、出てくるのが遅くなったり、速くなったりするのは、個人差ありますから。ですけども、ただあの今、色々やってるあの若い人たちのまあ~J-POPみたいなとか世の中やってるのがですね。あのロックみたいなものが。しかし、あれやってるのも果たして本当のロックンロール的な、本当のこうソウルフルのものを感じてやっているのかどうかなというですね。出来るだけなんか日本語じゃなくて疑似外国語みたいな発音をわざとしてね。ええ。先だってちょっとブラジルの移民の100年の記念の歌をですね。作ったんですけども。なんか向こうにいる人間、日本系の日系の人間の方が、まだなんか日本人のそういう魂みたいなものを持ってるのが非常に多いようでして、なんか大分向こうで、この間、作ってあげた歌が今度ブラジルでもういっぺん。逆に向こうで人間に歌わして、今、やってる最中なんですがね。作らしてる。ええ。そういう仕事っていうのが、何か私は、あの良いなって思うんですけどね。

大島:今:演歌の世界でもジェロさんといったような方もいらっしゃいますけど。

船村:ええ。そうですね。

大島:そういう方は、どのように思われますか?

船村:良いんじゃないですか。ええ。あのね。それはね、やっぱりあの私はね、もっともっと10代のね。しっかりしたあの日本風な歌い手さんがね出て来てくれる。それからああいう風な立場でのあの。ジェロ君ですか?でも、ああいう感じでねやっておりますし。ただ非常になんか半分なんか奇を衒ったような売り出し方をされているので、もうそろそろもう少しね。もうちょっとちゃんとした帽子かぶってね。
それでちゃんとした方が良いんじゃないかと。やっぱり結果的には、音楽家なんですから、音楽で勝負をして行くっていう。ええ。ああいう感じももうあれだけ一つのねPRした訳ですから。これからはもう少し。そうするとさらに飛躍出来るんじゃないですかね。

船村:私やっぱり若い子とですね暮らしてるんですが、まぁ~あの向こうもどう思ってるか分からないですが、私ももう何言ってんだこいつはって思うとこがお互いに別な人種だと思って相手にしないようにしてるんですね。  みんな10年近くいる子達なんですが、まぁ~一人この4月にデビューした子とそのあれがいるんですがね。やっぱり。

福田:走さん。

船村:はい。10年ぐらい前はですね。何人だろうと思いましたよね私は。歌だけ歌えるだけで考え方とかね。ところがやっぱり10年ぐらいいますとね。「本当に困ったものですね。世の中は」とかなんとかって生意気言うようになりますからね。いくらかましになってるんだなと思うんですけどね。ええ。

福田:でもやっぱり、あれですよね。10年間ずっと師匠なりなんなり付いて、付き合って頂いてっていう経験ていうのは、今の社会だと、珍しいのでやっぱりそれなりにやっぱり船村先生が考えてらっしゃる事とか、考え方とかっていうような事は、やっぱり分かってくる。

船村:そうでしょうね。やっぱり逃げ出さないですからね。ただやっぱり私の所は、完全なやっぱり面倒みるやつですから。それだけ扶養家族増える訳ですから。ですから、こいつら早く何とかしないきゃいけんなと思ってですね。いるようなね感じなんですが。

福田:そういうお弟子さんとか、お弟子さんだけでは、なくて新人の方々の中でそういう世に出る人とやっぱり出切らない人の差とか違いって言うのは、ある。明確にあるんですか?

船村:はい。これはね、やっぱり運とか、それからその時の時代背景とか、微妙なものがありましてね。良いもの持ってるんだけどもう一つなんか受け入れられないという子もいますよね。うん。ですけど、それがいつも言うんですけど、全部が全部そう上手く行く訳がないんだから、だからやはりその後、「世界に入って行ってもピシッと通じる最低の日本人としての教養みたいなものは、持ってた方が良いぞ」という事でこうやってるんですけどね。まぁ~なかなかですから。私にとっては、とにかく出来の悪い息子だなって思っても親御さんにとっては、大事な息子さんですからね。粗末には、できませんしね。

大島:作曲方法とか、ノウハウっていうのは、どういったものがあるんですか?

船村:あんまり大したことないですよ。

大島:えぇ~。

船村:あの~まあ大体あのそうですね。みんな個人差がありますけども。じ~っとやっぱり書斎にこもってピアノの前でずっと推考 するタイプのね。あの作家と、それからこうやって飲み食いしてそこら旅したりしている時にふいっと思い浮かぶのとなんか2種類あると思うんですよ。ええ。私は、その後者の方で。ええ。飲んで。私は、毎日飲みますからね。ええ。これだけが自慢ですから。

大島:ふふふ。

船村:そういう事のうちにぱっとひらめくのと、なんかこう2つあるように思うんですね。ええ。なんぼ考えても駄目だっていう、それとあんまりこう考えて作ったものほど結果的に良くないですね。ええ。やっぱり一つのぱっとひらめいたインスピレーションっていうんですかね。そいう感じの想いって。一気にぱっと書いたものの方が結果が良いような場合がありますね。

船村:変な獣医なんですけどね、あんま牛や馬に触りたくない獣医なんです、ええ。それでですね、朝昼晩やっぱり飲んでるんですよね。で若い助手の人達が庭先に2,3人いましてね。それで特注でもう10メートル以上ありましたね、聴診器ですね、それをここに括り付けて、首。それで自分はちびりちびり座敷で。その先をその女子の人が聴診器を当ててくんですね。この辺はどうでしょうか、先生って向こうで助手が言うんですね。そうすっと急に飲んでた親父がですね、うーん、具合悪いな、ここは調子悪いな、塩梅悪いなとかって言うんですよ。薬持たしとけっとかね。そういうふうな父親でしたから、非常になんか音楽が好きだったみたいですね。

福田:ああ~お父様が。

船村:はい。それで物心ついたときは家に昔もLPっていうのがあれあったんですね。それでもってクラシックだとかなんだとかばっかりでかい冷蔵庫みたいな蓄音機がありまして、そういうふうな中で育ってまして。それで尺八は父親が免許皆伝みたいな。

福田:じゃあそういう伝統的な音楽みたいなものにも身近にあったということですね。

船村:まぁ~幼児教育的に入ってたんですね。それで小学校に入りましたら、山の中に小さな吹奏楽団が学校にありまして。そこで初めて私はあの正規にトランペットをですね、ええ。これは今の芸大を出た先生が定期的に教えてきてくれまして。それで大分特訓してもらいましてね。

福田:そのやっぱり音楽関わってらっしゃって、で作曲家っていう道自体を
    明確に認識されたというか、その辺はどのタイミングから。

船村:あのね、はい、これはですね、歌ったりなんか何をするとかっていうことには全然興味なかったんですよ。その後続くんですけど、敗戦になりまして。で、あの割と栃木県日光だとか鬼怒川とかってああいうとこはいち早く接収されましたから。だから外人が早く入ってきたから。そういうところへすぐ私も音楽部っていうのを作りまして、それでバンド作りましてね。それでよくあの生のあれが無かった時代だったから、アメリカさんにとると非常に重宝がられて、土曜日曜にダンスパーティーとかなんかとかやってましたから、そこへバンド連れてね、その頃から全部もうあの自分が作曲するっていうようなことで自分で書いて、でテープレコーダなんかありませんのでラジオから音を録って、それでやるようにしてね。いつの間にかなんか。

福田:じゃあその採譜を出来るぐらいには音楽的な知識とか何かは、もう持ってらっしゃったんですね。

船村:あったんですね。ええ、

福田:高野さんについては、それこそ高野さんとご一緒に生きてた時間がご自分の人生だとまでお書きになって。それってどういう繋がりというか、どんな方だったん?

船村:もうあの時代ですから寝食を共にしておりましたんでね。所謂、二人三脚みたいな一人じゃ生きていけないけども、二人だとね生きられるような。で、常にやっぱり私より年齢も上だって事もあって。「お前こうだからな、こうだからな」ってその当時は、やっぱりアルバイトにアメリカの兵隊さんのキャンプに行ったりなんだりして、そういうバンドを作ってやったり、という風な暮らしだったんですが。それでもですね。やっぱりお前ね。本当にやっぱり今、学校でやってるベートーヴェンだとかシューベルトとか

福田:その東京音楽学校の音大時代ですね。

船村:音大ですね。「こんなもんじゃないぞ」って「こうやってみんな汗水たらして見てみろと食うに食わずにこの焼け野原をね復興させているこの姿が本当の人間の日本人としての姿なんだよ」と、「この連中の為になる歌が本当の生きた音楽なんだからな」っていうことをなにかにつけてね言われましてね。それでとにかく、やがてそういう時代が来るんだって、そういう本当の生きた音楽っていうのやらなきゃ駄目だって。それでその時代にですね。もうあの「必ずそのうち地方の時代っていうのが来る」その地方の時代って言葉を高野は、使ってたんですね。やがてもう何十年か後ですよ。そんな事をですね。言い始まるのは。なんだか、だけど私は、もうあんまりそういう事をとろい方ですから、言われてもですね。「う~ん本当なのかな?」なんて。俺は、大衆の歌を詩を作るから。で、お前は、俺が作った詩だけ作曲してればちゃんと本当に作曲家になれるから」って言うんですけどね。そうかなと思ってね。頭かきながらね。そのうちに「俺は、茨城弁で詩を書くからお前は、とにかく栃木弁で作曲すれば良いんだ」と。茨城弁は、分かるような気がするんですよ。日本語ですから。栃木弁で作曲するって言ったってそんなの学校で教えませんからね。参考書もないし、どういうのだろうなと思いましてね。大分悩みましたけどね。そうするとやっぱりその北関東弁のあの尻上りの「あぁ~」っていうね。あの、あのイントネーションのこういうのを言ってたんですね。その頃は、定型詩っていうのが大道でしたから。だから5・7・5とかね。そういうんですけど。

福田:それこそ佐藤惣之助さんとか上手い時代ですね。

船村:そうです。みんなそうです。もう西條八十先生の「花も嵐も踏み越えての時代」ですよね。あれやってちゃ駄目だから「俺、茨城弁で書くから、お前もとにかく栃木弁で作曲しろ」と言うんですね。

福田:破調で?

船村:そうです。破調でね。やるっていう。たけど難しいんですよ。あの破調のね。ものに作曲するって言うのは。それで、叩かれながら結局いつの間にか来ちゃったっていう。

福田:ある意味では、そこでやっぱりまぁ~それまでのその流行歌とか演歌とかと違う新しいまぁ~旋律とか。旋律と言葉の関係を作り上げたという事になる。

船村:という事だったんですね。今になって考えれば。ええ。

船村:その後も私、辞めようと思ったんですこの仕事。とてもじゃないけど一人でねこんな厳しい所をですねもうやっていけないと思いまして。みんなに励まされて「それは、やっぱり高野君の分まで君がやんなきゃ駄目なんじゃないか」って「それが本当の高野君に対する供養じゃないか」とかですね。みんなに励まされて、それでこっちもやってきちゃったって感じなんですけどね。

大島:長い歳月の流れた今でもやはり高野さんの存在を感じる。近くに感じる事ってありますか?

船村:もう、お恥ずかしいですけど。毎日ですね。ええ。それで何か楽しいような事があるほど、なんか背中で寂しくなりますね。

船村:村田英雄の歌舞伎座でリサイタルをやるから」ってそしてステージに立ってみたらね。オープニングが『王将』なんですね。それでまた『王将』を歌いますね。で、真ん中で『王将』歌って。

福田・大島:ふふふ。

船村:それでフィナーレが『王将』なんですよ。それでもういっぺんアンコールで歌わないとお客さんの入れ替えが出来ないんですね。帰らないんです。
  
福田:それだけ支持されたって事ですよね。そんだけ歌っても帰らないって程。

福田:当時のあれと今を考えると多分やっぱりその何回もやっぱり聞くほど、あのお客さんが感動する。もちろん作品の良さもあると思うんですけど、今とやっぱりカラオケがあるんで、どうしても一人一人が歌うというかちょっとまぁ~疑似的では、あるけど自分が主役のなる時代になってきて。それって当時と大分違う気がするんですけど。

船村:あの。これは、本当に良いお話ですけど。カラオケっていうのは、出来たそのプラス面とマイナス面とありますよね。その功罪があるんですけども、いろんなそういう意味で音楽が、手じかになったっていう意味では、プラスです。しかしね。今度その作る方のメーカーがですね。出来るだけカラオケで簡単に誰でも歌えるような歌を作曲してもらおうと。そういう、実にイージーなものをこう、そういうふうなのを作家に頼むようになってきた。そうすると結果的に質的に同じマンネリズムが出て、一つの飛躍が無くなってきた。そういう所がマイナス面ですね。ですから、それなのにとにかく船村って言うのは、ああやってなんか、くどい歌ばかり作ってるってことでよく言われましたけど。だからそれは、学校の教科書にだって、小学校の教科書と高校と大学とあるんじゃないかと。それと同じようで、そこでだんだんカラオケを歌う素人もだんだん伸びてくると。もっと高いものをやりたくなるんだから。俺そっち書いておくから、そっち下の方は、誰かにやらせろよって言ってね。っていうぐらいにやってましたけどね。

福田:現在なさってる活動の中であの演歌巡礼って伺ってるんですが、具体的には、まぁ~コンサートをして北海道を歩かれたとか話を伺ったんですが。

船村:もういっぺん原点に帰って、やらなきゃいかんなと思ってね。やっぱり都会、一極集中じゃなくて、もっと日本列島って縦に歩けば、広いですから。行けば地方にそこにやっぱり本当にね大衆のね音楽ってあるはずだな。そこにこっちから降りてかなきゃいかんじゃないかなと思って始まったのが、その演歌巡礼なんですけどね。

福田:はい。

福田:受刑者の方であられたり、慰問されたりどういうきっかけで始められたんですか?

船村:これはですね。あの笑われるかもしれませんけど、栃木の女子刑務所って言うのは、私の郷里が栃木ですから。あそこはですね。刑務所で言うと名門なんですね。

船村・福田:ははは。

船村:そうなんですよ。そこに歌を一つ作ってあげまして。それがまずあの、きっかけで。それでずっと日本全国をですね。周る事始まったんですけど。『明日に夢を』という歌だったんですが。明日に夢を持って、とにかく頑張ってもう一度、良いお母さんや奥さんになりなさいっていう歌なんですが。

船村:ずっと40何年、あの刑務所のボランティアをね。ずっと日本国やってるんですけども。やっぱり犯罪の内容が変わってきてますよね。

福田:やっぱり40年間で?

船村:ええ。ですから今は、なんて言うか、やっぱりやり甲斐がないですね。

福田:ああ~そうですか。

船村:話しても分からないような受刑者ばっかりでしてね。親子で薬で入ってたりですね。買う意味ないですよね。

福田:そうするとやっぱり、犯罪とかその中で更生されようとしてる人の姿も大分変わったと言う。

船村:本当にかわりましたね。

福田:昔の頃は、受刑者の方でも言葉は、通じた。心は、通じた。みたいな事が…。

船村:えぇ。ありました。ですから私は、随分歌を作って。あの特に女子刑務所の方ですね。という事は、やっぱりあの昔は、戦争や何かでみんなやはり、母親だけになってしまったって言う子供もたくさんいるわけですよ。それでもなんかやっぱり親、男親いなくても、女親がいるとねみんな育ったっていう時代があったんですね。だからそう言う事でやっぱり「もういっぺん家庭に帰って良い奥さんとお母さんになったらどうだい」っと言う事で私は、音楽でしかお返しが出来ないっていう事なんでそういう一緒にやって来たんですけども。こんな事ありました。北海道をずっと演歌巡礼って自分でやってるいう公演でね。歩いてるんですけど。それでスタッフと一緒にある峠のレストランみたいな所で昼飯を食おうじゃないかという事で。それで目立たない奥の方の部屋でこうやってたんですけど。そしたら何か女の人がね。寄ってきて注文とってなかなか帰らないんですよ。私のね背中の所に立ってて。それで早く食いたいものですから。

福田:ははは。

船村:困っちゃってね。そうしましたらね。あの「どうしたの?」って聞いたら、「少しあの先生お痩せになりましたね」と言うんですよ。「ああ~そう。いや~あなたどっかで会ったかね?」ってこうやってなんとなく聞きましたら「はい。あの栃木の方でお世話になりまして」って言うんですよ。栃木の女子刑務所だっていう事がピンときましたから。「ああ~そう栃木より良いじゃないこっちの方が」ってね。「あんな栃木なんてつまんない。あんな所よりこっちの方が良いよ」って言ってね。それで「しかっりやって頑張って頂戴ね」って言ってね。そんな事してなんかまた出掛けようと思ったら、こんな紙袋持ってね。で、私のその車の前で待ってるんですよ。それで、「これ飲みながら、召し上がってくれませんか?」って言うんでね。それ頂戴して「ありがとう。あんたも頑張ってやって頂戴よ」ってそれで別れたんですね。そしたらね。もう遠目でかぁ~と下りなんですけどね。振り返ってみると本当、豆粒くらいになるまでこうやって手を振ってね。この子がね。いるんですね。ああいう所に会いますと、う~んやっぱり俺のやってた事も誰かの足しになった事もあったんだなって現実にですね。つくづくそう感じた。これも一コマでしたね。今も。まぁ~あの栃木の方とか横浜とかですね。私が行けない時は、弟子連中に行かせたりですね。ええ。

福田:ああ。でもお弟子さんもそういう事に機会があるとある意味でいろんな形で言葉使いが難しいというか営業というかそういう人情機微とか触れる機会になりますよね。

船村:私は、勉強になってると思います。ただね。あの鳥羽一郎っていう弟子がいるんですが、これが嘆いてましたがね。デビューして売れてきたら楽屋まで来ちゃうんだそうなんですよ。

福田:ああ。

船村:みんな出所した連中がね。来てくれるのは、良いんですが「あの時は、お世話になりました」とかね。始まっちゃうもんだから「もう、まいっちゃうんですよ。」って言ってましたね。

福田:やっぱり北島さんっていうのは、ちょっと特別な存在ですか?

船村:そうですね。やっぱりあれだけなってくれましたからね。

船村: あんなに苦労した弟子は、いないかったんですよ。どこも買ってくれなかったんです。レコード会社、ほぼ売り込みにあの子連れて歩いて、やっぱりそれこそ、ロックンロールとかあの時代ですから、あの正当のものがね、売れるはずがないと思ってたんでしょうけど。

船村:やっぱりしょうがないですから。「時期が来るまで待て」と「それまで黙っているのもしょうがないから」っていうので私が台本書きまして。それでもう一人いました弟子とね、あの漫才を。ギター漫才をね。やらして知ってる興行師に頼みまして、ざっと東北を1カ月ぐらい前で、前座で頼んだんですよ。ええ。そしたら3日目ぐらいにね。夜中帰って来ちゃったんです。「何でお前ら随分とあれしたのに」とりかくもう興行師に「もう帰れって使い物になら」って言うんで。それで帰って来てしょうがないなっていうんで、「何とか歌の方でやらしてもらいたい」って言うから。しょうがないって言って、そんな事があったりしてね。それでやっと機会があって周って来てやったんですけど。作っておいた歌が『なみだ船』っていうので、これなんかも銀座で飲んでましたらね。なんかこう小火があったんですね。銀座のそっちの方でそれで救急車やなんかがびゅーんって走って来たんですよ。消防車ですか。そしたらみんなそっち向いてるんですねこうやって。ああ~これじゃなきゃ今、演歌の新人ってこっち向かないなと思いまして。それでど頭にね。とにかく消防車のサイレンじゃないけど「なみだの~」と一発ばぁ~んとあの子にね「お前、生まれつき鼻の穴大きいから吸い込み良いから。これは、歌えるからいけ」と言ってね。それでやらしたんですよ。そしたらまぁ~こっち見てくれましてね。ええ。それがデビューがミリオンになりましてね。

福田:その北島三郎さんを始めたくさんのお弟子さんがいらっしゃってその、例えば落語とかああいった師弟関係とか割と分かりやすいんですけれども。その歌の世界での師弟関係とかお弟子をとって育てられるっていうのは、どういうシステムというか仕組みになってる?

船村:あのね。あの~この歌、歌謡界って言いますかね。歌の世界でもあの戦前、戦後ぐらいまでは結構そういうあの内弟子、師弟制度みたいなものは、あったんですがね。いつの間にかなんかやっぱりちょっとそういうレコードと言うか、物が非常に出てきてあんまりそういう事を重視せずに、なんか向こうは、向こうでプロダクションが連れてきて、今度こっちは、こっちで連れてきて作って。それでばぁ~っとやって。それで売れたら売れた。売れなかったら売れないでそれでもうぱっとするってみたいな実にそういう風なものになってきちゃっている訳なんですけど基本的には、私自身、個人的には、どういう事考えてる人の歌を作るのか、どういう喜怒哀楽を持ってる人なのか、そういうものを何にも分からないでですね。やっぱりその人情のひだと言うか機微みたいなものをね何かこうやりとりするっていう事は、あんまりなんか空々しくて、あんまり好きじゃないんですよね。ええ。なもんですから私は、出来るだけそういう風なマンツーマンというか、そういう感じは、続けて行けると思ってる。

福田:やっぱりお弟子さんっていうのは、やっぱり育てる為もあるけれども、そういう形でまぁ~人間同士として付き合う形でまぁ~その人の資質とか。

船村:そうです。

福田:心根とかっていう。ことをやっぱり理解するためにやっぱり必要だという。

船村:だと思います。私は。ええ。ですから、そうじゃないと、どうしてもですね。なんかあんまりこうビジネスライクばかりになっちゃってですね。それよりもやっぱりこう秋になってこうやって色づいてるの見ても何とも感じない。弟子にね歌作ってるっていうともう60年も馬鹿馬鹿しくてやってらんなくなっちゃいましてね。ですからやっぱり、「いいなぁ~この秋はな」とかって言うと本当に感じてくれる人間の方が好きですからね。ええ。ただみんな御蔭さまで私の所に来ると酒が強くなりましてね。

福田:ははは。大事な事ですよね。

船村:これが一番大事なんじゃないかと。

大島:あの今の若い日本人の音楽家で足りないものっていうは、どういう所なんですかね?

船村:いや、それはですね。あの足りないのもいますし、足りてるのもいると思うんですよね。うん。だからやっぱりそのグルアーですね。スタッフの育て方とか、だから私も本当にうるさく言うんですけども、やっぱり本読まないと駄目ですよ。ええ。最近、なんか非常に活字離れとかなんとか言ってるでしょ。そうじゃなくて、その自分のレベル合った本でも良いからそれをピシっと読んでね。それでいくと言うと特に日本語っていうのは、もう言葉そのものが物凄い奥行きを持ってる訳ですから。だからもうそのこれから新しい曲を貰ったらそれをメロディーなんかどうでも良いから、詩をもう何百回って読み返して、声を出してね。やってみなさいって言うんですけどね。そうすると自然とそこでなにを作者がどういう事を言おうとしているのか、この作品は、どういう事がって事が分かって来るし。ですからそういう事も結局は、ですからまぁ~よく言うんですけど美空ひばりっていう人がいましたけど、あの人はね、音楽性より文学性だったと思うんですよ。ええ。ですから例えばね。その例えば「さようなら」って言葉にしてもこの前後とそれからその文脈の流れというか、流れの中で「さようなら」なのか「さようなら」なのかをピシっとやっぱり理解できるから。そうするとそこへメロディーっていうのは、乗っけるだけだから。その解釈によって膨らんでいく訳ですね。それがないとですね実に殺風景になってね。うん。駄目なんじゃないだろうか。あの人は、それが良かったんじゃないですかって僕は、特に言うんですけどね。

福田:まぁ~ちょっとおっしゃってるその日本人のいずれ出てくるDNAっていうかそういう感性みたいなものっていうの言葉っていうのが密接な関係を持ってる。

船村:はい。と思います。ええ。という事は、やっぱりあのどこで生まれてもですね。まあ日本人の母親から生まれた場合には、やっぱり日本語で褒められたり、日本語であやされたりね、日本語で叱られたりして育てられていく訳ですから。ですから、もうそれこそそれが分からない基本的にですねもう全部おかしくなっちゃうんじゃないかって思うんですけどね。

大島:そういう意味では、演歌というのは、やはり言葉を大事にしているんですよね。

船村:そうですね。まぁ~今は、演歌っていうのは、ご覧のようにいろんな言われ方がしてね。演じる「演」であったり、艶の「艶」を書く場合もあるし、いろんな事ありますけども、やっぱり大体がああ~何て言いますか、その明治の書生節っていうのがあって、そので一つのレジスタンスの歌だった訳ですから。そういう事で、体制にこの抵抗して行くそういう所が大体出発点だったんです。

福田:添田唖蝉坊(そえだあぜんぼう)とかあの辺り。

船村:そうですね。それがだんだんとレコードというようなものが入ってきて、それでこれを商品化して行くという所から色んな物が色んなその男女の艶を歌ったり、なんだりって、花街に広がって行くっていうような事だった訳ですからね。ですから基本的には、もうそういうふうな奥深い物があるはずですよね。ええ。ですから、もうこれ福田先生とか良くご存じでしょうけども。割とヨーロッパにもですね似たものがあるんですよね。あのポルトガルのファドなんかですね。あれなんかもう実にやっぱり人生の哀歓を歌ってそれをまたあの大学でもやってるっていうのが素晴らしいですよね。うん。夜の巷からはては、大学ももうキャンパスの中でもああいうことやってるとこがあったりですね。で、フランスなんかでも本当のシャンソンなんか人生の哀歓ですから。ええ。

福田:シャンソンはね~。ええ~。

船村:フランスも駄目ですよ。最近、昔のあのシャンソンが駄目になってきてからやっぱり国もおかしくなってますよね。

福田:まぁ~そういう昔い風のやつは、あんまりなかなか無くなってきてますよね。

船村:無くなりましたね。

福田:これから演歌の世界とか歌謡曲の世界ってどういう風になって行くという風に、あるいは、どうなればいいなでも良いんですけども。こうなって欲しいなでも良いんですけど。

船村:いや。これは、先生ね。私よく言うんですけど、あの決してなくなるものは、ないと思います。やっぱりね。私は、この演歌っていうものを大本流をね。若い人もやっていくべきだと思いますね。ですから、それをちょこちょこっとなんか奇を衒ったようなもの作らないでやっぱりその本当の演歌本流をですね。やっぱり王道を絶対にまげないで行く作家が出てきて欲しいと思いますね。ええ。またそれを歌う若い歌い手さんもどんどん出てもらいたいと思いますね。ええ。

福田:そういう風に考えて行くとまぁ~船村先生にとって演歌ってどういうものになるんですか?

船村:もう日本人の血液だと思います。

福田:血液。

船村:もう本当にですからね日本人の血液。血液入れ替えないと、入れ替えれば別ですが、そんな事は、出来ないんですから。民族の。ですから日本人が日本人の血液を先祖からずっと伝承している以上は、絶対に不滅だと思っております。巨人軍だけじゃ、ないです。

福田:ははは。

大島:永久に不滅ですね。

船村:ははは。そうおもいますけどね。

福田:これからやっぱりこれだけは成し遂げたいというか、これはやっておきたいみたいなことがあればお聞かせ頂きたいんですけども。

大島:次世代の日本人へのメッセージも込めて。

船村:私はやっぱり日本のこの山河があって、それとやっぱり自分がとりあえずやってることが海の日っていうのも協力して作りましたが、海と山っていうのはもう夫婦の関係であり、それで山の日っていうのも一緒に作ったらどうだろうっていうことを今、提唱して頑張ってるんですけども。やっぱり山と海っていうのは別物じゃなくて続いてるからですね。だから豊富な海があり、豊富なまた稲作できてね、それで日本の素晴らしい山河が守れるわけですから。そういう意識をもっともっと持ってもらってね、政治的に解決するものじゃなくてやっぱり国民運動としてやるべきだと思うんですよね。そういうお力をなんか皆で協力してなんかの力になれば、そういう歌も作りたいですね、なんか。

福田:その曲はぜひ聴かせて頂きたいです。

船村:はい。

福田:大島さんは船村先生のお話を伺っていかがでしたか?

大島:そうですね、もっと日本人として日本人の心とか気持ち、風土、言葉全て大切にしなきゃなと思いましたね。特にアナウンサーなので、日本語というものをもっと大切にしようと思いました。福田さんはいかがですか?

福田:やっぱ戦後すぐの時から、友人の高野公男さんと二人三脚で、新しい日本の歌を作ろうと。それもですね、クラシックとかそういうものではなくて、働いてる人達、日本を復興させようと思って取り組んでいる人達の為に歌を作るんだと、いう思いをずっと今日までお持ちになっていて、その使命感がすごい深いというところに心打たれました。