体調わる子の毒吐きブログ

私の私による私のためのデトックスブログです

最重度の知的障害をもつ、姉のことを書いてみようと思う。

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先日、マクドナルドで知的障害児かな?って感じの10歳ぐらいの子が暴れていた。

「あー!」とか「うー!」とか大きな声で、何かを訴えているようだった。

それを、その子のお母さんっぽい人が「美味しいんだ!よかったね!」とニコニコしながら語りかけていた。

おいらは、「あー、すごいなあ。10年もの間、大変だったろうに。それなのにこんな仏の心で接してきたんだなー」と思った。

でも、帰り際に見たらそのお母さんだと思ってた人は、ヘルパーさんだった。

なんかネームプレートを首からぶらさげていた。

「まあそうだよなあ」と思ってしまった。

 

というのも、おいらの姉は最重度の知的障害。

知能は3歳児ぐらいのレベルしかないらしい。

子供の頃はよくおいらも養護学校とかに行って、知的障害の子の母親たちを見てきている。

「仏」って感じの人は見たことがない。

妙に元気な人が多かった気がする。

 

養護学校って行事が多いんだよな。

おいらの姉が通ってたとこがたまたまなのか?

月イチぐらいでイベントがあって、運動会とか学習発表会はもちろんだけど、ドッジボールとかかくれんぼ、盆踊りなど色んなイベントがあった。

それによく参加していた。

というか無理矢理させられていた。

ちなみに中等部ぐらいになってくると、男子生徒がガチの投げ方でドッジボールしてくるから要注意だった。

先生はそれを見て、「ころがしドッジボールに変更しましょう」とか言ってたな。

養護学校といってもウチの姉ほどの生徒ばかりではなく、見た感じ普通の生徒も結構いた。

みんな人懐っこかった。

行くと「●●(姉の名前)さんの妹さんだ!握手!握手!」といって握手を求められることも多かった。

抱きついてくる人もいたけど、それは先生がひっぺがしてたw

 

そんな姉も養護学校を卒業すると、障害者施設に入った。

その施設は、日中は畑仕事をしたり、クッキーを作ったりもしていたっぽい。

木工とかもしていたのかな。

廊下にたくさん飾られていた。

でも、おいらの姉はそういうこと出来ないだろう。

まず、トイレも介助がないと行けないし、お風呂も1人じゃ無理だ。

よく24時間テレビで「重度の知的障害の●●さんが〜〜」みたいな企画をやっているけれど、「重度」であればまあテレビに映れるわなーと思って観ている。

おいらの姉は「最重度」だから、生放送のテレビに出したら危険だ。

お墓参りに一緒に行くと、「おしっこ!」と言いながら、お墓の前でいきなりジャージズボンと下着を脱ぎ出して、こっちはあたふたする。

これはもう毎年の通過儀礼だ。

おいらと父は「ぎゃああああ」「まただあああああ」と言って、車に連れ戻す。

姉は車で漏らしてしまう。

漏らして笑ってるときがあって「あははじゃない!w」と父は怒る。

おいらは笑う。

姉も笑う。

(ちなみにお墓参りの前には、しまむらで安い厚めの座布団を買ってシートに敷いてる)

そしてにおい出す。

困ったものだ。

 

まあ施設に入ったはいいんだ。

いつだっけ、あれ。

姉が20歳のときとかか?

施設でマット運動をさせていたらしい。

姉は、でんぐり返しができない。

それを後ろから職員が押したら、変に転がってしまった。

姉は、首の神経を損傷してしまった。

 

それで。

一時期姉は、首から下が動かなくなってしまったことがあった。

お見舞いに行ったら、頭がボウズになってて、首を支えるためか、頭にボルトが埋め込まれていてびっくりしたった。

埋め込まれていたのか、埋め込まれているように見えただけで支えていただけかはわからない。

医者には「もう回復しないだろう」と言われたと、父はいっていた。

姉はというと、「カンゴフさん!カンゴフさん!」と呑気だった。

 

さすがにそのときは、家まで5人ぐらいの職員が謝りに来た。

おいらは前日に家の掃除をした。

家が狭いのに、ミチミチになって人が入ってきた。

父は何回も「もう起こってしまったことなので」「もう、起こってしまったことなので」と言っていた。

おいらはただそれをジーっとみていた。

ちなみにお茶は出さなかった気がする。

 

姉は奇跡的に回復した。

何がどうなって回復したんだろう。

まあよくわからないけれど、半年ぐらいして、もといた施設に戻れるようになった。

 

しかし2006年。

もうそこの施設は出なくてはいけないことになった。

父がモチャモチャとおいらに説明してきたけど、当時は「なんのこっちゃ?」と意味がわからなかった。

今調べたら「障害者自立支援法」というのが施行されたためらしい。

そこの施設は就労が可能な人しか入所できないようになったのだ。

 

先も書いたけれど、うちの姉は、畑仕事もクッキーづくりも、木工も何もできない。

だから、違う施設に移動になった。

運がよかったせいか、すんなり移動できた。

移動できずに彷徨ってる人もいたらしい。

 

それで今の施設では、何をするでもなく、ただテレビを観たり、たまにレクをしたりしているらしい。

お絵描きとかはしているのかな。

廊下に飾られている。

 

そこの施設にいる人達も、みんな人懐っこい。

みんな握手を求めてくる。

やっぱり「うあああああ!」とか「おおおおおお!」とか叫んでる人はいる。

前は壁に頭を打ち付けてる人もいた。

2人の職員に連行されていった。

 

まあそんなこんなで。

障害者年金は7〜8万円もらってるらしい。

それで施設に通えてる。

年に1回、日帰りでちょこっと遠出するらしいけれど、基本はずっと施設の中でずっと過ごしている。

父はその様子をみて「ただ生きている」と言う。

 

「ご飯を食べて、寝て、それの繰り返し」と言う。

「楽しいのかな?」と言う。

 

たしかに見ている限り、生活保護で言われる「最低限度」の生活だ。

いや、もしかしたらケータイも持ってないし、それより下回ってるかな。

 

だが、おいらの姉はそれに対して不満を持つという知能がない。

周りとおなじ生活だし、誰かに嫉妬して騒ぎ立てるとかもないだろう。

ご飯の内容も、おやつの内容も、部屋も全部一緒。

だからまあ、楽しくやってるような気はする。

人間関係とかも、特に問題はないっぽいし。

 

姉に何をしてあげたら喜ぶかっていうと、手遊びとお絵描きぐらいしか思いつかない。

うん●の絵を描くと笑って喜んでいる。

幸せそうに、笑って喜ぶんだ。

 

姉にとっての幸せって、うん●の絵を妹に書いてもらうことか。

でも妹のおいらは、こんな姉を持ってしまって、自分はちょっと不幸なんじゃないかと思っている部分もある。

うん●の絵を描いて姉に見せて、喜ぶ笑顔を見ても「あー幸せだなあ」と感じたことはない。

 

 

今はだいぶ、姉をコンプレックスに思う気持ちは薄らいできた。

小4〜24歳ぐらいまでは、ずっとコンプでひとりっ子のフリをすることが多かった。

夏休みとか冬休みに友達と遊びたくても、家で面倒みてなきゃいけないのも嫌だった。

長期休暇ってことで帰ってくるんだ。

今はおいらが地元にいないから、お正月とお盆しか帰ってこないけど。

 

あ〜れ〜?

最後に毒を吐こうとして、なんか失敗した。

でも、書き終わった今、デトックスできたっぽくて肌がつやぷるしてきた。

こういう悩みって友達とかに相談しづらいからな。

というか、そこまで悩んでないけど、まあひっかかるやーつ。

ちょっとひっかかってるやーつってかんじ。

 

こ、こちらからは以上です。

幸せってお金だよね〜☆ 

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