真宗僧侶。支縁のまちサンガ大阪代表 川浪 剛氏

いのちは、根源的に受動性の中にあります。
この世の中に自分で生まれたいという意思をもって生まれてくる人は一人もいません。英語で、I was bornといいますが、自分が選んだわけではない「生まれて来た」ということを、生きているあいだにどう折り合いをつけていくのか。
このところ通り魔事件が起こり、「殺すのは誰でも良かった」「人を殺せば死刑になると思った」という犯人の声明が報道されます。自分はもう生きていけない。けれど、自分で自分の人生に幕をひくことができないので、「死刑」という外部の制度によって殺されたいということですね。
そして、それは裏を返せば、「私に託された人生は代替可能であり、私の存在の固有な価値などない」や「どのような人生も自分に託されたものと比べれば非常に羨ましく思える」という思いであるのではないでしょうか。
或いは、自分は生まれたときにひどく傷つけられたのだから、他のいのちを傷つけて復讐を果たしてやるのだということなのかも知れません。
人は、まず「あなたはあなたが生まれたことに責任を負ってはいません」と免責してもらう必要があると感じています。原初の状態で、人は誰にも責められることはない。私が、この顔、姿、能力、性格を選んだわけではない。だからそのことで、他人から傷つけられることはまったく不当なことである。
そうやって、自分の人生を免責されそこからはじめて自分の人生をはじめることができる。そして、この自分に与えられた受動的な人生を、積極的に引き受けて能動的なものに書き換えていく。
それが、人が生まれやがて死ぬという生の営みの全体の中にある大きな課題であると思います。