○寄稿再録

2010年02月26日

 もりたなるお 『鎮魂「二・二六」』 (2)
殉難者慰霊塔(渋谷区、税務署横)

殉難者慰霊塔(渋谷区、税務署横)
(承前)
 著者の立場は、国の運命を憂えるという純粋な動機で改革を意図しながら、叛徒の汚名を着せられ、あまつさえ歴史から抹殺されてしまった将校・兵士に全面的な同情を捧げ、彼らを死にいたらしめた機構の不当性を告発することにある。その万感の思いは「太鼓と銃声」という一章で、処刑を待つ将校の心境に託した、つぎの一言に凝縮されている。「まず討つべきだったのは、御都合主義に動いた幕僚ならびに将軍だったかも知れない。/それともうひとつ重大なことがあるが、ことばにすることは不可能だった。それをいってしまったら、青年将校の忠義は、あとかたもなく消えてしまう。これは苦しく辛いことである」……。

 機構を超えることができない全存在と対峙させるべく、著者が選んだのが麻布賢崇寺の藤田俊訓という一人の僧侶である。住職である彼は、憲兵と特高係警察の露骨きわまりない干渉を毅然と排しつつ、処刑された者の合祀と法要を実行する。山門に乗り込んで「反乱者の供養は止めてもらおう」と凄む憲兵に対し、「人生は石火光中に此の身を寄すと申します。火花が散って消える一瞬の所業を判断するのは、五十年、百年……いや二百年の後の史家に任すほかありません」「現世においても遺恨は消える。まして仏の世界に怨念があろうはずはない」などと反論する場面は、思わず襟を正すような清冽な気魄に満ちている。

「物相飯とトンカツ」に現れる岡山専吉という炊事専任下士官も、印象的な存在である。蹶起将校から「嫌な者は一歩前へ出ろ」といわれて、思わず前へ出てしまう。そのために軟禁され、鎮圧側の将校からも「飯炊き兵は所詮飯炊きか」と侮られるが、事件後は禁を犯して反乱軍に四斗樽入りの飯を届け、責任をとって自決する。忠臣蔵の四十八番目の志士を思わせるが、緊張した兵営の雰囲気に対比させた哀感の表出が見事である。

 周辺的な、ある意味では無名の人物を主人公に据えることにより、かえって事件の本質ないしは人間的真実を見出すのが著者の手法で、そのことは本書のつぎに上梓された『無冠の華』(一九九六)という短編集の中で、渋谷区神南(衛戍刑務所跡)にある二・二六事件殉難者慰霊観音像を守る元近衛将校今泉義道のエピソードにも現れている。蜂起を直前まで知らなかったが、「部下が行くなら俺も行こう」と意を決して参加、禁錮刑に処せられた人である。昭和四十年(一九六五)慰霊像が竣工したさい、彼は像の清掃と供花の定期的な実行を、己の責任として科した。会社つとめをしながら、毎月二と六の日に鎌倉の自宅から渋谷まで、二十数年間を欠かさず通い続けた。事件の関係者かと問う人がいても、いっさい名乗ることをしなかった。人に知られない、無償の行為であることに意味があったのである。「二・二六事件の青年将校ならびに下士官、兵は、世に現れるために行動を起こしたのではない。己の地位保全を目的にして蹶起したのではないのだ。憂国の真情によって起った人々である。きらびやかに顕彰されたりすることを嫌う昭和維新の捨石であった。まして政治的に利用されることを嫌う人たちである」

 この一節に二・二六事件を見る視線のみならず、著者の人生観が集約されているように思われる。それは著者が事件関係者と法要で同席するさいの、いわばスタンスの取り方にも現れる。自ら願って関係者の輪の外にいる。わたしがどれほど二・二六蹶起に対し、全面支持を胸中に抱くとしても、やはり第三者だ。関係者の矜持と悲痛を真に実感することはできない」。

 本書を凡百のノンフィクションと分かつものは、一にかかってこの潔癖な感性にあるといえよう。

(もりたなるお『鎮魂「二・二六」』は、1994年講談社より刊行され、1997年同文庫に収録されました。上記の文章は、文庫版のために私が寄稿した解説の後半箇所です)