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祖父の朝鮮・満州懐旧談録 ――――― by hideおじさん

☆ 満州編(1) ―――――――――――――――――― 2005/05/06
ーー祖父は生前、満州時代のことはあまり話したがりませんでした。

私が話しを向けても、「辛かった」とか「思い出すことが多いから」と話しを
濁らせていました。私もそれ以上は聞けませんでしたけれど、途切れ途切れに
聞いた話を繋ぎ合わせてみたいと思います。

―― 祖父が最初に向かったのは、今の長春、当時の新京でした。
初めて見る満州帝国の首都新京は、素晴らしく都会で、日本人、満州人、白系 ロシア人等々、日本や朝鮮とは全く趣が違うし、満州鉄道の新京駅から放射状 に道が伸び、異国情緒溢れたところと感激したそうです。 駅前の道を暫く行ったところに満州鉄道(以下満鉄)の職員宿舎があり、そこの 一軒を借りることになったそうです。朝鮮でも官舎住まいだったそうですが、 満鉄宿舎のほうが良かったと言っていました。満州事変だ、日中戦争だとはい われていても、新京ではあまり戦争の臭いは感じられなかったそうです。 それより、満州国から満州帝国へと変わるつつあった短い時間の中で、驚異的 な経済成長には驚いたと言っていました。二桁成長などというものではなく、 毎年2倍3倍の成長をしていたのではないかと言っていました。 ただ、それはあくまでも都市部、工業都市部のことであって、満州の田舎では 電気・水道は勿論、陸の孤島のようなところがほとんどだったようですから、 ある意味ではいびつな成長だったのでしょう。 それにしても、毎年のように新しい都市が出来あがり、鉱工業が発展し、今の 上海のように、3ヶ月も経つと風景が変わるぐらいの大発展には心底驚いたと 申しておりました。 祖父はそんな満州に赴任し、1官吏として新しい生活をスタートさせたわけで すが、新京は物も豊富でお店も活発であり、日本のお店あり、中国のお店あり で、いたく異国情緒をくすぐられたようです。 ただ、街の雰囲気というか、その国その国には独特の臭い・香りがあると思い ますが、祖父は「朝鮮よりニンニクの臭いがキツイな‥」と感じたそうです。 たまに「日本製品を買うな」というような張り紙があったのを見かけたことは あるが、だからどうしたという感じだったようです。憲兵や関東軍がすぐさま 排除したので気が付かないことが多かったのでしょうが、祖父には極々普通で 元気のいい街、というぐらいにしかうつらなかったようです。 当時、日本の対外投資の70%以上が満州国に注ぎ込まれていたのですから、 元気が良いと感じたのも当然のことでしょう。一極集中の、とてつもない金額 が投じられていたことが想像できます。―――正確な統計ではありませんが、 これだけ短い期間で急成長を遂げた「国」は、昔も今もないという話です。 祖父の話で、今でも鮮明な印象として残っているのは、 満州には山が少なく、列車で走っていても、だだっ広い平原が何処までも続い ているのには感動したそうです。地平線から日が昇り、地平線に日が沈むなど という光景は、日本では見られないもので、自分が大人物にでもなったような 錯覚に陥るぐらい壮大な景観に思えたそうです。 新京駅の駅前広場の広さにも感動し、たくさんの自動車が行き来しているのに 驚き、はたまた、街路に電信柱が少ないのにもただただ唖然としたそうです。 もうこの時代から、電線を地下に敷設するということを考えていた当時の満州 帝国は「凄い」のひと言だったと言っていました。 バスが町中を走り、デパートあり、大きな公園があり、当時日本では見たこと もないような水洗トイレがあったり、いろんな大道芸人がいたり、映画スタジ オがありと、毎日飽きるこはなかったと言っていました。 こんな話を私にしてくれる度に、祖母からは「何の仕事をしていたものやら」 と嫌味を言われて小さくなっていましたが、とにかく生れて初めて外国に来た という感じがしたそうです。 何処の町の話だったか忘れましたが、女性だけが何十万人も集まってくるお祭 りがあったそうで「そりゃ〜ワクワクしたもんだ!」と子供のような顔をして 話していました。ーーこの話をした後、暫くの間は祖母から口をきいてもらえ なかったみたいでした。ーーーーまぁ、祖父も男だったのでしょう。 ―― さて、 祖父は経済とは無縁の役人でしたから、こうした方面については「凄いな〜」 程度のことしか感じなかったようです。 祖父は、満州帝国の教育問題について調査するということで赴任したそうです が、「こりゃ〜えらいことだ!」と思ったそうです。 朝鮮とは違って国土がとてつもなく広いし、日本人が住んでいるところという のはとんでもない田舎、「未開地」のようなところがほとんどで、ちゃんとし た学校を作ろうにも、どうしたらいいのかと早速壁にぶち当たったようです。 勿論、当時の満州にも小学校はあり、都市部や市部ではある程度充実はしてい たそうです。満州の地においても、満州帝国建国以前より、関東州や満鉄付属 地では、満州人を対象とした学校が作られていたそうです。 その後、張学良が、南京国民政府の教育制度を導入し、三民主義をベースとし た教育が行なわれていたそうですが、一般平民の教育レベルアップとは程遠い 状況で、満州国成立とともになくなってしまったそうです。 満州国では、一時的に中華民国の教育制度導入を考えていたようですが、満州 各地の教育実情が調査されることによって、新しい教育制度が採り入れられて いったそうです。ーーこの満州各地の教育実情の調査が祖父の仕事でした。 祖父が赴任した時には、都市部の調査は既に完了していて、自分らはまだ手が つけられていない、とんでもない僻地へ行かされたものだと言っていました。 僻地部となると、とにかく村・町の距離が今までの感覚とは掛け離れており、 満州人の村落までも相当な距離がある為、学校に児童を集めるなどということ は不可能じゃないのか?と感じたようです。 今でこそ、送り迎えのスクールバスなどというものがありますが、当時は「徒 歩」が当たり前であり、その他の交通機関が発達していない状態では、どうし ようもありません。夏場はともかく、冬場に徒歩で学校へ行くなど自殺行為に 近いわけで頭を抱えたと言っていました。                         = この稿つづく = ┏━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃┃ メールマガジン読後感アンケート結果。 ┗━┛ ◇ このとおりだと思う ---------------------------------- 31人 (61%) ◇ そうではないと思う ---------------------------------- 2人 ( 4%) ◇ どちらともいえない ---------------------------------- 2人 ( 4%) ◇ 知らなかった。そうだったのか〜 ---------------------- 16人 (31%) ┏━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃┃ アンケートコメントボードに頂きました感想。 ┗━┛ ┌──────────「ミカの赤い服さん」 hideおじさん、こんにちは。 「知らなかった。そうだったのか〜」に投票しました。 ◆私の祖母の一家は、満州から引き上げてきました。でも祖母は、当時の話を 聞かせてくれたことがありません。 ですから、今回の記事で当時の様子を垣間見ることができて感謝しています。 └────────── ┌──────────「hideおじさんから」 ミカの赤い服さんのお婆さまもきっと大変なご苦労をされたと思います。 多くの日本人は、満州の都会よりも地方に住んでいたそうですから、平和な時 であっても大変だったでしょう。祖父は地方周りをしていたそうですが、その 土地土地で一生懸命に生きている日本人を見て感動したと言っておりました。 どのようなところでも一生懸命生きていた日本人を、私たちは尊敬しなければ ならないと思います。そんな方々の苦労のおかげで、今の私たちの平和が築か れていること忘れてはならないでしょう。 ただ、中国を侵略して悪いとか、朝鮮を植民地にして悪逆三昧をしたとか、そ のようなことではなく、その時代を一生懸命生きていた日本人にこそ私たちは 学ぶべきであり、平和の尊さを知ることになると思います。 少しでも当時の日本人を肯定的に捉えると批判されたり、ねつ造された歴史だ とか言われることこそ「日本の歴史」を学んでいない人だといえないでしょう か。戦後生まれの私たちは、「日本は悪かった」としか教えられておりません でした。 しかし「日本は良かった」ということ、その両方を学んでこそ初めて日本人が 正しい歴史に向き合うことになると思います。祖父の満州時代の話しは少ない ですが、その中から少しでも当時の日本人がどのように生きていたか知って頂 ければ幸いです。 └────────── ┌──────────「Gさん」 小生、父は臺灣、母は満洲(新京)出身の外地二世です。 hideおじさまとは、二世代ぐらい離れているのかしらん。 母方の爺さまは、小生にとっては、デッカイ、デッカイ「タイジェン」であり ました。協和会の役人をしておりましたが、露兵の満洲帝國侵略後拘束され、 拷問の毎日(脛を木棒でゴリゴリやるのだそうです。拷問の仕方はそれ以上教 えてくれませんでした)。 國學院出身で祝詞をあげることができ、神主だと言い抜けることができ(支那 人の助力もあり)、命ながら得ることができました。一歩間違えば、母は残留 孤児、小生は此の世にいなかったことでありましょう。 小生の知らぬ背後には、数多の人々の苦しみがあるのだと思います。 我が祖父はとんでもない酔っ払いでありました。世を捨てた人でありました。 何も語ろうとはしませんでした。小生も何も聴かんとはしませんでした。 ーーそれが悔しい。それが情けない。 どうぞ、どうぞ、語り続けて下さいませ。 └────────── ┌──────────「hideおじさんから」 Gさん、コメント頂戴しありがとうございます。 朝鮮時代のことには饒舌だった祖父も、満州時代のことになると口が重かった です。いろいろ聞いてみたかったのですが、何か深く聞いてはいけないような 雰囲気がありました。ーーこれは、この時代を生き残った人たちに共通してい る独特の雰囲気かもしれません。 特に、満州帝國崩壊から日本への逃避行については、口の重い人が多いように 思います。今では想像するしかありませんが、自分だけが生き残って申し訳な いという気持ちがあったのではないかと思います。 私が直接聞いたわけではありませんが、帰国後同僚の消息を聞いては安堵した り涙したりしていたそうです。そして、ご遺族の家を訪問しては満州時代のこ とを話して回ったと言っておりました。きっと、それが生き残った自分の責任 と思ったのではないでしょうか。 たまに聞く満州の話しの途中で、ふと顔が曇るのは同僚のことが思い出された のかもしれません。戦後、朝鮮にしても満州にしても、日本が行ったことが全 て悪いとされ、何を言っても聞いてもらえなかったことが、みな口を閉ざして しまった原因かもしれません。 私たち子らが、祖父らの話しを真摯に聞く耳を持っていたら、もっと多くのこ とを将来の為に残してくれたのではないかと後悔しています。現在戦前を知る 人たちが少なくなって来ています。そんな方々が、心おきなく語れる雰囲気や 場を作ることが、私たちがしなければならない「歴史に学ぶ」ということでは ないかと思っています。 └────────── ┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘ └→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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