10/16 全ての要素がパズルの材料でしかないという虚しさ
僕自身かつてミステリー小説を楽しく読んでいたし、それを書く人間のことを素直に尊敬しているし、何より僕自身がエンタメ畑の人間で、とても人のためになるようなものは書いていないということは承知しているが、その上で言わせてもらおう、最近ミステリー小説の存在が人々の読書の形を歪めてきているように思えてならない。ミステリーを読むことそのものが悪いというわけではない。「小説的な楽しみ」というものの基盤にミステリーを据える人が増えてきている、ということが問題なのだ。おすすめの本はないかと問われて、ジャンルの指定もされていないのに、ミステリーばかり挙げてしまう、本=ミステリーの人なんかがまさにそうなのだが。
読書は最後まで楽しみ方が分かりにくい趣味のひとつだ。何百冊という本を読んできた人でも、実は本の楽しみ方というものが未だにわからず、ただ「その本を読んだ」と言いたいがために読んでいるに過ぎない、ということも多々ある。無理もない。僕を含めてという意味で言うのだが、九割九分の人は小説(文学)の読み方を間違っている。でたらめな国語教育のせいで、僕たちは、小説とは「作者に言いたいこと(それは大抵教訓的なこととされている)があって、それを表現するための筋がある」と思い込まされている。糞どうでもいい葛藤や教訓がそこにあると絶えず信じさせられてきた。僕たちは”文章そのもの”を味わうようには教えられていない。「なぜそれは、そのように書かれなければならなかったのか」については考える機会を与えられていない。より極端を目指す文学を、より普遍的に解釈することばかり教えられてきた。受験現代文と文学が読者に求めていることは、ほとんど正反対の位置にあるといっていいかもしれない。
そんな人々が文学に触れて面白いと思うわけがない。それでも読書というものには漠然とした憧れを抱いている。そういうとき、彼らはミステリーに走ってしまう。その世界は一見複雑だが、ルールは至極単純だ。「公正なやり方で、読者を驚かせること」。ミステリーにおいては、最終的に、すべての文章の目的が明らかになる。「あの文章は、このためにあったのか」がすべてはっきりとわかる。「曖昧さに対する耐性」がない人々にとっては、これほど嬉しいことはない。自分が触れている価値を容易に言語化できる分、「自分は今価値あるものに触れている」という安心感を容易に獲得できるからだ。
そして一番の問題点は、そうした楽しみには映画や漫画などでは中々触れられないため、「これこそが読書の醍醐味なんだ」と思い込んでしまうことだ。すかさず、「これこそが本の読み方なのだ」という罪作りな勘違いがそこに生じる。緻密な構成、張り巡らされた伏線、意表を突く結末こそが本の価値基準なのだと彼らは思いこむ。優れた文章とは、そうした整った筋を邪魔しないというのが前提条件であると考える。また読者がすんなりと共感できるものこそが良い感情描写なのだと決めつける。すんなりと入ってきて、「読書」の楽しみを妨げないものこそが素晴らしいという本末転倒な価値観が育つ。
人間のためのミステリから、ミステリのための人間になってしまっているという本末転倒、全ての要素がパズルの材料でしかないという虚しさには目を向けない。彼らは新しいものを読みたがっているが、根本的なところでは、「同じ楽しみの再現」を望んでいるという意味で、同じものばかり読みたがっている。そのため、何かが「引っかかる」、意味が「曖昧である」、思考が「わからない」といった、再現の妨げとなるものを極度に嫌う。でもそれこそが、本来、「読書」であったはずなのだ。新しい何かを知ること。すんなりとは入ってこず、何とか咀嚼して飲みこめるようなそれにこそ、知的な「栄養」がある。似非読書家の彼らが求める「読書」は、流動食に過ぎない。しかしもう一度言うが、決してミステリーを読むこと、好きでいることは別に間違いではない。読書の根底にそれを据えることがまずいのだ。一ジャンルとして楽しんでいるのであれば、まったく問題ない。
10/15 ライターズ・ハイ
これだけはずっとわからないし今後もわからないんだろうが、果たしてレッドブルがすごいんだろうか、それともレッドブルを必要とするような状況において発揮される集中力がすごいんだろうか、よくわからない。睡眠時間は三分の二程度になるし、執筆効率は二十倍くらいになる。ただ、普段はこういう集中は長くは続かなくて、大体三日くらいで跡形もなく消えてしまった後、どうしようもない虚脱感を残していくものだが、今回はそれが十日以上続いている。
ひょっとすると僕は、生まれて初めてのライターズ・ハイを経験しているのかもしれない。とはいえ締め切りはすぐ傍だ。あれこれ検証している暇はない。魔法が持続しているうちにすべてを仕上げなければならない。
10/4 世界が優しくなるとは限らない
あんまり適当なことを書くわけにもいかないので、ここ最近はずっと、死ぬ前に人が何を考えどう行動するのか、考えたり調べたりしている。「あなたは死ぬ前に何がしたいですか?」という問いへの答えはものすごい数見てきたのだけれど、どうも納得いくものは少ない。強烈な違和感を、僕は覚えている。
健康な人はどうも、「死ぬ前にしたいこと」と「生きているうちにしたいこと」をあんまり区別しない。だがこの二つ、似ているようで、全然違うのだ。死者の視点と生者の視点。大抵の人は後者の立場で考えるから、「すっきり死ぬため」にやっておきたいことを挙げることが多い。身辺整理とか、知人に感謝を告げるとか、好きな人に好きといっておくとか、おいしいものを食べるとか、欲しかったものを買うとか、見たかったものを見に行くとか、生きたかった場所へ行くとか。
でもそういうのって、本当に「死ぬ前」にやりたくなるだろうか。部分的には重なるだろうけど、でもやっぱり、それはあくまで生者の視点である気がする。考え抜いた結果、ひとつ確信を持って言えることがある。死ぬ前にはものすごく寂しくなるだろう、ということ。誰かに覚えていてもらいたくなるだろう、ということ。
他人の墓を作るのは、自分の墓を作ってもらうため、という側面がある。死んだ人を覚えておいてやることによって、死んだ自分が覚えていてもらえるように仕向けているのだ。
死ぬ前にはさみしくなるだろう。だが、そうやって人恋しくなった余命僅かの彼に、人はどこまで構ってやるだろうか。生きている人間は、これからも生きていかねばならない。これから死ぬ人間に、いつまでもは付きあっていられない。厭世的すぎるかもしれないけれど、とにかく僕は、こういうことをいいたいのだ。「僕たちの死期が迫ったからといって、世界が僕たちに優しくなるとは限らない」。いや、それどころか、生から脱落した部外者として、遠ざけられる可能性さえあるのだ。人々のいう「死ぬ前にしたいこと」がしっくりこないのは、彼らが世界を信頼しすぎている感があるからかもしれない。それと、極端に楽しいことばっかりしようとする人も、それはそれで、死への未練がどんどん強くなってしまう気がするのだが、そういうことは考えているのだろうか。楽しけりゃ楽しいほど泣いちゃう気がするぜ。
こういうと何かのサービスの宣伝みたいだけど、「安心」と「納得」を手に入れようとするかもしれないな、僕だったら。「少なくとも死を意識しはじめてからの人生は悪くなかったし、死ぬこともそんなに悪くない」という心理状態をどうにかして作らないと、やっていけなさそうだから。9/29 小悪夢に対する抗体のようなもの
午前三時に目が覚めたときの得体の知れない憂鬱を抱えて夜風に吹かれながら歩いていると、人がくだらない歌を作ってしまう理由さえよくわかってしまう。なんで早目に寝て深夜に起きるとこんなに気分が悪いんだろう、と僕は考える。寝る前に儀式を行わなかったからだ、という結論に達する。
うまく説明できないのだが、僕は寝る前にいつも、適切な音楽を聴き、適切な考え事をして、適切な精神状態にして、「覚悟を決めて」眠るようにしている。そうすると大抵は悪くない気分で寝ることができる。逆に言うと、そういう儀式を行わないと、大抵はよくない気分で起きることになる。疲れで自然に眠ってしまったことで、儀式を怠ったから、こういう最悪の目覚めになるのかもしれない。
あるいは、単に深夜に起きることで、途中で醒めてしまった夢の印象をそのままこっちに持ち込んでしまうことが原因かもしれない。寝覚めが悪かったことからして、悪夢を見ていたことは確かだ。僕の見る夢は、基本的にリアルというか、おもしろみがない。電車に乗り遅れる夢だとか、誰かに嫉妬する羽目になる夢だとか、何かに失敗する夢だとか、そういう”漠然とした不安”に関する夢ばかり見る。もしかすると、僕は例の儀式を行い覚悟を決めることで、そうした小悪夢に対する抗体のようなものを作っているのかもしれない。
もっと強い抗体を作らなきゃな、と僕は思う。ヴォネガット風にいえば、「そろそろ新しい物語をこさえる必要がある」ということだ。 9/28 むなしくなると消す
ぼくは日記やら小説やらつぶやきやらげんふうけいやらをすぐに消すくせがある。消す条件はひとつ、それを見ていてなんかむなしくなったら、だ。ぼくはむなしいのがきらいだ。長持ちしないものがきらいだ。しらけてしまうものがきらいだ。だから先にしらけさせられる前に自分からしらけるし、長持ちしそうにないものは最初から持たない。飽きるのが怖いから、最初から飽きられているものを愛する。そういうわけで、ぼくがなにかとすぐ消すことを、ほんの少しでいいから理解してほしい。せめてウェブの中でくらいは、ぼくの臆病を存分に発揮させてほしいのだ。9/27 傷を舐めあったことで傷口から黴菌が入って、それが原因で死にたい
ぼくはずっと勘違いをしていたらしいんだ。いろんなひとに認めてもらえば、ちょっとは気分もよくなるんじゃないかと思った。でも違うんだ。たしかに気分はよくなる。けれども気分がよいからって、根っこにある悲しみは、ちっともよくならない。むしろ、こんなに気分はよいのに悲しみがちっとも癒えないということに、いいようのないむなしさを感じる。なんでこんなばかげたことをはじめたのか、思い出したぞ。ぼくはずっと、あれの方法について考えていたんだ。最初っからずっと、理想的なそれについて考えていたんだ。せめてよい気分でそうなりたいって、ずっと考えていたんだ。これはながいながい、あの悲しい手紙だったんだ。まあいいさ。悲しいだけで、あとは平気だよ。
9/25 早く人が死ぬ話を書きたい
スターティング・オーヴァーの発売日なわけだけど、僕はずーっとこの作品についてある違和感を抱えていて、それで今日改めて手元の本を読み返してみて、ようやくわかったんだ、そして思ったんだ、「早く人が死ぬ話を書きたいな!」って。そう、早く人が死ぬ話を書きたい! 正確に言うと、僕は「死」そのものが書きたいんじゃなくて、死を通してプレーンになる「目」を通して見える景色が書きたいだけなんだけど、なんにせよ早く人が死ぬ話を書きたい。9/21 行間に敬意を払わないひとびと
僕は誤解というものが死ぬほど嫌いだ。多分、こう書いた時点で、既にたくさんの誤解が生まれ始めていると思う。僕はそのことを悲しく思う。物事があまりに正しく伝わらないことを、言葉というものがあまりにコミュニケーションツールとして未熟であることを、言葉を使いこなすべき僕らがあまりに未熟であることを、悲しく思う。幸いなことに僕自身はそれほど誤解の被害を受けていない。それでも悲しく思う。
あらゆる意見は必ず反論の余地がある、ということを前提として、ならばそれを否定した上でどれだけ生産的な意見を述べられるかというところから始めるべきなのに、反論のみにとどまっている人間が多すぎる。行間に敬意を払わない方法なら、反論は必ず可能なのだ。言ってもいないことがいったことにされ、言ったことが言っていないことにされる。言葉というものの構造がそれを助長している。もちろん他に頼るべきものはないから、僕らはどうにか言葉でやっていくしかない。しかし、送り手がどんなに慎重に言葉を用いたところで、受け手が言葉に鈍ければ、どうしようもない。誤解は必ず生じる。言葉は「わかるもの・伝わるもの」であるという認識を捨てることに伴う不安は生命の危機さえ人に感じさせるが、でも結局のところは言葉は「わからない・伝わらない」ものなのだ。
はっきり言って、言葉は未だに一か八かだ。こうなると、もう放っておいてくれと言いたくもなる。定型句以外を口にしたくなくなる。とはいえ、何にも伝わらないよりは、その十倍の誤解を連れて来ることになろうと、何か伝わった方がいいに決まっている。そういうわけで、今日も僕は言葉を使う。言葉を鍛える。言葉に鍛えてもらう。大体、言葉に絶望するには僕はまだ言葉との付き合いが浅すぎる。9/17 物語における「都合のよい女の子」について、僕が本当に思っていること
言うまでもないことだが、「読者」は日に日に賢くなってきている。作り手としての僕も、作り手として賢くなってきているとは言いがたいが、やはり「読者」としては日に日に賢くなってきている。作り手と読み手の距離は着実に狭まってきていて、読者は作者の「意図」や「背景」を行間から読み取るようになってきている。
たとえば、こんな女の子が作中に現れたとしよう(それは別に男の子でも良いのだが)。何の魅力のない主人公を愛してくれる女の子。彼女は病弱で、知り合いが少なく、「自分などに優しくしてくれるこの人(主人公)は、なんて優しい人なのだろう」と思い込んでいる。彼以外の誰かが自分を好きになってくれるとは露ほども思っていないのだ――
ここで「読者」は思うかもしれない、「ああ、この本の『作者』は、そういう、『自分に快を与えてくれる存在、かつ自分を絶対に傷つけない存在』を欲していて、そういう女の子から永遠に唯一無二の依存対象とされたいという心理が、こうした登場人物の存在にあらわれているのだろうな」、と。
彼(彼女)の言い分はおそらく正しいし、作者も薄々それには勘付いているだろう。ところでそういう「作者の願望に基づいた女の子」のことを、人は一般に「都合のよいヒロイン」と呼ぶ。そして、そうしたものを書く作者を人間的に未熟で弱い人間だとみなす。
ここで僕の頭に疑問が浮かぶ。では逆に、「どこまでも妥当な理由で主人公を愛し、まったくこちらの思う通りにはならない、独立した自我を持った依存的でない強い女性」であるヒロインがいたとしよう。この人物が健全な欲求からでてきたというのであれば、確かにそれは褒められるべきことかもしれない。だが「書き手」というのは、どこまでも見栄を張る存在だ。そういうったヒロイン像を描くことで、一部の書き手は、こういう欲求を満たしているのかもしれない――「自分はこういう”正常”なヒロインを描ける、成熟した人間なんだぞ」。
健全派と演出派の比率がどれくらいを僕が知るすべはないが、一つ言えるのは、そうした「成熟した自分」の欲望を演出したがる人間のやり方と、「未熟な自分」の欲望を包み隠さず表現する人間のやり方、どちらが本当に「都合がいいか」は、一概には決めつけられないということだ。見方によっては、前者の描くヒロイン像もまた、彼の自尊心を満たす上では、「都合のよいヒロイン」と言える。都合のよさが表れるのがより実生活に近い場所である分、そういう生活レベル・人生レベルでの見栄を張るための「都合のよさ」というのは、作中レベルにおける「都合のよさ」よりも、よほど都合がよいと言うこともできるのかもしれない。一方、自分の願望をさらけ出し、それを未熟なものとして批判される覚悟を持ったうえでそういったものを書いている人がいるのだとしたら、それは自ら「都合の悪い」やり方を選択しているということになる。
僕の言いたいのは、多分こういうことになるんだろう。「都合のよいもの」を描くことが都合の悪さに繋がっていることもあれば、「都合のよくないもの」を描くことが都合のよさにに繋がっていることもあるのだ。9/16 記録のためではなく、書くための記録
特に僕の場合、書くことがあるから日記を書くというよりは、日記を書きたいから書くことを考える場合の方が多い。そこで僕は書くことを考える。ここ数週間は、起きたら大学へ行って研究を進め、帰ってビールを一缶飲み、煙草を吸って酔いがさめたところで執筆、書けなくなったところで寝るという非常に単純な繰り返しが続いていたものだから、書くことというのは非常に少ない。
タイピングの話。おそらく僕は普通の人と比べて遙かに長くキーボードに触れているのだが、タイピングがあまり上手くない。早く打つことはできるのだが、どうも指づかいが美しくない。余計な動きが多く、そのせいか指の疲れも激しい。
そこでこの夏休みを利用して、タイピングを一からやり直すことにした。やり方は簡単、正しいタイピングを心がけ、間違った打ち方をしてしまった場合は、たとえ入力が正確であろうともう一度打ち直すこと。たくさんのことに気付く。やたらと「人差し指→中指」の連携にしたがる傾向、薬指の独立ができていないせいで打鍵のラグが生じること(ピアノみたいな話だ)、縮める筋肉が不器用であるせいで句読点をやたら親指で打っていたこと、「ー」と「^」を間違える回数の多いこと。
長年続けてきた習慣を変えるのは難しい。それは肉体的にもそうだが、これまで自分がやってきたことを否定するということは、これまでの自分自身をも否定することだ。これまでの自分がやってきたことは間違っていて、無駄だったのだと認めることだ。それには少しばかりの勇気と、たくさんの余裕が必要となる。しかしこういった小革命は、コストパフォーマンスの向上を僕にもたらすとともに、大きな刺激となってくれる。身近なものほど、見慣れたものほど、その変化は際立つ。まるで三原色が四原色になり、味覚が二つ増えたみたいな気分になる。9/12 一見無作為に、その実、非常に戦略的に選択される名前
発売まで残り二週間弱。現物が届いた。こうして手に取ると、ようやく自分の本が出版されるのだという実感が湧いてくる。逆に言えば、これまで僕はあまりそういう実感を得られないできた。普通の小説家は新人賞に応募するなり持ち込みをするなりしてデビューするといった手順を踏むものだと思うのだが、僕はその過程をすべてすっ飛ばしてしまった。新人賞の発表を待つという気苦労をしなくて済んだのは喜ばしいことだが(想像するだけで胃が痛くなりそうだ)、その代わり賞金が入ったり授賞式に呼ばれたりすることもないので、実感というものを得る機会がほとんどない。本当に僕なんかの本が出るのか? そんなに上手い話があるのか? いまだにそういう要らぬ心配が絶えない。
今更思ったのだが、よく僕がペンネームでデビューすることが許されたものだ。大抵の出版社、編集者なら、ウェブの名義そのままで出版することを強要してきそうなものである(いや、それ以前に、僕自身がげんふうけいと名乗った覚えは一度もなく、いつも「”げんふうけい”の僕」としか言っていないのだが)。あるいはタイトルを強制的に「げんふうけい」にさせられるか。いずれにせよ、僕はそういうのは嫌だった。ウェブにはウェブに適した”ことば”がある。そこでは名前的な名前は慎重に避けられ、記号的な名前が、一見無作為に、その実、非常に戦略的に選択される。しかし、本人が望まないのに、ウェブの”源氏名”をそのまま現実に持ちだして売ろうとするやり方は、理由はあえて説明しないけど、時としてはとても冷たいやり方と言えるだろう。
これがいい報告なのか悪い報告なのかは分からないが、手元に届いた本を、湯船につかってじっくり読んだ後、僕が持った感想は、「今の俺ならもっと上手く書けるな」というものだった。もちろん、当時の僕でしか書けなかったようなフレーズもいくつかあるのだろうが、「スターティング・オーヴァー」を書ききったことで、僕も少しは成長したらしい。元々僕は、出発点があまりに未熟なために、いまだ書けば書くほど上手くなる状態にあるのだ。次の作品には今回の2倍期待して欲しい――と言うと一作目を露骨に貶す形になってしまうので、まあ1.2倍くらいを期待して欲しい。そして更に次作品が出せるのなら、それには 1.5倍の期待をして欲しい。とはいえ一作目にも期待はして欲しい。ウェブ版の三倍は面白いはずだから。8/31 懐かしい、あの自己完結的な癒し
秋が近づくとアコースティックギターの音が恋しくなって、クラプトンの「アンプラグド」に代表されるような音が聴きたくなる。乾いた音が秋らしいというのもあるだろうが、何より、僕が初めてギターを買ったのが秋のことで、それから数か月、ギターのことしか頭にない時期が続いていたということが一番の理由だろう。あの頃はギターのことを考えるだけで幸せだったし、出来ることが一つずつ増えていくのがたまらなく嬉しかった。ああいう、フィービー風に言えば「実際のもの」に根差した喜びというのは本当にいいものだ。
最近はエレキギターを触る機会の方が多いのだが、もう一度あの時期みたいに生ギターに入れ込んで、「実際のもの」と触れ合う時期が欲しいと今でも思っている。
当時弾いていて楽しかったのは、たとえばポール・マッカートニーの「Jenny Wren」、先述したエリック・クラプトンの「Lonely Stranger」みたいな曲だ。こういう曲を秋の曇りの日、静かな部屋で一人弾いていると、懐かしい、あの自己完結的な癒しが得られたものだった。
8/23 読み甲斐のある脱線
スターティング・オーヴァーが”きちんとした”小説形式で書かれていることについては既に何度も触れているけど、ちょっと文章を齧っている人なら、「今まであの特殊な形式で物語を書いていた人間が、急に小説形式で書けと言われて書けるものなのか?」という疑問が湧くかもしれない。一般的な話をすれば、そういうことも大いにあり得ることだとは思う。
ただ、ひとつ誤解しないでいて欲しいのは、そもそも僕は初めっから通常の散文に特化した人間で、それを無理矢理ウェブに馴染む形式に直して公開しているものが、今の「げんふうけい」なのだということだ。ゆえに今回、見やすさを意識したウェブ特有の改行リズムを意識しなくて済んだり、これまで避けていた「徹底した描写」がある程度になったりしたことで、僕はかなりのびのびと文章を書くことが出来た。
今回、「ドッペルゲンガー」が主人公と対峙して長々と会話するシーンがあるんだけど、こういう持論の主張、演説的な場面を入れることができたのが個人的に嬉しい。それから、主人公が二周目の中高時代を回想するシーン。回想っていうのは基本的にその間話が進まないからウェブでは避けるようにしていたけど、文庫版では容赦なく好きなだけ書くことができた。そういうわけで、大幅に加筆した部分に関しては、いつもより文章が生き生きとしていると思う。校正を終えて気づいたのは、僕自身が楽しんで読めたのは「加筆修正部分ばかり」だったということ。
やっぱり文章の魅力っていうのは、ただ筋を進めることや期待と不安を煽って翻弄することではなく、「読み甲斐のある脱線」なのだと再認識させられた。スターティング・オーヴァーを書き終えて思ったのは、そんなことだ。8/22 淀みきった牛河のシフトと、仮面としての役割
ようやく、「1Q84」が350円の時期から105円の時期に移行した。古本屋の話だ。立場や状況がどんなものになろうと、基本的に本にはあまり金を使わないというのが僕の主義だ。決して僕は純粋な物書きではないし、真面目な物書きでもなく、だからこそ外部の想像力をもって執筆にとりくめるのだと考えている。文学も音楽も、生活に彩りを添える一要素に過ぎない。肝心なのはもっと実際的な何かだ。
350円の値札の上から105円の値札が重ね張りされた1Q84を六冊すべて購入し、一日200ページ程度のペースで読み返す。すると当然だが、初読では見えてこなかったものが見えてくる。しかし僕の心に最もくっきりとこびりついたのは、やはり初読でも僕の中に強い印象を残して行った、「ねじまき鳥クロニクル」においても脇役として登場した「牛河」の存在だ。春樹の小説において、こういった人物――はっきりと相手に不快感を与え、誰からも好意を与えられない人物――は、登場こそするものの、そこからの視点で切実に物事が語られることは、ほとんどなかったか、まったくなかったと記憶している。春樹特有の潔癖な描写から逸脱した人物。その牛河が、1Q84においては主人公の一人として機能している。
多くの読者が同じことを感じたと僕は踏んでいるが、牛河の登場からしばらくして、僕たちは青豆よりも天吾よりも牛河のターンを望んでいることに気付く。ある物事に対する見方が、語られ方や筋書きによって”ずれ”て、より適切らしいところに収まること――それが小説の醍醐味のひとつだとすれば、牛河の章が面白くならないわけがない。「ねじまき鳥」においては不吉な予言を告げる烏のような役割にとどまっていた彼が、ひょっとすると、これまでの春樹作品の中では、もっとも容易に共感可能な人物に変化するのだ。こういう”シフト”は、単純ながらも非常に有効な手法だと僕は考えている。
ただ、こういったシフトが面白いのは確かだが、それ以上に興味深いのは、牛河という極端な仮説――仮面と呼ぶこともできるかもしれない――を通して物事を語ることによって、村上春樹という作家の中から、これまでは中々引き出せなかった物がするすると引き出されているということだ。それは、ある偏った人間と二人きりで会話することによって、「こんなことを自分が喋るとは思わなかった」といった内容が口からこぼれ出してくることと少し似ているのかもしれない。「カフカ」のナカタ青年も似たような役割を果たしてはいたが、彼は良くも悪くも中身の少ない、プレーンな存在として描かれていたのに対し、牛河はしっかり”淀みきって”いる。だからこそシフトが面白いし、仮面としても面白いのだ。8/21 決定的な死ではなく、ちょっとの間、死んでいること
一日のうちで本当にリラックスできるのは深夜だけで、十二時を回った頃、外の空気を吸いに行くのが僕の日課になっている。徒歩一分程度のところに住宅街を見下ろせる丘があって、そこで煙草を一本吸う。ときどき空を見上げて、月や星なんかを眺める。この時期になるとメンソール系の煙草に手を出してしまい、毎年欠かさず後悔している。いいかげん懲りるべきなのだ。
夜が好きで、眠るのが好きだ。僕の書く話には、主要人物が寝ている場面がいくつも登場する。眠るのが好きな人間は半分くらいは死ぬのが好きだというのが僕の持論だ。たぶん間違っているんだろうが、間違っているから意味がないということにはならない。だから僕は持論を曲げない。
僕らは毎晩疑似的に死んでいる。しかし、もちろん死を好む僕らは決定的な死を望んでいるわけではない。ただ、ちょっとの間、死んでいるのが好きなだけだ、死ぬのが好きな人間は、必ずしも生きているのが嫌だというわけではない。生活が充実していようと、輝かしい栄光を手にしていようと、愛している人間に愛されていようと、それは根本的には関係のない話だ。死をこの上なく悲惨なものとして捉えているか非現実的に綺麗なものとして捉えているかというのも、まった関係のない話だ。僕がここで言っている”死”は、もうちょっと別の意味で用いられている。消滅、などと言った方が適切なのかもしれない。8/20 100%起きる1%について
チャールズ・ブコウスキー、「詩人と女たち」より、会話部分のみ引用。飲んだくれではあるがそこそこ名の知れた中年作家と、その恋人である若い女の会話。
------------------------------
「わたしは偉くなる! わたしはほんとうに偉くなる! わたしがどれほど偉くなるか誰にもわからない!
「わかったよ」
「あなたはわかってないわ。わたしは偉くなるの。あなた以上の可能性を秘めているのよ!」
「可能性なんて関係ないよ。ただやればいいんだ。可能性なんていったら、ベビーベッドにいるほとんどの赤ん坊の方がわたしよりも持っている」
「でもわたしは成し遂げるの! わたしはほんとうに偉くなるの!」
「わかったよ。でもそうなるまでまずはベッドに戻ったらどう?」
------------------------------
この部分を読んだ後、僕は「可能性」ってものについて考えずにはいられなくて、だから考えてみた。この若い女はまだいい、こういう言い回しをする分にはまだ可愛げがある。まずいのは、成功者を前にして、心の中で「俺にだって可能性はあった」と考えてしまう輩だ。「チャンスさえあれば、俺だって」。しかしチナスキーが言う通り、可能性の話なんてのは無意味なのだ。「ただやればいい」といった先にあるのは、そして結果が全てを語るだろう、ということだ。もしそのとき成功できなかったのなら、ある意味ではそれは、「可能性がなかった」と言えるのだ。成功率99%において1%が起きてしまった、なんてことが誰に言えるだろう? その1%が起きる確率が100%だったかもしれないじゃないか。人間の可能性は見せかけに過ぎない。
7/28 ミスター・ノーバディ
明日からウェブも酒も煙草も運動も外出も一切できなくなるので、今日のうちに全部を楽しんでおく。これから数日は、音楽鑑賞と読書だけが娯楽だ。健康的と言えば健康的なのだが、それはそれで不健康だ。
せっかくペンネームを決めたのはいいのだが、最初のうちは、いざメールや電話で「三秋です」と言うとき、どうも妙な感じと言うか、悪いことをしているような気分になった。出会い系サイトのサクラでもやっているような気分。
最近は徐々にこの名前にも慣れてきたのだが、今度はまた別の不都合が生じてくる。大学院生になってからというもの人付き合いが激減して、人から名前を呼ばれる機会が激減した。――たとえば僕の本名が山田さんだったとしよう。近頃の僕は、山田さんとして生きている時間より、三秋さんとして生きている時間の方が多いのだ。少なくとも書いている間や書くことについて考えている間、僕は三秋縋なのだから。おかげでたまに本名を呼ばれると、逆にペンネームを呼ばれているような気分になるという奇妙な現象が起きている。そのうち、ミスター・ノーバディになってしまうよ。7/27 みあきすがるの理由
人に会って話したいこともなければ、ツイッターでつぶやきたいこともない。僕はここ数週間の集中的な執筆によってすっかり言いたいことを言いつくしてしまったようだ。アウトプットによって空っぽになった僕は、実に久しぶりにインプットを開始した。映画を毎日一本見て、本を何冊か並行して読む。街を当てもなく歩いて、目に入ったものについてあれこれ考えてみる。片付いた頭の部屋は想像以上にスペースを持て余していて、今ならいくらでも詰め込めそうに思えた。
そうそう、ペンネームがようやく決まった。三秋縋。「みあきすがる」だ。再三にわたって言っているように、僕は名前というやつにほとんど関心がなくて、実を言うと九月末に発売される「スターティング・オーヴァー」に出てくる登場人物の名前も既に何人か忘れてしまっている。どうして三秋縋なんて名前にしたのかも記憶が定かでないのだが、たぶんイニシャルをMにしたかったんだと思う。村上とか舞城とかの傍に置いてもらえるから、とかそんな単純な理由。
7/15 ライ麦畑から連れ出して
クソみてえな音楽ばかり流すブック・オフに入店するたび非常にファック・オフな気持ちにさせられることが分かっていても、僕の読書環境を支えるのはこれまたクソみてえな本しか扱わない大学図書館(ポール・オースターもカート・ヴォネガットさえもない)、それと風が吹けば音を立てて崩れそうな市立図書館くらいしかないから、結局そこに足繁く通うことになる。
あまりに頻繁に訪れる物だから、段々と僕は店員並かそれ以上に書棚の中身に詳しくなり、いつどんな本が入ってきて、出ていったのか、かなり正確に分かるようになってしまう。更にそれを重ねているうちに、もはや一斉に入ってきた本の中で、この本とこの本とこの本は同一人物が売ったものだ、といったことが分かるようになってくる。今日は趣味の良い客が本を売っていったらしく、そこら辺の本屋じゃ置いていないような本まで、安値で手に入れることができた。一番嬉しかったのは、バロウズが百円で何冊も手に入ったことだ。この辺りの古本屋じゃ、中々そういうことは起きない。
日記を書くのは約一か月ぶりで、その間に文体の変化が起きたのだろうかと読者は想像するかもしれないが、なんてことはない、次の小説の文体を模索中というだけだ。二か月近くホールデン口調ばかり取り扱っていたせいで、すっかりこういう文体が愛おしくなってしまった。それにしても、つくづく日記ってやつは重要だと思う。自分が世界をどういう風に見て、それをどういう風に表現するか、その練習として最も手っ取り早いのが日記だ。よく、お題を見てそれについて短編小説を書く、というトレーニングから始める人がいるが、日記を書けと僕は言いたい。日記は洞察力と表現力を鍛えてくれる。世界を見て日記を書くべきだ。
そう言うお前はどうして日記を一か月もサボっていたのか、と聞かれると耳が痛い。僕は確かに忙しかった。「スターティング・オーヴァー」の改稿と院の研究に追われ、日記を書く時間が取れなかった、と言い訳すれば、多くの人は納得してくれるだろう。だが僕は知っているのだ、そういう時期こそ、本来日記を書くべきなのだということを。この一か月弱の経験で、僕はつくづくそれを思い知った。執筆のみに集中している自分の書いたものなんて見たくもない。気を抜くと自分が今何を書いていたのか忘れるくらいでいいのだ。6/19 兄さんは世の中に起こることが何もかもいやなんでしょ
まあ聞いてくれ。「ライ麦畑につかまえて」では、主人公ホールデンとその幼い妹フィービーの間で、こんな会話が交わされるんだ。
------------------------------
「いや、フィービーよ。僕にはうまく説明できないな。僕はただ、ペンシーであったことが何もかもいやだったんだ。わけはどうしても説明できないな」
「兄さんは世の中に起こることが何もかもいやなんでしょ」
「違う。違うよ。絶対にそんなことはない。だからそんなことは言わないでくれ。なんだって君はそんなことを言うんだ?」
「だってそうなんだもの。兄さんはどんな学校だっていやなんだ。いやなものだらけなんだ。そうなのよ」
(中略)
「一つでも言ってごらんなさい」
「一つでも? 僕の好きなものをかい?」
(中略)
「兄さんは一つだって思いつけないじゃない」
「いや、思いつける。思いつけるよ」
「そう、じゃあ言ってごらんなさい」
「僕はアリーが好きだ」「それから、今してるようなことをするのも好きだ。こんなふうに君といっしょに坐って、話をしたり、何かを考えたり――」
「アリーは死んだのよ――兄さんはいつだってそんなことばかり言うんだもの! 誰かが死んだりなんかして、天国へ行けば、それはもう、実際には――」
「アリーが死んだことは僕だって知ってるよ! 知らないとでも思ってるのかい、君は。死んだからって、好きであってもいいじゃないか、そうだろう? 死んだからというだけで、好きであるのをやめやしないやね――ことにそれが、知ってる人で、生きてる人の千倍ほどもいい人だったら、なおさらそうだよ」「それはともかく、僕は今みたいなのが好きだ」「つまり、この今のことだよ。ここにこうして君と坐って、おしゃべりしたり、ふざけたり――」
「そんなの、実際のものじゃないじゃない!」
「いや、実際のものだとも! 実際のものにきまってる! どうしてそうじゃないことがあるもんか! みんなは実際のものをものだと思わないんだ。クソタレ野郎どもが」
「悪い言葉はよしてよ。じゃいいから、何か他のものを言って。兄さんのなりたいものを言って。たとえば科学者とか。あるいは弁護士とかなんとか」
(中略)
「僕が何になりたいか言ってやろうかな? なんでも好きなものになれる権利を神様の野郎がくれたとしてだよ」
「なんになりたいの? ばち当たりな言葉はよしてよ」
(中略)
「僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ――つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっからか、さっと飛び出していって、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げてることは知ってるけどさ」
------------------------------
これを読んだ人の大半は、終盤の「ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ」を見て、「ははあ、タイトルに繋がるこの部分はさぞかし重要な台詞に違いない」と思うんだけど、一連の会話において重要なのは、「兄さんは世の中に起こることが何もかもいやなんでしょ」「そんなの、実際のものじゃないじゃない!」という妹の問いかけだと、僕は思うんだよな。それについて説明しようとすると、どうしても陳腐な物言いになってしまうから、あえてそれは避けるけど。
ホールデンの本質は反抗心や純粋性なんだという解釈が多いけど、そんな言葉で片付けちゃっていいものなのか、僕は未だに疑問に思っている。 5/20 王様は裸じゃなかったのに
村上春樹の新作「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は運良く発売から数日後に知人から借りて読むことができた。「ああ、今はスプートニク的で国境の南的でアフターダーク的な時期なんだな」、というのが第一の感想。そしてそういうものを今の春樹が書くことは、もちろん悪い事じゃないに決まってるのだが、タイミングとしては最悪だ。何せ今回の春樹は、少なくとも表面上は「わかりやすい」ものを書いてしまった。もちろんこれまでのような突飛な話、「死のバトンタッチ」やら「想像の責任と性交」みたいな話は出てくるのだが、全て、一見解釈可能な形に収めてしまった。
さて、このことによって元気になるのが、「1Q84」を読んでもやもやしていた層だ。彼らとしては、「自分は彼の作品を理解できなかった」と考えるより、「彼の作品は理解するに値しないものだった」と考えられた方が都合が良い。自分の無知・無理解を受け入れなくて済むからだ―― まあ、そういう社会心理学的な話はおいとこう。率直に言って僕は不快だった。表層的な部分だけを読んで「自分には合わない(理解できないのではなく趣味に合わない)」と決めてかかり、自説を補強するような箇所ばかり本文から抽出して、「ほら、これはこんなにくだらない」という連中のことが。彼らは一人きりなら自信がなくてそんな大それたことは言えないのだが、「周りの皆」も同じように「村上春樹」を叩いているから、安心して攻撃する側に立てるのだ。「お洒落を気取りたい人間が読む鼻もちならないサブカル小説」ということにしておかないと、それが理解できない自分が低い存在となってしまうから、皆必死なのだ。
不思議でならないのは、エルサレム賞とカフカ賞を受賞した人物が、そんな「糞みたいな小説」を書いたと断言できる人々の自信がどこから湧いてくるのか、ということだ。エルサレム賞とカフカ賞がたいした賞じゃないと断言できるということだろうか? 僕は決して権威主義の人間というわけではないのだが、ただ単純にそう思うのだ。ピカソの絵が下手だと自信満々に言う連中がいるが、それと似たようなものなのだろう。とにかく彼らは表面的な、言語化が容易な物事に縛られ過ぎている。結論を焦り過ぎている。まず、どうして自分がその本を「読めた」と思っているのだろう? 多分あの本を買った人間の七割は、物語の筋だけ追って、首を傾げたまま斜め読みで読了しているのだろう。そしてもやもやが残って、ウェブで感想を見に行って、批判意見が並んでいるのを見て安心した後、自分もそれに加わって、「村上春樹を叩ける自分」に酔いしれながら下品で無意味な批評を垂れ流すのだ。時には人格批判まで加えながら。
たとえば、裸の王様。あれがもし、本当に馬鹿には見えない服で、頭の良い人間には見える服だったとしよう。そして王様にはそれが見えていたとする。ところが民衆は馬鹿だから服が見えない。そこで一人が言いだす。「王様、裸じゃないか?」。すると周りも「よかった、自分だけじゃなかったんだ」と安心して、「そうだよな、裸だよな」と口々に言いだす。そして全員で言うのだ、「王様は裸だ」と。だがそんなことはないのだ。事実、王様の服が見えている人間も少数ではあるがいるし、王様もその服の存在をはっきりと感じている。だが民衆は、王が裸だということにしておかないと、自分たちが低能であることを認めざるを得なくなる。だから大声で何度も言うのだ。王様は裸だ、王様は裸だ、と。今起こっているのはそういう話。
5/8 「三日間の幸福」について
ゴールデンウィーク後半はずっと雨だった。だからこういうものを書く気になったのかもしれない。晴れてたら桜を見に行っていたと思う。東北の桜は五月に咲く。馬鹿にしている。
ツイッターでも言った通り、この話の骨格は友人との会話から生まれた。「寿命売りたいな」なんて話をしながら昼間からお酒を飲んでいたのだが、「でも実際、いくらくらいで売れるんだろう?」と思ったとき、この話が始まったのだ。折よく翌日からゴールデンウィークだった。前半を構想に費やし、後半を執筆に費やした。「三日間の幸福」は、執筆時間も三日間だったのだ。おもしろい偶然。その分、文章に粗は目立つ。表現も浅い。だが今発表しないと次がいつになるか分からなかった。
ウェブで公開し終えて数時間後、夜道を散歩しながら音楽を聴いていたら、イヤホンから「空も飛べるはず」が流れてきた。「色褪せながら、ひび割れながら、輝くすべを求めて 君と出会った奇跡がこの胸に溢れてる きっと今は空も飛べるはず」という歌詞は、この作品に当てはまるところがあるなと思ったが、実を言えば、執筆中は「進撃の巨人」のOPテーマが頭の中で鳴りやまなかった。終盤のシーンでさえそれだったからどうしようもない。皆も僕と同じ状況で物語を読みたかったら、進撃の巨人のOPを流しながら読むといい。ぶち壊しになること間違いなしだ。