21
草原を貫く街道の真ん中に、二台の馬車と数頭の馬が停まっている。
そこに、その黒い影は真っ直ぐに向かってきた。
その体は艶のない黒い鱗に覆われ、背の翼は空を裂くようにはばたいている。短い前足に鋭い鉤爪。どっしりとした足と、しなやかに伸びる長い尾。無数の刺のある尾は、先端に近づくにつれ鱗が青と緑のまだらに染まっている。
そして、その金色の目の片方は、無残に潰れていた。
伝説の生き物が、翼をたたんで、地に降り立った。
誰も動くことができなかった。
目の前に現れたものを信じることができなかったのだ。
それは首を巡らせて、ぎろりとした片目を馬車の中の王とアマーリエに向けた。
そして、見つけた、とでも言うかのように視線を揺らさないまま、近づいてきた。大地が揺れるかのような足音がこだまする。
近づいてきたそれの、鉤爪から前足の根元までが鈍い赤色に染まっていた。その足に、窓掛けか何かだろうか、焼け焦げた布がひっかかっている。
アマーリエは確信した。
侯爵邸を焼き、父に大怪我を、継母に火傷を負わせたのは、この生き物だ。
あの森に住む、黒蜥蜴の真の姿だ。
アマーリエはゆっくりと馬車から降りて、前へ進み出た。
誰も止めなかった。身動きすらできなかったのだ。
あと数歩のところで、アマーリエは足を止めた。
黒い大きな姿が、人に変じた。
十年前に別れたときと全く変わらない、黒い外套を纏った青年の姿だった。少しも年をとった様子がない。今のアマーリエとちょうど同じ年頃に見えるだろう。
彫刻のように美しい顔の中で、金色の目が妖しく燃えている。
「何者だ。余の馬車と知ってのことか」
青年は、誰何する王をアマーリエの肩越しに一瞥する。
「おまえたち人は、我々を、竜とか呼んでいるそうだな」
竜はアマーリエに笑みかける。
「な、約束しただろう。元の姿を取り戻すと」
彼は、人の矢により傷ついて、ほんのいっとき力を失い、かりそめの姿でその身を森の奥深くに隠さねばならなかった。清らかな森でその身を癒し、今、元の姿を取り戻して帰って来たのだ。
アマーリエのもとへ。
か細い声でアマーリエは尋ねる。
「あなたは、あなたの目を潰した人に復讐をしたの? その隣にいた女の人を焼いたのはなぜ? どうして森までも燃やしたりしたの……?」
竜は心外そうに冷たい声で答える。
「言ったはずだ。男は、私と同じ目に遭わせたまで。久しぶりに力を取り戻したから、殺さず引き裂く加減が難しかった。隣にあの女がいたのは運がよかった。女を焼いたのも報復だ。一体どうして、私がおまえの愛する森を焼くというのだ?」
アマーリエは思わず口元を手で覆った。
森に火を掛けたのは、継母なのだ。
火だるまにしたのはその報いと言うことなのだろう。
「なぜ、火を掛けたりなんて……」
問うたアマーリエに、竜は憤然と語った。
「おまえが去った後、あの森にあの者どもがやってきて、鳥も獣も狩り尽くし、挙句は木々までも切り倒した。しかし、おまえがあの森に帰って来ることが知れると、このありさまでは罰せられかねんとあの女が命じて火を放たせたのだ。おおかた、焼けて跡形もなくなればおのれの所業もごまかせると考えてのことであろう。浅はかなことよ」
アマーリエはあまりのことに言葉を失う。
王も驚いたように息を呑む。
「男は引き裂いて、女は火だるまにし、住処も燃やしてやったのだ。だから、もう、あの森を害する者はいない。安心して、私のもとに来るといい」
言って、アマーリエに手を差し伸べてくる。
その小指には、金の指輪がはまっている。
アマーリエが幼い日に手放した、母の形見の指輪だ。
王が背後で腰の剣を抜き、アマーリエの前に進み出る。
「これは余の妃だ。そなたが何であろうと、触れることは許さぬ」
王が語気強く言った。
竜はつまらなさそうに鼻を鳴らす。
「おまえが夫か? 私は、おまえなどに会うより前に、この娘を私の伴侶にすると決めていたのだ。邪魔をするなら、このあたり一帯、焼け野原にしてやってもよいのだぞ」
アマーリエは王の剣を退け、竜と対峙する。
「やめて。この人はわたしに何もしていないわ」
それは、王を庇うように見えたかもしれない。
そのアマーリエと竜との間に、身を滑らせるように立つ者があった。
女官長だった。彼女は震える声で言った。
「どうかおやめください。深いわけは存じませぬが、妃殿下はこの国に必要な方です。お連れいただくことはまかりなりませぬ」
その言葉にアマーリエははっとした。
いつか、彼女に言われたことがあった。
『御身に危険が迫ったら、そのときは、わたくしの命に代えてもお守りします』
女官長はアマーリエのために容易く命を捨てるだろう。
アマーリエにとって、二人目の母のような人だ。
そんなことをさせるわけにはいかなかった。
竜は不快そうに顔をしかめる。
彼は指一本で女官長を殺せるだろう。
彼女だけでなく、アマーリエの周りの全てを排除してでも、連れてゆこうと言うのだろう。もう焼けてしまった森へ。
「待って。この人は、わたしの大切な人なの」
その言葉に、竜はぴくりと眉を上げ、不愉快そうに言う。
「私におまえしかいらないように、おまえには私しかいらない。幼いおまえはあの森で言っていたではないか。いつまでも私と森にいられたらいいのにと」
覚えている。
幼い日々、森の大樹のふもとで、物言わぬ蜥蜴と寄り添いながら、アマーリエはそう口にしたことがあった。
「確かに言いました。でも、お願いだからこの人を傷つけないで。この人だけじゃない、もう誰も殺したりしないで」
「なぜだ?」
アマーリエは深く息を吸い、はっきりと言った。
「わたしは、この国の王妃になったの。民を守るのが勤めです」
聞いた竜は、小さく頷いた。
そして、さも不思議そうに尋ねたのだ。
「では、この国がなくなれば、おまえの勤めもなくなるのだな?」
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