ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
20

 アマーリエは、王が激昂する理由がわからない。
 ふたりは、徹底的に心の通わない夫婦だった。

「おまえは心底生意気な女だ。せっかく余が、恥を忍んで、おまえを、おまえに……」
 王の手が伸びてくる。
 その手の中に握りこまれているものに気づいて、アマーリエは息を止める。
 亡き王妃の印章指輪だ。最愛の妻の死後、肌身離さず持っていたらしいものだ。

 王がぶるぶると震えながら指を開くと、指輪が床に落ちる。
 馬車の揺れのために弾んだそれは、扉の側まで転げて行った。

 王の手に肩を掴まれそうになり、アマーリエは慌てて逃れて馬車の隅に体を押し付ける。
「余はあれが死んだ後もあれだけを愛していた。他のどんな女も愛せなかった。だが、おまえが必死で余に尽くすから、手を上げてしまった後も笑って礼を言うから……」

 どんな女でも愛せなかった、という言葉に、アマーリエはどきりとした。
 なぜこれまで気付かなかったのだろう。
 その言葉が精神的なことだけを言っているのではないことに。

 だが、一体誰が、まだ若く壮健な王の身体的欠陥を疑っただろう。
「周囲の者の反対を押し切って結婚した手前、余は死んだあれを愛し続けねばならぬと自分に言い聞かせ続けてきた。気がついたら他の女を抱けなくなっていた。何度試みても駄目だった。やっと、心がいやされて、ようやく……」
 だから、王はかたくなに次の女を拒んだのか。
 そして、実家との接触を絶った女なら、夫の不能を誰にも告げ口できず、誇りを保てると考えたのだろう。
 たったひとりの世継ぎの王子が失われることを異常に恐れたわけも今ならばわかる。

 哀れだ、とアマーリエは思った。
 結婚して子を作らねばならない義務と、お伽噺の英雄を演じねばならないという圧力の板挟みになり、心をおしつぶされてしまった人。

 隅に追い詰められ、アマーリエは震えた。
 王の両手が腰に伸びてきたので、再び身を捻って背を向けた。それが仇になり、背後から抱きすくめられてしまう。熱い乾いた手が外套の前を割り、ドレスの胸元に触れる。

「やめてください。いや、こんな――」
「喜べ。この馬車はおまえの恋しがっていた森に向かっている。余はおまえに何もかも返してやる。だから、初めからやり直すのだ」
 耳元で囁かれ、その言葉のおぞましさに耳を疑う。

 この十年間をなかったことにしろと言うのか。
 愛した森と離れる悲しみも、女官たちの嫌がらせに言い返すこともできず耐えた日々も、王子の無邪気さに触れて救われたことも。女官長と言う味方を得て、女官たちと和解して、何もないところから少しずつできることを増やして、親のない子どもの笑顔に触れることができたことも。成長した王子が、あの丘に連れて行ってくれて、アマーリエの過去のすべてを洗い流すように癒してくれたことも。

 殿下、とアマーリエは声を出さずに呼んだ。
 何て皮肉なことだろう。
 かつて王子が望んでいた事態になりかけているというのに、その王子の顔ばかり脳裏に浮かぶとは。

 アマーリエは、体をまさぐられながら、王に気取られぬように扉に手を伸ばす。
 走る馬車から転がり出てでも身を守る覚悟だった。

 そのとき、突然に馬車が止まった。
 街道で何かと行きあったようだった。
 外から扉が開かれる。慌ててアマーリエは王から体を離す。
 御者も護衛たちも慌てていた。後ろの馬車から女官長たちが降りてくる。
 その後ろから使者らしい男が現れる。
 アマーリエはその男に見覚えがあった。実家に仕えている者だった。

「申し上げます。侯爵邸が火事で、侯爵が大怪我、侯爵夫人は全身をやけどで双方が重体でいらっしゃいます。どういうわけか、前後して王妃殿下の領内の森も火に包まれており……」
 アマーリエはおのれの耳を疑う。
 隣の王の顔を見る。彼は茫然としている。

 異母弟だけは、侯爵邸を不在にしていたため無事だという。使用人たちには幸いけがはなかったが、侯爵邸はまだ燃え続けているという。
「いったい、誰が……」
 ぽつりと問うアマーリエに、使者が言う。
「どうぞ、都へお引き返しください。陛下と妃殿下の身に危害が及ぶおそれがございます。下手人がまだ見つかっていないのです」
 使者は痛ましい顔で言い募る。
「火事だけならばまだしも、侯爵のお怪我は、まるで身を引き裂くような、見るもおぞましい、人ならぬ者の仕業ではないかと思うほどで……」

 アマーリエは息を呑んだ。

 かつて、アマーリエにこう言った者がいた。
『この目を奪った愚かな人間に復讐し、おまえを手に入れるために、必ず元の姿を取り戻してやる――』
 あれは人ならぬ者だった。
 黒い蜥蜴はかりそめの姿だった。

 アマーリエは天を仰いだ。
 空はまっ黒な雲に覆われている。空気が淀み、今にも雨が降り出しそうだ。

 その雲を裂いて、小さな影が現れる。
 はじめは鳥かと思った。しかし、あまりに速く、大きすぎる。




+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。